私と家族の近況
私と家族の近況

(ブラウザーの種類によっては、 上記のタイトルが私の意図通りに表現されないかも知れません)

*あしがらみち*

2001年前半分です。 後半の7月度以降分はここをクリックしてください。

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6月度(6. 28. 2001)

6月は、長期間、欧州の数国をリュック一つを背に、美術館と寺院と旨い食事をめあてに、 毎日2万歩も歩き回る事に費やしました。 日本で毎日一生懸命働いている人たちに対して申し訳けなく思いながら・・・。 帰国したらさすがにくたびれてしまい、なかなか時差ボケがとれず、改めて年齢を感じました。 結局、6月は、他にたいしたことは何もできませんでした。 そこで、この旅の感想と、米国映画 「 パールハーバー 」 についての伝え聞きの報告だけです。

これで近況報告と言えるかどうか・・・。
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いまさらとも思う陳腐 ( で独断的 ? ) な感想ですが・・・。

  • ミケランジェロ・ブオナローティという人は、モーツアルトにも劣らぬ早熟の、 神に選ばれたまことの天才であった。

  • 南欧諸国における中世の寺院建築の技術、執念、財力に改めて圧倒された。 人間業とは思えない。 一つに何百年もかけてこういう物を作りあげた昔の人は本当に偉い。 日本の古い木造建築も立派だが、規模のレベルが桁違い。 立派に保存・修復されているのが嬉しい。

  • どの国、どこの都市の寺院でも、朝でも夜でも、 いつも信心深い老若男女が長時間じっと祈っていた。 日本とはここが違うように思う。

  • 南欧大都市のホテル、レストラン、土産物店では、 現地スタッフの多くが、なかなか上手い日本語をしゃべる。 私がやっと覚えた片言の現地語など、恥ずかしい 。 こちらが下手な現地語で聞くと、彼らが上手な日本語で答えるのだ ! 口惜しいけれど、 通じたのだから良しとするか。
    あるレストランで・・・ウェイター :「 ( 料理を並べながら窓の外を指し ) ここ、昔、吉原 」。
    私 :( 危うく口中のワインにむせ返りそうになる )。

  • スペイン、フランス、イタリアを結ぶ線より北では、うまい物を食う事は期待できない。 私の知らない 「 例外 」 もあるだろうが、私は今回もまた諦めてしまい、早々に南に下った。

  • 逆に上記3国では、その気で探せば、路地裏の軽食堂や惣菜屋ですら、 驚くほど安価な美味にめぐり会える。 食いしん坊の執念が正当に報いられる国だ。

  • ガイドブックの推奨するレストランを信用してはならない。経営者もシェフも、 変る事があり、そうなると、レベルはたちまち変る。そのときどきのうまい店を探しあてるには、 現地人ガイド、在留邦人、ホテルマンなどに、事前にしつこく尋ねる執念が大切だ。 ある店では、開店20分前にはもう長い行列が出来ていた。 私は翌日もここに出かけ、連日の美味を満喫した。

  • ひところの狂牛病騒ぎも何のその、今では多くの人が牛肉料理を食べている ( 本家の英国については知らない )。 わたしも食べた。

  • 日本にいる時は全く気づかないが、日本人は頭の体積と顔の面積が大きいと痛感。 南欧諸国でなら、私だって脚の長さはとも角、身長はほとんど引けをとらない。 しかし頭の体積と顔の面積という点で、私同様、遠くから見ても、 日本人はすぐにそれとわかる。 私はそれほど 「 デカイ面 」 をして歩いているつもりはなかったのだが・・・。

  • スリ、ひったくりに遭わないためには、不断の緊張感と彼らとの知恵比べしかない。 3年目の今回、ようやくこの知恵比べを楽しめる所まできた。慢心は危険だが・・・。

  • 日本は、給与も物価も今の半分にしないと、欧州の国々と消費感覚のバランスが取れない。 あのバブルの頃、こうなってしまったのだろうか。

  • 大都市ではどこでも、ブランド店に群がる日本人のオバサンたち、娘たちが、 順番札を貰い、長時間待たされ、奪い合うようにして幾つも幾つも売っていただいていた。 店員たちはこの貪欲な購買力をどう感じているのだろうか。

