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同窓会?? 断然欠席!!

2020年1月


この世には「同窓会」というものがあるようで、 ここの管理人(2020年で数え71)のところにも 時折その案内が舞い込んでくる。 昨春(2019年)も、高校卒業50周年を迎えるということで 同窓会開催と「卒業五十周年記念誌」を刊行するから寄稿文を募る、 という連絡が届いた。 同窓会に帰属意識の希薄な身としては、 間髪を入れず「不参加、記念誌も不要」と返信しておいた (同窓会に尽力している幹事さんたち、ゴメン!)。

実は30年ほど前にも高校同期の同窓会を開くという連絡があり、 物珍しさに駆られて参加したことがあった。 ところが、会場に入ってまずビックリしたことが、 「知らぬ顔ばかり」だったこと。 いや、同期生の容貌変化が激しくて、誰が誰やら判別不能、 ということではなく (そもそも41才の時点では高校時代とそれほど容貌に変化はない)、 もともと知らない人ばかりだったのです。 まさに浦島太郎の気分でしたナ。

そのときハタと気づいた。 同期生500名のうち、現役時代同じクラスだった生徒が3年間で150名(50×3)。 ほかにクラブなどで顔と名前を知っている生徒がせいぜい20~30人程度。 在学中は人つきあいの少ない学校生活を続けていた者の実感としては、 100名ほどしか顔と名前を覚えていない。 率としては100/500で2割である。 したがって、当日参加者100名のうち、80人は「初対面」だ。

こんなこと、出席する前にちょっと考えればわかることなのに、 いざその場になるまで気づかないなんて、迂闊にもほどがある。 つくづく我が身の馬鹿さにあきれたことでアリマス。

そこで、同窓会なのに「初めまして」という挨拶をする羽目に。 「それでも人の繋がりができるからよいのだ」 という考えの人もいるらしいが、 人見知りするタチのワタシャ、「まっぴらゴメン」のほうでゴザンス。 これに懲りてその後、同窓会には出席していない。

もうひとつ、自分の仕事が「カイロプラクティック」という 聞き慣れない民間療法なので、 知らない人と仕事の話になると、勢いカイロプラクティックを 業界代表のような立場で説明せねばならない。 これが疲れるのでアリマス。 「それがオマエの使命じゃないのか。」と言われると、 お説ごもっともと平身低頭するしかないのだが、 自分としては思い出話をするつもりで来ているのに、 仕事の話をするという、何ともチグハグな気持ちになってしまった。

ついでに、同窓会に出たくない理由をネットで調べたところ、 「面倒くさい」、「負け組意識を抱えている」、 「自慢話をききたくない」、 「在学時に気まづくなっていた人に逢いたくない」 などが出てきた。

さて、五十周年記念誌なんか気にもとめなかったのだが、 何の因果か、わが女房どのが同じ高校の同期生で、 コヤツ、もとい、このお方さまはしっかりと記念誌を ご購入済みでありました。 で、年末年始の休暇中、ふと目にとまったので、 暇に飽かせてつらつら読んでみた。 それによると同期生500名中、連絡のつく人数が400名、 行方不明者50名、物故者40名、だという。

まず、齢(よわい)七十を迎えることなく同期生の一割近くが、 あの世に逝ってしまったか、という感慨がある。 そしてこの先十年で、ということは80才を迎える頃には、 確率として450名中150名程度は鬼籍に入ることが予想される。 まあ、この歳になると、さっさとあの世に行くのも ひとつのテかもしれないとも思うのだが。 おのが命脈は自分では如何ともしがたい。

雨のおとがきこえる 雨がふっていたのだ
あのおとのようにそっと 世のためにはたらいていよう
雨があがるように しずかに死んでいこう

八木重吉:雨 男声合唱曲:雨 多田武彦;作曲


連絡のつく400名中、返信があったのは170名、230名は返信なし。 返信のあった170名中、出欠の記載のみが70名、コメントつきが100名、 コメントしても記念誌不要は50名という結果。 そして同窓会に参加したのが100名弱らしい。 返事のなかった230名プラス行方不明者50名、 すなわちおよそ6割(280/450)の生徒が「知らぬ顔の半兵衛」を 決め込んでいることになる (出欠の記載のみの70名を加えると、8割になる)。

