私と家族の近況



*あしがらみち*

2014年 後半分:最新は12月度


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12月度 (Dec. 30. 2014)

 カホルが声楽を習っている先生の一門の発表会が13日にありました。 毎年12月に行われるのですが、来年はもう傘寿なので、人さまの前で独唱を披露するのは、 今年が最後かもしれません。 ということで、練習を重ね、体調維持に努め、当日を迎え、歌うことができました。


弁解: 暗い会場なのにストロボは使えず、1/8秒露光なので三脚を用いてもこの画質がやっと

 遂に2014年も終わりました。 今年は多くの親しい同窓生たち ( つまり私とほとんど同じ年齢の人たち ) が体調を崩して 「 同期会に元気な姿を見せていただけない境遇 」 になってしまいました。 近年では珍しいことに、親しい同期生たちの中には亡くなった方が一人もいなかった事が、不幸中の幸いです。

では 「 皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください! 」


御殿場市郊外で撮ったダイアモンド逆さ富士と自宅近くの里山に困難な環境を乗り越えて咲いた絶滅危惧種のキンラン


11月度 (Nov. 30. 2014)

 今月も学生時代の同期会が2つと、会社勤務時代の旧友の集まりが2つありました。 お蔭で、この田舎から、重い腰を上げて、東京や横浜の空気を吸いに3回も出かけることができました。  その合間を縫って、20、21の両日、京都市東山の 永観堂( 禅林寺 ) の見事な紅葉を観に行ってきました。  以前、TVで放映されているのを見て、是非一度と考えていたお寺です。 ついでに、他の三つのお寺も訪れ、京の紅葉を鑑賞してきました。  幸い2日とも快晴に恵まれ、平日だったので週末にはつきものの 「 前に進めない程の雑踏 」 には遭わずに済みました。  世界中から沢山の観光客が来ていました。 下の写真以外の13枚はここでご覧ください


 平成12年 ( もう14年前になるのか! ) の創立以来ずっと「 一票の格差を考える会 」 の事務局長を務めてきた私としては是非ひとこと・・・11月26日、 最高裁大法廷は一票の格差が最大4.77倍だった平成24年7月の参院選に関しての二つの弁護士グループからの訴訟の上告審で、「 違憲状態 」 と判決を下しました。  ただし 「 この参院選挙自体が違憲で無効だ 」 とのの訴えは退けました。

 注目すべきは、裁判官15名の内11名が 「 違憲状態 」、4名が更に厳しく 「 違憲 」 と判断し、「 合憲 」 と判断した裁判官が一人もいなかったこと、 また15名中1人が 「 一部の選挙区での選挙は違憲で無効である 」 との少数意見を示したことです。  十数年前、当会の設立当時の最高裁の判決 ( 平成12年9月6日 ) では今回よりむしろ大きい参院選の格差 ( 4.93倍 ) に対しても、 15人中10人の裁判官が 「 合憲 」 と判断しました ( したがって、多数決のため判決は 「 合憲 」 )。  それから9年も経った ( 参院選は3年ごと ) 平成21年9月30日の最高裁判決でも状況は変わらず、やはり10対5で 「 合憲 」 と判決されました。 ですから、その後 最近5年ほどの間に最高裁裁判官たちの頭の中に大きな変化、前進が生じたことが分かります。  多くの同じこころざしのグループの一角に伍して地道に戦い続けてきた甲斐がありました!!

 

 あとひと息・・・いや、どの政党や国会議員たちにとっても、民主主義の大前提である 「 選挙権の公正さ 」 より 「 自分の当落、利害 」 の方がずっと大事らしいので、 区割りや定員の抜本的改善まではまだまだ先が長い・・・「 あとふた息 」?です。  今回の判決で、衆・参両院選挙が4回連続で 「 違憲状態 」 と判決されたことになりました。

