私と家族の近況
私と家族の近況

*あしがらみち*

2007年 前半分:最新は6月度


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6月度

 5月の末から2週間、イタリア半島南東端 ( 長靴のかかと ) のプーリア州を中心に、15ほどの小都市を個人旅行で回ってきました。 この旅行に出発する前、5月度の報告の最後に、この旅行の計画について触れようかと思いましたが、私の不在を周囲に予告するようなものなので、用心してやめました。 平穏な地方小都市の在住者でも、こういう気遣いをしなくてはならなくなったのは、1990年代後半あたり以降ではなかったでしょうか? 1980年代の末、私は米国の中では極めて治安の良い地域の小都市に移住しましたが 「 家を一晩でも空ける場合は、電灯は幾つか点けっぱなしにして、留守宅ではないと ( 空き巣どもに ) 思わせなさい 」 と注意され、驚いたことを記憶しています。 街の事務所、商店、工場などは、たとえ無人でも一晩中煌々と室内灯を点けっぱなしにして、泥坊が入りにくいようにしていました。 治安の悪さがエネルギーの浪費に直結しているという状況に驚いたことを覚えています。

 滞在中にその癖がついてしまい、帰国後、旅行で家を数日留守にするとき、数灯故意に点けっぱなしにしておいたら、隣人に 「 留守のはずなのに、誰かが家に入っているらしい 」 と、大変な心配を掛けてしまいました。 これが90年代の後半のことです。 当時はまだ、この付近の農家の多くは、玄関の鍵をかけずに終日畑仕事に出かけていました。 というより、外部と完全には遮断できないような構造の農家が少なくありませんでした。

 いきなり話がそれ、しかも長くなってしまいました。 私はこのプーリア地方の歴史、文化、建築、景観、料理などに、3年ほど前から憧れ続けていましたが、母の介護の問題などで旅行は2年越しで延びのびになっていたのです。 「 お母さんを気にしていたら、その内に、自分が外国に行けない体になってしまうよ 」 と周囲が言ってくれ、今回ようやく実現できたことを皆さんに感謝しています。 幸い、母も無事でいてくれ、旅行中呼び戻されることもなく、日程をすべてこなして帰る事ができました。 この旅行中の感想などについては別のページに書きました。 写真も別の所に十数枚載せました

 旅行中は毎日随分歩き回ったのに、帰ってくると直ぐに、出発前から約束していたゴルフがあったり、例の東海道五十三次歩きの2回目があって品川から川崎まで歩いたりしましたが、幸い元気にこれらを乗り切ることが出来ました。 月末には年1回恒例の人間ドックを夫婦で済ませました。 1月後に参院選を控え、「 一票の格差を考える会 」 の意見広告の掲載も無事完了しました。 このようにして慌しかった6月も終ろうとし、今年も早くも半分済んでしまいました。 時の流れがまるで急流のようです。
上の写真はトラーニのサン・ニコラ・ペッレグリーノ大聖堂。 下はバーリの古城の内部の壁のレリーフ


5月度

 『 東海道五十三次を徒歩で歩いて見ようじゃありませんか 』 という、旧友Y君の提案に、8人の男女が賛同しました。 私などは、年齢的に考えても、生きているうちに京都まで着くことは極めて困難と思いましたが、とにかく、最低限、日本橋から箱根の関所までは必ずやり通そうと考え、その一員に加わりました。 その初日 ( 5月7日 )、まず、お江戸日本橋から、品川の宿までの7.8kmを歩きました。 東京駅から日本橋までとか前後があるし、途中名所に立ち寄ったりするので、実質は12kmほどです。 個人的には、本当は川崎までの17.6kmを1日で歩きたかったのですが、初対面の人たちも多く、各人の体力がわからないので、第1回は軽く流すことに決まったのです。 本件に関しては、別にページを設けましたので、ご覧下さい。 今後も歩くたびに毎回書き加えてゆくことにします。

 それにしても、5月は気候が快適だったこともあり、体力の限りあちこち飛び回った感があります。 上記の東海道を歩いた後、2日あけてゴルフ、翌々日には箱根湯坂道の山歩き { 宮ノ下 ( 急な登り ) 浅間山 ( ゆるい下り ) 箱根湯本:3時間、約2万歩 }、更に翌々日にまたゴルフ、2日あけて駿河湾の淡島まで往復ドライブの1泊旅行・・・などという調子でずっと続き、この年齢にしては随分と過激な日程でした。 もちろん、遊んでばかりいたわけでもなく、その合い間を縫って母の介護に何度も出かけ、父の墓参もし、連日庭の草取りもしました。 そして21日、誕生日を迎え、これで目出度くこの世に4分の3世紀生きたことになりました。 何はともあれ、健康であることに感謝

