私と家族の近況
私と家族の近況

*あしがらみち*

2004年 前半分:最新は6月度

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6月度(June 30, 2004)

 イラクも、日本の国会も、北朝鮮関係も問題山積で困難を極めているこの時期、 遊んでばかりいるようで ( いや、遊んでばかりいて、が正しい ) 本当に気が引けるのですが、 例年のならわしに従い、月の半分以上も南欧を一人でうろついていました。  主に南イタリアのナポリに腰を据え、そこのホテルに荷物を預けて近隣の町に出かけては戻るということを繰り返し、 重い荷物の負担を軽減するという 「 拠点方式 」 です。 3台のカメラを持ち込み、500枚ほどの写真を撮ってきました。  その内の8枚ほどをご笑覧下さい。

 寄る年波に勝てないのか、5月末から右ひざが痛くなり、医者に行っても格別の原因が分かりません。  平地を歩いたり階段を昇ったりは何ともないのですが、階段を降りるとき痛むのです。  今更予定のキャンセルも癪なので、イタリアには、湿布と鎮痛剤を持参しましたが、面倒臭いので使わず、 階段では手すりにつかまってビッコを引きながら、毎日、寺院や美術館をうろついていました。  こういう施設はどこも階段ばかりで、エレベーターもなく、バリアフリーでないことを痛感しました。

 ナポリでは、生れて初めて胡椒の木を見ました。 4mほどの樹に赤い実がなっていて、 チョッピリ感激しました。  レモンもたわわに実っていて、畑は45度以上もあろうかという急斜面に、千枚田のような形で山頂近くまで一面に続いており、 農民は結構勤勉らしいと感じました。

 今年も帰りの飛行機で白夜を見ました。 6月頃に欧州から午後発のフライトで帰るときは、左側の窓際の席が良いですよ。  地平線に沈もうとした真紅の太陽が、またそのまま上がってくる様は、やはり感動的です。

5月度(May 31, 2004)

 米国在住時代の1989年に、 アトランタの寿司屋のカウンターで私ども夫婦と隣同士に座ったのが縁で偶然知り合いになり、 以降親しい友人として付き合い続けているS子さん ( 5?歳 ) は、5年ほど前からハワイ島に住んで独りで働いていたのですが、 今度、地元の造園業社長の、何と40歳!の米人に見染められ、ラスヴェガスでめでたく結婚式を挙げました。

 私ども夫婦は、早速お祝いの品を持って、5月の9日から9日間、彼らを訪ねてきました。 カホルは空路長時間の海外旅行については、健康上の懸念があったのですが、幸い、両名とも無事に帰って来ました。

 ハワイ島だけではなく、途中、私たちだけで隣のマウイ島まで足を伸ばし、 時には連日、未知の悪路を160kmもドライブして秘境を訪ねたりもし、 私としては、72歳を目前にした自分の体力と集中力の限界を試すような旅でした。  そのため疲労困憊してしまい、せっかく予約したゴルフをキャンセルして静養していた日もありました。  もう若い頃のような無理はきかない体だと、改めて悟らされました。

 日本で航空券を買っておいたローカル航空便が前日突然運行中止になり、8年ぶりに、 錆付きかけていた英語を駆使?して電話を掛けまくって替わりのフライトを決める憂き目にも遭いましたが、 無事トラブルを乗り切ることも出来ました。

 前回 ( 2001年 )の旅 同様、宿は、日本人観光客がどっと押しかける豪華リゾートホテルは避け、 手ごろな値段で清潔なB&B ( ベッド・アンド・ブレクファスト* ) を、S子さんに探して貰いました。  ですから、マウイ島では、空港で借りたレンタカーに乗り、地図を頼りに、未知の道路を時には迷いながら運転し、  やっとの思いで宿にたどり着きました。   それはもう、あの50代の頃のような 「 楽しみな話 」 ではなく、私たちのような老夫婦にとっては、 とてもしんどい作業だと思い知らされました。

 こういう諸々の苦労を補って余りあったのが、息の止まるほど美しい秘境の絶景や、熱帯の花々でした。  撮りまくった写真の一部をとりあえずご紹介しますが、旅行中体験したり考えたりしたことなどは、 別のところに書きました

