私と家族の近況
私と家族の近況

*あしがらみち*

2002年 前半分:最新は6月度

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6月度(7. 2. 2002 / 7. 4. 2002 追加)

6月は、半月ほど、東欧諸国をまわってきました。 物価の安さに驚き、しかし、よく考えてみると、 それは日本の物価が高すぎるから、そう思えるのだと気づきました。 日本は、給与も物価も、 ある日いっせいに半分か3分の1に切り下げる事が出来たら、他国とバランスが取れるのに・・・と思いました。  もっとも、そうなると、私たちは海外旅行にも行けなくなってしまいますが ( 欧米先進諸国だって、 庶民は海外旅行など滅多にできないのですから )。

次に思ったのは、町並みの美しさでした。 日本人は規制や制服が大好きなくせに、 建築は野放しだから、建物の高さもデザインもテンデンバラバラ。 屋根の色も千差万別ですから、 町並みは近くで見ても遠くから見ても、乱雑そのものです。 反対に、経済的には決して豊かとは言えないこれらの国々では、 田舎の小さな町でも、ハッとするほどの落ち着いた統一の美しさがあるのでした ( 以前米国で私が住んでいたすんでいた地域でも、 住宅の外側の色は、濃い茶色か灰色系統だけに制限されていて、家々は木立の中に静かに沈みこむように調和していました。 彼らは個性はインテリアで発揮するようです )。

ひとりきりの個人旅行ですから 「 食事はあてがいぶち 」 のパッケージツアーと違い、毎食時間をかけて念入りにレストランを探し、 選びましたが、それでも、感動するほどの美味しさに出会ったのは、夕食でたった一度だけでした。  海外旅行の意義を、美術館や美しい建造物を観ることと 「 現地のうまいものを食うこと 」 とに、 半々の重点を置いている私にとって、東欧の地への旅は、結局、満足と不満足とが半々という結果でした。  ただし、ワインとビールには毎晩おおむね満足しました。  日本で売られているガイドブックに載っているレストランは、総じて高くてまずいことも、改めて実感しました。  上記の1店は、コンシエルジュと仲良くなって聞き出した所の一つで、3種のガイドブックのどれにも出ていません。  来年はまた南欧の国に行こうと思います。南欧では、軽食堂ですら頻繁に 「 美味の感動 」 に出会えるのですから。

今回もフイルムカメラとデジカメと、新しいのを1台づつ持ってゆき、400枚以上の写真を撮りましたが、 デジカメの画質の向上には改めて驚きました。  フイルムカメラとデジカメの画質は、ちょうど、LPとCDの音質のようなもので、微妙な違いがあって、 容易に優劣を決めがたいのですが、焦点深度の大きさ、フラッシュを使えない建造物内部や夜景の撮影などにおいては、 デジカメが優っていると思いました。 納得が行くまで階調や色合いを自分で調整することも出来ます。  現地で電池を充電することもできたので、来年はデジカメだけにするかも知れません。

治安については、インタ−ネット上でも様々な警告や体験談を目にしましたが、それらを頭に入れ、装備も行動も万全の注意を払ったので、 今回も一度もいやな目には逢いませんでした。 そして最後に、帰国後の時差ボケの解消までの日数が、毎年長くなって来ている事に気づき、 年齢を感じてチョッピリ情けなく思ったことでした。
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6月というと、ワールドサッカーについても触れたくなります。 息子が切符を手に入れてくれたので、 11日のアイルランド対サウジアラビアという、あまり人気のない試合でしたが、横浜まで、妻と息子と3人で見に行きました。  家では、予選の日本の試合と、決勝リーグのいくつもの試合を、TVで熱心に観戦しました。

  過去の大会では、勿論、こんなに興味を抱くことはありませんでしたし、仮に抱いたとしても、仕事があったから、 今回ほどの関心を示すことは出来なかったでしょう。 過去の大会について振り返ってみると:

1990年イタリア大会: 当時は米国の田舎の小都市に住んでいましたが、同じ町に住んでいたイタリア人の友人が、 一時帰国して帰って来た時、イタリア国旗の描かれた小さなサッカーボールの付いたキーホルダーをお土産に呉れました。  その時は何も考えず 「 フーン 」 という調子で貰って使いましたが、もっと喜んであげないと、 呉れたほうはガッカリしたのかも知れません。 だいたい、今考えると、彼ら夫婦は、 観戦するために口実を作って一時帰国したのに相違ありません。