 3月度に、下旬、カホルが白内障の手術を受けたと書きましたが、丁度2カ月経った今、完全に安定し、新しいメガネも出来て、視力というか、視界が以前よりずっと好転したと、喜んでいます。

 ふと気がつくと、裏の田んぼに水が張られ田植えが済んだので、無数の蛙たちが集まって今夜も一晩中大合唱です。 そう言えば、その蛙を狙ってか、昨年同様、昼間は鴨が何羽も泳いでいました。

駿河湾の淡島から夜明け直後の富士山の頂上を撮る。 海上に群舞していた鳥たち ( トビ?) の群れも写しこんだ。 頂上付近の雪が強風で舞い上がっている。


4月度

 屋根の葺き替えも終ったある日 (*1)、仲間たちと、二宮金次郎の生家から、足柄平野を横断し、昔彼が通ったという入会林 ( いりあいりん ) まで歩いてみました。 片道10kmほど、しかも最後は急な登りの続くこの道を、彼は燃料を得るため柴刈りに往復したのです。 私は片道でくたびれ果て、そのあと弁当を食べたりビールを1缶飲んだりしながら、更に5kmほど歩いてから電車で家に帰り、そのまま倒れるように2時間昼寝をしてしまいました。 私が74歳、当時の彼は若者であるとしても、彼はこの山で働いた後、重い柴を背負って家まで歩いて戻り、畑仕事をし、夜は縄ないやわらじ作りにも精を出し、自分で育てた菜種からとった油の灯りで手習い、読書に励んだわけですから、昔の小学唱歌 ( ここを開くと歌が聴けます ) に歌われているように、凄く強靭な体力と精神力との持ち主だったんですね。

   東京国立近代美術館工芸館で開催されていた 「 漆芸界の巨匠 人間国宝 松田権六の世界 」 展を見そこなってしまったと、2月度に書きましたが、同名、同内容の展示がその後、熱海のMOA美術館で開催されていると知り、4月6日に二人で観に行きました。

 感想: 『 やはり彼は凄いとしか言い様がない。 50点ほどの作品の一つ一つが、どれ一つとして類型的でない。 皆はっきり違うのだが、それらのすべてが至高の満足感を与えてくれる事に感嘆せざるを得ない。 美術学校での彼の師や彼の弟子たち7、8人 ( その多くが無形重要文化財に指定された人 ) の作品も最後の方に並んでいたが、素人の私にもそれらとは、はっきりレベルが違うということが直感できる。 独創的な創造力、構成力と、誰にもまねの出来ない超絶技巧とを兼ね備えた稀有の天才としか言い様がない 』 (*2)  ただただ感動、ひたすら恍惚・・・ 「 生きている内にこれらの作品に会えて良かった! 」 と心底思えた至福の半日でした。

 最近新聞を読んでいて、思わず 「 ニヤリ 」 としたことがあります。 4月5日の朝刊で 「 JRがキヨスクをキオスクに改めた 」 と報じられていたからです。 2004年4月に、このホームページで、私は、JRのキヨスクは、キオスクでなくてはならないという意見と、なぜ設立当初キヨスクと名づけられてしまったかという原因についての私なりの推察とを書きました。 この新聞記事によると、当初は 「 清く 」 「 気安く 」 の意味を込めてキヨスクと名づけたとありますが、これはおそらく、JRが後からつけた苦し紛れの理由で、本当はそうではないと私は今も睨んでいます。

 日本のあちこちに、母音が二つ以上重なるとき、これを嫌って発音記号の [ j ]、あるいは [ w ] の音を挿入 ( 「 わたり音 」 という ) する地方がたくさんあります。 たとえば、場合をバアイではなく、バヤイ ( たとえば茨城県 ) あるいはバワイ ( たとえば津軽地方 ) と発音します ( 勿論、国語辞典にはバアイしか載っていませんが )。 同様に、多くの地方 (*3) で具合をグワイ、幸せをシヤワセ、試合をシヤイ、ピアノをピヤノなどと発音します。 NHKのアナウンサーですら、時にこう聞こえる発音をしますので、ああこの人はこういう地方の出身だなと推察できます。 私は ( アナウンサーでさえなければ ) 別にこういう発音がいけないとか、間違っているとか言うつもりはありません。 その地方地方に独特の発音があるのはごく自然な文化ですから。

