私と家族の近況
私と家族の近況

*あしがらみち*

2005年 前半分:最新は6月度

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6月度(June 30, 2005)

 今年もそうでしたが、毎年5、6月頃、私は欧州に2週間ほどの個人旅行に出かけます。   「 以前は帰国後この欄にどんな感想を書いたっけ 」 と、さかのぼって4年分、6月度の記録を読み直してみましたが、 自分で意識して書かないようにしていたこともあり、ほとんど何も書いていません。

 今回は、別のページを作って、感想と短い記録を書いて見ましたので、 ここに書くことはもうほとんどありませんが、ユーロへの切り替えのためかどうか、イタリアの物価が全体に上がっているらしいことと、 とくにレストランの料理が、以前より値段が高くなっているくせに、 調理の質が低下したところが多いのではないかという疑念を持ったことだけは書いておきたいと思います。

 とにかく旅行者が年々増え続けているためでしょうか、ちょっと有名な店はどこもかしこも混雑していて、 調理スタッフの手が回りきらないというか 「 手抜き? 」 が起きているというか・・・。  今回も事前に手を尽くして情報を集め、費用も時間も惜しまず?あちこち予約して訪れて回ったのに、 前菜からデザートまで、そして一皿の隅から隅まですべて ( これが極めて大切 ) 「 美味い! 」 と感じさせてくれたのは、 イタリアで一番の 「 美食の町 」 として知られるボローニャでの3軒訪問中1軒だけでした ( 他の2軒は中田英寿選手の ( 在住当時の ) ホームページにも出ていた上等の店と気の置けない良い店各1軒ですが、まあ、 どちらもせいぜい80点でしょうか・・・。

 とにかく、無理してボローニャに3晩泊ったおかげで上記の素敵な店と、一期一会できました )。  いつもそうですが、この店も、勿論、代表的な2冊の日本のガイドブックには名前は出ておらず、 現地のホテルのフロントで聞き出した店です。 帰国後、Googleに名前を入れたら、 ある日本人が是非行けと褒めている記事が、一つだけ出できました。

 まあ、こんな話は、関係ない人にはつまらないだけでしょうから止めますが、そういうことでした。  以前から感じていることですけれど、今回も帰国後の時差ボケがなかなか直らず、本当に苦労しました。  この時差ボケについては、私の個人的経験からは、65歳までは、ほとんど問題ではなく、地球の裏側から戻ってきても、 翌日から普通に働けました。 しかしそれから10年も経っていないのに、今は薬をのまなければどうしても眠れないとか、 翌朝起きた後もなんとも言えない倦怠感があるとかの症状が、2週間半でやっと治ったという有様です。  時差ボケ解消に最適といわれるゴルフをやってみても、なおさら疲れてしまい、翌朝は起き上がれないという始末です。

 こういうわけで6月は前半は日本に居ず、後の半分はくたびれ果てていたというのが、お粗末ですが今月の近況です。

 
5月度(May 27, 2005)

 年1回の人間ドックを受ける月となりました。 幸い、今年も大きな問題はありませんでした。  胃カメラの検査では、昨年は男の医師が 「 この胃袋は30歳代だな 」 と言いましたが、 今年は女の医師が 「 若いきれいな胃ですね〜 」 と言っていました ( だから私は幾らでも飲み食いできて、 油断するとすぐに肥ってしまうのです )。

 2年前の 「 原則禁酒+節食+毎日の運動 」 開始以来、体重も体脂肪率 ( 現在20% ) も年ごとに順調に減ってきましたし、 そのためと思いますが、一部の部位が年齢相応に老化している他は、からだ中悪い所がほとんどなくなりました。  明日はどうなるか分からないとは言え、取りあえず、ありがたいことだと感謝しています。  残り少ない人生でもあり、あまりに禁欲節制ばかりしていたのでは死の直前に後悔するのではないかと考え、 2年ぶりに少量の晩酌を再開しようかとも考えています。 もちろん、節食と毎日の筋トレ、ストレッチ、ウォーキング等は続行します。

 下旬には一人の中国人の青年が当家を訪ねて来ました。 妻、長男、孫などと共に一家で歓迎し、 いろいろと面白い会話をすることが出来ました。 彼は、私の小学校の同級生で関西在住での I さんが、 母親代わりになって親身に世話をしてきたアジア諸国からの留学生たちの一人です。  中国の高校で3年間日本語を学んだ後、9年前、( 中国の大学は受けず ) 直接大阪大学を受験、合格して来日し、 卒業後は東京に移って某大企業の正社員に採用され、現在、技術者として働いている秀才です。