1994年アメリカ大会: この時も米国に居ました。 今、いくら思い出そうとしても、当時、 新聞やTVでサッカーのサの字も見た記憶がありません。  当時は、難しい番組は英語が分からないので、TVは主にCNNかスポーツチャンネルをつけっ放しにしていたのですが・・・。  それくらい米国ではサッカーは無視されていたのですね。 今でもそうでしょう。

1998年フランス大会: もちろん、私は日本が初めて参加したことを知っていましたが、それ以上の関心はありませんでした。  その後2年して、21世紀を迎えるにあたり、ある大学の学生たちが、20世紀の世界の10大ニュースの一つに、ふざけてではなく、 マジメで 「 日本のサッカーワールドカップ初参加 」 を挙げたと聞いて、日本の将来にほとんど絶望してしまった事を覚えています。  このホームページにもその事を書きました

2000年日本韓国大会: 日本人だけが、世界の中で、よくも悪くも、実に特殊な人間たちだ ということを改めて痛感しました。  その点、韓国人たちは、イタリア人やブラジル人と同じ、普通の人間だったと思います。  外国のチームが自分の町でキャンプを張るからと言って、 町を挙げて大歓迎し、自国チーム以上に応援してあげるなんて国があるでしょうか? 特別な個人的な深い関係でもあればともかく、 そうでもないのに、他国の国旗を肌にプリントして応援に行く人間がこんなに沢山いる国なんて、あるでしょうか?  そして、自国のチームの試合の、スタジアムでの応援が、これほど地味で静かだった国があるでしょうか?  ベッカムがいくら素敵だからと言って、フランスやトルコの少女たちが、他国の選手にあれほどまでに熱狂するでしょうか?  日本の若者は赤いシャツを着て、韓国に大声援を送りましたが、もし日本が勝ち進んだら、その逆はあり得たでしょうか?

淡白、お人よし、国家ないしは民族意識の希薄さの三つが、日本人を表すキーワードでしょうか。 そういえば、 瀋陽の総領事館での事件もこれでした。

そして、夜更けの新横浜の道を歩きながら、警官の 「 道路の左側を歩きなさい 」  という傲慢な連呼を聞き、 何で 「 歩いてください 」 と言えないんだ! と腹を立てた事だけは、たぶん、一生忘れないでしょう。

5月度(5. 28. 2002)

さて、先月の続きですが、そんな様々な苦労を経て、数十人の有志の市民 ( そのほとんどが、自治会長経験者 ) の活動により、 2万近くの署名が集まりました。 市の有権者は3万5千5百人余りですから、約55%です。  ところが 「 これなら24名を18名に減らすという案を、市議会は直ちに通すしかないだろう 」 と考えるのは甘いらしいのです。  市議会では、一旦、この市民の過半数の請求を 「 それはそれ 」 として脇におき、改めて、議員独自の提案として、 ほんの数名だけ減らす案を出し、それを可決するというやり方で、お茶を濁すのではないかとの予測もあります。  つまり、市民の意思に押されて仕方なく定員を減らすのではなく、 市会議員たちが自分で発案して改革したことにしたいらしいのです。 本当かどうか、まあ、注目しましょう。

1月にも書きましたが 「 一票の格差是正を推進する有識者会議 」 というのが、作られました。  私が事務局長を務めている  「 一票の格差を考える会 」 からも、代表の作曲家 すぎやまこういち が、有識者の一人として、メンバーに加わりました。  事務局を経済同友会に置き、経済同友会、新しい日本を作る国民会議 ( 21世紀臨調 )、日本青年会議所、PHP総合研究所、 構想日本などの代表や、大学教授などが参加しています。 今春、 衆参全国会議員に対して一票の格差につきアンケートを行い、今般、 その結果の集計と外部発表が済みました。 日経ビジネスの4月29日号12ページや、毎日新聞5月26日号の社説などに、 その一部が紹介されています。 アンケート結果の詳細については、次の二つの PDF ファイルをご覧下さい:  1) アンケートの質問と回答集計結果、  2) アンケートへの回答の分析とメディアへの発表内容 
 また、この結果を踏まえての 有識者会議の緊急アピール もご覧下さい。