  • わずか40年足らず前、99%の日本人にとって、 海外旅行など、夢のまた夢だった。 今では、99%の日本人にとって、それは手を伸ばせば届く所にある。 「 だが、このような時代でなかったら、旅が生死を賭けての闘いであったような時代なら、 私は生まれた土地を離れることもなく、なにひとつ見ることもなかったろう。 まぼろしとしてさえも。 たやすい、はかない、だがそれゆえにこそ可能な旅は、 現代文明が一部の先進国の国民に与えた贅沢な玩具である。 それを享受することは、 富める国の民のおごりに他ならない。 私の旅を可能にした、そのおおよそは、 たまたま先進国に生まれてきたという、偶然の恩恵によるものなのだ 」 ( 篠田真由美著 「北イタリア幻想旅行」より )。

  • 出発前に随分沢山の本を読んで、予備知識をつけていった積りだったが、 なぜか今、それがあまり役に立ったという気がしない。 偶然フラリと入った名も知らぬ寺院に感激したことの方が多い。
    確かに、たやすく行け、はかなく終った旅だった。 所が、帰国後に図書館でまた何冊も別の旅行記などを借りてきて読むと、 妙に説得力があり 「 ああ、そうだったよなあ 」 という共感が湧いてくる。 そして 「 また来年も行こう ! 同じ町にもう1度、そして別の町にも 」 という気分になる。

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映画 「 パールハーバー 」 が米国で封切られ、大好評と伝えられています。 日本でも近く公開との事ですが・・・。

この映画を米国で観た日本人の友人たちの感想が伝わってきました。 彼らは皆、たいへん不愉快な思いにさせられたようです。 なぜかと言うと、日本人出演者たちはわざと、醜い、愚か者じみた顔の人ばかりが選ばれ、 筋書きは、日本人とはどれほど狡猾で、うそつきで、野蛮かという事を、これでもか、 これでもかと強調することに終始しているからだそうです(*)。

日本人たちは皆、途中で映画館を出たくなるのをこらえて、最後まで観て 「 いくら真珠湾攻撃が憎いからと言って、なぜあんな風に描くのか 」 と腹を立ててしまうのに、 米人たちは 「 実に良い映画だ 」と、感心し満足し興奮して出てくるのだそうです。 ある友人は、映画館を出る時、一緒に観た米人から 「 ( もしあなたが興奮した米人から乱暴されそうになったら ) 私があなたを護ってあげる 」 と言われたそうです。 もちろん、そんな事は起きませんでしたが。

まあ 「 立場が逆なのだから、いちいち怒っても・・・ 」 という考えもありましょうが、 「 日本人を批判するのなら結構だが、差別的に愚弄するのは許せない 」 という事のようです。 とにかく、普段ガラ空きの映画館は、今は長蛇の列だそうです。

日本で封切られる版では、多くの不愉快な部分は大幅に削除されるそうですが、 そんな日本版を観て面白がったりしていたら、米国人に馬鹿にされますね。 日本での公開が、 どんな動員数と反応になるか、興味が有ります。

そして、この日本版での 「 削除 」 を行おうと考えたのは、日本の輸入業者側なのか、 それとも米国の製作配給者側なのかという事を、私はぜひ知りたいと思っています。

米国人 ( 白人 )たちは、今でも有色人種に対する抜きがたい優越感を心の中に持っています。 わずか40年足らず前までは、学校で、レストランで、 バスで、トイレで、ゴルフ場で、要するに社会全体で、 有色人種を明確に形に現して侮蔑し、制度として差別する事が許されていたのですが、 それ以降、そういう言動も制度も法的に許されなくなりました ( 1964年の公民権法 )。 しかし、真珠湾攻撃に関して日本人を侮蔑するだけなら、今でも許されるわけで、 この映画で、彼らはようやく日頃の抑制を解くことができ、 白人同士、優越感を確認しあっているのだろうと、私は想像しています。

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(*):7月13日の毎日新聞の映画評論によると、病院狙撃や一般市民の狙い撃ちというような、 実際には全くなかった非道な行為が、日本の飛行機により行われたというシーンもあるそうです。 ドラマなら、事実に反する描写をしても良いのでしょうか。 我々は黙っているしかないのでしょうか。

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5月度(5. 28. 2001)

いくら運動しても体重が減らないので、思い切って2月末から晩酌を止めてみました。 かわりに冷やしたお茶をワイングラスでチビチビ飲んで、 カロリーの少なそうなツマミを少し食べます。 これは結構有効で、1カ月で1Kgくらいづつ減ってきました。ベルトの穴一つ分腹も凹みました。 でも、別に肝臓が悪いわけでもありませんから、機会があれば、たまには飲みます。 「 もうあいつを誘うのは止そう 」 などとはおっしゃらないで下さい。