 何と早い事でしょうか。 ついこの間やったばかりと思えるお正月が、あとひと月でまたやってきます。 できるだげメールで済ますことにして毎年減らしてきてはいるものの、 ( メールをやらない人もいるので ) ハガキを完全にやめることも出来ずにいる年賀状、孫たちが大変よく手伝ってくれるようにはなったけれど、それでも 「 しんどい 」 ことこの上ない大掃除、 遂に一昨年から一部は既製品を買ってくるように妥協せざるを得なくなった 「 おせち 」 料理作り ( これはカホルの仕事ですが )・・・でも、 それらを自分の頭と手足を使ってやることが出来るだけ、まだまだ有難い幸せな境遇なのだと考え、頑張ってやることにしましょう。

 
もう5年ほど、起床直後の体重を毎朝測っています。
ダイエットと運動の甲斐あって、(昨年の11月30日の体重)ー(今年の11月30日の体重)=1.8kg!!!
ベルトの穴が2つ内側になって、ようやく努力の結果が実ってきました。

 
では、ちょっと早いけれど、「 皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください! 」

10月度 (Oct. 31. 2014)

 秋田県の内陸北部の山地、田沢湖線の角館駅と奥羽本線の鷹ノ巣駅との間 ( 94.2km ) を南北に結んで約2時間半もかけて走る秋田内陸縦貫鉄道( 愛称はあきた美人ライン ) 」 というローカル線に、 一度は乗ってみたいと、以前から想い続けていました。( 右に路線図 )

 一日にたった十数往復 ( つまり1〜2時間に1本 )、1両か2両編成のかわいらしい気動車 ( ディーゼル ) が、次から次へと現れる高い鉄橋や、長いトンネルを通り抜けながら、 秘境伝いに 「 けなげに 」 走っています。

 駅名や地名には、北海道のように、アイヌの言葉がいくつも残っています。  たとえば、笑内駅 ( おかしないえき ) の駅名の由来はアイヌ語の 「 オ・カシ・ナイ 」 ( 川下に小屋のある川 ) だそうです。

 渓谷に映える秋の紅葉は素晴らしいと聞いたので、見ごろと言われる10月下旬、千数百mの山頂では雪が降り始めていましたが、念願かなって2泊3日の短い旅に出かけました。  沿線の景観と紅葉は聞きしに勝る見事なものでした ( 下に写真2枚 )。

 沿線はまた、「 マタギ 」( 東北地方や北海道で古い方法を用いて集団で狩猟を行う人たち ) の本場とも言われる秘境中の秘境です。  そのせいで、多くの宿では夕食に 「 熊鍋 」 が出て来ます。 ネットでは美味しいと絶賛されていましたが、赤身はまずまずだったものの、 脂身は私には臭くて食べられませんでした。


 この地域には、秘湯としか表現できないひっそりとした素朴な温泉宿が山奥にポツンと在るかと思うと、スキー客用のしゃれた可愛いいペンションも幾つかあります。  とにかく、本州にもまだこんな地域が残っているんだと、嬉しくなった旅でした。

 こんな素晴らしい地方にとって大切な 「 足 」 である鉄道なのに、赤字のため毎年のように 「 廃線 」 の噂が出ると聞きました。  そんなことが決してあってはならないと考え、微力ながらこの鉄道会社に少々の寄付をしたら、私たちには1日だけ、「 車両のオーナー 」 の称号が与えられました 。 この車両は、この日全線を一往復半走りますが、その間じゅう、このマークをつけて走るのです。  私たちは照れくさいので断りましたが、希望すれば寄付者 ( 社 ) の名を車内放送で紹介もするとのことでした。


車両先頭のヘッドマーク下部に「 紅葉の絶景を訪ねて 章&カホル号 」

 でも驚きました。 こんな秘境を走る小さな電車にまで、多くの中国人旅行者が乗り込んで来ているのです! 1両に満席の乗客の何と半数以上が中国人旅行者たちでした!  それも一つではなく幾つかのグループからなる別々の団体で、それぞれ違う駅で降りてゆきました。 車内放送も日・英・韓・中の4か国語でした。

