私と家族の近況


*あしがらみち*

2022年分:最新は12月度



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12月度 (Dec. 31, 2022)

 ついに今年も終わりとなりました。 あっという間に過ぎましたが、夫婦ともども、どうにかこうにか頑張って、また一年元気に生き抜きました。  私は90歳代という険しい坂道を、半年ほど登った事になります。 この坂道は、どこが終点なのか、険しさはこの先どれくらい増してゆくのか、現在地からは全く見えません。

 皆様が今ここをお読みになっている時、もう2023年は始まっています。 実は、「 年賀状の宛名や挨拶は手書きで 」 というこだわりがあった事もあり、90歳ともなると やはり体力的に無理だということで、2022年から年賀状 ( と年賀のメール ) を止めさせていただきました。 この場を借りて、 謹んで新年のご挨拶を申し上げます。 やめた事については、毎年年賀状や年賀メールを交換している方々には、その旨の説明とお詫びのハガキ又はメールを 2022年の1月上旬に出しましたが、手違いで万一もれた方がいる場合は、どうかご容赦ください。

 もう、お正月にふさわしい写真を撮りに外出しようにも、「 あし 」 になる車がありません。 下の写真は、6年前の2017年の元日か2日に、 静岡県伊東市の郊外で撮ったものです。 アロエは、伊豆半島内各地や初島などでは、元日前後に満開になります。 奥の方にある小さな祠には、真新しいしめ縄が。


 そうそう、お気付きになられたかどうか・・・27年目を迎えたこの ホームページの 「 扉のページ 」 に、90歳のご挨拶と90歳の写真とを追加いたしました。 元気な姿をご笑覧頂ければ幸いです。

 冒頭に、これからが 「 90歳代の険しい坂道 」 と書きました。 ふり返ってみると私は、64歳まで米国で働いた後、職を辞して自由の身になって以来、 現在までの25年余りの間に、先月記載した帯状疱疹以外にも、心筋梗塞、糖尿病、前立腺肥大、脊柱管狭窄症など色々な成人病に罹りましたが、 最近の医療技術の進歩のおかげもあって、幸いどれも持続的な重症病態とはなりませんでした。

 これまた幸いなことでしたが、私は自分の脚力、眼、歯、認知力、新分野の理解力、その他多くの心身の健康度に関して、自分が高齢者になり機能が老化したなと自覚した事は、 85歳までは殆どなくて済み、それ以降現在までの5年間も、時々軽く意識するという程度で過ごせました。 更に幸いなことに、カホル ( 87歳 ) もこの期間、ほぼ一貫して健康でした。  「 気がついたらいつの間にか90歳になっていた というのが、現時点での実感です。

 でももう、これから先はそうは行かないでしょう。 苦しい病、肉体や頭脳の衰え、淋しく情けない状況などに、きっと次々に出逢うことでしょう。 それらにどう立ち向かい、 どう対処するかです。 新しい年は、そのようなつらい生活の第一歩になるかも知れません。
 
では、今からアップロードします。 もうすぐ付近の寺から除夜の鐘が聞こえてくることでしょう。

月の後半、右脚のふくらはぎが痛くなり、医師の見立ては 「 肉離れ 」。 13日間ほど、あまり歩けませんでした。
この齢で何日もほとんど歩かずにいたら 脚の筋力が萎えてしまうし・・・とう事で、鎮痛剤の力も借りて歩き続け
ましたが、無理も出来ず、月間の総歩数は激減しました。 85,508歩/31=2,758.3歩/日でした。
 2017年元日以降の総歩行距離は6,817.0kmです。

11月度 (Nov. 30, 2022)

 ちょうど10年前の2012年の12月のある日のことです。 突然、左胸に痛みを感じ、その四年前に虚血性心不全を発症後お世話になっていた病院に行きました。  心臓がまたおかしくなったのかと思ったのです。 心電図その他を調べてもらい、異常なしと言われたのですが、その時はもう帯状疱疹 の症状は多少出始めていたのに、主に背中側だったので、医師も自分も気が付かなかったのは、不運なことでした。

 翌日にはもう左背中だけでなく左胸や左脇にかけて真っ赤にただれ、小さく赤いイクラ状の疱疹も沢山発生していました。  日曜日なのに診てくれた医師に「 これは帯状疱疹ですね 」 と診断され、とりあえずの一日分の薬を貰い、明日は急いで皮膚科医院に行きなさいと言われました。

 家に帰ってネットで検索し調べると、薬の服用開始は発症後少しでも早いほど、以降の症状が軽く済むのだそうで、 上記のように診断が一日遅れたのは不運な事でした。 しかも私の場合は発症面積と疱疹の数の点で相当な重症でしたので、皮膚科医院からさらに、 ある病院のペインクリニック科に転送され、その後なんと10か月近くもそこに通い続ける破目になりました。

 処方された鎮痛剤は延べ7種、多いときは1日に4〜5種類もの薬を服用し、それでも痛くて眠れない日があるほどでした。  私のパソコンには当時の症状と長期の治療の詳細な記録が残っています。 疱疹の詳細な写真も撮ってありますが、やはりここには載せたくありません。 ( 4〜5行下の検索をクリックすると出てくる記事に載っている腹部の患部写真と同じ程度でした )

