私と家族の近況
私と家族の近況

*あしがらみち*

2002年 後半分:最新は12月度
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12月度(12. 31. 2002)

12月31日の午後、突然、アメリカから電話がかかってきました。 それは、ボストンのハーヴァード大の医学部で研究を続けている、 若い中国人の楊 星博士からでした。 奥さんもハーヴァードのビジネススクールを目指して勉強中とか。  アメリカに行ってからもう1年半以上も経つというのに、彼は在日数年でマスターした上手な日本語を全く忘れていません。  この私のホームページも時々読んでいるとのこと。  彼が苦学しながら京大や東大で勉強していたとき、私の小学校の同級生の池田知加恵さんが、母親代わりになって面倒を見てあげていて、 私たち夫婦はそれにほんの少しお手伝いしただけなのに、わざわざ 「 声を聞きたい 」 と、電話してくれたのでした。  電話代も高いだろうに、とてもうれしいことでした。 お二人にすばらしい将来があるようにと、祈っています。

12月11日に突然発生した、私のパソコンのハードディスクのクラッシュが、今月の最大の出来事でした。  皆様には全く関係ない話で恐縮ですが、でも、誰にでも、ある日突然こういう災厄が降りかかることはあり得ます。  メーカーに電話して指導を受け、ベテランの友人にもいろいろ調べてもらい、半日後 「 どうしても復旧不能だ 」 と、 自分に言い聞かせた時のショックと落胆は、いきなりガンの宣告を受けたら、こうもあろうかというほどのものでした。  購入後1年目まで、あと1週間を残してのトラブルですから、無償で修理はしてもらえるのですが、 メーカーは 「 年末だし10日はかかる 」 と言います。

  それに、友人たちの住所録や、前日一覧表に整理してまだ消してなかった、銀行や証券会社の電子取引の詳細など、 まかり間違っても他に漏れたら困るデータがあるので、結局、ハードディスクを買ってきて付け替え、 リカバリーCDを使って一から出直しと決めました。  「 この際 」 と考えて、今までのISDNからADSLへの切り替えも実施し、 この関連のトラブル解決も含め3日フル回転でで再建を完了しましたが、とにかくくたびれました。  お蔭で、5年間引いたこともない風邪に、軽いものですが、数日かかってしまいました。

幸い、写真の類はすべてその場でCD−Rにコピーする習慣なので助かりましたが、文書やメールなどは、 11月2日にバックアップしたのが最後だったので ( それまではほぼ毎週やっていたのに! )、 その後の40日分をすべて失いました。  自分の気に入るようにカスタム化してあった部分も、一つ一つ設定のやり直しとなり、 せっかく大学に入ったあと、また小学校から入り直すような気分でした。 これに懲りたので、来年早々に、 もうひとつ外付けのハードディスクを買い、常時、逐次バックアップができるシステムにするつもりです。

自分のホームページは、お正月を迎えるにあたり、2年ぶりに表紙を更新し自分の写真も最新のものにしました。  早いもので、スタートから5年が経ちました。  海外の友人たちに毎年出している手製のクリスマスカードは、このパソコンのトラブルのため製作時期を失し、 郵便局に持ち込んだのが20日となりました。

  海外および国内向けの日本語の年賀状は、勝手ながら、今年も、極力、 ホームページの熊井 章とカホルからの新年のご挨拶を見て頂くようにしました。  私とカホルの場合、親戚、友人の半数以上の方が、すでにパソコンをお持ちです。

そんな次第で、思いがけずドタバタした年末でしたが、家の内外の大掃除も終わり、左の写真にもあるように、 しめなわも講習を受けて自分で上手に作れたので、ゆっくりと新年を迎えらます。 難しい、不安の多い、先の見えにくい世の中ですが、 皆様、どうぞよいお年を。

 
11月度(11. 30. 2002)

10月の末に「一票の格差を考える会」の新聞広告掲載の仕事も一応済んだ後、11月は、 来年4月の当市の市長選挙までいよいよあと5カ月になったこともあって、某候補の支援活動で毎日忙しく過ごしました。  詳しくその一部始終を書くと、事前運動だと叱られる恐れもあるので、何も書かないことにしますが、必勝の態勢を築くべく、 連日忙しく活動し、23日に開催した後援会員拡大大会は大成功で、成果もおおいにあがりました。

でも、忙中閑ありということで、中旬にはカホルと、修善寺に紅葉を観に行き、 Yという宿に一泊して来ました。 3年前、 同じ修善寺のAという宿に泊まった折に、翌朝の散歩で見つけ、次はここに来たいねと言っていた宿でした。  チェックイン前に自然公園と虹の郷とを訪ね、のどかな半日を過ごしました。  うまく湯煙も写った露天風呂でのくつろぎの写真を見ると、改めて、生きているうちに日本に戻ってきて、 本当に良かったと思います。