はるか先の方にはトンネルの入口が見える

高い鉄橋のはるか下の川の水は澄んでいて川底の石まで良く見える。

 今月、小学校と高校の同期会が東京であり、出席してきました。 高校の同期生の45%がすでに亡くなり、残りの半分近くが体調を崩しています。  元気に出席出来たことは、大変な幸せと言うべきでしょう。  小学校は、卒業が太平洋戦争敗戦の直前 ( 昭和20年3月 ) で、当日朝の空襲警報発令のため、卒業式は突然中止となり、 その後の混乱で学籍簿すら残っていないという唯一の学年でした。

、有志たちが手分けして、ちりぢりに離散していた同級生たちを漸く半数ほど探し出し、中野区の特別の計らいで、平成7年3月23日に、62歳の同期生たちが卒業50年後に 母校に集まって卒業式をしてもらい、自分たちより若い校長先生から国民学校 ( 当時の小学校 ) の修了証書を頂いたという 「 曰くつき 」 の学年です。  その後更に20年、高齢化には勝てず、今回を最後に、毎年開催されてきた同期会はもう行われない事になりました。

9月度 (Sept. 30. 2014)

 9月も、先月同様、あまり出歩かず、前半はじっと家にこもって昼間は暑さを避けるばかりの毎日でした。 勿論、夕方涼しくなってから以降のウォーキング ( >5000歩 and/or >40分 ) だけは毎日欠かさずに実行しました。 そうこうしているうちに、「 暑さ寒さも・・・ 」 と昔から言いなわされているように、 お彼岸頃からは暑さも急に減ってきて、昼間歩けるようになりました。 自宅の周りには、例年のように、彼岸花がまるで暦を測っているかのように、 20日頃から一斉に深紅の花を咲かせました。


いつもは横から撮っているので、今回は真上から撮ってみましたが、面白くありませんね。

 ハクビシンが裏庭に毎晩やってきて、きまった場所に糞をするという 「 事件 」 が発生し、 今月はその対策で何日も翻弄されてしまいました ( 最初は放し飼いの犬の糞かと思っていました )。 「 ハクビシンが庭に出没するなんて、 さすがに田舎住まいだね 」 と冷やかされそうですが、東京23区内にも1000頭以上生息しているとのことですから、別に珍しい話ではありません。  詳細は略しますが、ネットの厖大な情報を頼りに、あの手この手と毎日工夫して対策を講じ、5千円以上を投じて一週間ほどでようやく庭に入りこまないようにすることができました。  捕獲や補殺には正式の届け出と許可が必要なのだそうで、当面は追い払う事しかできないのです。

 高齢化するにつれて、子供たちや孫たち ( 計8名 ) の誕生日ごとに 「 忘れずに、それぞれの喜ぶようなお祝いを考え、選んで買ってあげる 」 のが面倒になってきたので、 全員の誕生祝いを誕生日に関係なく、年に一度一斉に行うことにし、全員を箱根の旅館に招いて夕食会をします。 9月生まれが多いので、9月にやってきたのですが、 このやり方は実は6〜7年前から始めて続けている方法で、子や孫たちにも評判が良いようです。  これをやっておけば、あとは各人の誕生日に短い電話をかけるだけで済むし、仮に忘れていたって問題は起きません。

 毎年10月は同期会のシーズンです。 9月に入ると開催通知が次々に届きます。 私の場合、小学校 ( 2校 )、中学、高校、大学 ( 教養、学部、卒論の研究室仲間 ) と、最盛期には年に7つも同期会があったのですが、小学校のうちの一つがメンバーが喜寿を迎えた年におしまいとなり、そしてもう一つも今年が最終回になるとのことです ( 偶然か、カホルの小学校の同期会も、今年が最後だそうです )。 大学の教養の方は、私が幹事長だった昨年、英断?を以て終結に持ち込みました*。  ということで、来年からは同期会が4つに減ります。

 皆が現役を引退し始める60歳過ぎの頃には全盛だった同期会が、80歳台にさしかかると次第に無くなって行く理由はと言えば、言うまでもなくメンバーの老化に因る体力・気力の低下です。  同窓会と違い、若手のメンバーが入ってきて世代交代しながら若さを保ってゆくという事があり得ない以上、これは 「 同期会の宿命 」 です。