 10か月近くもかかって、この痛みと遠距離通院からやっと解放されましたが、それ以降は 「 もう二度とこんな苦しみは絶対に味わいたくない 」 と考え続けていました。  10年前だからどうにか耐えられましたが、もし現在でしたら、夫婦とも既に車の運転はやめましたし、遠方への長期間で頻繁な通院など体力的にも到底不可能です。

 加齢、疲労、ストレス等により体力が低下すると、帯状疱疹は何度でも再発するというので、懸念し続けていたところ、最近テレビで、 「 50歳以上の人に対して 帯状疱疹の予防ワクチンを推奨します 」 という広報を何度か目にしました。 そこで、地元の幾つかの医院に尋ねたところ、そのうちの一つで注射してもらえるとわかりました。

 ところが、病気の治療ではなく、健康な人への任意の予防注射ですから医療保険は適用されず自己負担となり、しかも2カ月あけて2回打つので結構高い費用が掛かると知り、 驚きました。* でも、何もしなければ上記のように高齢者には再発の可能性も十分あるそうで、余命は短いとは言え、 あの痛みと苦しみはもう絶対に味わいたくないという強い思いが勝ち、やって貰うことに決め、1回目を今月打ってもらいました。

 今月はそのほかに、インフルエンザの予防ワクチン注射と、オミクロン株対応のコロナ予防ワクチンの注射 ( 5回目 ) も行い、 毎週のように医院に出かけてゆく大変な月でしたが、幸い副反応はすべてごく軽く済みました。 45〜50年ほど前の職場の部下の方たちとの懇親会が2つあり、 楽しく旧交を温める事も出来ました。 長生きした功徳とでも申しましょうか・・・

 11月9日は、64回目の結婚記念日でした。 60回目 ( ダイヤモンド婚 ) までは、自家用車もありましたし、 毎回近くの温泉に一泊で出かけたりしていましたが、運転免許証返納や新型コロナの流行と共にそれも出来なくなりました。 今年も小さなケーキを買ってきて、 自宅でささやかなお祝いをしただけでした。 しかし、この年齢まで両名、心身ともまずまず健康に過ごせているのですから、本当に有難いことです。

 もう遠方まで出かけて写真を撮るための車も体力も有りません。 上記の帯状疱疹に罹ったひと月前の2012年の11月に撮った 「 ざる菊 」 の写真を載せます。  直径50〜80cmほどのざるを伏せたような形の菊は、当時、当地でも盛んに育てられていましたが、それを趣味にするご年輩の方たちの高齢化に伴ってか、 最近は目にすることが次第に少なくなりました。 さみしいことです。


*:帯状疱疹の予防ワクチンには2種あります。 予防効果、副反応、費用等に大きな違いがあります。 詳細をお知りになりたい方は ここをご覧ください。

11月はもう台風も来ないし、暑くも寒くもないので、ウォーキングには一番好適な月のように思われます。
上記のように外出も多く、歩数は増えて 111,566歩/30=3,718.9歩/日でした。
2017年元日以降の総歩行距離は6、761.4kmです。 この距離は、地球一周の
七分の一をちょっと 超えたという程度です。 この程度のウォーキングだと、
赤道に沿って地球一周するには約40年かかることになります。
若い頃はもっとずっと長く歩いていましたから、 私は
生涯で地球2周半ほど歩く事になりますか。
 
10月度 (Oct. 31, 2022)

 9月の下旬には、自宅付近の水田では殆どが稲刈りを終えました。 刈り取った稲穂を 「 はざ 」 にかけで乾燥する農家は年ごとに減り、稲刈りと同時に脱穀してしまう農機が 当地でも今や全盛です。 手数のかかるこの 「 はざ架け 」 の光景は、近い将来見られなくなってゆくことでしょう。

 コロナも静まって来たので、月半ばに旧同期生 ( 卒業時約60名 ) たちとの昼食会を横浜で行いました。 僅か5年前 ( 当時平均年齢約86歳 ) には 箱根山麓の温泉宿で一泊2日で開催し、東北地方や中京地方からも参加者があって、13人集まったのですが、今回 ( 平均年齢約91歳 ) は日帰りなのにたった6名でした。  5年前の時には、翌朝早起きして箱根の外輪山に徒歩で登って尾根歩きしてから帰宅した猛者もいましたが、その男ももう亡くなりました。 6人全員が人生の終末が近いことを、 改めて強く認識し合った会合でした。

 先月、この 「 あしがらみち 」 を書き始めて以来、初めてお休みをしてしまったら、ある見知らぬ方から、思いがけず暖かい励ましのメールを頂戴しました。  「 ちょっと疲れた 」 と私が書いたことに対してのご心配までしてくださり、大変有難いことでした。 今月からまた 「 再起動 」 しています。

 見知らぬお方からこのホームページにお言葉を頂くのは、一年に一度くらいの頻度でしょうか。 私は幸い大きな持病もなく、夫婦そろって一応元気に暮らしているとは申せ、 もう90歳を少し越しておりますので、今後いつまで元気にこれを書き続けられるものか・・・  「 一寸先は闇 」 というのが実感ですが、 やれる限り頑張って続けて行く所存です。