人それぞれ、さまざまな事情で同窓会を避けたい、 面倒くさいあるいは無関心なのがざっと7割というところだろう。

小生の卒業した高校は一応大阪で名の知れた進学校である(注)。 地元の人と話していて、話が出身高校におよんだ時には、 高校所在地である阪急電車の最寄り駅の名前を拝借して 「十三高校」(じゅうそうこうこう)と返答し、 はぐらかすのを常としている。 本当の学校名を口にすると、「どんなに秀才か」という反応をされ、 現実とのギャップを突きつけられることになって 何とも居心地の悪いことになるので・・・。 また阪急十三駅の周辺は飲み屋やキャバクラ、 連れ込みホテルなどが林立している歓楽街である。 それゆえ「十三高校」というのはちょっと猥雑なイメージがあり、 我ながら気に入っている呼び名だ。 ちなみに藤田まことの歌に「十三の夜」 1971というのがある。

そんな学校だが、中学時代は秀才の誉れをほしいままに 入学したものの、いざ授業が始まると 周りは自分以上にデキル生徒ばかりで、 授業の進度の速さに追いまくられてアップ、アップの状態に。 スポーツや芸術に打ち込めるものがあるならまだしも、 大半の生徒は唯一の取り柄と思っていたオベンキョーが 並または並以下のデキでしかないと思い知らされ、 八方ふさがりの心境に陥ってしまう。 それでも自分なりに心の中で何とか折り合いをつけ、 どうにかこうにか卒業にこぎつけた、 というのが大方の実状だったのではなかろうか。

これに加え、高校時代というのは、 いわゆるアイデンティーの模索というヤツで、 「自分は何者なのか、何になれるのか」という答えがわからず、 それを探し求めて常に悶々、七転八倒、 もだえ苦しんでいた時期でもある。 ナニ、これは自分のことを書いたにすぎないが、 ほかのSilent Majority(沈黙の多数派)も似たようなものだろう。 もしそうであるなら、このようなことも「思い出したくないこと」となって、 同窓会を避けたい理由のひとつになるのかもしれない。

はなはだしきは、「以後、連絡不要」と、 同窓会の案内に返事を寄こした女子生徒(某国立大学の教授だった)も いるとのこと。そんなに邪険にしなくともと思うが、 よほど同窓会が煩わしいのでせう。 逆に、この時期を懐旧の情とともに思い返すことのできる人たちが、 同窓会に積極的姿勢を示すのだろう。 まさに人それぞれだ。

私自身、この年代は若気の至りで「思い出したくない失敗」ばかり やらかしていたので、当時のことを思い出すような同窓会は、 できれば避けたいことのひとつである。 自分が未熟なせいで起こしたことであるにせよ、 普段は封印していた忌まわしい過去(?)を、 いまさら追体験したくもないのでアリマス。 このことは、自分が進学校にいたこととは全く無関係で、 どこの学校にいたとしても同じだろう。


誰だ!「青春が光り輝いていた」なんていうヤツは。 青春時代なんて暗く泥まみれでおぞましいものに決まっている。

さて、記念誌に寄せられた寄稿文やコメントを眺めてみると、 在学中そこそこの成績で、その後の人生もそれなりに順調だったであろう生徒と、 成績はイマイチでもスポーツや文化・芸術にのめり込んだと思しい 生徒によるものがほとんどである。 いずれにせよ、それぞれの達成感を抱いているのがよくわかる。 そして皆さん、苦き部分も含めて、あの時代が懐かしいのだ。 定番の自慢話も数件あったが、これはご愛嬌というべきか‥‥。

そして、記念誌の中で、ある女子生徒が投稿した冬休みの スキー教室でのスナップ写真に、小生がしっかり写っていたことと、 男子生徒の投稿文中に実名はあげていないものの、 自分のことが書かれているのを発見したときにはビックリ仰天、でしたナ。

