私と家族の近況



*あしがらみち*

2015年 後半分:最新は12月度


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12月度 (Jan. 1, 2016)

 50年近い伝統のある、当地の立派な男声合唱団の定期演奏会を聴きに行きました。 私が若い頃一緒に ( 別の合唱団で ) 歌った友人たちも、 何人もが、80歳前後なのにまだ元気にステージに立っていました。 楽しいひと時でした。

 プログラムを読んでいると、団員の平均年齢が約70歳になったと書いてあります。 そう言われて演壇を眺めると、黒髪のメンバーは数えるほどしかいません。  周囲の客席を見渡すと、男女の観客の平均年齢もこれまた、どう見ても60歳をだいぶ超えているようです。

 ダークダックスその他の著名な男声ヴォーカルグループが姿を消し、後が続かないことからも分かるように、 若い人たちだけでなく、世の中全体が、「 男声合唱 」 というものにあまり興味を示さなくなっているのでしょう。 これも時代の流れというものでしょうか。  そう言えば、数十年前には、米国や当時のソ連には素晴らしいプロ、セミプロの大編成の男声合唱団がいくつもあって、 世界中を巡業して回っていましたが、最近ちっとも彼らの名前を耳にしませんから、男声合唱の衰退は日本だけの現象ではないようです。

 ともあれ、今年も終わり、新しい年を迎えます。 つい数年前までは、新年を迎えることが自分にとって 「 当然の成り行き 」 で不思議でもなんでもありませんでした。  しかし今は 「 もういつ死んでもおかしくない齢だ。 良くここまで生きて新しい年を迎えられた 」 という感慨に、深く浸ります。

 夫婦とも80歳台を迎えたのに、二人とも今年一年間、大病もせず・・・どころか、風邪ひとつ引かずにまずまず ( 濁点あり。ご注意 ) 健康でまずまず元気に暮らせました。  両人とも、目下のところ認知症の兆しも無く、家事全般も趣味の活動も、友人たちとの交流も、それぞれ自分ひとりで普通にやれます。  何度も申してきたことですが、これは珍しく幸せな境遇なのだと感謝するばかりで、この状態を一日でも長く保つよう、来年も努力を続けます。

 また、私は今年、全国各地から取り寄せた日本酒を約90種類も味わう事が出来ました*。 10月に、酒を数日飲まないと血糖値が下がるという発見について書きましたが、 12月以降、やはりほとんど毎晩飲むことにしました。 これ以上少々長生きすることより、いま毎日が楽しいことの方が人生には大切だと考えることにしました。  今年は一日も休まず自分の脚で元気に速足で日に平均五千歩以上歩きました。 台風の日もありましたが、 当地では風雨がひどかったのは幸い夜間が主でしたから、傘をさして歩ける時間帯がありました。 総距離は旧東海道の江戸と京都の間を往復する程度ですので、 大したことはありませんが・・・

*:年間飲酒量は日本酒130リットル程度・・・大きなバケツに10杯あまりでしょうか。  毎日2合は健康的な適量だ!と考えることにします。 飲むばかりでなく、日本酒関連の本は専門書も含め今年20冊以上読みました。  きき酒師の試験合格を含め、今年は日本酒に明け暮れた一年でした。

 今年の元旦の朝に73.1kgだった体重は、大晦日の朝、70.3kgにまで減りました。 BMIの値も24.9となり、 従来正常とされてきた値の範囲の一番上くらいに入って来ました。 私は消化吸収能力が高いらしく、ちょっと余計食べると翌朝直ぐに大幅に太るたちなので、 10月以降昼食は何も食べない習慣にしたら、その効果がやっと現れたようです。 最近5年間 「 不動の 」 73〜74kgだった体重にようやく決別出来ました。  昼食抜きでも、慣れれば夕方まで全くひもじくありません。 昼食後の血糖値上昇がない分,HbA1cも下ったようです。

 では、3種類作った写真年賀状の内の一つを添えます。 どうか皆さま、来年も佳い年をお迎えください。




明けましておめでとうございます

 2016年元旦       熊井 章・カホル


250−0133 南足柄市福泉241

朝焼けに映える赤富士紅葉越しに。

        2015.11.7 午前6時過ぎ 河口湖町にて撮影



11月度 (Nov. 30, 2015)

