訓戒・心得     ヒポクラテス著
Precepts      Hippocrates


掲載日 2013.11.20
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英訳:W.H.S.Jones (1876-1963)
「HIPPOCRATES」 VOL. I 1923
Loeb Classical Library

英文サイト管理者の序

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邦訳者(前田滋)の序

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1. 本著作を商業目的に利用しないこと。
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  http://www.asahi-net.or.jp/~xf6s-med/jh-precepts.html

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3. 本著作を商用以外の目的で再利用、配布する場合には、必ずこの著作の認可条項を周知させ、明確にすること。

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追記:
英訳文は(そしておそらくギリシャ語の原文も)、コンマ(、)やセミコロン(;)で延々と文章が続いていて、段落が全くない。しかしディスプレイ上で読む際には、画面に適度な空白がないと極めて読みづらいので、英文のピリオドを目安にして、訳者の独断で適宜改行をつけ加えたことをお断りしておく。

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訓戒・心得     ヒポクラテス著
Precepts      Hippocrates


英訳:W.H.S.Jones (1876-1963)
「HIPPOCRATES」 VOL. I 1923
Loeb Classical Library
邦訳:前田滋 (カイロプラクター、大阪・梅田)
( http://www.asahi-net.or.jp/~xf6s-med/jh-precepts.html )

1.
好機は時の流れの中にあり、しかも一瞬の合間にある。治療とは時間のことであるが、時として好機のことでもある。このことを理解した上で、まやかしの理論を優先するのではなく、原因に結びついた経験を優先して医療に取り組まねばならない。というのは、理論は、感じることと洞察することに含まれる物事の記憶から構築されるものであるから。そして、感じることと洞察することは、まず経験した後に、これに関することの知性へと組み込まれてから明確に結像するものであるから。そして知性はこれらのことを何度も受け取りつつ、その時の状況と時間、様子を銘記して記憶に留めるのである(前田注;「箴言」第一章第1節参照)。

ここにおいて私は、理論化の基礎を事象におき、現象に基づく結果を導き出すのであれば、理論化することを受け入れたいと思う。なぜなら、理論構築が明らかな事実に基づくものなら、それは知性の範疇に入るはずで、知性はそもそも他のことからそれぞれの印象を受け入れるものであるから。

従って、我々の本質は、極めて多様な事象から受ける感銘によって喚起され、教え諭されるものであることを知らねばならない。そしてすでに述べたように、知性というものは自然界から感銘を受け、最後には我々を真理へと導いてくれるのである。

しかし、明確な感銘ではなく、もっともらしい絵空事から始めると、しばしば嘆かわしくも困難な状態をもたらすことになる。そして、このような行動を取る人々は、みな袋小路に迷い込むことになる。下手な医師がそれなりの報いを受けるなら何ら害はないが、苦しむのは彼らの罪なき患者たちなのである。そして医師の経験不足が加わらなければ、病気という激しい状況は強く出現しなかったのである。さて、別の主題に移ることにしよう。

2.
単なる言葉による結果は実りをもたらすものではなく、表出する事実に基づくものだけが実りをもたらすのである。口舌や演説は人を欺くもので、当てにならない。それゆえ、我々が「医術」と呼んでいる便利で信頼できる技術を獲得したいなら、普遍化する時にも事実をしっかり捉えておかねばならないし、事実から離れてはいけない。そのようにするなら、病気の人々や医師たちに極めて大きな利益がもたらされるだろう。

治療しても全く改善が見られないような時には、専門外の人に尋ねることをためらってはならない。多くの特殊事例における結果を観察し、それらを一つの全体に統合させることによって、技術全体が明らかになると、私は考える。であるから、失敗した時にまくし立てたり言い訳するよりもむしろ、黙って治療しながら、さまざまな事象の普遍性に注目しなければならないのである。

3.
患者の治療においては素早い決断が奏功することがある。実際に、一つだけでも処置しておくと有益なことがあるが、派手な弁解は無益で、事態をややこしくするだけである。全ての病気は、ある種の均衡状態に達するまでは多くの変動を経過するのであるから。

4.
次の提言は、この論考全体に幾分かは関連するので、熟考の要がある。治療費のことを話題にすると、金額に合意が得られないなら、医師が去ってしまうかもしれないとか、患者を放置するかも知れないとか、患者をかまわずに、どんな初期対応も処方しないのではないかと、患者に疑心を抱かせることになる。だから、治療費を決めることに心を奪われてはいけないのである。このような心配事は苦しんでいる患者、とりわけ病気が急性の場合には有害であると、私は考えている。病気の進行が早いと回復の機会が失われるので、善良な医師は利益を追求することよりもむしろ、評判を高めることの方に走るのである。従って、死にかけている患者から金を無理強いするよりも、治療して治った患者から取り立てる方がよいのである