 自分のことを考えると、中学以来8年間熱心に英語を学び、その後何十年も毎日のように仕事で使い続け、 しかも8年間米国に駐在までしたのに、彼の流暢な日本語ほどには上手に英語が使えません。  よく言われることですが、私ども日本人の他言語習得速度はなぜこのように遅いのか、いつものことですが、 今回もおおいに考えさせられました。

 I さんは本当に立派な方で、中国、韓国、東南アジア諸国などからの ( 主に私費の ) 貧しい留学生たちを、 時には叱ったりもしながら、次から次へと熱心に世話し、皆から 「 お母さん 」 と呼ばれ慕われています。  私もそのうちの数人を紹介されていますが、彼らも立派です。  皆非常に能力が高く、日本の一流国立大学や大学院に実力で合格した後も、経済的にたいへん苦しい中、 一心不乱に勉強もしており、今どきの日本人の大学生たちとはずいぶん違う感じだということです。  東南アジアからの留学生たちの中には本国に帰るなり、若くして枢要の地位について活躍している人たちもいるとか。  ちょうど、明治維新直後に日本政府から欧米に派遣された若き俊秀たちのように思えます。

4月度(Apr.30, 2005)

 今年は、小学校卒業60周年、大学卒業50周年 ( ということは、入社50周年でもある ) ということで4月には一泊の 「 同期会 」 が2回もあり、 6月にも1回が予定されています。  「 半世紀 」 という恐ろしい言葉に、ある種の衝撃を感じながら、 それでも健康で生きていられることに感謝して参加しました。

 関西に住む人もいるというので、4年に1回は京都で開かれる会に、まず参加し、懐かしい旧友たちと比叡山や南禅寺周辺で二日間の散策を楽しみ、 折りしも満開の桜を堪能してきました。 その後、折角高い旅費を払ったのだから、一泊で帰ってはもったいないと、気の合った友人と共に、 更に醍醐寺や伏見の方を歩き回り、上等の京料理も味わわせて頂き、翌日からは更に足を伸ばして淡路島から鳴門の方に行きました。

 淡路島では、かつての 「 花博 」 のとき作られたいくつかの公園や植物園の花が見ごろで、 それは美しいことでした。 特に県立の 「 奇跡の星の植物館 」 は、これをデザインし維持している人たちのセンスと、 葉っぱ1枚おろそかにしない丹念さとに ( こういう対象に対しては滅多にないことですが ) 感動を受けました。  鳴門では大塚国際美術館に行きました。 3回目の訪問となりますが、これについては、別の項に書きました

 帰ってきたら、今度は自分が幹事長になっている同期会が熱海で開催です。 これもまずまず無事に終わり、次に控えていたのが、 5月の運転免許更新を控えた高齢者の講習というやつでした。 近くの自動車学校に行き、3時間のお勤めをしてきました。  しかし残念ながら、一体この講習は何のためにあるのか、結局分からないままでした。

 どうも、「 運転不適格なほど心身が衰えた人を見つけて選別排除する 」 のが目的ではなさそうです。  名前を大声で何度も呼ばれても返事がない人が一人いました。  「 どこへ行ったのだろう 」 と何人もの人がトイレや休憩室に探しに行ったりの騒ぎになりましたが、結局いないので、残りの人だけで始めようとしたら、 妙なことに、頭数はちゃんと合っているのです。 初めから私の隣に座ったきりの人に 「 あなたは誰ですか 」 と聞いたら、なんとその人だったのですね。

 おそらく聴力か 「 認知 」 力に相当な低下が起きている方だと思います。  それで、その人は駄目かと思ったら、最後にちゃんと修了証書を貰うんですね。  これは実に恐ろしいことだと思いました。 杖をついてやっと歩き、皆が行う運転実技を辞退した人も貰いました。  どうも 「 一時的な衰弱もあるだろうから一応注意だけは与えます。 自分が運転者として不適かどうかは、テスト結果を見て自分で考えて決めなさい。  あとは自己責任ですよ 」 という事のようです。 人権尊重なのでしょうか、それとも責任逃れなのでしょうか???