 昨年秋は京都に行き、永観堂その他で素晴らしい紅葉を観てきましたが、今年は6日から7日にかけて、 二人で山梨県の河口湖と西湖の周辺にドライブして 「 紅葉と富士山 」 をテーマに写真を沢山撮ってきました。  年賀のメールに使う予定の写真2枚は公開せずにとっておく事とし、それ以外の中から2枚を載せます。



 毎年の事ですが、11月は学生時代の同期会、在職時代の旧友たちとの会合などが次々にいくつも開催される多忙な月です。  余り多く開催されるので、何とか一部を10月とか春とかに開催するようにして欲しいと希望してみるのですが、事態はほとんど変わりません。  日本は何事も 「 横並び 」 の国です。 「今年も5つの開催通知が来て、そのうち開催日が重なったものがあったので、結局4つに出席しました。

 それでも、幹事やメンバーの高齢化が理由で、以前よりは数がずいぶん減りました。 小学校の同期会は戦争中の疎開の影響で私の場合2つあったのでしたが、 77歳の時と、80歳の時を最後に、両方とも中止になりました。 大学の同期会も、前期と後期とで2つあり、両方とも私が幹事長でしたが、 80歳を前にして一方は中止と決め、実施しました。  それでも現在まだ6種類の会合が残っていて、そのうち1つは年2回、1つはなんと毎月開催なので、全部出ていたら年に合計20回近くになるのです。

 もちろん、会だけでなく自分自身にも着実な変化が起きていることに気づかされます。 70歳台の頃は、こういう会合に出席した際、好きなだけ食べ、 かつ飲んでも、何事もなくシャンとして帰宅できる気力と体力がありました。 それが、80歳を過ぎたら、酔って余計なことをしゃべってしまうのではないか、 車内で寝込んで駅で降り損なうのではないか、手提げカバンをどこかに忘れてくるのではないか・・・などと、いろいろ気になるようになり、 そうならないようにと飲酒量を配慮したりするようになってしまいました。

 それでも、ひとりで自分の頭と脚を使って元気に遠くまで外出し、初めての会場を探し当て、元気に歓談して無事家に帰ってこられるだけ、 私は幸せなのだと痛感します。 そういう行為が困難になったり出来なくなっりしている旧友たちが、最近急速に増えてきているのです。

 「 現在83歳の自分が、どれほど長くこの世を生きてしまったことか と考え込んでしまいます。  明治維新 ( 1868年 ) から83年後というと、1951年 ( 昭和26年 ) です。 私はこの年に大学に入学しました。  社会科は日本史で受験しましたが、当時の私にとっては、日清・日露戦争ですら遠い過去の出来事。 ましてや明治維新なんて 「 遥か遥か昔の歴史上の出来事 」 だと思っていました。

 しかし、こうして勘定してみると、まだ男たちが 「 ちょんまげ 」 頭だった明治維新の年に生まれた人が、 私が大学生になった18歳の年に、今の私と同じ83歳だったのです!  「 自分はもしかしたら、この世に長く生きすぎた過去の遺物なのではないだろうか 」 と思えてきました。

 
10月度 (Oct. 31, 2015)

 10月11日に富士山の 「 初冠雪 」 がありました。 翌々日の朝、雲ひとつない快晴だったので、箱根の富士見峠に車を飛ばし、 写真を撮ってきました。 空気は澄み、雲のたなびき具合も良く、カホルは、今まで見たうちで一番きれいな富士山だったと喜んでいました。


 私達が結婚したのは1958年の11月ですから、もう57年ほど前の話です。  当時は新婚旅行といっても、首都圏に住む人だと、伊豆、箱根、熱海あたりに数泊するのがせいぜいでした ( それ以前、第二次大戦直後に結婚した先輩たちは新婚旅行など出来なかった人が多かったようです )。  九州や北海道に行けるようになったのが1960年代後半、1970年代にはそろそろハワイ、80年代が東南アジアで、90年代になると欧州やオセアニアあたりと、海外も次第に遠方に行くようになってきたと資料にはあります。  今世紀に入ると、海外の旅行先はさらに多様化、高級化、長期間化してきているようです。

 私達は各駅停車の三等車 ( と言っても、今の人には分からない? ) に乗り那須・川治・日光と3泊4日の旅行でしたが、 最近ネットで調べてみたら、その時泊まった宿は3つとも、見違えるほど立派に建て直されて現在も営業していることが分かりました。  そこで、紅葉を鑑賞しながら、これらの宿を57年ぶりに訪れてみようと考え、手配をすっかり終えたのでしたが、残念なことにカホルが直前にお腹を壊してしまい、 計画は一旦キャンセルとなりました。