お顔もお名前も記憶にないのだけれど、宮本さん、 懐かしくも貴重な写真をありがとうございます。 冬休みと春休みに実施されたスキー教室(希望者だけ)は、 高校時代の数少ない楽しかった思い出です(遊ぶの大好き!)。
ski
*メンバー全員から掲載許可をもらっている訳ではありませんので、 クレームが来た時点でこの写真は削除します。

茫々五十年 歳ふりて白頭・白眉われにあり
むかし馴染みし カフエ・バール
いまや朽ち果て 影もなし 詮方なきや

「同窓会誌」に寄せた管理人の近況文(改変)

あれからもう五十年でっか、そら年も取るわなあ
おかげで頭は真っ白、顔は皺だらけや
若いころ馴染みやったカフエやバーも
店じまいして 軒も傾いとる 見る影あらへん
昔を思い出そうにも なあんも手づるなしでんがな
ホンマ 諸行無常だすな 知らんけど・・・
 --上記の上方弁--

以上、同期生が誰もこのページを読まないことを祈りつつ、書いてみた。 また、このページを作成するにあたり、 「クチは出すけどカネは出さんのかい?」 という誹りをさけるために、自分用に記念誌を一部購入しておいた (一家に2冊も要らないのだけれど・・)。 そもそも、ウチの奥方さまが記念誌など買わなければ、 そしてそれを手にとらなければ、こんな閑文字を 並べることもなかったはずなのに、とんだ手間でござった。

(注);自分の出身学校のことを喋々することほどバカバカしく、 またこの上なく嫌みなことでもあるのは重々承知の上だが、 本文の行きがかり上やむなく、 それに卒業したのが半世紀も前のことゆえ、 もう時効(?)、チャラだと思うので、一応書いておきます。 私が卒業したのは旧制大阪府立一中のあとに続く 「大阪府立キタノコーコー」です。

漢字で書くと検索にヒットするかもしれないので、 あえて口語表記にしておきます。 また普段は、最寄り駅の名前をもらって「十三高校」と云っております。

同校のOBとしては、旧制中学の時代も含め、 大中寅二(「椰子の実」作曲者)、 橋本國彦(「お菓子と娘」「朝はどこから」作曲者、 朝比奈隆、芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎など指導)、 森繁久彌、梶井基次郎(作家)、佐伯祐三(画家)、手塚治虫、 藤田田(日本マクドナルド創業者)、 近いところでは有働由美子、橋下徹、廣瀬俊朗(ラグビー)、 吉野彰(ノーベル化学賞受賞)(敬称は略す)など、 ほかにも大勢おられます。 小生はもちろん、十把ひとからげのクチ。



さて、ここまで、おつきあいいただき、まことにありがとうございます。 これ以降は、作者個人の備忘録として書き留めたものですので、 あえてお読みいただくには及びません。というより、読んでほしくないことが 多くありますので、どうかページを閉じて下さるよう、お願いします。

追記:これを書いているうちに、思い出したくないコト、 人に言えないようなコトまでいろいろ思い出してしまった。 差しさわりのないことだけ、自身の備忘録として以下に書き留めておく。


☆腰痛:当サイトの管理人プロフィールに書いたことと重複するが、中学時代に始まった腰痛が、高校二年の冬から卒業するまでの大学受験準備期にかけて悪化し、勉強がはかどらないことに焦燥を募らせていた(30分座っていると腰がジワジワ痛み始め、勉強に集中できない状態が続いた)。なおかつ大学入試開始直前の1969年1月18日には東大安田講堂への放水事件が発生し、大学紛争が頂点に向けて高揚してゆき、このため、この年3月の東大入試がなくなる、という事態に至った。

まわりの連中は、「現役が駄目なら浪人すれば何とかなるさ」とのんびり構えているのが多数派だったが、頑固な腰痛を抱え、じっと座っていられない自分としては、浪人しても学力の向上は見込めないことがわかっていたので、「ここは何とか現役でどこかに潜り込まねば・・・」とさらに焦りがつのるばかりだった。まったく踏んだり蹴ったり、ええとこナシの心境でアリマシタ。