 表紙のページのカウンターを見ていると、ひと月に30人ほどの、ほとんどが見知らぬ方々が、このホームページを覗いて下さっているようです。  私がこのホームページを書き始めた1998年当時は、個人が意見や感想、実績や近況、作品などを世間に向かって発表できるデジタルな 「 手段 」 はホームページだけでした。  ホームページを作るための便利なアプリすら当時は無く、私は 「 HTML言語 」 についての解説書を買って来て、独学でホームページの作り方を勉強しました。

 その後、ブログ、ツイッター、インスタグラム、フェイスブック その他、様々な新しい使いやすいSNSのツールが次々に発表され、広まってきました。  ですが、その多くにおいては、殆どの人たちが、本名を伏せてハンドルネーム で発表し論じあっています。  こういう世界は私の肌に合いません。 90歳の私がその後使い出したのは、家族、親戚、親友たちとの間で穏やかに交流する LINE だけです。

 著名な作家や俳優が筆名や芸名で意見を公表しても、本人は特定できますから問題ありませんが、無名の一市民である私の様な者がハンドルネームで気軽に意見を公表していると、 ついつい拙速で無責任な発言になりがちでは・・・と、私は当初から懸念しました。 見聞きした事にすぐさま反応した感情を思いつくままに書き並べてそのまま投稿する人、 それを読んで面白がって 「 いいね 」 を連発する人・・・時には炎上したり裁判沙汰にまでなってしまう事もあるこの世界は 「 軽すぎる 」 と私は思いました。  ですから、私は当初から本名でしか発言しないことに決めたのです。 事実は何度もしっかりと確かめ直し、 文章もじっくりと考え抜き練り直した後に本名で公表するというこの 「 ホームページ 」 のスタイルを、私はずっと続けてきましたし、これからもそうして行くつもりです。

 以下は今までどなたにも話さなかったことですが、毎月発表してきたこの欄の文章は、月半ばにボツボツ書き始めて以降、月末まで、少なくとも30回以上の 「 推敲 」 を繰り返し行った後、原則その月の末日の夜、アップロードしてきました。

 読んでいる方が、「 ? 」 と途中で引っかかったりするようなことがないよう、また、私の意図と違う解釈をされたりなさらぬよう、 細心の注意を払って、私は自分の書いた文章を何度も何度も読み直し、資料を調べ直し、書き直します。  ある単語を漢字で書くか仮名で書くか、同じような意味の幾つかの単語 ( 名詞、形容詞など ) の内、この文章のこの位置において 「 最も適切な単語 」 はどれか、 さらには一つの文章の長さ( 文字数 )、読点をどこに入れるか、主語や副詞を置く文中の最適な位置はどこか、誤字や脱字はないか、うっかり他人を傷つけたりしてはいないか、 その他もろもろを考えに考え、私は何十回も繰り返し推敲しています。 「 もうこれで完成だ 」 と思っても、翌日開いて読み直すと、また何か所か直したくなります。

彼岸も過ぎて大分涼しくなりました。 雨が結構多かった今月でしたが色々と工夫しながら一日の目標 「 3,000歩以上 」 を
達成しました。 111,217歩/31=3,587.6歩/日でした。 2017年元日以降の総歩行距離は6、688.9kmです。

9月度 (Sept. 30, 2022)

 多少疲れてきましたのと、特にここに書くほどの事件も起きず、珍しい体験もしなかったので、今月は一回パスすることに致しました。 なんという事もなく毎日が終わり、 ひと月が過ぎて行ったということです。 この欄を書き始めて20年近くになりますが、こんな事は初めてです。 幾つかの定期的な医学的検査を受け、 幸い特に問題は指摘されませんでしたが、齢 ( よわい ) 既に90歳半、さすがに気力、体力とも衰え始めてきているのかもしれません。

今月は台風が2回来ましたが、当地は幸い風雨とも大したことはなく、傘をさして短いウォーキングができる程度
でしたので、目標の 「 3,000歩以上 」 を達成できました。 101,488歩/30=3,382.9歩/日
でした。 2017年元日以降の総歩行距離は6,754.9kmです。

8月度 (Aug. 31, 2022)

 コロナ流行の波が何度も押し寄せてきましたが、第6波までは、私の妻子・孫たちは勿論、友人・知人・親戚・近隣にも、一人も罹った人はいませんでした。  ですが、今回の第7波になって、遂に東京都下在住の友人のご家族がかかってしまいました。 彼からの LINE によると、保健所も医療施設も満員パンク状態なので、 患者本人すら初日はPCR検査をしてもらえず、解熱剤を手渡されたきりで帰宅となり、彼はマンション内の別の空室に移されて孤独別居状態となって、 ドアの外に置いてゆかれた食事を淋しく個食せざるを得なかったのだとか・・・幸い、その後1週間ほどで回復し元の生活に戻れたそうです。

 そんな最近のコロナ情勢を LINE で知らされたので、自称 「 末期高齢者 」* の我々夫婦は、罹るのが怖いというより、 罹った後の手続きや受診までのあまりの大変さに驚き、そんな 「 発熱したのに朝から電話を掛け続けてもどこにも繋がらない 」 などという状況には絶対に陥りたくない!と考えました。

 それにはコロナに絶対罹らないことですが、そのためにはどうしたらよいのか? 幸い無職の私たちは、もう今後は原則どこにも一切外出せず、 ただじっと自宅に籠って暮らすことに決めたのが8月6日でした。 月末になって、ようやく少し下火になって来たので、こわごわと最低限の外出をはじめました。