 折りしも、国会には 「 5増5減 」 の格差改正案が提出されています。 外部から散々文句を言われて、 ようやく重い腰がほんの少しだけ上がったのです。 でも、この「 5増5減 」 案は、一昨年の国勢調査に基づき、 第三者機関である選挙区画定審議会が行った勧告を基本にまとめられたものなのです。 この地方小都市の市議会と同様、国会でも、 議員定数に関係する問題の改善は、議員に任せておいたのでは、一向にラチがあかず、 外部の人たちの忍耐強い働きかけをまたなくてはならないということなのです。

さて、私個人の話に移ります。 一連の成人病検診の最後のメニューとして、4月末に6年ぶりに受けた、 内視鏡による腸の検査では、さいわい何も異常は見つからず、要するに、 私の体には、今のところ、どこも悪いところがないということになりました。 「 それでは 」 というわけで、 急遽、また例年のように、夏休みに学生で混雑する前に、独りでリュック一つで外国をブラついてくる事に決めました。  米国はテロが怖いし、それに、何といっても食い物がまずいから、食いしん坊の私としては、結局、欧州ということになるでしょう。  いつものように、行ってから、自分の気分次第で計画が変わる事もあるでしょう。 とは言っても、 ワールドカップで日本と対戦する国には立ち寄らない方が安全だと思います。

  と言う事なのですが、自分ひとりで遊ぶばかりでは妻に申し訳ないので、5月中旬に二人で茨城北部から福島の方に、 露天風呂を訪ねて小旅行をしました。 景色にも湯にも食事にも満足しました。

21日に、めでたく?古稀 を迎えました。  子供たちや孫たちに囲まれ、小田原のレストランでお祝いもしてもらいました。  中国で働いている元部下の人たちからは、石材に彫った印鑑をお祝いにいただきました。 これは思いがけなかった事で、 大変嬉しいことでした。

 砂時計を見ていると、最初のうちは、ちっとも砂が減ってゆかないように見えるのに、最後のほうになると、 あれよあれよという間に減って行き、あっと言う間もなく最後がやってきます。 人生もこんなもののようです。  階前の梧桐すでに秋声どころか、もう私には冬木枯らしが吹いています。学成り難いことを悔いるばかりです。

   
4月度(5. 2. 2002)

私の住んでいる市の市会議員の数が、神奈川県のどの市と比べても、人口に対する比率で、ダントツに多いから  「 これを現在の24人から18人に減らし、行財政改革の一助としよう 」  という 住民直接請求運動 に、 夫婦ともども加担したことは、先月報告しました。 その署名集めの趣旨説明に、妻と二人で、割り当てられた、 会社の4階建ての社宅アパートを3棟、1戸づつ訪問して歩きました。  ところが、後で考えると無理もない事なのですが、3分の1くらいは、用件も聞かず 「 今忙しいですから 」 と、 とにかくドアを開けてくれません。

40年ほど前、私たちがこのような鉄筋の社宅アパートに住んでいた若い頃、自分たちはどうだったろうかと考えると、 多分、誰が訪ねて来ても、ドアを開けていたように思います。 それだけ、今は治安が悪くなったというか  「 夫のいない留守にやたらドアを開けたら、いきなり押し込まれたりして、叫んでも近所に聞こえない・・・」  という不安が理由ではないかと、妻と話し合いました。

せめてチェーンを掛けたままでも良いから、ドアを少し開けてくだされば、と思いながら、ドア越しに来意を説明し、 郵便受けに趣意書を突っ込んでは去りながら、複雑な心境でした。 そのうちに、思いついて、最初にドアの外から声を掛けるのは、 妻の役目とし、女性の来客だと思って安心して頂くようにしたら、状況は少しよくなりました。 さらにドア越しに  「 私は会社で5年前まで常務取締役をしていた熊井という者です。怪しいものではありません 」 と言って見ましたが、 これはあまり効果がありませんでした。 そう、若い社員の奥さんたちは、私の名前など知らないだろうし、 こんな言葉だって、疑えばキリがないのですから。