 帰国後数日したある日、年1回の人間ドックを受診しました。  昨年7月からの筋肉鍛錬の甲斐あってか、体重も体脂肪率もはっきりと減りました。 でも、身長が毎年数ミリずつ減ってきて、 若い頃よりついに1.5cmも低くなってしまっていることは残念です。  他のすべての検査結果にも異常はありませんでした。 胃の内視鏡検査では、女医が 「 若いきれいな胃ですね 」 と言いました。  歯科医には 「 毎日よく歯の手入れをしていますね 」 と褒められました。  私がハワイに行ってきたことを知るはずもないのに 「 この歯はいいですね 」 と彼は言いました。  これだけ歯と胃が良いから、消化吸収が良くすぐに太るのでしょうか・・・油断禁物 !!

*: ハワイ島のB&Bは、海抜700mくらいの涼しい森の中のコテージ2軒と、オーナーのご婦人が住む小さな家の他には、 1km四方、誰も住んでいないような、静か〜な場所でした。 時々野生の七面鳥が訪ねてきます。  挽きたての地元特産のKONAコーヒーを淹れ、彼女が前日冷蔵庫に入れておいた朝食を電子レンジで温めて、 ハワイ語で LANAI というベランダに出てゆっくり食べる静寂の朝食は本当に素敵でした。

4月度(Apr. 30, 2004)

 初旬のある日、車を飛ばして甲州の里に、有名な満開の桃の花を観に行きましたが、期待が大きすぎたためか、 まったく感動できませんでした。  狭い日本の宿命かとは思いますが、個々の桃畑は小さく、畑と畑の間には人家や電柱ほかのもろもろの人工物が雑然と存在しており、 どう視線を調節してもそれらが割り込んできて、美しい景色にならないのです。 写真を撮りたいという衝動が、 ほとんど起きませんでした。

 これは、私の住む土地の近くの有名なある梅林でも同様です。 右も左も見渡す限り一面の花、花、花ばかりなどという贅沢は、 北海道以外、この国ではしょせん無理な願いなのでしょうか。  アンダルシアの広大なひまわり畑の壮観さなどが、羨ましく思い出されます。

 カホルの所属している女声合唱団の2年に一度の定期公演も25日に無事成功裏に終わり、当家にみなぎっていた緊張感も解消しました。  来月はゆっくり出来ることでしょう。

 4月はイラクでの日本人拘束事件に明け暮れた月でした。 これについてはいろいろ調べましたし、書きたいことは山ほどあります。  実は、一つの非常に長〜い随想を1週間かけて25日に完成させたのですが、何回も読み直した後、考える所あって掲載はやめました。  この種の問題・・・政治や宗教がらみのホットな論争のさまざまな側面に、個人のホームページが深入りすると、 匿名の感情的な中傷や醜い妨害が、理不尽に投げつけられる事が多いからです。

 最近は匿名での議論、投書、書き込みばかりが横行しています。 ペンネーム、ハンドルネーム、ラジオネームなどと称して、 自分を隠して、安易に、時には無責任に、論理でなく感情に任せて意見を述べたてる人ばかり目につきます。 公共のメディアも、 なぜか急速にそういう 「 ネーム 」 での発言を許すように変ってきています(*)し、インターネットの世界に至っては、 もう 「 覆面で何でもあり 」 の百鬼夜行状態です。 身の危険があり得る内部告発などの場合以外は、皆が実名で、責任を持って、 堂々と意見を述べ合っても安心な世の中であって欲しいと、私は願っています。

(*): 私なんかの感覚ですと、本名以外にペンネームを持つ事を許されるのは、作家とか画家とかの 「 特別な人 」 が、 創作活動を行う時だけです。 身の回りの出来事について、自分にペンネームをつけて発言なんて、おこがましいし、照れくさくて・・・。

3月度(Mar. 31, 2004)

 
 当地のソメイヨシノも、今日 ( 31日 ) あたりで満開となりました。 早い早いと言われながら、結局、 例年とほとんど変わらない結果となりました。  ちょうど50年前、就職してこの地に移り住んだのが4月1日でしたが、そのとき道沿いの桜並木が満開だったことを憶えています。  ということは、最近ずいぶん暖冬化したとは言え、当地の桜の開花時期については、それほど大きな変化もないということでしょうか。