 殆ど誰も通らない、人家から離れた細道を選んで、マスクを外して夕方30分ウォーキングする以外は 「 自主的上海風ロックダウン ( 中国語では封城と言うそうな ) 」 で、一歩も家の外に出ない ( 陽にあたるため短時間の庭仕事はする )という 生活を約3週間選択したというわけです。 幸い、災害時に備えて備蓄しておいた非常用の食糧は十分にありますし、週一回の生協の配達もあります。  パソコンを使い、通販でいろいろな品物を買って配達してもらうこともできます。 災害時と違い電気、水道、ガスは正常に使えますから、これらの面での苦労は全くありません。

 私たち夫婦は、34年前、50歳代の半ばで、当初は日本人が一人も住んでいない米国の片田舎の小都市に ( 子供たちは日本に残して二人だけで ) 移住しました。  その後も半径数km以内に日本人が一人も住んでいない家に二人だけで8年近く暮らしました。 何もなかった広い牧場跡地に巨大な工場群を作り上げるという事業の 責任者をしていましたので、夫婦が懸命に協力し合い、孤独、不安、困難、模索、失敗の連続にあえぎながら、連日、解決策を必死に考えながら無我夢中で働き続ける厳しい毎日でした。  当時はもちろんインターネット ( Google 検索 ) も LINE もなく、相談相手になってくれる日本人など、日本にも米国内にもいませんでした。

工場の全景をご覧になりたい方は、ここをクリックしてください。

 孤独感と不安のため、頭がおかしくなってしまいそうなので、私たちは毎日話し合って、二人で一緒に楽しめる種々のささやかな機会を、努めて毎日、毎週、 毎月作るよう努力しながら生活していました。 その習慣は帰国後も変わらず続いているので、今、二人だけで家にこもったきり、 他の誰ともほとんど会わないという生活がひと月やふた月続いても、あまりつらいと思わずに暮らして行けます。  米国であの頃あのような生活をしていなかったら、今回の様な外界から隔離された生活には、僅か数日でも耐えられなかったことでしょう。  あの期間に知らず知らず築きあげ、獲得したものの強さ、有難さに今更ながら気づきます。

*: 国の規定では65〜74歳が前期高齢者、75歳以降が後期高齢者ですが、私たち夫婦は後者を84歳までとし、85〜94歳を何と呼ぼうかと考えた末、 自嘲気味に自分たちのことをこう呼んでいます。

今月は猛暑続きの一方、終日雨という日も数日あり、無理せずにいろいろ工夫しながら一日の目標 「 3,000歩以上 」 に
挑戦しました。 91,107歩/30=3,036.9歩/日でした。 2017年元日以降の総歩行距離は6、688.9kmです。

7月度 (Jul. 31, 2022)

 格別の大きな出来事もないままに、今月も瞬く間に終わりました。 4回目のワクチンを済ませることが、を打ってもらったた事、 年1回の眼の定期精密検診が済み、今年も全く変わりなく健康な眼であった事、日常使っている2台のパソコンを専門家に診てもらい、 点検・整備が終わってひと安心な状態になった事・・・この程度しか特記事項が無いのにいつの間にかサッとひと月が終わってしまい、 その一方ではほぼ同年齢の級友、旧友たちが次々に亡くなってゆきました。 「 このまま人生を終わってはいけない 人生最後のひとときを何とかもう少しだけでも充実させなくては・・・ 」 と、反省するばかりです。

 今から34年前の1988年秋、多くの有能な日米の社員たちの総力を結集して、米国南東部サウスカロライナ州の小都市にある広大な牧場跡地に、文字通りゼロから建設を開始し、 その後1年半に一つくらいのペースで、次々に種々の製品の工場を建てては生産を続けてきた富士フイルムの巨大な北米生産拠点は、私が8年後に職を辞し帰国した最盛期の頃には、 5つの巨大な工場とひとつの大きな自動物流倉庫の集合体に千人以上の米国人が働くところにまで成長していました。

 以降、商品技術の進歩・変遷に伴う市場の急速な変化がありました。  例えば VHSビデオカセットテープの生産工場は、建設当時は世界最大級の規模の工場としてフル稼働していましたが、 10年余りの稼働後除却されました。 今どきこんな旧式の商品は世界中どこを探しても売っていません。 銀塩利用の写真フイルムは、半導体利用のデジカメへと、 撮影方式が急速に移行したため、現地生産は終了しました。 技術が先端的であるほど、その進歩に伴う商品の変遷・交代は本当に迅速です。

 この様な市場の急変に応じて、一つまた一つと生産の終了、工場の取り壊しなどを続けたあと、今回、300人( 最盛期の数分の一ほど )の米国人従業員は雇用したまま、 この工場は、ある米国の投資会社に土地建物こみで全部丸ごと売却されました

 今後この工場の敷地・建物は、富士フイルムのものではなくなりますが、現在使用中の部分はこの投資会社から借り受けて、米国内ではまだ結構使われている QuickSnap カメラ ( 日本名 「 写ルンです 」)を富士ブランドで生産して世界の市場に供給するほか、全米の写真現像拠点へ種々のプリントサービスを提供し、また、 巨大な自動倉庫は富士フイルムの米国内物流拠点の一つとして働いてゆきます。