自治会長の任期が終ったら、少しは暇になると思っていたのに、 忙しさはちっとも変りません。 「 いったい、何がそう忙しいのですか 」 と、私が無職の身の上である事を知っている、 ガソリンスタンドの従業員に聞かれましたが、明快に具体的な説明ができません。 原因のほとんどは付き合い、義理、家事、奉仕、雑用の類です。 本を読むにしても、贈られた本、 読んでみたらと貸された本を読んで、感想を書いて送るだけで手一杯になってしまい、 これはあまり良くない状態だとは思います。 もう少し身辺を整理して、自分で納得の行く充実した 「 私と家族の近況 」 を来月からは書きたいものだと思います。

多忙の原因のもう一つに、或る人から頂いたスペイン土産の堅い菓子を噛んだ瞬間に、 左上の大臼歯にヒビが入ってしまい、その通院治療に時間を取られたという事があります。 その歯の1/3を失い、私は自分の歯が26本と2/3、 プラス人口歯根2本という状況になりました。老齢に伴い、 骨と同じように歯にも 「 そしょう 」 化現象を起こしているのでしょうか。 脳の方も、若い頃と比べると格段の衰え方で、張り切って3月から始めたイタリア語も、 覚えるそばから忘れて行き、この所、ザルで水を掬っている感じです。

小泉内閣のニュースが日本中の関心を集めていますが、反対勢力の陰湿な妨害も強まるでしょうし、 改革の成否については私はいまだに半信半疑です。 何事も、納得の行く改革の達成の前には、 まず既存の体制の破壊が必要でしょう。 だから多少稚拙であっても、乱暴であっても、 暖かく見守って上げたいとは考えています。 それと、国民がもっともっと賢くなって 「 色褪せた古くさい、悪がしこいだけで自分の確固たる考えと言葉を持たない」 既存の 「 政治屋 」 たちを、もう今後は選ばないようにしなくてはなりませんよね。

5月の最後の日、私とその仲間たちがこの1年訴え続けてきた 「 一票の格差 」 の是正について、 小泉首相が突然前向きの発言をした事が報道されました。 「 改革 」 のためには 「 都市が納めた税金を、地方に利権としてバラまく事 」 で当選してきた、 在来型の地方選出議員を減らさなくてはならないと、彼が考えているからでしょう。 遂に自民党首脳部の中からも、前向きの発言が出てきたという事に、改めて感慨を覚えると共に、 この運動を今後ますます強化しようと決意した所です。

一方、社会面のニュースは、腹の立つ事、情けなくなる事、恐ろしい事ばかりの5月でした。 2年半前、私が随想のその13 「 日本に帰ったら日本が変っていた 」 に書いたように、 10数年前、日本ではほとんど見られず、 米国では すでに当り前になってきていた社会現象ばかりです。

10年遅れで日本は確実に、米国の悪い所ばかりを、正確になぞるように追いかけています。 でも、日本人は誰もわざと米国の真似をしているつもりはないのです。 知らず知らずにそうなってしまうのです。そこが恐ろしい所だと、今改めて思っています。

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4月度(4. 29. 2001)

年一度の人間ドックの結果が11日に出て、幸い二人とも、特に悪い所はありませんでした。 私は 「 百歳 まで生きられる体だ 」 といわれましたが ( そんなに生きたくはない )、 やはり部分的には年齢相応に傷んでいるようなので、図に乗らずに生きて行こうと思います。

その前に6日に大学教養学部の同窓会が京都であり、幹事の一人として 古都の満開の桜を愛でながら旧友たちと昼夜兼行の散策をしました。 その後、関西地方を数日うろついてから、 茨木市に住む小学校の同級生池田知加恵さんの家に一晩ご厄介になり、 彼女の2台のパソコンを見せていただき、国立民族学博物館、 箕面の桜なども案内していただきました。

メールで近況を報告しあったりしながら、 今もグループで折々に仲良くお付き合い出来る60年前の同級生の友人たちが居るという事は、 考えてみると、素晴らしく幸せなことです。 不思議なクラスです。

一旦自宅に戻ってから、12日に、珍しく今年初めて 「 仕事 」 のご注文が入ったので、 日帰りで大阪に行き、 某社の役職定年社員のための研修で、がらにもなく 「 人生講話 」 というのを、 2時間半やってきました。 人生講話と申しても、自分が米国で悩み、考え、行動した事を、 ありのままにお話ししただけです。