☆入学して間もない頃、数学の玉井秀雄先生が、「今年(1966年)の卒業生は京大と阪大に100人ずつ合格しよった。すごいやろ」と自慢げに語っていた。その時の卒業生のひとりが、2019年のノーベル化学賞を受賞なさった吉野彰氏である。その玉井先生の語調には、「それに引き替えお前達は・・・・」と続けるところを辛うじてこらえた様子がうかがえた。


☆1年生の生物授業:二人の先生がいたが、それぞれ週にひとコマの授業があった。デキの悪い生徒には、どちらも非常に退屈だった。年配の方の先生は自分の研究テーマ(だった?)受精卵の発生の話ばかり。「分裂途中の受精卵を分割するにはゲルマン女性の毛髪が最適だ」ということしか覚えていない。

もう一人の男性教師も教壇でボソボソ教科書を読むだけ。それがお経のように聞こえてついつい居眠りに陥る。あるとき居眠りをしていたら、一喝されて教室の後ろに立たされたことがあった。

あとでクラスの連中が言うには、「叱られたのは自分か」と思ったらしい。居眠りしていたのは自分ひとりではなく何人もいたようで、一番近くの席にいた自分が見せしめにされたのだった。立たされようが何されようが、その後も居眠りは続いた。とにかく生物の授業はよく眠らせていただきました。

それにしても、生物の授業に啓発されてこの方面に進学した生徒は、果たしていたのだろうか?


☆一年次の音楽の課題曲
フロトー作オペラ「マルタまたはリッチモンドの奉公人市場」中のアリア
   「夢の如く;M'appari, tutt'amor」:Carlo Bergonzi


You Tubeでは何といってもGiuseppe Di Stefanoの唄が多くアップされているが、ここではCarlo Bergonziのそれが録音状態も良く、テンポもゆったりしていて聞きやすいと思うので、リンクをつけておく。


音楽担当の西川昭子先生は東京芸大の声楽科卒。
一年生には毎年、上記の曲を課題として一学期の最後の実技として歌わせるのを恒例としていたことで有名だった。


「卒業五十年記念誌」でもこのことが話題になっていた。部活の合間に練習しているのを何度もしつこく聞かされ、音楽を選択していない生徒もすっかり覚えてしまった、ということもあったそうな。


余談だが、このオペラの第二幕で、日本では「庭の千草」として知られているアイルランド民謡が歌われていることでも有名。夏の名残のバラ Letzte Rose : Meav

もう一つ余談:
このオペラの第一幕第4場で歌われる「まじめで働き者の娘さん Madchen, brav und treu」の替え歌が昭和初期から太平洋戦争直後まで、東京ではよく歌われていたようだ。歌詞は次の通り。(なんとも物騒な題名であることよ!)

     皆殺しの唄

 爺さん、酒飲んで、酔っ払って死んじゃった
 婆さん、それ見て、でんぐり返って死んじゃった
 父さん、葬式疲れで、翌日死んじゃった
 母さん、やっぱり、僕生む前に死んじゃった

この替え歌を、『エノケンのざんぎり金太(東宝:山本嘉次郎監督 1940年)』という映画の中でエノケン(榎本健一)が何度も歌っていたという(私は未見)。

黒澤明監督の映画「酔いどれ天使」(1948年)の中でも、 反骨の貧乏医師・真田(志村喬)が居間で酒を飲みながら、 この歌を口ずさむシーンがある(開始24分)。相手役は三船敏郎のヤクザ者。

その40年後、映画「男はつらいよ 知床慕情」(1987年)の中で、 寅次郎(渥美清)が知床の老獣医(三船敏郎)の家で酒を飲み、 箸でリズムを取りながら鼻唄で歌うシーンもある。 (三船敏郎は二度にわたってこの歌に関わっている!)