 1973年に当時の国鉄がKIOSKを導入した時の新聞記事によると、国鉄のある偉い幹部が前の年だかに、北欧諸国を視察したとき、鉄道駅のKIOSKに目をとめ、これは良いなと考えて鉄道弘済会の売店にキヨスクの名を与えたということです。 このとき、私は 「 ああ、この幹部はこういう発音方言の地方のご出身だな 」 と考え、そして 「 部下たちは恐れ多くて 『 キオスクではないですか? 』 と聞きただせなかったのだろうな 」 と感じたりなどしたので、今でもこの30年以上も前の記事のことを鮮明に覚えているのです。

 ところで、今月、従来のADSLを光に変えましたが、速くなったという実感が殆どありません (*4)。 NTTの施設から近いので、ADSLでも十分速かったからなのでしょうか? もともと 「 速さでは何も不足を感じていないから 」 と断り続けていたのに、説得に負けて?、ついに設置したわけです。 他の地域の友人知人は皆 「 変えてみたらやっぱり凄い 」 と言っているのに、残念です。

 母が一時軽い肺炎にかかったため、施設に頻繁に通い心身ともに疲れましたが、幸い治って、一安心している今日この頃です。

(*1):  写真の色は、ほぼ正しいと思います。 銀色のいぶし瓦は、暗いモスグリーンのスレートに変りました。 ところで、不謹慎と言われそうですが、震度3〜4の、大きな被害は出ない程度の地震が一度来てくれないものかと待っています。 そうでないと、どのくらい、ゆれ方が改善されたかが実感できません。

(*2):  それにしても、これだけ差をつけられてしまった他の作家たちは、どういう精神状態で同時代を生きたのだろうと想像すると、芸術家の人生とは、何とも厳しく残酷なものだと改めて思えてきます。 スポーツや囲碁将棋の世界では、一流のプロたちは、抜群の最強者に対しても5回か10回に1度くらいは勝てるわけですから。

(*3):  いま、二つの北の地方を挙げましたが、私は若い頃から、むしろ中四国地方出身の方に、この 「 わたり音 」 の挿入が多いと感じています。 そういう方に尋ねると、「 場合はバヤイと発音するけれど、字に書く時はバアイと書くんだよ。 そんなこと、昔から決まってるじゃない! 」 などとおっしゃり、何の疑念も持っていないところが、また私の興味をそそるのです。

(*4):  4種の別の方法で測定してみたが、少なくとも下りは30Mbps以上ありました。

3月度

 ひな祭りの日、近くの松田山の斜面を覆うように咲き誇っている河津桜を観に行きました。 花の周りには、人だけではなく、様々な小鳥たちが集まっていました。 なかでも、メジロがとても沢山集まっていました。 その写真を撮ったのでここに載せます。

 メジロは非常に小心な鳥なので、一寸でも近づけばサッと逃げて行きます。 遠くから望遠レンズで狙い、約50回シャッターを切ったうち、やっと5枚ほど、うまく撮れました。

 3月にはいろいろな事がありました。 カホルが長いこと迷っていた白内障の手術を思い切って早めに受けました。 幸い、無事うまく済んだようです。 最近はこの種の医療は非常に進歩し、安全確実になっているようで、周囲にも手術を受けた後、元気に過ごしている方がたくさんいます。

 それから、地震対策のため、自宅の屋根を数奇屋風の 「 いぶし瓦 」 から現代風のコロニアルに葺き替える工事が始まりました。 初めて自分で計算してみて分かったのですが、二階建ての我が家の瓦の重量は全部で約10トンもあるのです。 さらに念入りに瓦をセメントなどで固定しているので、恐らく総計12トンにはなるでしょう。 それが約4分の1の重量に減らせます。 この年齢になると、もうほとんど客も来ないし、建物の風格や壁面とのつりあいなど二の次、万一の場合の身の安全が第一と考え、決めました。

 たまたま工事開始の前日、富山県から石川県にかけて、大きな地震がありました。 先月上旬に旅行で訪れた辺り一帯です。 やはり改造を決断してよかったように思われます。

 パソコンの接続も、迷った挙句、ADSLから光に替えることに決めました。 今の私にとってはADSLの速さで十分満足なのですが、将来のいろいろな可能性を考えてのことです。 面倒な手続きが終わり、もうすぐ工事が始まります。 屋根の工事と共に、老朽化した旧式のTVアンテナも新調し、間近に迫った地上デジタル化に備えます。