その後、15日から26日まで、カホルと二人でハワイ島に旅行に行っていました。 その詳細は随想の ( その40 ) に書きました。 というわけで、あっという間にひと月が経ちました。連休は家でじっとしているつもりです。

[ 追加 ]( 5月4日 )

今日、カホルが親戚に電話しているのを聞いていたら 「 無事元気で帰れて、 自分の健康に自信がついた 」 と言っていました。 思い切って行ってよかった。

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小田原市の ( 株 ) まるだい運輸倉庫 の奥山 武会長が、 いかにも彼らしく、突然、ひっそりと71歳で逝去された。 上記の関西旅行から帰ってこの訃報を知った私は、14日にご自宅を弔問し、 お線香をあげたとき、他人の霊前で生まれて初めて泣いてしまった。 というより、 成人して以来、50年近くたって、はじめて私は他人の前で涙を流してしまった。

便箋10枚にびっしり書いた、彼の霊への 「 呼びかけの言葉 」 を霊前に捧げて来た。 20年前に始めて知り合い、途中の8年は私が米国に居て、 ほとんど会えなかったというのに、それほどに、彼とは気が合い心の通じ合う仲だった。 ただただご冥福を祈る。

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3月度(3. 31. 2001)

ご当地名物の杉の花粉がひどいので、ウォーキングもままならない3月でした。 肥満対策の一環として、2月下旬から、禁酒を実施しました。 永年、ほとんど毎晩飲んでいた割には、簡単な事でした。 体が悪いわけではないので、もちろん、たまのお付き合いの席では普通に飲みました。 家では、かわりにお茶を飲み 「 つまみ 」 をゆっくり噛むようにしました。 そのせいか、1カ月で 2kg 減りましたが、前途道遠しです。まあ、気長にやります。

カホルは、昨年買った自分のパソコンを、ようやく思い通りに使えるようになり、 最近は自分の米国生活の思い出を文章にまとめる事を始めました。 ひと区切りごとに印刷し、コピーしては、英会話学校のクラスメートたちにに配っています。 全く、あの頃は、英語の勉強、免許取得、近所付き合い、買い物など、 最初は周囲に日本人がいない中、 手探りで頑張ったのでしたから、いま記録を残しておきたいという気持になるのも当然です。

昨年、地域の自治会長を引き受け、たった1年間の事でしたが、忙しい任期が3月で終りました。 長い間お世話になった地域に、わずかでも恩返したいと思っての事でしたが、 恩返しが出来たかどうかは分かりません。

当然の事ですが、人間関係は会社にいた頃と全く同じでした。 多様な意見、さまざまな性格の人たちがいて、同じ小さな事一つについても、喜ぶ人もいれば、 不満な人もいました。 「 人は見かけによらぬもの 」 と改めて実感しましたし、 誠意のある支援に感激したこともありました。

でも、会社と違うのは、 上の人の思惑を気にしなくてよいので、自分が信じる事を素直に言ったりしたり出来る事でした。 褒められても得意顔せず、非難されてもくよくよせず、攻撃されても怒らないという、 自分にとって現役中は理想に過ぎなかった心境を、どうにか維持できたのも、よい体験でした。 それもこれも、給料や昇進に無縁な世界だからでしょう。 一方、会社で学んだ事務処理の技法や、 さまざまな意見の調和をとりながら組織を運営して行くための手法は、随分役に立ちました。

永年懸案で先送りされていた課題を幾つか実現しましたが、成功だったか失敗だったかは、 もう暫くしてみないと、自分にも分かりません。

とにかく、365日の内300日くらいは、 ほとんど無償の奉仕に近い仕事を、何かしらしていましたが、 4月からは、残り少ない自分の一生の中の貴重な時間を、 自分の意志のままに使える日々が、またやってきます。

9日に、地元の中学の卒業式に来賓として招かれました。 いろいろ感想は有りましたが、 一人一人が前に出て、壇上で校長から卒業証書を貰うために歩み寄る時の、 歩く姿勢の悪さには一驚しました。 約80%の ( とくに男子 ) 生徒が、背中を丸め、 あごを突き出してヒョコヒョコ歩くのです。 若者はあごを引き、正面を見据え、 胸を張って堂々と歩いて欲しいと思いますが、なぜ先生たちはそういう指導をしないのでしょうか。 次第次第にそうなってきたので、この変化に気がついていらっしゃらないのでしょうか。 日常の姿勢は肉体的にも精神的にも、大事な影響が有ると思うのですが。