 この米国の投資会社 ("Phoenix Investors" ) は、土地・建物すべてを富士フイルムから買い取り、その広大な空き地や稼働をやめた建物を、他の種々の企業の工場等に貸し付け利用させ、 その賃料を得ることにより利益をあげてゆくのだそうで、こういうビジネス業態は、だいぶ前から米国では盛んになってきているようです。

 この報道を7月のある日突然耳にした時、私は、苦労して育てた我が子が病いの末に世を去っていったような、強烈な悲しみに一瞬我を忘れるほどでした。  カホルも、次々に移住し参加してくる単身赴任の日本人スタッフたちのための日本食食堂の設営、米人コックの養成、和食用食材の購入などで、 当初は夢中で ( 無給で )連日働いていましたし、この地にはその後7年半住んでいたので、今回の報道には愕然としていました。

 しかし現実の市場の実態を落ち着いて考えれば、翌日には二人とも平静に戻り、私は穏やかな心境で、今こうしてこの文章を書いています。  この工場については今回この様な残念な決断を強いられましましたが、富士フイルムは、一方では最近二十年ほどの間に、いくつもの巨大な製薬事業その他の新分野の会社を米国、 日本、その他で数多く買収し、次の時代にふさわしい業態への転身・発展の道を着実に進んでいるのですから、 落胆する必要は全くないのです。

 この工場の敷地はゴルフ場二つ分以上の広さで、離れた建物で会議があるときは車で行くしかないほど広大な工場群でした。  工場の全貌を紹介するビデオ ( 英語版 ) をご覧になりたければ、ここをクリックしてください。  今後この地に世界中からいろいろの企業が乗り込んできて、活気に満ちた寄り合い所帯的な商工業団地が生まれ、地元社会の活性化に引き続き大きく貢献できることを祈るばかりです。

猛暑の中、年寄りが無理することはいけないと考え、いろいろ工夫しながら一日の目標 「 3,000歩以上 」 に挑戦
しました。 96,194歩/31=3,103.0歩/日でした。 2017年元日以降の総歩行距離は6、629.7kmです。

6月度 (Jul. 03, 2022)

 先々月 ( 4月度 ) に続いて、今月も、発行が数日遅れてしまいました。 理由の一つは、後記のお祝いに際して子供たちから頂いたお金を使って、月末に夫婦で泊りがけの旅行に 出かけてしまったからです。 私が5月に満90歳 ( 卆寿 )を、またカホルが今年、数え年で88歳の米寿を、幸い共に元気で迎えたことを祝って、 子供たち、孫たち全員が集まって、小田原市内で6月の5日に昼食会を開いてくれたのでした ( 写真 )。

 我々二人を含め、集まった子たち・その配偶者たち・孫たちは、幸い全員が心身共に健康で、元気に仲良く暮らしています。 その事だけで私たちは十分に幸せなのですが、 その上にこうして皆が集まって長寿を祝ってくれるとは、何と嬉しく、また幸せなことでしょう。

 私は、かねて用意しておいた、幼児の時代から64歳の退職までの自分の一生を振り返り、思いだしながら詳細に記録した、写真入りの 「 自分史 」 と、 退職後20年以上にわたって綴り続けてきたこのホームページとを、DVDに記録し、全員に配りました。 何かしら、重い肩の荷を下ろしたようなホッとした気分です。

 カホルも本当に元気です。 毎週水曜には女声コーラスに、土曜には難しいテキストに苦闘しながら英会話教室の最上級クラスに、今も熱心に通っています。  病院に薬を貰いに行くにも、買い物にも、歯科医院に通うにも ( 歯は28本全部、自分の歯が残っています )、バスや電車を乗り継いで遠くまで一人で出かけてゆきます。

 私はと言うと、15日には、大学の卒業同期の仲間たち7名が、久しぶりに集まって横浜で昼食会を行いました。 本来は月例の会なのですが、コロナの為、2年以上も、 ほとんど開催できなかったのです。 全員90歳前後ですが、すこぶる元気で、うち私を含む4人は、 電車を乗り継ぎ片道2時間前後もかけて集まってきました。

 改めて数えてみると、同期生たちはすでに70%近くの人たちが亡くなり、約20%が心身の衰弱・故障で介護施設に入っていたり、自宅から外出できなくなったりしています。  残る約10%が、幸い元気で生き残っている上記の7名なのです。

上記の通り、めでたく?90歳になったのですが、偶然かどうか、ちょうどそのあたりから、午後4,000歩も歩くと、
その日の夕方にはすねや腿が痛くなるようになりました。  体力の衰えは如何ともし難く、無理はいけないと考え、
一日の目標を 「 3,000歩以上 」 に下げることとしました。  猛暑の日も多く、夕方歩いたり冷房の効いたショッ
ピングセンター内を歩いたりして熱中症を避けました。 100,846歩/30=3361.5歩/日でした。
 2017年元日以降の総歩行距離は6567,2kmです。

5月度 (May 31, 2022)

 毎年同じようなことを書きますが、今年も例年のようにキイロスズメバチの女王(蜂)様がお一人、我が家をご訪問になり、 一階の南側の軒下がお気に召したようで巣を造りはじめました。 宮殿造営開始後数日経って直径6cmくらいの皿を伏せた形 ( 巣の基礎部分 ) が出来かけている段階で発見、 早速例年のようにアースマグナムジェットを吹きかけて、崩御なさっていただきました。 お気の毒ではありますが、 放っておいたら秋には巨大な巣に100匹ほどの働きバチが住むようになり、家族や訪問者がとんでもない危険にさらされますから致し方ありません。