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 話題を変えますが、これも矢張り個人的な健康の話題です。 ご興味のない方はここで終わりにしてください。

 数年前から私の血糖値が徐々に上がってきて、毎月1回通院しては検査と投薬を受けています。  薬のお蔭で正常値と糖尿病の境い目あたりを行ったり来たりしています。  何とかして、血糖値を 「 まずまず健全と言える範囲 」 に安定的に維持したいと考え、 毎日の運動も食事のコントロールも十分実行しているつもりですが、それでも不十分なので、 簡便だが正確な測定器を購入し、他にも要因があるのではと、いろいろ調べてみました。

 飲酒と糖尿病の関係については、ネット上にたくさんの記事が出ていますが、もちろん他の分野における記事と同様、 その質は実に玉石混淆で、いい加減な記載も数多く見られます。 その中から信頼できそうなものを拾って読んでゆくと、 少量の日本酒は、害がないどころか、むしろ血糖値を下げるということのようです。

 私は過去十数年、夕食時には一日も欠かさず日本酒換算2合という 「 適量* 」 の飲酒を続けてきましたが、毎月測定している肝機能、 腎機能その他の測定値は現在まで全く問題ありません。  でも、もしかしてこの酒が近年の血糖値上昇の原因なのではないかと疑い、「 5年前に短期間入院した時以来初めて 」 という 「 5日間連続の禁酒! 」 を断行してみました。 禁酒前5日間と禁酒中の5日間、終日頻繁に測定を続けて方眼紙上に血糖値の推移をを記録してゆきました。 真夜中に小便に起きた時にまで計りました。

*: これは私にとっての個人的な 「 適量 」 であって、医学的な適量はこの半量程度という説が大勢のようです。

 その結果判明したことは、空腹時も食後も、早朝も日中も夕方も真夜中も、禁酒期間は飲酒期間より血糖値が一律に20〜30mg/dLずつ下がっているということでした。  これなら、十分許容値に入るのです。 もちろん、この禁酒の効果は私に限った話で、そうはならない体質の人もきっといると思いますが・・・

 とは言えさあ、困った! 今後も断固禁酒を継続すべきだろうか?・・・古い都々逸に 「 酒も煙草も女もやめて、 百まで生きた馬鹿が居る 」 というのがあります。 また、「 酒も煙草も女もやめて、五十で死んだらもっと馬鹿 」 とか、 「 酒も煙草も女もやめて、ストレスたまってガンになり 」 なんていう最近の替え唄もあります。  残り少ない人生の過ごし方の選択の重大な分岐点に、83歳の私は直面しています。

9月度 (Sep. 30, 2015)

 今月は日本酒醸造蔵元の訪問見学は1軒だけしかできませんでした。 試飲があるので、車で行くわけにもゆかず、 バス、電車、タクシーを乗り継いで、自宅から1時間ほどをかけて参加しました。  ここは近年いろいろと新しい試みをとり入れているようで、醸す酒の味もどちらかと言えば気に入っている部類。  最近は国内各地の酒店でも広く売られるようになってきた、意欲的な経営の蔵元です。  定員30人の中にたったひとりで参加しましたが、見知らぬ参加者たちも交えて話題が弾み、楽しい一日でした。

 10月になると、そろそろ新酒の仕込が始まり、現場は猛烈に忙しくなるので、地域の蔵元では見学会はほとんど開催されません*。 来春まで、私は別の機会を作って勉強する事になります。

*:先月見学した二つの蔵元は、規模も比較的小さく、共に岩手県から南部杜氏ほか数名が秋の稲刈りを済ませた後やってきて酒を造り、 春先に田植えが始まる前に帰ってゆくという、江戸時代中頃から続く 「 寒造りだけ 」 という伝統的なスタイルです。  したがって春から秋にかけては少数の地元社員が熟成や瓶詰め、出荷程度しか行わず、ヒマなので見学させてくれるのです。  一方、関西その他の大手メーカーは、工場内の空調設備あるいはタンクの保冷設備等が整っており、一年中一定の低い適温のもとで生産し続けることが可能です。  こういう蔵は年間を通して雇用されている 「 社員 」 が 「 通年醸造 」 に携わる近代的生産形態で、 事情が許せば一年中いつでも見学ができます。 大きな専用の 「 見学館 」 を備えているメーカーすらあります。  全国には、この両者の中間に分布するいろいろな生産規模、生産形態の蔵元があります ( 総計千数百 )。  今月見学した蔵元は、生産規模や生産形態が上記のどちらとも異なる中間的規模のメーカーでした。