 と、こんな具合で、人間、建物、設備の将来に対してだいぶ投資したので、我々夫婦はもう暫く生きないとソロバンが合いません。 頑張ります。

 という風に毎日バタバタしながらも、老母の介護にも結構時間を使っていました。 母の調子は、日の単位で見ると良くなったり悪くなったり変動し、私たちを一喜一憂させますが、月の単位で冷静に振り返ると、徐々に、しかし確実に下降線をたどっている事がわかります。 そのことを確認し、改めて、『 ここまで生命力が衰えてもなお生き続ける人間の生涯・・・その尊厳とは、いったい何なのだろう 』 と深く考えさせられ、また、自分の老い先も、もしかしたら似たようなものではなかろうかと考えるたびに、何とも言えない無常感に襲われます。

 春休み恒例の行事になりかけていますが、30日には孫を連れて新宿の末広亭に行きました。 これで3月もおしまいです。  

2月度

 2月は28日しかない事は百も承知ですが、やはり、まだまだ3月にはならないというような錯覚があり、アップロードが遅れてしまいました。

 テレビの番組で富山県氷見の寒ブリの、何とも旨そうなのを見たら、矢も楯もたまらなくなり、早速その小さな宿に出かけて 「 ぶり尽くし 」 の料理を食べてきました。 泰平の世に、いつとはなしに奢ってしまった二人の舌は、いつも期待感が大きいほど満足度が低く、落胆するのが常でした。 しかしこの宿では、間違いなく私たちの舌はその大きな期待以上の 「 至福の体験 」 をさせてもらいました。 小田原辺りだと、相当新鮮な魚を使った料理でも、極めて微かな 「 あの特有の魚臭さ 」 が伴うものですが ( 先月も書きましたが、私の鼻は非常に敏感なのです )、 ここでは、ぶり刺やぶりしゃぶは勿論ですが、かま焼にしても、ぶり大根にしても、それが 「 全くない! 」 という点が驚異で、本当に生まれて初めての味でした。

 その後、金沢から福井の永平寺へとさらに2日、旅を続けましたが、幸か不幸か、今年初めてという本格的降雪に出遭いました。 足もとは大変でしたが冬の風情は満点でした。 2月初めと言うのに、前の日まではあの兼六園にも全く雪が降らなかったそうですから、今年の異常な暖冬ぶりは相当なものです。 それにしても金沢は、さまざまな伝統文化が今も立派に保存されている都市だと痛感しました。 金沢と言えば、寒ぶりに舌鼓を打ったりなどしている間に、東京国立近代美術館工芸館で展示中だった 「 漆芸界の巨匠 人間国宝 松田権六の世界 」 展を遂に見そこなってしまいました。 自分が怠け者だった罰ですが、やはり東京に住んでいる人が羨ましい!(*)

 確定申告も無事完了し、老母も軽い風邪は引きましたが幸い悪化せずに治り、短い2月はあっという間に終わりました。 月末には家の近くの松田山の斜面の河津桜も満開となり、遠くからも美しいピンクの絨毯を眺めることが出来ます。

写真左:積雪を踏み分けやっとたどり着いた永平寺の鐘楼にて。 写真右:昼食は金沢の近江町市場で、あの有名なちらし寿司 ( これも結構旨かったが金箔は余計 )
写真下:日の出直前の積雪の氷見湾

東京国立近代美術館工芸館で展示中だった 「 漆芸界の巨匠 人間国宝 松田権六の世界 」 展を遂に見そこなってしまいました。  (*): 口惜しかったので、押入れの奥から、古いビデオテープを出して来て再生してみた。 NHKが丁度30年前の昭和51年1月2日に放送した 「 ドキュメンタリー 精魂 」 という番組だ。 当時80歳の人間国宝 松田権六が、元気に自宅で制作に打ち込んでいる映像で、改めて感動した。 でも、画像の質は悪いですね。 当時はテレビの画質も悪い、テープの質も悪いで、結果的にこんな粗悪とも言える画質の映像になってしまっているのが惜しまれる。 その後現在まで30年の技術の進歩は凄いと、これにもちょっぴり感動。
1月度

 元日の朝、自宅の近くの川辺を散歩していたら、かわせみが飛んでいました。 寒さを忘れてその美しい蒼い羽の色に、しばし見とれました。  宝石のひすい ( 翡翠 ) の翡はかわせみのオス、翠はかわせみのメスのことだと、辞書には書いてあります。 ひすいに似た色の鳥だからそれらの字を与えたのか、それともかわせみに似た色の宝石だから翡翠と呼ばれるようになったのか、 私にはよく分かりませんが、とにかく宝石のように美しい鳥で、今年は良いことがありそうです。  余りに速く飛ぶので、写真に撮ることは非常に難しいのですが (*1)、  こんな美しい鳥にときどきお目にかかれるのも、田舎住まいだからでしょうか。