 今年はこの一件だけで済んだようです。 当家では年中行事の一つですが、巣造りの初期に発見することが肝要なので、5月中は数日おきにオペラグラス片手に家の周囲を回り、 軒下などの点検を行っています。 地球温暖化の為か、近年は10年前より半月ほど早く飛来するようです。 5月頃の女王バチが単独で巣造りしている段階なら、 業者に頼まなくても、特別の防護服が無くても、この老人一人で何とか処理できます。

 今年はウォーキングの途中、計3回も四葉のクローバーを見つけました。 そのおかげか、今月、自分で申すのも変ですがめでたく健康で元気に満90歳を迎えることが出来ました。

 コロナも幸いやや下火になってきましたし、緊急事態宣言なども発令されていないので、この時期を逃すまいと、 現役時代の旧職場の部下の方々が、毎年開いていた懇親会を再開してくださいました。 9日には私が部長だった工場時代の仲間たち、 29日はそれ以前の私が新製品開発のリーダーだった時代の研究室のメンバーたちが、私を囲んでたくさん集まってくださいました。

 ここまで元気で長生きできた事だけでも幸せなのに、半世紀ほども前の 「 仲間 」 の方々がこのような集まりを開いて招いてくださり、 しかも卒寿*のお祝いの品までくださるとは、例えようもないほど嬉しく有り難いことです。

 心身の近況は以下のとおりです。 他人様にはどうでもよいことですが、90歳という人生の一里塚を通り過ぎるにあたって、一つの記録として残しておきます。

 血圧と血糖値は、医師がくださる薬に頼って何とか正常値を保っています。 肝機能、腎機能等の測定値は幸い正常です。  足腰はどうにか働いてくれ、毎日速足で短時間のウォーキングに励んでいます。 歯は自分の歯が25本とインプラントが2本で、入れ歯や差し歯はありません。  眼は 「 白内障にはまだ殆どなっていない 」 と眼科医から言われていますし、裸眼で両眼とも1.2の視力があるのに老眼鏡なしで新聞やスマホの文字が読めます。

 脳のMRI検査の結果は 「 大きな異常はない 」 とのことでしたが、記憶力はだいぶ落ちました。 2階に物を取りに行き、階段を上がったら、何を取りに来たのか忘れていたり・・・ 仕方なく、まめに手書きのメモやスマホのアラームを使って、何とか補っています。 物忘れが原因で他人様にご迷惑をかける事がないようにいつも懸命に努力しています。  読書は、肩の凝らないものばかりですが3日に1冊ほど読み、この際は長時間なので度の弱い老眼鏡を使わないと疲れます。 パソコンの前にも毎日3時間以上座りますが、 現在の液晶画面は昔のCRTの時代とは違い、紫外線防止の眼鏡の必要はないようですね。

 食事の量は80歳の頃の3分の2以下に減りました。 最近の食料品価格の上昇に対しては抵抗力がついてきているとも言えます。  その結果でしょうが、体重は10年前は76kgほどでしたが現在は66kgほどに減り,BMIはちょうど25.0くらいです。 身長は70歳以降毎年約3mmずつ減ってきています。  その結果、20歳の頃より約6cmも低くなりました。 一般には年に1mmと言われているので、減り方は随分多いようです。

 体重減少に応じて内臓脂肪が減り、下腹部の 「 でっぱり 」 がなくなったのは良いのですが、自慢の太腿やふくらはぎの筋肉が減って少々細くなりました。  毎日のウォーキングは、80歳当時は1日5千歩以上でしたが、今は3,700歩くらいがやっとです。 酒も、当時は毎晩2合以上飲んでいたのですが、 現在はピッタリ1合しか飲みません。  飲むつもりになればいくらでも飲めますが、CT検査の結果、私の膵臓はだいぶ萎縮してきていると医師に言われたので、用心しているのです。

 以上が90歳時点の私の現状ですが、87歳のカホルも私に負けず健康で元気ですから、本当に幸せなことだと感謝しています。

*:卒寿とは、卒の略字が卆で、それが九十と読めるから名付けられたのでしょうが、「 卒 」 という文字を漢和辞典で引くと、@ めしつかい ( 一兵卒の卒はこれ )、 突然 ( 卒中の卒はこれ )、B 終える ( 卒業の卒はこれ ) などというような意味が並び、B の中にはさらに 「 老いて死ぬ 」 という意味もあります。  卒寿とはあまりめでたくない当て字の年齢ですね。

今月は雨も多かったけれど、それ以上に、体力の衰えを感じました。 もう一日4千歩以上という目標は無理かもしれま
せん。  119,123歩/31日=3,842.7歩/日で、目標の4千歩以上を達成できませんでした。 2017年
元日以降の総歩行距離は6501.7kmです。

4月度 (May 2, 2022)

 4月度分のアップロードがまる2日ほど遅れてしまいました。 このページを毎月早々に開いて読んでくださる方々が、 今も20人ほどいらっしゃいます。 「 どうしたのだろう。 熊井もいよいよ心身の老化が進んで、ついに書けなくなったのか 」 とお思いになった方もいらっしゃったかも知れません。