5.
また、患者によっては、その偏見から常軌を逸した物や疑わしい物を良しとする人がいるが、このような人たちは実のところ無視しておけばよいのであって、非難するには当たらない。そういうわけで、彼らに対しては、嵐の中で揺れている船に乗っている人に対するように、冷静に対処せねばならない。というのは、初期段階では状況がさまざまに変動するのが普通なので、適切な初期治療を定めることは厄介なことであるゆえ。

神にかけて、誠実な医師で、病気ごとの予備検査をやろうとせず、回復に向けての処方もしないような冷淡な心で患者を治療し、報酬を忘れずに、勉学欲を全く口にしない人がいるだろうか?

6.
これとそれほど無関係ではないが、患者の経済的余裕または財力について慎重に論じてみたい。時には無報酬で治療しなければならないが、その時には過去に受けた施しや現在の充足感を思い起こして良しとすべきである。そして経済的に困っている外国人を治療することがあるなら、そのような人々には充分に治療を施すこと。人類への敬愛あるところには医術への敬愛もあるのだから。そして患者の中には、自分の状態が危険なことになっていると気づいていても、医師の優しさに安堵して健康を取り戻す人がいるのである。病人を治療して健康にすることや、健康人の世話をしてその人たちを健康に保つこと、そしてまた患者に自身の健康を気遣わせることは素晴らしいことで、このようなことによって医師の品位が明らかになるのである。

7.
技術に関して全く無知な人たちは、以上述べたことを正しく理解できないだろう。実際に、このような人たちは幸運がなければ突然に名声を博したりしないのだが、医術に無知であることを晒すことだろう。裕福な人の病気がある程度回復すると、これらのいかさま医は二重の幸運によって信望を獲得するのである。そして病気がぶり返すと、非の打ち所のない技法を顧みることなく、重々しく振る舞うのである。一方で、有能な医師なら、このような技法を「術の仲間」と呼んで最善を尽くすのである。

誤りを犯さずに易々と治療をやりとげる人は、自身の能力の限界から全く逸脱しないはずである。そのため、ごまかしたとして不信を買うことがないのである。一方で、いかさま医は病気が急に悪化しても処置しようとせず、面倒がって助けを嫌い、他の医師に助けを求めることもしないのであるから。

この時、痛みを抱える患者は、高度な技術を用いる充分な治療に最後まで身を委ねようとしないので、二重の悲惨さの中に漂流するのである。というのも病気が緩解すると、病人は大きな開放感を得るからである。そのようなわけで、健康になることを望みながらも、患者は常に同じ治療法に従おうとせず、医師の多芸さを求めるのである。

そして患者は、下手な医師を崇拝しながらも、彼に会った時に感謝の気持ちを表しもせず、多額の治療費に困窮するのである。支払い能力のある患者でも代価に関しては神経をすり減らすものである。実際のところ、彼らは投資の管理や農園管理のために健康になりたいと思っているのに、それらのことどもが何らかの恩恵を受けていることは考えもしないのである。

8.
以上のような忠告はもう充分に述べた。そして、個々の病気の緩解や増悪は多かれ少なかれ医術の助けを必要としているのであるから。

さて、たとえ次のようなことになっても医師が礼を失していることにはならない。すなわち患者の状態に難儀していたり、未経験で判らないことがある時に、他の医師たちに助けを求め、その症例の実情を相談して現状を探り、また充分な支援を得るための同業者間の連携を作ることである。

病状が頑固で増悪する時、困惑状態で手をこまねいていると、ほとんどのことが悪い方に進むものである。そのような時こそ毅然としていなければならない。それは、このことで医術が非難されるとは、私は決して思わないからである。

さて医師たちは、会合時には決してお互いに反目したり、愚弄したりしてはならない。私は誓っていうが、医師の論証には決してお互いの嫉妬を混入させてはならない。これが紛れ込んでいるのは、論証が脆弱である証拠である。そしてこのような振る舞いをわけなく取るのは、市場の商売に関係する人たちである。とはいうものの、相談者を呼ぶことは間違っていない。どんなに数多くあっても、必ず足りないものがあるのだから。