 今月は、多い日は1日に10通以上も、ウィルス入りのメールが来ました。 防御体勢は完全にしていますから、被害はありませんが、 煩わしいことです。 メールのプロパティ→詳細と調べて行くと、送信者の中には、私の知人友人も少なからずいるので、 注意してあげるのですが、最近のは、侵されているA氏のアドレス帳の中のB氏を送信者として、 C氏に送りつけると言う手の込んだものもあるようで、 この場合ですとB氏に警告しても 「 私は罹っていません 」 という返事となり、それ以上は迷宮入りになります。

 最近原油の価額が高止まっていて、ガソリンの価額上昇など、いろいろと問題が起きていますね。 その原因は中国の原油の輸入・消費の急増だと言われています。

 自慢するわけでは有りませんが、このことは、私が、ちょうど20年前に予告していたことです。 昨年も、この危惧について、改めて再度このホームページで触れ、 自動車メーカーたちの利益第一主義に対し注意を喚起しました。 当面の利益と市場確保に目がくらんで、 中国市場に従来型のガソリン車を売りつける競争に夢中になっている世界の各自動車メーカーの罪は、 近い将来、おおいに糾弾されることになるでしょう。

 春休みになったので、下旬のある日、小学校をこんど卒業した孫を連れて、新宿の末広亭に、久しぶりに行ってきました。  ウィークデイの昼席は、最初のうちこそ3分の1ほどの入りでしたが、夕方、終る頃にはほぼ満員になっていました。  私は、ときどき振り返って来客の客種に注目していましたが、春休みのせいか、20台の若い人たちも、結構きていました。  孫も、初めての世界が気に入って大いに喜んでいたようです。 私が若手の噺家だとばかり思っていた人たちが、 すでに中年や初老になっているのを見て、歳月の経過と自分の年齢とを改めに実感しました。

 3月が終わったと言うことは、1年の3分の1が終わったと言うことで、本当に早いものです。 このところ、毎日いくら運動しても、 筋肉ばかり付いて、体重は2カ月ほど横這いです。  2月に採血した血液検査の結果を先日聞いたら 「 何一つ悪い項目はない 」 と言われましたので、今後はこの状態、 この体重を保つと言う方針に切り替えることにしました。 やめていた酒も、週に1〜2回は復活しましょう。

2月度(Feb. 29, 2004)

 2月も終ろうとしています。 今年の2月は、29日までありましたが、日曜日が5回もあったんですね。 単純計算では、 こういうことは28年に1回しかないはずです。

   最近、不思議だと私が思っているのは 「 なぜ今年はSARSが流行らないのか? 」 ということです。  そう思いませんか? 去年の11月頃は、世界中の人たちが 「 今度の冬は去年のようなことがなければ良いが・・・ 」 と、 戦々恐々としていたのではないでしょうか。 今、鳥インフルエンザがアジア各国は勿論、日本でも大問題となっているのですが、 これがSARSの身代わりになってくれているかのようです。 でも、だれも 「 不思議だ 」 と言いませんね。 春も間近だというのに。  とにかく、まあ良かったと思います。 あと2カ月くらいで何ごともなく冬が終れば・・・と祈るばかりです。

 1月の手術の予後は、その後も順調そのもので、2月後半からは時々ですが酒も飲むし、いよいよ、3月1日からは、 ゴルフも再開します。 こうやってパソコンの前の椅子に何時間も坐り続けることもできるようになりました。  今年に限って特に面倒至極だった確定申告も済ませたし、私はついに 「 雌伏の1〜2月 」 から脱出できるわけです。  さっそく、カホルと一緒にハワイ島に住む友人を訪ねる計画を、インターネットの情報を探し求めながら、 コツコツと少しづつ考えています。 本当に行けるかどうか、その時にならないと分かりませんが・・・。

1月度(Jan. 31, 2004)

 1月14日、01年7月の参院選の定数配分 ( 一票の格差 ) が、違憲かどうかについて、最高裁が判決を下しました。  今回も、5.06倍もの格差は合憲とされてしまいましたが、裁判官15人中6人は違憲との反対意見を述べました。  従来の判決と画期的に違う点は、 合憲と判断した9人の裁判官のうち4人が 「 次回選挙も現状が漫然と維持されるなら、 違憲の余地が十分にある 」 と厳しく指摘したことです。