 私は幸い、夜間視力や動体視力の関係は70歳代としては優れており、30歳〜59歳の人の平均値程度。  とっさの反射や反応、状況対応などは、30歳〜59歳の人の平均と比べてもおおいに優れているとの事で、 試験官たちが 「 こんな高得点の人今までいたか? 」、 「 若い人でも、これよりだいぶ低いよね 」 などと話していました。 慢心、油断をしなければ、まだしばらくは運転できそうです。

3月度(Mar.31, 2005)

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  「 死ぬ前に一度は腹いっぱい食べてみたいね 」 と日ごろ話し合っていた、山陰の松葉ガニを食べに、 3月1日、カホルと二人で兵庫県の香住町というところまで行ってきました。  昨年の度重なる台風に、日ごろの手入れの不足も手伝ってか、 山陰線の沿線の山々の杉林は、それはもう、惨状としか言いようのない荒れようで、すっかり考えさせられました。

 でも、車内の高校生たちは、電車の中でも多くが参考書に読みふけっているし、何よりも、表情や話し方、話の内容、そして眼の色というか、 輝きが素敵で、それは、カホルも直ぐに気がついて、「 ああ、まだここにはこういう青年たちが住んで生きているんだね 」 と話し合いました。  ホッとするような安堵感がありました。

 そういえば、1980年代までは、私の家の傍の私鉄の中でも、朝晩、高校生たちは教科書や参考書を手に勉強していました。 しかし最近は、 もう、そういう青年たちはほとんどいません。 携帯をまさぐるか、マンガを読みふけるか、お化粧に余念がないか・・・。  何でこんなに変ってしまったのだろうと、つくづく考えさせられます。

 話がまだ脱線しましたが、「 山陰本線 」 とは言っても、 単線にワンマンの2両連結が1時間に1〜2本、ドアもいまどき手で開閉です。  ボンヤリドアが開くのを待っていたら、危うく降りそこなうところでした。 もちろん、駅は半分くらいは無人で、その気になれば 「 ただ乗り 」 自由です。

 今も1年に1度は会う、大学時代の旧友K君・・・ 昭和30年の春、島根県の浜田市から上京してきた彼は、新幹線どころかジーゼルもない頃、一体、何時間掛けて東京までたどり着き、 また帰省したのだろうと、そういう苦労を全く思いやれなかった当時のノーテンキな自分が恥ずかしくなりました。

 本題のカニですが、これはもう、写真を見ていただくしかありません。 生で、茹でて、焼いて、シャブシャブで、二人で4匹は食べたでしょうか。  カニについてだけは、もう思い残すことなく死ねます。  せっかく電車賃を使ったのだからと、帰りに京都に一泊し、北の方の三千院のあたりと、南の宇治の周辺を見てきました。  花のシーズンにはひと月ほど早いので、どこも空いていましたが、少々淋しい景色でした。

 帰ってきたら、よせば良いのに気軽に引き受けてしまった翻訳の仕事が待ち受けていました。  環境中の金属が動植物や人間にどう吸収され影響を与えて行くかという問題の過去、現状と今後の課題についての米国環境庁への答申書で、 100ページほどの物。 内容も難しいが、口述筆記をまとめたのではないかと思える文体で、文法や綴りの間違いも多く往生しました。  毎日8〜10時間、食事とトイレ、時々の柔軟体操や散歩以外はパソコンの前に座り続けというのは、この年齢にしてはきついことでしたが、 錆付きかけた脳みその鍛錬にはなりました。 内容の理解のため図書館にも4日通い、結局、25日かかって29日に完了しました。


 脳みそも錆付きかけていますが、自分でも驚いたのは老化に因ると思われる指先の指紋の摩滅でした。  滑ってしまい、辞書や参考書のページが以前のように迅速にはめくれないのです。 誰かさんではないが 「 ジッと手を見る 」 と、 本当に指紋が殆どないのですね。  そうかと言って図書館で指にツバをつけるのも汚いし、仕方なくイボイボの付いたゴムの指サックを持参して仕事をしました。

 自宅では? 英和辞典は 英辞郎 on the web が一番ですね。  収録語数も岩波やウェブスターの大きな辞書より、実質的には多いでしょう。  熟語も豊富で、特に技術系の専門用語もたくさん載っており、大変便利です。 これを画面に出して仕事をすれば、 手で辞書をめくるより半分以下の時間で目的の訳語を探せます。 これが無料だって所が凄い。

 さて、あと何ヶ月生きられるか分からないのこの人生、1ヶ月殆ど何もしないで机に向い続けたことが、果たしてプラスだったのかマイナスだったのか、 分かりませんが、最近にしては異常な1ヶ月でした。 また筋肉のトレーニングを始めなくては・・・。

2月度(Feb.28, 2005)