 蔵元を訪れる日は、見学者は朝食に納豆を食べてはいけないのです。 杜氏 ( とうじ ) や蔵人 ( くらびと ) も日本酒の醸造に従事中は納豆を食べません。  納豆菌は猛烈に生命力が強く、麹作りの際にこれが混入繁殖すると大変なことになるからです。  同様の理由で日本酒に対して有害な火落ち菌を含む可能性のあるヨーグルトが嫌われると聞いたこともあります。  また、酵母を使ってパンを作る現場でも納豆菌が悪さをすると聞いたこともありますが、これら2件は聞いたことがあるという程度です。  いずれにせよ、納豆菌は良くも悪くも最強の菌であり、日本酒の蔵元に忌避されている事だけは確かです。  稲藁についている野生の納豆菌はとりわけ強いと言われています。

 偶然TV番組の中でで見たら無性に欲しくなって、世界最小クラスと銘打ったおもちゃのヘリコプター ( ピコファルコン ) を¥3千ほどで買ってきました。  83歳の爺さんが買う品物では、たぶんないとは思うのですが、もう見栄も外聞も気にしなくなりましたので・・・  横に置いたガラケーと比較すれば、どれほど小さい物かお分かりでしょう ( 写真左 )。 それが結構良く飛び、 コントローラーの操作をちょっと練習しただけで、ホバリング ( 空中静止 ) しながら左右に回転したり前進・後退したりも出来るようになりました ( 写真右 )。  こんな小さな機体にこれだけの部品、機能を詰め込める技術って、凄いと感心するばかりです。  操作に慣れるまでに壁や床に何十回も衝突したのに壊れない丈夫さも立派です。


 7月に書いた箱根の大涌谷の噴煙はだいぶ収まってきたようで、警戒レベルも下げられ、9月4週目の5連休には殆どの旅館、ホテルが満員とのこと、ホッと一安心です。

 
8月度 (Aug. 31. 2015)

 春先から丹精して育てた紅白一対の 「 サンパラソル 」 という、チグハグで奇妙な名前の植物が、 ようやく育って、我が家の外周の石垣の上の植え込み伝いに花を一杯咲かせてくれました。

 今月は自宅近くの古い創業の日本酒醸造蔵元数軒を訪ね、じっくり見学 ( と 「 きき酒 」 ) をさせていただき、ほんの少しですが、 「 きき酒師 」 らしい時間も過ごしました。 日本酒の生産は、年間を通して室温の厳密な調整ができる大手メーカーを除いては、 秋から春にかけての寒い時期にだけ行われます。 夏季は概して暇なので、見学会を開いては広宣活動を行うようです。

 見学会では、50人ほどの30〜40歳前後を中心に多くの男女が集まり、熱心にメモを取りながら質問を飛ばしていましたが、その内容を聞いていると、 彼らがよく勉強していることが分かります。 一方、蔵元の方も最近は設備投資や工程改善、新製品の開発などに熱心なところも多くなり、 今世紀に入ってからの 「 日本酒ブーム 」 が本物であることがよく実感できます。

 多くの蔵元は最近、原料の酒米 ( 正式名称は酒造好適米 ) を他県から購入するだけでなく、自分で、あるいは近隣の農家と契約して、 地元で生産するようになってきています。 私の家の近くの田んぼでも、意外に沢山の酒米が生産されていることを知り、 ウォーキングがてら、見に行きました。

 酒米の稲は一般に背が高く、穂も長くて米粒が大きく、多くは晩生です。 注意して観察すれば通常の食用米の稲との区別はつきます。  下の写真では左奥の方はおそらく食用米の稲、右手前が酒米 ( たぶん品種名は 「 若水 」 ) の稲です。


 炎暑の中、昼間ウォーキングするのは、さすがに怖いので、今月は夕食後、8時頃涼しくなってから毎日歩きました。  先日の夜、車を運転していたら、上下黒っぽい服を着た男性が無燈の自転車に乗っているのに出会い、気づくのが遅れて怖い思いをしたので、 私は必ず白のシャツに白の半ズボンで歩きます。 暗い田舎道を夜間、黒っぽい服を着て歩いたり自転車に乗ったりすることは、 とても危険な行為だと思うのですが、当人は全くそう思っていないようなのが気になります。