 5月には、私はいよいよ90歳となりますが、幸い、心身とも相変わらず元気に暮らしています。 妻のカホルも同様です。 4月末から5月初めにかけての連休前半、 コロナに災いされて最近数年全く顔を合わせられなかった子たち孫たちが、久しぶりに泊りがけで顔を見せてくれたので、猛烈に忙しくてホームページに手が回らなかったのが理由です。

 そしてもう一つ。 これは当然のことですが、ここに書くような内容の出来事が、この齢になるともう、いよいよ無くなってきているのです。  図書館から借りてきた本もずいぶんたくさん読みました。 丹精して世話している植物たちも無事越冬して新芽が出てきました。  友人のパソコンのトラブルを、Windows のクイックアシストを使って何度も解決してあげました。 「 かながわ旅割 」 という制度を娘に教えられて、 「 大分長いこと夫婦で旅行していなかったから、一度使ってみようか 」 と考え、ごく近い某所に一泊旅行もしてみました。  かかりつけの医師と何度も相談して、最近やや上昇気味だった血糖値を正常値に下げることに成功しました。 ほかにも沢山・・・・・・

 いろいろ忙しく、この年齢にしては結構充実したひと月を送ったのでした。 でも、これらの事はすべて、わざわざここに詳しく述べたてるほどの内容の出来事ではありません。  要するに、ここに書き、ひと様の 「 お目汚し 」 をするほどの出来事が、もう身の回りであまり起きなくなってきているのです。 90歳ともなれば致し方のない事でしょう。

 そういう次第で、今月はこれだけで終りにさせて頂きます。 写真はウォーキングの途中で見つけた四つ葉のクローバーです。 昼間はこのように4枚の葉を拡げていますが、 夜間は葉と葉を合わせ畳んで眠ります。 これは新発見でした。

今月は雨のため屋外でのウォーキングが出来ない日が意外に沢山有りました。 117,238歩/
30日=3,907.9歩/日で、目標の4千歩以上を達成できませんでした。 2017年元日以降
の総歩行距離は6424.3kmです。

3月度 (Mar. 31, 2022)

 2月から3月にかけて各種の早咲きの桜 ( 最近、当地では新種の植樹が増えているように思う ) が次々に美しく咲き、散り、そして、本命のソメイヨシノが満開となって3月が終りました。  あとは、4月前半に咲く各種の八重系の桜の開花を待つばかりです。 1988年に米国に移住した時、移住先の市役所前の広場に数本の桜の苗木を寄付して植えました。  あの桜たちは大きくなって今も春には花を咲かせているのでしょうか。 30年以上経った今は、もう巨木になっている筈ですが・・・

 話は変わりますが、和紙の原料として、楮(こうぞ)、雁皮(がんぴ)などと共に、三椏(みつまた)が使われていることはご承知のことと思います。  落葉性の低木でジンチョウゲ科だそうです。 そういえば花の形は沈丁花と似ていますね。

 みつまたは通常は黄色一色の花を早春に咲かせますが、観賞用に赤ほかの美しい多色の花弁に改良されたものもあります(写真4)。  注意してご覧になると、その名の通り、枝がすべて三つ又に分かれているのが分かります。

 神奈川県の西北端の山北町の奥、丹沢湖の北に位置するミツバ山(834m)では3月下旬になると、沢山の黄色いミツマタが咲き誇ります。  私の娘が先週登ってきました。 その時に撮ってきた野生のみつまたの幼木が(写真1)です。 枝が三つ又に分かれていることがよくわかります。

 庭木として観賞用に植えられているものも殆どはこれと同じ黄色の花で、通常1〜2mの樹高になります(写真2)。 農家の畑の隅に生えているものも、時々目にします(写真3)。

 

写真1                     写真2

 

写真3                     写真4

 ようやくコロナも 「 ひと休み 」 してくれているようです。早速、買い物や外食に出かけ、長い間の鬱憤を晴らしました。 カホルはまたコーラスや英会話学校への参加を 復活しましたし、私も、同期の友人たちとの毎月の例会を、4月から再開しようと、準備を始めているところですが、またまた次の新種のウィルス株が流行りだしそうな気配があります。

せっかく暖かくなってきたのに、今月も杉花粉が怖くてあまり歩けません。 124,337歩/
31日=4,010.9歩/日で、かろうじて4千歩をクリアできました。 2017年元日以降
の総歩行距離は6348.1kmです。

2月度 (Feb. 28, 2022)

 庭の花壇では水仙やクロッカス、それに庭木の白梅、ボケ、寒椿などが満開となりました。 また春が巡ってきました。 高齢化に伴い、毎年秋には 「 もう一度春の花がみられるだろうか・・・ 」 と、ふと考えたりしますが、幸いまたもう一度春の花を見ることができました。

 一年中で一番憂鬱で面倒くさい 「 おつとめ 」 であり、また、高齢化に伴い、年々その 「 面倒くささ 」 の度合いが増大してゆくように感じられるのが、 確定申告という年中行事の手続きです。 でも、今年も2月中になんとか無事終了できました。