もうひとつ、小林信彦著『ちはやふる奥の細道』(1988年、新潮文庫)の解説文中でも 色川武大(1929~1989)が、この替え歌を取り上げている。ただし、「爺さん、婆さん」が、「父ちゃん、母ちゃん」に変わっているが・・・。

どうやら、昭和一桁生まれの東京の少年たちの間で、歌詞のおもしろさから 大流行していたようだ。

作詞者がわからなかったのだが、ネットで探したところ、東京第三高女(現:駒場高校)で 女学生たちがこの曲を踊っていたという記事を見つけた。それによると 「コチロン(COTILLON:フランスの宮廷舞踊)」というダンスがこのメロディなのだそうな。 それが"鹿鳴館”から第三高女に伝わったといわれている。「爺さん酒飲んで・・」 の歌詞は、その当時の女学生たちが作ったらしい。


それにしても、大正時代にいち早くヨーロッパのオペラやオペレッタを替え歌にする という離れ業には舌を巻くほかない。 SPレコードを輸入するしか方法がなかったと思われるが、 1~2時間の演奏内容を78回転のSP盤で収容するのに、はたして何枚のレコードが 必要だったのだろうか。

ちなみに浅草オペラの最も有名な替え歌が「ベアトリ姐ちゃん:小林愛雄:詩」(Boccaccio;Franz von Suppe作)だ。 これを初めて聴いたときには、歌詞の奇想天外とメロディーと日本語歌詞との絶妙な 一致具合に抱腹絶倒した。



☆2年生の数学演習:数学と物理は理系と文系希望者と別けて教室移動;その結果、 この時間は、「前田」姓の生徒が自分を含め3人となった。数学演習の担当教師は生徒を指名するとき、下の名前を言わず、姓だけしか言わないので、「マエダ」と指名されたとき、自分はいつも窓の外を眺めているふりをし、そっぽを向いていた。そうすると残り2人の「マエダ」が互いに顔を見合わせ、「今度は俺か?」いう感じで交代に黒板に向かっておった。おかげでこの1年間というもの、一度も黒板に行かずに済んだ。


☆遅刻:わが校は定時制コースがあったので.授業をはやく終える必要があり、朝の授業開始が8時10分(冬は8時20分)だった。自分は登校に50分かかり、その上高校生になってから朝早く起きるのが非常に苦手になっていたので(今考えると低血圧になっていたようだ)、よく遅刻した。遅刻すると生活指導の先生のもとに出頭して「入室許可証」なるものをもらわねば教室には入れないことになっていた(そうな)。しかし自分が遅刻した場合、先生のところへは行かず、音楽部の部室に直行して1時間目が終わるまで時間をつぶし、2時間目から素知らぬ顔して授業を受けていた。したがって卒業するまでの3年間、「入室許可証」なるもの、見たことも触ったこともなかった。卒業記念誌には、この許可証をもらいに行って担当の先生によく叱られた、と書いている人がいるが、皆さん生真面目、ワタシャ不真面目!

その後、進学した大学も就職した会社も、どちらも朝8時の始業だったので、低血圧の身で(大学は別として)遅刻しないようにするのに四苦八苦した。


☆立木剪定事件:あるとき、遅刻した時であったか、休講だったかで部室に籠もって自習しているうちに机に突っ伏して寝ていたことがある。しばらくして頭の上で地響きをともなう「ドン」という大音響がし、直後に木屑のようなものがバラバラ落ちてきた。あわてて頭を起こすと。頭上50Cmほどの位置に、太い木の枝をエンピツの先のように削ったモノが、プレハブの平屋部室の屋根を突き破って止まっていた。それが突っ伏していた頭の真上だったので、ぞーっとした。もう少し下まで落ちてきていたら、わが頭蓋骨は、英知の塊(?)たる脳ミソとともに、枝の先端に串刺しにされていたことだろう。その後、部室の外に出てみたら、植木屋のオッサンが部室の裏手の立木に登って枝の切り落とし作業をしていたことがわかった。オッサンは照れ笑いをしておった。