 毎年最初の土曜日には、東京都内の 「 七福神めぐり 」 のウォーキングに参加しており、 今年も6日に品川周辺で計画していましたが、あいにくの大型の低気圧襲来で直前に取りやめになりました。  家にいてもつまらないので、雨の中、近くのシネコンに行き、他に面白そうなものもないので、10作品くらい上映している中から 「 硫黄島からの手紙 」 を選んで観てきました。 米国人が作った太平洋戦争の映画だから、きっと違和感や不快感のあるシーンも多いのではと予想していましたが、そういう事はなく、素直に鑑賞できました。  いろいろ考えさせられたけれど、どちらかというと、暮に観た 「 武士の一分 」 の方が面白かったなァ。

 なんて言っているうちに、早速一つ良いことがありました。 自宅から歩いて1時間ほどの所に、Nという造り酒屋があります。  180年前、江戸時代に創業の蔵元で、1993年の東京サミットの晩餐会の時に乾杯用に使われた大吟醸酒 「 吟の舞 」 (*2) も作っていると言いますから、なかなかの蔵元のようです。

 1月11日に、ここで恒例の蔵開きと新酒試飲会があり、そのとき、公開の利き酒コンテストがあると聞かされたので、早速駆けつけ参加しました。  6種のサンプルをちょっとづつ順に口に含み、あらかじめ試飲して記憶しておいた6種の酒のどれであるかを判断して、 紙に番号を記入するという方式でした。 300人ほどが参加しましたが、「 どれもこれも同じような味だ〜 」 と皆が悲鳴をあげる中、私は4つを正解し、1等になって上記の銘酒を1瓶、賞品に頂きました!。 4問正解が最高点で、私を含め6人でした ( ちょっとお考え頂くと分かることですが、 4問正解の上は5問正解ではなく自動的に全6問正解です。 テスト終了時は全問正解の自信があったのですが・・・ )。

 この話を翌日ある人に話したら 「 さすがにのんべえだね 」 と言われましたが、それは全く違います。  のんべえの殆どは酒好きで酒量が多いだけで、特に敏感な味覚、嗅覚を備えているわけではありません。 酔えるなら酒の種類や銘柄など問わないという人も少なくないようです。

 それにしても、何十人もの 「 オジサン 」 たちが狭い場所に集まったときの 「 オジサン臭 」 は私にとっては (*3) キツイものでした。 利き酒会場は大型のテントで、二方はオープンでしたが、それでも私は一回ごとに猪口 ( ちょこ ) を外に持ち出し、 深呼吸してから酒を嗅ぎ、口に入れては吐き出しました。 これが成功の一因だったことは確かです。

(*1): この写真は山谷さんという方のHP http://www2.kct.ne.jp/~iyamato/page_thumb282.html からお借りしたものです。  近いうちに自分で撮った物に変えたいと思います。

(*2): 東京国税局の管内には 「 吟の舞 」 というブランドの、 「 吟醸酒 」 と 「 純米酒 」 の二つの要素を兼ね備えた、高級な清酒 ( つまり、純米(大)吟醸酒 ) を醸造している日本酒メーカー ( 蔵元 ) があります。 出来上がった清酒のうち、銘酒開発協同組合の厳格な審査に合格したものだけが、「 吟の舞 」 という統一ブランド名で、消費者に提供することを許されます。 醸造は、東京都、神奈川県、千葉県、山梨県内の36のメーカーだけで行われています。 ちなみに、現在日本には2,200以上もの日本酒メーカー ( 蔵元 ) があります。

(*3): 私の嗅覚と匂いの記憶力は、若い頃から非常に鋭敏で、 40歳くらいの頃は、高級な香水の銘柄を、女性の前に立っただけですぐに何か当てられましたし ( さすがに失礼だしキザだから、それを口に出すことは滅多にしませんでしたが )、工場の建物の中にいても、遠く離れたモーターの初期の焼損その他の異臭には、いつも誰よりも早く気づきました。 この老齢になっても、まだこの鼻は健在だったようです。 こういう動物的な嗅覚なので、映画館や電車の中で、化粧品の匂いや体臭の強い人が近くに居ると、他の人たちには何でもないレベルでも、 いたたまれなくなって避難したくなるという不便さもあります。 でも、この日はその鋭い嗅覚が役立ちました。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました

この先です。