 違憲とした6人のうちに裁判官出身者が1名いること、また上記の4人の中に、検察官出身者2名が含まれていることも、 共に初めてのことです。 「 裁判官出身者と検察官出身者は合憲派 」 という珍妙で怪しからん図式が、今回ようやく崩れた事は、 私も微力ながら取り組んできた 「 一票の格差 」 解消に向けての運動にとって、一つの前進だったと思います。  詳しくは、ここをご覧下さい

 先月書いたことですが、正月早々、群馬県の疎開先の小学校の同級生たち10人と、地元の温泉に2泊の旅をしてきました。  ちょうど60年ぶりに会った人たちが殆どでしたが、会ったとたん、空白の時間は瞬時に消えさり、 半世紀以上前にタイムスリップしたような、不思議な感覚に没入してしまいました。 周囲一面、白銀の世界。 楽しい旅行でした。

 帰った翌々日には、いつもの仲間たちと 「 川越の七福神詣で 」 のウォーキングに参加し、その後すぐに、 昨年から予約してあった痔の手術のため、1週間の入院をしました。

 親に頑健な肉体を貰ったお蔭で、この歳まで、病気らしい病気もせず、 入院も手術も一度も経験したことがない私でした ( そう言えば、この5年ほど、風邪一つひいていない! )。  そういう私ですから、今、さしあたって日常何の不都合もない部分を、入院までしてわざわざ手術してもらう必要があるのか???と、 生まれて初めての手術への恐怖感も手伝い、直前までおおいに迷いました。

 でも、ふだんは痛くも痒くもないのに、年に1〜2回、とくに海外旅行の時などに痛くなる・・・つまり、 精神的肉体的にひどく疲れると発症するこの部分を完治しておくタイミングとしては、 これ以上老いる前の今しかないだろうと、あえて決心したわけです。

 それにしても、医術の進歩には驚嘆するばかりです。  30分ほどの手術は、腹這いの私がボンヤリと室内を眺めているうちに、 毛ほどの痛みもなく完了しました。その後1週間の入院中も、痛みは軽く、ベッドで読書三昧。  便通の際も、一度も1滴の血も出ませんでした。

 もっとも、周りの患者たちのおしゃべりを聞いていると、悪化させてしまった人の中には、 手術後ずいぶんつらい思いをしている人も、沢山いたようです。  何より驚いたのは、入院患者の半数が女性で、しかもとても若い人たちが多かったことでした。

 手術後は、毎朝、10人ほどいる医師のうちの誰かの診察を受けます。 たまたま3日目は、 私の体から梅干のタネほどの肉塊二つを切り取って、手術後 「 ホラ 」 と見せてくれた、あの若い医師が診ることになりました。  診察後、彼は手術のでき栄えと予後の経過に大変満足したらしく 「 熊井さん、自画自賛という言われるかも知れないけれど、 とても良く出来ましたよ 」 と言いいました。 私は 「 どうも有難うございました 」 と礼を述べて早々に診察室を出たのですが、 自室に戻ってから、あれは 「 賛 」 という しゃれ のつもりだったのかと気付きました ( 相変わらずニブい! )。  そうか。 ではこの手術は彼のケツ作の一つだったというわけですか・・・。  せっかくおシリ合いになった彼には、残念ながらその後は診て頂く機会がないまま、 7日目に目出たく無退院となりました。

 退院後3日目 ( 手術後10日目 ) には、もう、一人で片道2時間、電車を2度も乗り換えて診察を受けに行くことが出来るほどでした。  やれやれ・・・でも良かった! これでもう、この部分については老後の心配はしなくて済むことでしょう ( もうすでに老後ですが )。  

 入院中は、1日に1,800kcalという、食物繊維主体の軽い食事だったので、ほとんど運動もしていなかったのに ( 出来るわけない )、帰宅後体重を計ったら、1週間でなんと2kg近く減っていました!  その後も現在までリバウンドせず、予期せぬ副産物を頂きました。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました

この先です。