 カホルは、このところ、ボケ防止のために、何かのドリルのような本を買ってきて、毎日、計算や音読を一生懸命やっています。  私も何かしないといけないかなと考えていたら 「 英語の技術文献を翻訳してくれますか 」 という話が来たので、 「 やってみようか 」 という気になりました。 持ち込まれた100ページほどの文献を見ると、私が今までほとんど聞いたこともないような分野のもので、 何のことだか全く分からない述語ばかりの連続攻撃。

 その時ふと、ちょうど50年前の今頃、大学を卒業する直前、恩師のM教授が、私たちにこうおっしゃったのを思い出しました。  「 君たちが会社に入ったら、習ったことも聞いたことも無いような仕事を命じられることがある。 そのとき 『 そんなことは習いませんでした 』 なんて、決して言ってはならない。 喜んで引き受けてやり遂げなさい 」

 親の恩と同じで、恩師というものは、ありがたいものと、今頃改めて気がつきます。 実社会では当たり前のことで、 事実、私の会社生活も終始その連続でしたが・・・。  これから3週間ほど、初心に帰って錆びかけた脳みそに働いてもらいましょう。

 卒業50周年ということで、その頃の級友たちとの同期会を4月に行うことになり、その幹事長も引き受けました。  心身ともに健康である幸せの恩返しという感じです。


    朝起きて二階の寝室の雨戸を開けると、遠くの山なみが一面銀世界になっている日が、2月には何日もありました ( 写真に撮ると、銀世界というほど白く写らないのが不思議です。 心理的なものもあるようです )。  そして着替えをし、顔を洗って鏡を見ると、今度は、自分の髪が白くなったことを、改めて意識します。

 余談ですが、日本では 「 白髪 ( しらが )」 というので、英語を話すとき、白髪のことを、私は white hair と口にすることが多く、もちろん、 これは正しいのですが、友人の米人たちは、なぜか皆 silver hair、つまり銀髪と言う事の方が多かったようです ( gray hair は白髪混じりの半白です )。

 所が、一面の雪景色のことを、最初に書いたように、日本人は白景色なんて言わず、 「 銀世界 」 と言うのに、英語では、White Christmas という言葉でも分かるように、white という字を使うようです。 髪の毛のときと逆です。  white には 「 一面に雪が積もった 」 という意味があります。

 white という字を手許の小さな辞書で引くと、1) 白い、2) ( 顔色が ) 蒼白い、3) 白人の、4) 潔白な、公正な、 5) 雪の積もったとあり、上記の意味は5番目に出てきます。 ところで、反対の black はどうでしょうか。  1) 黒い、2) 真っ暗な、3) 黒人の、4) 汚れた、5) 不吉な、6) 邪悪な、腹黒いという順に書いてあります。

 脱線のついでに・・・ついこの間までは、米国では黒人のことを black と言うのが普通でした。  最近は African American と言うのが、穏当のようです。 でも、50年ほど前は、negro と言っていましたし、その他にも、ここには書けないようなさまざまなひどい差別語が、 多くの白人たちにより、長いこと、入れ替わり立ちかわり日常的に使われてきました。

 「 差別語 」 が 「 非差別語 」 に置き換えられ、その非差別語が、 次第に差別的な意味合いをもって使われるようになると、次の 「 非差別語 」 が作られ・・・という歴史は、 米国だけではなく、この日本でも繰り返されてきました。  「 めくら 」 が 「 盲人 」 になり、「 盲人 」 が 「 視覚障害者 」 になりました。 でも、何遍言葉だけ変えても、 人々の意識が改まらなければダメでしょう。 意識が言葉の意味を変え、逆に言葉が意識のあり方を変えるからです。

 白人は white であり、white には潔白で公正という意味があります。 黒人は black であり、 black には暗黒で汚れていて腹黒いという意味があります。  だから、英語で育ち英語を話し、黒人と白人とが混在して暮らしている米国社会に住む人たちの意識の中には、 公民権法が確立した現在でも、( 白人の ) 優越感や ( 黒人の ) 劣等感が無意識のうちに、自然に育ってしまう土壌があるのではないかと、 私は、在米中考えた事がありました ( 日本語でも 「 潔白 」、「 腹黒い 」、「 黒白をつける 」 などと言いますので、同じ土壌があります)。

 おかしな不合理な話ではありますが、人間だけでなく何事も白いということは 「 トク 」 だし、 黒いということは 「 ソン 」 なのかもしれません。 鶴は愛され、カラスは嫌われます ( これは違うかな? )。  と考えているうちに、いや、白より黒の方が優位なものがあると気づきました。 この話の発端だった髪の毛です。