昨年、小学校の運動会に招かれ、純粋ではつらつとした子供たちの姿に感動しました。 今回も卒業式の中学生たちも、真摯で、立派な卒業式を自主的に盛り上げていました。 上記の歩く姿勢の問題以外は、私は感心して帰ってきました。

しかし、週日の昼頃というのに、あるいはもう深夜だというのに、 毎日ゾロゾロと街をブラツイている沢山の高校生男女の言動には、いつも胸が痛くなります。 何で、あの素敵な小学生や中学生が、高校に入った途端に、こんなに無残に変ってしまうのでしょうか。

17日、東大で研修中の中国人留学生 楊 星さんご夫妻がこんどハーヴァード大学に移るので、 新橋で歓送の為の昼食にお招きしました。 戦前だけでなく今でも、 アジア諸国からの留学生たちに対して、 多くの日本人はいまだに無関心だったり、冷淡だったりするようです。 尽きぬ歓談の中で、 私は彼らから多くの事を教えられたし、彼らも、私の話から色々と学んだと言ってくれました。 今後もちいさな交流の輪を広げ、積み重ねてゆきたいと思います。

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2月度(3. 5. 2001)

2月は28日しかないので、まだまだ時間があると思っているうちに、3月に入り、 5日になってしまいました。 いつもなら前の月の末日に更新するこのページも、古いままで5日も放置されてしまいました。

カホルは23日に誕生日を迎え、**歳になりました。 面白い事に、この日を覚えていて、 お祝いのカードやメールなどを送ってくださるご友人は、欧米人か、日本人でも、 海外生活の長い人たちだけです。 それも、日本人の場合は、年齢に対する優しいお心遣いで 「 お誕生日云々 」 などとは一切書かず、ただ何気なくカードに短い手紙を添え、 一見ただの近況報告の手紙かとも思えるのに、よく見ると、 表に Happy Birthday などと印刷してあるカードだったりして・・・。

まあ、こういうことは、生活習慣というか、文化の違いですから、 出す方が良いとか、出す必要なんてないとかいう問題では有りません。 不思議なもので、 5年も外国に住んでいると、日本人でも大抵の人は、親しい人の誕生日や結婚記念日には、 何かしないといけないという観念に駆られるようになってしまうのです。

現地法人の社長の頃、私は毎月はじめ、 その月に誕生日のある社員全員にお祝いのカードを郵送していました。 カードを買い、宛名をタイプし、郵便局に持って行くのはすべて秘書の仕事でしたが、 サインだけは勿論私の仕事で、毎月100枚程、米人にはローマ字の他に、 サービスの意味で漢字も、日本人には漢字だけでサインをすると、 毎回、人差し指の腹が赤く腫れてしまうほどでした。

その他、秘書や幹部社員、その奥さんなどの誕生日は全部カレンダーに書き込んでおいて、 その日は朝会うなり、お祝いの言葉をかけて上げる事を忘れないようにしていました。 いや、実は忘れた事も何度もありました。

2月は箱根や丹沢の山々に、何度も雪が降りました。 そう言えば、今年は、 梅の香りが強い年だったように思います。 数年前、梅の香りの弱い年が2年ほど続き、 その時は、二人して、これも齢のせいで嗅覚が衰えたのかと、淋しく思ったものでしたが、 昨年また普通になり、今年はとても強いのです。 二人とも毎年意見が一致しますから、 やはり本当なのでしょう。 秋の紅葉の度合いのように、 その年の気象条件と関係があるのでしょうか。

97年の秋にカホルがミラノで到着翌日の朝、心筋梗塞に倒れて入院し、九死に一生を得て、 やっとの思いで帰国して以来、彼女は 「 もう2度と長時間飛行機には乗りたくない 」 と言い、海外旅行は止めていました。 あれは、今にして思うと、 まさに最近話題の例の症候群によるものだったのですが、それはさておき、 あれから3年半経って、普通の生活が出来る自分の健康に自信を得たらしく、 遠くない所なら海外旅行を再開したいと言い出しました。

そこで、最近ハワイに移住した友人が誘ってくれたのを好機に、 私も3月一杯で自治会長をお役御免になるので、4月中旬に、遂に禁を破る事になりそうです。 禁を破るといえば、私も、まだ命が惜しいので、 12月以来3カ月、厳寒期のゴルフを止めていましたが、3月第2週から再開します。 昨日桜の枝をしげしげと眺めたら、蕾も結構ふくらんでいました。 いよいよ春到来です。