 いずれもが毎年キチンと続いているうちは、出席したり欠席したりしながら、たいした感慨もなしに、毎年の同期会は来てはまた去っていったのでしたが、 今回が最後だという同期会は、なんとも悲しいものです。 少年時代から青春時代にかけての親友たちとも、もう今後会うことはなく、 近いうちにそれぞれが独りで、思い出を胸に人生の幕を閉じて行くのだ・・・と考えると、「 じゃあまた来年! 」 と言えない閉会時の去り際は、 本当に胸が締め付けられるような思いでした ( 上記* )。

 この思いだけは、この齢になり、その場に遭遇して実際に体験してみるまでは、誰も全く予想していなかった哀しく寂しい 「 思い 」 なのです。

 今月はしめっぽい話題になってしまいました。 写真も載せたいようなものがありません。 10月と11月には旅の計画があるので、 多分、美しい紅葉の写真などを載せることができるでしょう。

 
8月度 (Aug. 31. 2014)


 山で暮らしていた赤トンボ ( アキアカネ ) たちが、群れをなして生まれ故郷の自宅裏の田んぼに帰ってきました ( これから秋が深まるにつれ、次第に♂の体が赤くなってきます )。

 気づくと、今年ももう、3分の2が過ぎています。 速いとしか言いようがありません。 「 忙しく充実している期間は一日の時間の経つのが速いが、 後で振り返ると長い期間だと感じる。 ボンヤリとヒマに過ごしている期間は、毎日の時間の経つのが遅いと感じるが、後で振り返ると短い期間にように思える 」 と、学生の頃、 心理学の講義で聞いた覚えがありますが、まさにその通りなのかもしれません。

 右目に飛蚊症らしき異常が発生したので眼科医に行って散瞳後の精密眼底検査をやってもらったり ( 特に心配は不要とのことでした )、血糖値を下げる薬が変わったので、 その効果を確認するために自主的に毎日数回血糖値の自己測定を行い、簡易検査の技術の進歩に驚きながら、グラフを作成したりなどしていました。

 40年以上前の職場 ( 私がリーダーを勤めていた開発研究室 ) の部下たちが、5月の夕食会に続いて今月はバーベキューをやるからと、今年2回目のご招待をくださったので、 喜んで出かけて行きました。 当時の男女メンバーの多くが20人近くも元気な顔を揃えてくれました。 あの頃のほとんどの会社の職場がそうであったように、 現在の日本の多くの会社のような殺伐とした職場環境ではなく、仲間意識が強く暖かい雰囲気の中で、躍進する日本経済のもと 「 世界のトップ企業の品質に追いつけ、追い越せ 」 と皆が力を合わせて明るく元気に夢中で働いていました。


 だから40年以上経ち、60代、70代になっても、皆ニコニコ顔で遠方からも集まってくるのですね。 来年は5月の私の誕生日に、また皆さんが集まって下さるそうです。  何とかそれまで元気で生きていなくては・・・

 私ども夫婦は、申し訳ありませんが、もう 「 一年中が連休 」 のような生活ですから、お盆だからと言って猛暑の中、どこも混んでいるのにわざわざ外出することもなかろうと、 今月は静かに自宅で暮らしていました。

 それでも、何もしなかったわけでもありません。 月初めにはあるお招きを受け、田舎者の夫婦がそろって東京に出たのは1年ぶり以上の出来事でした。  自分の足で歩いて往復出来るだけでも幸せと考えながら、 春風亭小朝の独演会を鑑賞し、美味しい夕食のご馳走にあずかり、「 やはり東京は違うな。  普段の田舎暮らしでは味わえない珍しい物ばかり沢山あるな・・・ 」 と、感じ入って帰ってきました。

 また、カホルが体のあちこちが痛いというので、月末には、「 たまには骨休めをしてください 」 ということで、箱根の温泉宿に泊ってきました。  帰りがけに昨秋オープンしたばかりの岡田美術館を覗いてきました。 素晴らしい展示品に堪能しました。  もちろん箱根にも秋の気配は忍び寄っていて、赤トンボはあちこちで飛んでいました。

7月度 (Jul. 31. 2014)