☆見知らぬ訪問者:2年生の冬休みだった。何かの用事があって学校の部室にゆき、用事を済ませたあと帰ろうとして校門に向かっていたら、外からブラブラ入ってきた痩せぎすでネクタイ、コート姿の、見るからに紳士然とした初老の男性と出くわした。その男性はしきりに感心した風で「ホホ~、ここが、かの有名なキタノコーコーですか!、ホ~、ホ~。」と言いつつ、しきりにあたりを眺め回していた。そして「あなたはここの生徒さん?」、自分「はい」、男性「ホ~ホ~、さすがはキタノですね~、ホ~ホ~」と、何が「さすが」か知らないけれど、今度はワタシの身体を頭のてっぺんからつま先までシゲシゲと凝視し、しきりに感心していた‥‥。その視線が動物園の珍獣を見るような目つきだったので、いたたまれず、走るようにしてその場を逃げ出したことがある。


☆体育の作文で評価「5」をもらった件:高校3年の2学期後半の体育授業。受験も間近であるし(雨も降っていたかも)体育の授業は体育館ではなく教室での座学だった。当時盛んになっていた大学紛争の話になっていた。そして「大学紛争について思うことを書け」と課題を出され、10~15分かけて原稿用紙に作文した。自分は「大学紛争の意味に賛同できない、無意味な破壊大反対」という趣旨のことを書いた。すると、それが先生の考えと一致したのだろうか、その学期の体育の評価は「5」だった。その体育の先生は、厳しい指導で有名な平石亮三先生(あだ名はピンタ)という。それにしても、身体を動かすことなく、小手先の運動(作文)だけで『体育』の最高評価をもらったという珍現象でした。


☆体育といえば、3年次の秋に実施された体力測定でのこと。担任の先生に呼ばれていって見ると、「君はこの学年のサンプル生徒に当たったからね」と告げられた。なんでも、無作為抽出で選んだ生徒の測定結果を大阪府だか文部省だかに報告せにゃならんのだそうな。「ほかに体力自慢の生徒が一杯いるのに、なんでまたとびきり体力に自信のない生徒が当たるんだヨ~」と嘆きつつ、いろいろな種目をこなしてはいたものの、最後の1500m走でついに力尽き、完走できずにギブアップ。この項目だけ結果が出せず、抜けてしまった。小さい頃から持久力は人一倍自信がなかった。それに3年生で机にかじりついてばかりで、運動なんかちっともしていなくていきなりの運動である。この時はつくづくオノレの根性なしに嫌気がさしたのでありました。

ついでに、毎年2月に行なわれる断郊競争(Cross Country Race:淀川の堤防を往復13Km走る)でも、常にシンガリで走って(歩いて?)おりました。


☆英文和訳で褒められた件:3年生、泉悌二先生の英語副読本のリーダーの授業で、当番にあたって英文を訳すと、「良い訳だ」と、ときどき褒めて下さった。そして3年生最後の授業で、たまたま順番がきて課題の英文を和訳すると、「掉尾の一訳だね」と、これまた褒めて下さった。
「自分には英語の才能があるのか知らん?」とちょっといい気分であった。けれど外国語コースに進学するつもりは全くなかった。


☆水泳大会でおぼれかけた件:毎年9月にはクラス対抗の水泳大会が開催される。2年生の時だった。イヤイヤだったが25m往復リレーのメンバーに選ばれ、先のメンバーに続いて飛び込んだら、クラスの女生徒だろうか、5~6人の女子の声で「キャー、前田クン、ガンバレー」と盛大な応援の声がかかった。ほかの男子生徒の時にはそんな声を聞かなかったので、ビックリし、またこれは張り切らねば、と全力で泳いだのはよいが、復路の途中、力が入りすぎてタイミングを誤り、息継ぎの時に大量の水を飲み込んでしまった。お陰で危うく溺れかけ、何とかゴールしたものの、なんともブザマな泳ぎを見られてしまった。