留守の世帯もあったので、2日かけて全部まわり、もちろん、ドアを開けて下さった方には、趣意書を渡すだけでなく、 2分くらいかけてよく補足説明しました。 説明を聞いてくださった方は、私の感触では、8割くらいが、 よく理解して下さったようです。 結果は、来週、連休明けに今度は実際に署名をして頂きに訪問したとき、分かることですが・・・。

この他に、来年の4月に市長選に立候補の意思を固めた親友の後援会が正式に発足し、私はナントその 代表 を引き受けたので、このことでも、連日忙しくなりました。  4月23日夜、市の文化会館大ホールに、1000人以上の支持者が集まり、後援会は無事発足しました。  ご関心のある方は、その ホームページをご覧下さい。  そんな役目を引き受けるなんてバカだと呆れる方も多いと思いますが、まあ、いろいろ考えた末の結論です。

始めてみると、5年間プッツリと縁が無くなっていた、日程計画、戦略、戦術、説得、討議などのような実務や、情勢判断、緊張感、 達成感、連帯感などの人間的感覚がよみがえって来たのが結構懐かしく心地よくて、今のところ私は快適に適応しているようです。

先月も書いたように、今私が考えていること、感じている憤りなどをそのまま書くと、この 「 代表 」  という立場上、問題が起きるかもしれないのです。 こればっかりは 「 不自由なことになってしまった 」  と、残念に思います。 私が今随想に書きたいのは、そういう内容ですから、よっぽど慎重に言葉を選ばないと・・・。  という訳で、今回は、妻カホルが、去年から書き続けていた  「 グリンウッドの思い出 」を、転載しました。 今までは彼女が自分でパソコンに打ち込み、プリントし、 写真を貼り、更にゼロックスにかけてコピーし、友人に配るというステップでしたので、潰れた調子の白黒の写真を残念がっていましたが、 昨日はディスプレイ上の鮮明なカラー画面を見て、大喜びしていました。

3月度(3. 31. 2002)

今年はついに家の前の道に、一度も雪が降ることなく春が来てしまったようです。 桜の開花も、 早い早いと騒がれるほどでは有りませんでしたが、当地でも昨年より4日ほど、以前よりは1週間ほど早くなっています。

昨年11月以降、来年の地方選挙に備えるある政治団体の代表を務めることになり、今年に入ってからは、 その関係で毎日が結構忙しくなっています。このことについて詳しく書きたいのですが、一歩誤ると 「 事前運動 」 だとして、 お叱りを受ける恐れもあるので、来年の4月にでも、まとめて書くことにしましょう。

それとは別に、私の住んでいる市の市会議員を、現在の24人から18人に減らそうという住民直接請求運動にも夫婦ともども加担したので、 その署名集めも4月中旬から始まり、ますます忙しくなることでしょう。 そして、例の 「 一票の格差を考える会 」  の活動があります。 死ぬ前に、この社会を少しでも良くすることに微力を費やすのが、 この世への恩返しだと考えて首を突っ込んだのですから、自業自得なのですが、3つも重なると、それは大変です。

市会議員を減らそうという住民直接請求運動は、この町の過去の自治会長たち数十人が、2年間、何回も熱心に集まり、 議論を重ねて、ついに市内全有権者対象の署名運動にまで持ち込んだ成果です。 私が非常に面白いと思うのは、 このような地方小都市の自治会長を勤めるような人たちと言えば、大多数が、保守派、現状維持派、 体制派と見なされても仕方のない人たちの筈なのに、そういう人たちが 「 行財政改革実現のために! 」 ということで、 団結して改革の先頭に立ち、行動を起こしたという事実、そして、それに対して、 当然もろ手を挙げて賛成するかと思われた地元の共産党支部が  「 議員を減らしてはならない。むしろ30人くらいに増やすべきだ 」 と反対していることです。

住民の人口当たりで比べると、県下各都市の中でもダントツに多い市会議員数と議会費の額とを、 更に大幅に増やせなどいう彼らの 「 たわごと 」 を聞いていると、保守とか革新とかいう 「 くくり 」 が、 もう通用しない時代に我々は生きているのだと、改めて痛感します。 こういう 「 くくり 」 や 「 枠 」 を脱却して、 自分の頭で自分で熟慮し判断しないと正しく生きてゆけない時代です。

2月度(3. 2. 2002)