 盆休みに息子夫婦が孫たちを連れて遊びに来てくれました。 在独の姪夫婦が毎夏訪日して開く演奏会 ( 夫のドイツ人がコントラバス、妻の姪がピアノ ) にも行きました。  夏は亡くなる人も多いらしく、訃報が相次いで古い友人の葬儀にも出ました。  そんなこんなで汗だくでうろうろ飛び回っているうちに、またたく間に1か月が過ぎて行きました。

7月度 (Jul. 31. 2015)

 7月20日は 「 海の日 」 でした。 60年以上も前、大学生の頃、毎夏泳ぎに通った 静岡県の伊豆西海岸の戸田 ( へだ ) にある学生寮の懐かしい寮歌を思い出します。

 80歳を超えた無職の夫婦は、健康なら毎日暇を持て余しているのが普通だと思いますが、今月の私たちはなぜか毎日毎日忙しくて、 カレンダーの予定欄はほとんど連日、ビッシリと埋まっていました。 朝から晩まで三つも会合や宴会が続いた日もありました。  合間を見て日課のウォーキングもこなさなくてはならないし・・・それでも熱射病に倒れることもなく、何とか乗り切れました。

 箱根の大涌谷で小規模の噴火があったと報道されたのは6月の末でしたが、「 どの程度のものか、遠くからでもいいから見てみたい 」 と、 野次馬根性丸出しで、車で箱根新道を駆け上がりました。 あらかじめ地図で調べて、この辺りからなら大涌谷が見えるはずだと考えた地帯は、 道路脇に背の高い樹木が連なって視界を遮っていたり、手前の低い山が邪魔していたり、他車の走行の邪魔になるので車が停められなかったり、 「 この先危険につき進入禁止 」 だったりで、結局下右のような遠方からの写真しか撮れませんでした。

 

左は2011年10月。 噴煙は至近距離で撮ったのにこの程度の大きさ。  右は今回。 直線距離 5.5km の遠方から撮った噴煙

 しかしこの噴煙 ( 右上の写真 ) の大きさは、以前平穏時に見た 「 あちこちに点々と小さな蒸気の柱が噴出していた 」 状態 ( 左上の写真 ) とは全く違う直径100m以上 ( 私の推定 ) もの巨大なもので、 これは確かに事態が変っているようです。

 コーヒーを飲みにと立ち寄った有名な某ホテルでは、夕方も近いチェックインの多い時間帯だというのに、 ロビーに人っ子一人見かけることもなく、こんな状態が続いたら、さぞかし大変だろう、一日も早く元に戻って欲しいと思いました。

 3日には40年近く前にカラーフイルムの新工場を立ちあげ軌道に乗せた当時の若手幹部たち ( 現在はほとんどが退職している ) が年に2回顔を揃える 楽しい夕食会が催され参加しました。 翌週の9日には、20年ほど前、米国工場の建設・立ち上げ当時一緒に働いていた社員の奥さんの一人が属するコーラスの発表会が横浜であり、 そこにカホルと2人で招かれて聴きに行ったら、当時一緒に駐在していた社員の奥さん方が沢山来ていて、楽しく、懐かしいご挨拶ができました。   私は、当時これら両プロジェクトでは彼らに支えられながら、上に立って、長期間苦労を続けていたのでした。

 今もなお皆がこうして集まって仲良く交流できる状況に接すると、幾多の辛酸を嘗めあった若いころの厳しい職場が、 実は本当に実りある豊かなものでもあったのだということが実感されます。 とくに米国では 「 僻地 」 と申してもよいような小さな田舎町での生活だったので、 社員だけでなく奥さんたちも仲良く協力し助け合わなくては生きて行けませんでしたから、 日本に帰って20年も経った今でもこうして親しく交流し続けられる深く広い友情の輪が築かれたのだと思います。

 去る5月には、もっと昔・・・45年ほど前の新商品開発チーム当時の部下の皆さんたちが、私の誕生日を 「 口実に 」 して夕食会を開き、十数名が集ってくださいました。  不思議なもので、これらの3つの時代いずれにおいても、当時は苦しさ8分+充実感2分くらいだった私の感覚が、 今では達成感8分+後悔2分くらいにと変ってきています。  今でもこうして遠い昔の仲間が楽しく集まれる集団を渡り歩きながら働けたことの幸せを深く感謝しています。

 あ、また、決して書かないことに決めていた 「 過去のこと 」 を書いてしまいました。  いくら抵抗しても、寄る年波には勝てなくなったということでしょうか。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました


この先です。