☆2年生の夏休みの民宿:当時親しくしていた友人の祖父母が兵庫県の日本海べりの町で民宿をしているから一緒に行こうと誘われ、夏の8月一杯お世話になったことがある(山村君、どうもありがとう)。小さな湾の出口あたりに岩礁があったので、毎日そこまで泳いで往復していた。片道300mほどであったろうか。それを一月間ほぼ毎日繰り返していた。友人の山村君は白膚でどうやら紫外線には弱いタチらしく、2~3日海岸に出ていたら、紫外線による皮膚炎を背中全体に発症し、毎晩塗り薬をぬりたくることになった。

そして2学期となり、試験勉強すると、不思議に腰の痛みを感じることなく机にかじりつくことができた。おかげで2学期の期末試験は50人抜きをやらかし、上から105番だった。しかし年が明けると腰痛が再発し、席次は元の木阿弥に。瞬間最高席次が100番というのがワタクシメの唯一の好成績デス。今思えば、水泳によって骨盤の関節(仙腸関節)が安定し、腰椎全体も安定したのがよかったのだろう。52才になってからは、休日の朝は水泳を続けているので、最近では腰痛はほとんど発生しなくなっている。


☆扇町中学から一緒に入学した、O.N.さんという女子生徒がいたが、最近になって卒業生名簿を見ると、名前が掲載されていないことに気がついた。おそらく中途退学したようだが、全く事情がわからない。誰か知っている人はいないかね~。


☆ヨメさんを引っかけた件:あー、これは最も思い出したくないこと、公表したくないことデス(と云いつつ書いている、この矛盾!)。「腰は痛くても色気はあったんだな」と突っ込まれそうだが、若気の至りです、と言っておこう。音楽部(合唱)で知り合い、25才で結婚。その数年後に転職したいと言ったときも、黙ってついてきてくれたことには感謝しております。今年(2020年)の11月には結婚四十五周年を迎えます。

この奥方さま、「受験勉強そっちのけで音楽ばかり聴いていた」というだけあって、やたらその方面(とくに洋楽)に詳しいのであります。たとえばある時のこと、YouTubeでアディンセルのワルソー・コンチェルト(Richard Addinsell作、Warsaw Concerto)をたまたま見つけ、初耳で聞いていると、横で用事をこなしながら聞いていたお方さま曰く、

お方さま:あら、アディンセルのワルソー・コンチェルトやね~
私:この曲始めて聞くねんけど、アンタ前から知っとったんか~
お方さま:こんな有名な曲、知らへんかったの? オクレテル~
と、ダンナ様を小馬鹿になさるのであります。

君とわれ いかなることを 契りけむ
昔の世こそ 知らまほしけれ
「和漢朗詠集・巻下」

こうやって書いてみると、自分もけっこう往時を懐かしがっていることに気づかされる。しかしほかにも肺腑をえぐられるような苦い苦い思い出も、多くよみがってしまった。とはいってもワタシャ私小説を書くつもりはなく、露悪趣味も持ち合わせておりませんので、その類いのことは封印し、秘したままにします。アー、いま思い返しても顔から火が出そうだ!



年の別れ:堀口大學

逝く年は音(ね)にさえ立てぬ
逝く年は女であるか
離りゆく影が淋しい
うなだれて見返りがちに
離りゆく後姿が
捨てられた女のように
別れゆく影が侘しい
女なら嘆きもしよう

逝く年は音にさえ立てぬ
野の末の流れのように
年が逝く風に光って
唖の子の恨みさながら
目に涙いっぱいためて

離り=さかり

男声合唱曲:年の別れ 多田武彦;作曲

若き二十のころなれや
六年がほどはかよひしも
酒、歌、煙草、また女
外に学びしこともなし

佐藤春夫「閑談半日」昭和九年
「酒、歌、煙草、また女----三田の学生時代を唄へる歌」より

何せうぞくすんで
一期は夢よただ狂へ

何してる浮かぬ顔して
人生なんざ夢よ
ひたすら遊び狂え(現代語訳)

「閑吟集」(室町時代の歌謡集)

人生これ黄粱一炊の夢(こうりょういっすいのゆめ)