 話を戻して・・・一面の銀世界も、1000m程度の低い山では、暖かい初春の陽射しに会えば、ホンの数時間の命です。  正午ころには、もう黒々とした山肌が現れてきます。 自然の中では、白も黒も差別なく平等に共存しています。

1月度(Feb.1, 2005)

 また、一つの新しい年が始まりました。 8日には、いつもの仲間たちと、谷中の七福神詣でに参加し、新春の下町を歩いてきました。  どこの寺も、私たちと同じ年頃の爺さん婆さんで溢れていました。

 月の半ば、某銀行が外国人の アナリストたちを招聘して、2005年の米国経済の動向について講演をするから聞きに来ないかと誘われ、 ある一日、わざわざ東京まで出かけて行きました。  時間と電車賃に見合うほどの有益な情報は得られないだろうと予想していたし、事実その通りでしたが、 私はどうせ暇な人間だし、一種の刺激になるだろうと思って出かけたので、その点は構いません。

 一番ショックだったのは、彼の話す英語が3分の2くらいしかわからなかったことでした。 話の内容なんて、専門用語も少なく、 大して難しいものではなかったのに、一区切りごとに後から話す通訳の日本語を、毎回確認しなくてはなりませんでした。

 こんなことは、米国から帰ってからも体験しなかった事で、以前は、少なくとも90%はリアルタイムに聞き取れ理解できていました。  よほど訛りのある人とか、高邁難解な議論でもなければ、通訳なんて不要でした。 英語を聞いたり話したりする機会が減ってくると、 こうも能力は衰えるのかとがっかりしましたが、そのうち、そうではないのだということに気がついてきました。

 それは実は、私の聴力の問題だったのです。 特に、子音が聞き分けられず、似た単語の区別ができないからだと気がついたのです。  そういえば、家で妻と話をしていても、最近はしょっちゅう聞き間違えたり、尋ねなおしたりします。  それと同じことが起きていたのです。  日本語だと、それでも前後の関係で想像し、補って理解しているらしいのですが、英語だとそうは行かなかったのです。

 単に英語が聞き取れなくなっただけなら、英語を使うことの少ない最近の環境のせいに出来ますから、それほどの落胆はしません。  しかし、聴力が衰えたので細かい音の差異が聞き分けられなくなったためだと分かったときは、相当なショックでした。  毎年春の人間ドックの結果でも、高周波の音に対する聴力が少しづつ衰えてきています。  このため、音の似た異なる子音の区別が付きにくくなっていたのでした。 落胆のあまり、その夜はよく眠れませんでした。  そのうちに、補聴器をつけないと日本語も分からなくなってしまうのでしょうか。

 月末に同窓生の例月の集まりがあり、横浜に出かけたときのことです。 午後の3時半頃、繁華街を歩いていると、 小学校の上級生でしょうか、皆150cmくらいの5人の少年組の1人が、私の目の前で、反対側から歩いてきた制服の同年輩の少年に、 いきなりわざとぶつかり 「 なぜぶつかって謝まらねえんだよう 」 と言って、腕を捕らえて細いわき道に引きずり込もうとしました。  他の4人も彼を取り囲みました。

 そこで、すぐそばに居た私は立ち止まり、振り返って、わざとぶつかった少年の顔を黙って見つめました。  すると、彼は気がついて 「 何かいけないですか? 」 と意外に丁寧な言葉で、しかし、睨み返してきました。  他の4人も皆私のほうを見ました。 私はそれでも黙って私は彼の顔を見つめ続けました。  結局、彼らはひるんだのか、制服の少年の腕を離し、彼は大急ぎで、もと来た道を逃げ去って行きました。

 私がそのまま立ち去ろうとすると、彼らのうち2,3人は、私に向ってこようとしましたが、又立ち止まって黙って顔を見つめたら、 あきらめてそのまま去って行きました。( 私の人相は、相当悪いのでしょうか? )

 私も、あれがもし、夜の暗い道で、少年たちが屈強な高校生だったりでもしたら、あんなことは出来なかったでしょう。  でも、小学生(?)だし、真っ昼間で、雑踏というほどではないが通行人が何十人もそばを歩いていたから、あのように出来たのです。

 でも、大変な世の中になったものです。 身なりも顔つきも全く普通の小学生(?)たちが、真っ昼間徒党を組み、 人通りの多い繁華街で、因縁をつけるようにわざと人にぶつかり、( 多分 ) 金品を巻き上げようとしていたのです。  今思い出しても暗い気持になる出来事でした。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました

この先です。