 7月27日(日)。 私の家は伝統的な和風建築で、居間の前面も背面も大きく開けられますので、今日のような風が吹く日は、裏手に続く水田の表面をかすめ、 庭に向かって網戸越しに勢いよく吹き抜けてゆく風が驚くほどの涼しさです。 エアコンもつけずに畳の上に寝転がっているだけで、なんとも心地よく、 日本中が35度だ37度だと悲鳴をあげているというTVの報道が、ひとごとのように思えます。 「 昔ながら 」 の住環境にはそれなりの良さがあります。

   住環境と言えば、「 どうして日本では街路に電柱が林立し、空には電線がクモの巣のように張り巡らされているのだろう? 」 という疑問や 「 これらを一日も早くなくしたい! 」 という提言を、 このホームページで、私はこれまで何度繰り返してきたことでしょう。

 ようやく、最近、自民党の一部から、2020年の東京オリンピック開催を前に、東京の市街から電柱と電線をなくし、 地中に埋設しようという提言が出て、電線の地中埋設を義務づける 「 無電柱化基本法案 ( 仮称 ) 」 の秋の臨時国会への提出を目指す考えが示されました。  今までこの国の政治家たちはほとんど誰もこういうことを言い出しませんでしたが、前々から内心は恥ずかしいとは思っていたらしく、 オリンピックの映像の放送で世界中にこの醜い?現状をを知られるのは 「 やっぱりまずい 」 と考えたのでしょう。

 日本人は生まれて以来ずっと、電柱と電線が街路の両側に立ち並ぶのは 「 あたりまえ 」 だと思って見慣れてきているので、それを目ざわりとも何とも思わない方がほとんどのようです。  一説によると、明治時代、電柱と電線網の敷設は 「 文明開化 」 到来の象徴として、むしろ誇らしかったのだとか・・・

 しかし、欧米や豪州などに海外旅行した事がある方は、ご自分が撮った街の写真をもう一度見直してみてください。 先進国の大都会はもちろん、比較的貧しい小国の地方都市にだって、 送電用の電柱や電線が街路にほとんどない事に気づくでしょう。 主要先進国のうち、首都の住宅街に電柱が林立し、電線がはりめぐらされているのは東京だけです。

 TVの観光番組の画面で、欧、米、オセアニアなどの都市の街なみはどこも整然としていて美しいなと感じた方は、ある日、その主要な理由が 「 電柱と電線がないため 」 なんだ!と、 きっと気づくに違いありません。 一方、日本の街では美しい建築物や遠景などの写真を撮ろうとしたとき、張り巡らされた電線を画面に入れずに撮ることは通常非常に困難です。  先進国からの旅行者が日本に来てまず驚き当惑することの一つがこれです。

 ただし、米国やカナダのような広大な国では、田舎の真っ直ぐな道路を車で走っていると、どこまでも草原や森が続き、家が全くないことがあって、 そういう地域では道路のわきに電柱と電線が走っていることがあります。 これは経済的にやむを得ないからでしょう。 しかし道路が一旦市街地に入ると、電柱や電線は姿を消します。


私が自宅の窓から外の景色を眺めようとすると・・・

 上の写真のように、日本では最近特に、電線よりずっと太い光ケーブルの類いが加わってきたので、この空中の醜さには急速に拍車がかかっています。  一日も早く上記の提言が実現して、電線や光回線の地中埋設が進むことを、私は切望しています。



自宅の近くに、最近、26.8ヘクタール* もの広大な宅地が開発されました。 それはいいのですが、家が建つ前に、 街路に沿ってまずコンクリートの電柱が
百本程も敷設されたのには驚きました。 新しく宅地を開発するときこそ、最初から電線の地中埋設を行う絶好のチャンスではありませんか。 全く当然のよう
に電柱を林立させ、美しい山なみの眺望を壊してしまった開発担当者の頭には、電線はすべて地中に入れるのが先進国の常識だという知識などないのでしょう。
*:一辺が520mの正方形ほどの広さと思ってください。