人生は、粟が炊きあがるのを待つ間にうたた寝し、
その時、夢で見た栄枯盛衰におなじだ(現代語訳)
「沈中記」(唐の沈既済;著)

往時眇茫として
すべて夢に似たり
旧遊零落して
半ば泉に帰す

(遊=友、泉=地下、あの世)
「和漢朗詠集・巻下」

遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば
我が身さえこそ揺るがるれ

「梁塵秘抄」(平安時代末期の今様歌謡集)

高杉晋作;辞世句

おもしろきこともなき世をおもしろく
すみなしものは心なりけり

(下句は野村望東尼の作という説が有力)



金州城下作:乃木希典

山川草木転荒涼 サンセンソウモクウタタ荒涼
十里風腥新戦場 十里風ナマグサシ新戦場
征馬不前人不語 征馬ススマズ人カタラズ
金州城外立斜陽 金州城外斜陽ニ立ツ

森繁久彌:詩吟・金州城下作~水師営の会見



于武陵(ウブリョウ)五言絶句「勧酒」カンシュ

勧君金屈卮 君ニススムキンクツシ
満酌不須辞 マンシャク辞ジスルヲモチイズ
花発多風雨 花ヒラケバ風雨オオシ
人生足別離 人生別離タル

金屈卮:取っ手の曲がっている金杯

井伏鱒二による訳:「厄除け詩集」より
コノ杯ヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミ注ガシテオクレ
花ニ嵐ノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ



幸福が遠すぎたら:寺山修司

さよならだけが人生ならば
また来る春は何だろう
はるかなはるかな地の果てに
咲いている野の百合何だろう

さよならだけが人生ならば
めぐり会う日は何だろう
やさしいやさしい夕焼と
ふたりの愛は何だろう

さよならだけが人生ならば
建てた我が家は何だろう
さみしいさみしい平原に
ともす灯りは何だろう

さよならだけが人生ならば
人生なんかいりません



マッチ擦るつかのま
海に霧ふかし
身捨つるほどの
祖国はありや


海を知らぬ少女の前に
麦藁帽のわれは
両手をひろげていたり


草の笛吹くを切なく聞きており
告白以前の愛とは何ぞ


さよならだけが人生ならば:カルメン・マキ(1969)
さよならだけが人生ならば:六文銭(1969)


戦友別盃の歌:大木敦夫

  ーーー南支那海の船上にて。

言ふなかれ、君よ、わかれを
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言はん、

熱き血を捧ぐる者の
大いなる胸を叩けよ、
滿月を盃にくだきて
暫し、ただ酔ひて勢(きほ)へよ、

わが征くはバタビヤの街、
君はよくバンドンを突け、
この夕べ相離(あいさか)るとも
かがやかし南十字を
いつの夜か、また共に見ん、

言ふなかれ、君よ、わかれを、
見よ、空と水うつところ
黙々と雲は行き雲はゆけるを。

「海原にありて歌へる」昭和17年11月より
森繁久彌による朗読





扣鈕(ボタン):森鴎外

南山のたたかひの日に
袖口のこがねのぼたん
ひとつおとしつ
その扣鈕惜し

べるりんの都大路のぱつさあじゆ(小路)
電燈あをき店にて買ひぬ
はたとせまへに

えぽれつとかがやきし友 
こがね髪ゆらぎし少女(をとめ)
はや老いにけん
死にもやしけん

はたとせの身のうきしづみ
よろこびもかなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ

ますらをの玉と碎けし
ももちたり
それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕

えぽれつと=肩章

管理人からの横やり:
<電燈あをき店にて買ひぬ>を
<電燈あをき店にて購ひぬ>
としてほしかった。
<買ひぬ>では、言葉のリズムが崩れる。



尻舐めた舌で
わが口舐める猫
好意謝するに
余りあれども

寒川猫持:「猫とみれんと」より

泣く泣くも
良い方を取る形見分け

誹風柳多留

あの世にも
粋な年増は居るかしら

三遊一朝(1847-1930);辞世句
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著作権所有(C)1996-:前田滋(カイロプラクター:大阪・梅田)