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1月度(1. 30. 2001)

1月も足早に過ぎました。 暖冬を憂えていたら、下旬には箱根から丹沢にかけて2回の雪が降り、 窓ガラス越しに冬らしい山々の眺望を得て、ようやく冬も本物という実感です。 24日の朝には久しぶりに庭一面に霜柱が立ちました。 庭の蝋梅も終り、早咲きの紅梅がそろそろ満開となり ( そう言えば25日は天神さまのお祭りでした ) 、日の出も次第に早くなり始めてきました。 次はご当地名物の杉の花粉です。この町には、 関東に2つしかない杉花粉予報のための定点観測ポイントの一つがあるほどです。

1月の風物詩のドンド焼きも済み、 来年度の自治会役員も無事内定すると、いよいよ、自治会長の職務もあと2カ月でお役御免! 最後のご奉公と思って、3月の総会のための資料を毎日少しずつ、作っています。

お正月らしく寄席にでも行こうということで、妻と一緒に一日、上野鈴本に行ってきました。 不忍池の水鳥の群れを愛でてから池の端の薮蕎麦に入り、 早い夕食をという事で、ヌキを肴に熱燗を1本と、 ざる蕎麦 ( 旨いけれど量が少なすぎるから、もう行かない ) を得意の早喰いで手繰り込んで5時に入場。 トリの扇橋のじっくりとした噺が終る8時40分まで、久々に寄席の雰囲気を味わってきました。 でも東京に住む人は羨ましいですね。 二人が自宅に無事ご帰還になったのは、はや深更でした。

3年前、妻の急病で中途挫折したイタリア旅行の続きを、今年一人で完成させようかと考えて、 図書館から関係有りそうな新刊本を沢山借りてきて読み始めました。 河島英昭著 「 ローマ散策 」 と小塩 節著 「 フィレンツェの空に夜が青く花咲くころ 」 ( なんて長い書名だ ) は面白かったです。 同年代の小塩さんと妹さんは、子供の頃、近くに住んでいて、 何度かお見かけしたので、出てくる少年時代の思い出話には共通点が有りました。

まだ本当に行くかどうかすら分からない私なのに、おかしな言い草ですが、 イタリア ( 特にローマ ) に行く前には必読の書だと思ったのが、 石鍋真澄著 「 サン・ピエトロが立つかぎり − 私のローマ案内 」 です。 内容は随分レベルが高いのにとても面白くて平易です。

4分の1も読み進まないうちに、この著者の文体に私はすっかり魅せられてしまいました。 難しい高級な内容が、全く抵抗感なくすらすらと頭に入ってくるこのような文章こそ、 私が常に目指し、しかし、しばしば作り得ないでいるものです ( その28参照 )。 先代の桂 文楽の50歳頃の噺を聴いている時のような 「 流れるような快感 」 のある日本語です。 高名な小説家の文章には、しばしばその人ごとの癖があって、 それがまた読者の好き嫌いの一つの原因にもなり得るのですが、この石鍋氏 ( 執筆当時40歳 ) の文章は、 そういう癖が全くない、模範的、理想的な日本語叙述文だと感じ入りました。

さて、あと数冊読んでから、すっかり忘れてしまったイタリア語に再挑戦しようと思いますが、 果たして気力と根気が湧くかどうか・・・。

1月、朝晩NHKの定時ニュースを聴いていると、連日、最初から最後まで、 暗い話題ばかり100%というのが、夫婦共々とても憂鬱でした。 皆さんは気が付いていましたか ? 横領、詐欺、淫行、収賄、暴行、強盗、殺人、虐待、いじめ、倒産、爆発、追突、環境破壊・・・ もう際限が有りません。 ニュースは世の姿を映す鏡だから仕方ないと言えばそれまでですが、 こんなニュースばかり観ていたら、 そのうちにこの国に完全に絶望してしまうのではとさえ心配になります。 自分でもアホな所業と思いつつも妻にせっつかれて 「 昨年のように、 なるべく明るい話題や面白い話を一つ添えてくれませんか 」 と、 24日にNHKにメールを出したら、その2日後から、その通りになり、妻と二人で 「 エエッ 」 と叫びました。 もちろん偶然でしょうけれど。

2月は少しはマシな月になって欲しいと祈っていますが、無理でしょうかねぇ。

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ご感想、ご意見、ご質問などがあれば まで。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました

この先です。