9.
以上述べたこと全てと共に、次のことが医術の本質を強く明らかにするだろう。すなわち医師が巧みに患者を治療しつつ、回復を焦っている患者に向かって、心配することはないと熱心に語り続けることである。そもそも我ら医師たる者は健康に必要なものを導かねばならない。そしてその指示に患者が従うなら、思い惑うことはないだろう。というのも、苦痛に打ちひしがれている患者をそのままにしておくと、苦闘することを諦め、死を選ぶことになるからである。しかし、病人を治療している医師は、自然性を保って変えないようにしながら、医術によって発見されたことどもを示すことによって患者の当面の苦悩や一時の不信感を払拭するだろう。

自然であることが人間の健康状態なのであるが、この自然というのは、生まれつき獲得した動きで、変な風に適応したものではなく、完全に適応している動きのことであり、これは呼吸、体温、体液流動によってもたらされるものである。またこれは完全な食餌と、関連する全てのことを通してあらゆる方法で達成されるものである。ただし、生まれつきの障碍や幼少時の障碍がある時には話は別である。衰弱している患者にそのような障碍がある時には、元の自然状態に戻すように努めるべきである。衰弱すること、しかも長引く衰弱は不自然なことであるから。

10.
また、患者を獲得しようとして、高価な冠りものや手の込んだ香水をつけたりするのは避けねばならない。過度に奇をてらうと不評を買うが、ほんの少しであれば却って上品ということになる。これは、一箇所の痛みは些細であるが、痛みが広範囲になると深刻であるのと同じである。しかし私は諸君が患者を喜ばせようとすることに反対するつもりはない。これは医師の品位を汚すものではないからである。

11.
装置を用いること、重要な徴候を指摘すること、これらに派生することを心に留めておくこと。

12.
大勢の人たちの前で講演したいという諸君の功名心は決して賞賛されるものではない。少なくとも詩文からの引用は避けるべきである。これは医術の貧弱さを露呈することになるからである。医術に関係ないもの、すなわち手間暇かけて強く人を魅了するものや、それ自身で魅力的な優雅さを放つものを医療行為に混入させるのは良くないことであるから。それは、ごくつぶしの雄蜂の空仕事と雄蜂の役得を掠め取るようなものである。

13.
年が嵩んでから医術を学んだ人による瑕瑾がないことが、医術の状況としては望ましいことである。というのは、このような人たちは、目の前にないことを憶えることは何とかできるが、当面のことは何もなしえないからである。そこで、なにが適切かという気配りもせずに、頑固な無礼さと共にけんか腰の無能さを露呈することになるのである。そして大げさな定義づけや演説、神の名の濫用、そして神の加護を求めることさえも、治療を担っている医師が行なうのである。そして右も左も判らない素人たちは、延々と続く朗読や説教の美辞麗句にうっとりして、病気にかかる前からでも群がり集うのである。

私が病人を担当する時には、上記のような人たちを信頼していないので、彼らに相談役として助けを求めることはない。彼らには高潔な修行に対する理解が、ちっとも認められないからである。何もできなくて愚かなだけな彼らを見ていて、私は次のことを強く推奨するものである。すなわち、経験することが重要であり、治療に関するさまざまな方法を研究することは、ずっと後でよい。地味で目立つことのない熟練技をないがしろにしている医師で、真に巧妙といえる医学の諸説を研究したいと切望している者がいるだろうか?そのようなわけで、彼らの言説に耳を傾けてもよいが、その行ないには反対することを、私は勧める。

14.
食餌制限を続けている時には、患者の食欲を長期にわたって抑えつけてはならない。慢性疾患においては、食欲を満たすことも再び立ち直る助けになるからである。盲人患者にはそれなりの注意を払うべきで、強い恐怖感を与えないようにするべきであるが、過度に喜ばせるのもよくない。

突然の空気の乱れもまた防ぐべきである。人生の最盛期には全てが素晴らしいが、衰退期にはその反対となる。言語障碍は、病気や耳の問題から、また、思っていること、考えていることを口にする前に何かしら目新しいことを話すことから生じる。 いわゆる「明らかな障碍」がないのに、このようなことが生起するのは、ほとんどが技を敬愛する人たちである。

障碍が些細である時には、時として若さという力が最高に発揮されることがある。病気が不規則に変化することは、それが長引くことの表れである。分利は病気が快方に向かう徴候である。病気が生死に関わる状態でない限り、些細なことで快方に向かうことがある。悲しみを共有することは苦痛なので、人によっては悲しみを共有されることが、却って苦痛になることがある。大声で話すことは苦痛を生じる。働き過ぎには静かな休息が必要である。このような時には、森で過ごすことが有益である。

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