 月半ばに3回目のワクチン注射も済み、副反応らしきものも夫婦ともほとんど無くて済みました。 またオミクロンもやや沈静化してきたので、 3月からは外出しての食事や買い物もある程度自由にできそうな気がしてきました。  実際、今年になってからは、外出らしい外出は全くせず、若い頃だったら頭がおかしくなってしまっただろうと思うほど、家に閉じこもり続けでした。  仕方なく、新築以来30年間の汚れをため込んだ門や塀の清掃やペンキ塗りなどを少しずつ行い、時間をつぶしていました。


 1,2月は、近くの図書館から肩の凝らない内容の本を毎週数冊借りてきて読んでいましたが、ベッドに仰向けに横になって読んでいると、すぐに右肩が痛くなるのです。  肩の凝らない内容の本なのに、なぜか肩が痛くなってしまうのです。 歳はとりたくないものです。 その痛さというのが、45歳ころに苦しんだ 「 四十肩 」 と同じです。  90歳近くなって、「 2周期目の四十肩 」 がやって来たというわけです。 60歳を還暦と言うのに対して、120歳を 「 大還暦 」 と称するそうですから、 私は差し詰め、「 大四十肩 」 に今悩まされているのでしょう。

今月も寒い中、ようやく一日平均4千歩以上を確保できました。 当地は見渡す限りスギ林の
箱根外輪山に接しているので、 ウォーキングの際は、ほとんど誰にも会わないのに、スギ花粉
アレルギーがほとんど無い私でも、しっかりとマスクをしていなくてはなりません。 115,549歩/
28日=4,126.8歩/日でした。 2017年元日以降の総歩行距離は6267.3kmです。

1月度 (Jan. 31, 2022)

 今から70年ほども前の1952、3年頃、文化放送の家族歌合戦というラジオ番組で すぎやまこういち 一家のメンバーに加わって、”On the sunny side of the street” を歌って優勝したという 想い出話を、昨年11月にここに書いたら、ちょうどその頃から放映が始まったNHKの朝ドラの 「 カムカムエヴリバディ 」 で、この古い ( 1930年 ) 曲がストーリーの中心的テーマとなっていて、 改めて全国的に知られるようになってきたようです。 偶然の一致とは言え、私にとっては非常に感慨深いものがあります。

 それにしても、この曲ほど表現 ・・・「 歌い方 」 の選択肢の幅が広い曲は珍しい。 歌い手が違うと ( 例えばサッチモとドリス・デイ ) 全く違う別の曲のようにすら聞こえます。 私達がどのように歌ったかはもう忘れましたが、 人生についてはまだまだホンの初心者だった私が、こんな深い含蓄のこもった歌詞を、よくも図々しく歌ったものだと思います。 sunny side of the street というフレーズは、多くの訳詞では、単純に 「 日向の道 」 とか、 「 明るい表通り 」 とか訳されていますが、私は次のように考えています。

 広い通りの真上に太陽がある時間帯は少ない。 ですから、道路の全幅が常に日向だったり明るかったりするわけではありません。 通常は、両側に建物が並ぶ街路の一方の側に陽が当たっていれば、反対側は日陰になります。 私も、季節にもよりますが、気が付くと、 その時の心の持ちようからか、どちらかの側を無意識に選んで歩いています。 でも、「 これからは意識していつも道の "陽の当たっている側" を選んで歩こう。 そうすれば、人生もおのずと明るくなるよ 」 というのが、作詞者の言いたいことでしょう。

 作詞者は白人の女性でしたが、バスでもレストランでも公衆便所でも小学校の教育でも・・・ありとあらゆる場面で、今の時代では考えられないような激しい差別を受けていた当時の黒人たち ( 詳しくお知りになりたい方は、拙訳の第3章をご一読ください )は、 もちろん、道路の陽の当たる側を胸を張って歩くことなど、できなかったはずです。 サッチモはどんな想いでこの歌詞を歌っていたのでしょうか。

 昨年一年間は、「 そろそろ90歳になる。 人生の最期も近づいたから、身辺の整理を・・・ 」 と考えて、実際、それを相当まじめに実行してきました。 でも、それがほとんど終わると、それと共になぜか、 「 もしかすると、私はまだあと3年や5年は生きてしまうのではないか 」 という気がしてきて、「 どうせ生きるのなら、元気で健康に生きたい 」 と思うようになりました。  それにつけても、「 この肉体は、いつどのような原因で、どのように壊れるのだろう? 」 という事も時々考えてしまいます。

 昨年暮れに出すはずの今年の年賀状から、私は年賀状を出すことをやめました。 新年になって、年賀状を頂いた方にだけ、1月5日頃、その旨のご挨拶状を送りました。  ところが、毎年、ご丁寧な賀状を頂いていた同年代の親しい友人たちの中に、今年から年賀状が来なくなった方が、なんと10名ほどもいたのです。 もしかして、重い病に倒れたのではないか、 あるいはご不幸に逢われ、お身内だけで処理され、私に知らせてくれなかったのではないか・・・などと心配になり、急いでご機嫌伺いのハガキを出しました。

 そうか ! 立場を逆にして考えれば、私が年賀状を今回無断でやめた事により、もしかすると、一部の方々に、私に何かあったのでは・・・と心配させてしまったかもしれません。  年賀状一つやめるにのも、なかなか厄介な事なのだと気づいた次第です。


今月のウォーキング。 寒い中、ようやく一日平均4千歩以上を確保できました。
127,361歩/31日=4,108.4歩/日でした。
2017年元日以降の総歩行距離は6192.2kmです。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました


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