先月予告した、衆参両院全議員に一票の格差とその解消の手段につき、見解を問う、 公開質問状のような緊急アンケートの発送が、昨日行われました。  回答期限は3月15日です。  鈴木宗男議員の証人喚問でゆれる多忙な国会ですが、高い回答率があることを期待しています。  アンケートの中身に興味のある方はご覧下さい。

この件については、私は、実は、2月は事務上の協力はほとんどしていません。 国政より地方政治の改革の方の仕事で、 私は連日忙しかったのですが、この事については、将来まとめて書くことにします。

新しい WindowsXP のパソコンに、最新のプリンターと最新のスキャナーを取り付け、私の IT環境は一変しました。  とにかく、5年間の技術の進歩って凄いですね。 少なくとも、ローカルの私鉄と新幹線くらいは違います。

これらのインストールや調整を夢中でしていたら、頭の芯が疲れてきたので、急に思い立って格安航空券を見つけて北海道に飛び、 新鮮な冬の味覚を腹いっぱい味わってきました。 生まれて初めて、朝・昼・晩と3食続けて寿司中心の食事を味わうという、 馬鹿げた事もして来ました。 しかし、とにかく旨かった!

この項をアップロードしようとしたら、このホームページの訪問者数が、ちょうど8,000になっていました。  4年間ではずいぶん少ないと思う一方、こんな内容でよくここまで来たという感慨もあります。

1月度(1. 31. 2002)

新しい年が始まったと思ったら、もう1カ月が過ぎてしまいました。

経済同友会、新しい日本を作る国民会議 ( 21世紀臨調 )、日本青年会議所、衆議院議員有志その他の多くの団体、 個人が昨年末以来協力して、一つの有識者会議を立ちあげ、衆参両院全国会議員に対し、 一票の格差とその解消の手段につき、見解を問う3ページほどのアンケートを出すことになりました。 私も12月と1月、何度か東京に出かけ、微力ながらこの企画立案に参画しました。 このアンケート結果は、集計後、議員個人名を明らかにして3月頃に公開させていただく予定です。 面白いと思いますよ。

先月、新しい Windows XP 搭載の高級なパソコンを買ったことを報告しました。 新しいパソコンの種々の設定、古い方から新しい方へのデータの移管は年末に終わり、 除夜の鐘の音と共にメールの送受信も新パソコンに移し、旧パソコンを閉じました。 その後、今年入ってからも連日、 何冊も買い込んだ参考書と首っ引きで、新しいソフトウェアの習熟のための勉強を続けました。  当たり前と言われるかも知れませんが、Windows 95 から Windows XP への6年間の進歩は 「 革命 」 ではなく 「 偉大なる改良 」  に過ぎないと言う事が、肌で理解できました。

困ったことに、4、5年前に買ったプリンターやスキャナーなどの周辺機器が、その後のインターフェイスやソフトの変化により、 新パソコンでは使えなくなってしまっている物もあることでした。 仕方なくその一部は新しい品を購入し、 最新製品の優れた品質を味わえるようにはなりましたが、これでまた、粗大ゴミがいくつか増える結果となりました。

こんな古い周辺機器を貰って使ってくれる人も居ないでしょうし、 5年前に買って以来、連日の酷使にも耐えて今も使おうと思えば使える Windows 95 の旧パソコンと共に、 近くの不燃物処理場に持ち込むことになります。 中古車を下取りに出す時も 「 哀れ 」 を感じて可哀想になりますが、 パソコンは日ごろインテリジェントに質問に応答したり、すねて黙り込んだりしても、なだめてやるとまた忠実に働いてくれたりしたので、 自動車よりも更に人間味が感じられ、胸が締め付けられるような思いです。

今年も1月早々から二つほど講演のご依頼を受けたり、いくつかの団体の年賀の挨拶会に出たりと、 最近では珍しく頻繁にスーツを着てネクタイを締めたりする一方、仲間と七福神めぐりのウォーキングに出かけたりもしました。  今年からは年齢を考え、真冬のゴルフのお誘いは原則として断ることにし、昨年娘夫婦と共同購入した伊東のマンションに泊って、 温泉プールで運動することにしました。 今年の5月にはなんと古稀を迎えることになりますし・・・。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました

この先です。