 今年の1月度のこの欄に、昨年日本酒の検定に合格したことを書きましたが、それは歴史、法律や規格、製造の方法や設備、日本酒の種別、 醸造学等々の知識面の試験であって ( これは文献や資料を読んで覚えさえすれば合格できます )、ソムリエ的な才能の試験ではありません。  私は毎月1回、日本酒2種を味わうことができる会合に、もう十数年精勤していますが、それでも飲んだ酒の数はせいぜい200種あまり、 日本の酒造業 ( 毎年減ってきてはいるが、それでも現在1,500社あまりある ) の内、せいぜい1〜2割の酒蔵の酒を、1軒あたり1〜2種味わっているにすぎません。

 しかも、その会合で供される酒のレベルは通常 「 中の中〜中の上 」 程度の品 ( 1升瓶で¥2,500〜3,000ほど* ) から選ばれたもので、 最高級の銘酒などはもちろん出て来ません。 また、一つの酒蔵が最低でも5種前後、多いところは20種以上の各種グレードの酒を造り、 しかも次々に新製品を出したりしますから、日本中の主要な酒をすべて味わうなどということは事実上不可能です。

*:言うまでもなく、値段と品質 ( 旨さ ) は必ずしも比例していません。 ひどい品を高く売っている不届きな酒蔵もたまにあります。  旨さの判断基準 ( 好み ) は飲む人によっても結構異なりますし、一方では製造工程全般の出来不出来、出荷後の保存条件等によって同じ銘柄でも品質は変わります。  更には、供される温度、酒器、肴の種類、場の雰囲気から飲む人の健康状態等々によって、ひとが感じる味は微妙に、かつ大きく左右されます。

 最高級の ( 上の中から上の上のクラス ) 名酒となると、4合 ( 720 ml )以下の小瓶でも1ないしン万円もしますし、ざっと勘定しても常時数百種は売られていますから、 これらを買って飲む資金力も 「 肝臓力 」 も、私には到底ありません。  したがって、ソムリエ的な才能の研鑽については諦めるほかありません。 5年ほど前に地元の酒蔵主催の利き酒コンテストに参加して1等をとったこともありますが、 現在の私はせいぜい、高・中・低級品の区別と、製法や原料などの違いのごくおおまかな推測くらいしかできません。  それでも、毎月数本、「 中の上、たまに上の下 」 クラスで 「 きっと旨い酒ではないかと思われる品 」 を、ネット、デパートや専門店の売り場などで探し求め、 楽しく評価しながら、経験と味覚の幅を広げる努力を続けています。

 これ以上書いていると、キリがなくなるので、日本酒の話はこの程度にしますが、ふと考えると、日本酒の事も含め、この1〜2年の間に自分の関心や 欲望が 「 形あるモノ、形が残るモノ 」 から、「 形のないモノ、使うとなくなるモノ 」 にハッキリと移ってきていることに気づきます。  私も若いころは色々な物を買ったり、収集したりして喜んでいましたが、今はそれらのコレクションを片端から人に差し上げたり捨てたりしています。  1年に40種ほど購入する日本酒だって、以前でしたらきっと瓶のラベルを剥がして整理保存したと思いますが、今は瓶は再利用のための回収に、綺麗な箱はリサイクルにと、 飲み終わったらすぐに処分します。 何を飲んだか忘れないように写真だけは撮ってパソコンにしまっておきますが・・・

 「 旨い食い物 」 や 「 美味しい酒 」 には今でもおおいに興味がありますし、ささやかな小旅行も時々しています。 美術館や音楽会、寄席にもたまには顔を出します。  これらは楽しみを味わった後に 「 モノ 」 が残らないからです。  服やシャツ、靴や腕時計、眼鏡、カメラ、鞄のような 「 モノ 」 はもう全く買わなくなりました。 以前買ったちょっと上等なシャツやズボンや靴は、 順に普段使いで使い潰していっても、死ぬまでになくなることは多分ないでしょう。 いまモノを買うと言えば、破れたとき新しい靴下やパンツを買うくらいなものです。  何事によらず、用が足りれば格好や見栄えや流行は一切気にならなくなって来たのです。 これを 「 老化現象だな 」 と言われれば、まさにその通りなのでしょうね。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました


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