月はじめには 「 小田原に旨いフランス料理屋があると聞いたので行くから、一緒に食べよう 」 と、 グルメとしても著名な、旧友の作曲家すぎやまこういち氏ご夫妻が、わざわざ東京から夕食のために訪ねてきました。  カホルと4人でじっくりと美味を味わいました。 人生にはいろいろ楽しいこともあるものです。  私は地元なのに、今までこの店を知りませんでした。

月半ばには2番目の孫の七五三のお祝いもあり、改めて自分の年齢を認識しましたが、 ゴルフのスコアは復調の兆しを見せ、再び100を切れる希望がわいてきました。  月末には先輩の上田氏ご夫妻と4人で1年ぶりのラウンドをしたカホルが、 127という素晴らしい?スコア(パーも一つ)を記録し、体力的にも技術的にも、 もうこれで今生の最後のゴルフだと諦めて臨んだはずが、 「 もう1年くらいやってみるか! 」 という事になりました。 大変短いですが、今月の近況報告です。

さて、ひと月前に、マスコミの論調とは正反対の拉致問題についての意見を、 フリーマンの随想(48)に書きましたが、 本件はその後ますます混迷の度を増しています。 その理由について、私は次のように考えます。

外交交渉が専門の外務省の役人は、意気地がないことに、一部の人気取り志向の政治家の圧力で動かされている。 その政治家たちには 「 自分の戦略や信念 」 などなく、実態もあやふやな 「 世論 」 を盾にして自己を正当化している。 ところが、その 「 世論 」 なるものは、大小のマスコミが次々に話題を作ろうと過熱状態の 「 追っかけ 」 をしながら 騒ぎ立てている無責任な主張に他ならない。 科学的な世論調査を行った結果の国民の多数意見とは思えない。*

そして、そのマスコミは、自分の考えもなく、家族の会の幹部の主張を、ほとんどそのまま受け入れ、 庶民の同情を煽るように書き流しているだけである。

つまり、どうしても感情的になりがちな家族 ( 当然、外交の素人 ) の主張に流されて、 日本の拉致問題の外交は行われているのです。  「 これが最終的には正しい結果を生む外交のやり方だから 」 と、マスコミに叩かれようと、 感情の揺れ動く家族たちにののしられようと、最善の道を考え抜き、信念を貫き通して実行できる立派な政治家や外交官が居ないのが、 日本の不幸であり、ひいては拉致被害者たちやその家族たちの最終的な不幸を招きかねないのです。

*:もっとも、仮にキチンとした世論調査が本件につき行われたとしても、外交上の判断にあたり、 いちいち世論を基準にする必要などない。  日本中の反対を押し切って強行した、信念ある外交上の決断が、後世、正しかったと賞賛されることは珍しくない。

10月度(10. 31. 2002)

市長選の後援会代表としての連日せわしい日程の合間を縫って、上旬に妻と二人で3日ほど、八幡平から田沢湖の方に、 紅葉を眺めに行きました。 八幡平の頂上だけは、あいにくの氷雨と濃霧で、 いくら歩いても何も見えませんでしたが、 中腹一帯の温泉地付近は好天で、静かでひなびた ( 混浴の ) 温泉をレンタカーで 「 はしご 」 して来ました。 紅葉も、まずまずでした。

「 一票の格差を考える会 」 が、10月下旬、読売新聞 ( 29日 )および産経新聞 ( 26日 )の全国版に  「 意見広告 」 を掲載しました。 その趣旨、内容は、 広告の本文を、 ここから Adobe Acrobat Reader でお読みくださればご理解いただけると思います  ( 画面が出たら拡大してお読み下さい )。 その主張の背景について更に 詳しくはこちらをご覧下さい。

今回のこの意見広告の大きな特徴は、単なる当会単独の意見広告ではなく、 民間の著名人6名、経済同友会の有志である著名な実業家12名、そして、超党派の( 公明党と共産党を除く )  主要政党所属、および無所属の衆・参議院議員45名など、総計63名もの方々が、 賛同して名を連ねてくださったという点です。

  事務局長の私は、この意見広告の案文作成から始まり、掲載に至るまでの関係者との連絡業務にも、ある程度の時間を使いました  ( いろいろなことに手を出すから自業自得ですね )。  賛同者のお名前や所属の一字一画も間違えられないという緊張感、 再三にわたる細かい字句文言の修正要求への対応と関係者間の了解調整・・・これらは、 もう忘れかけていたあの会社の仕事の悪夢?の再現でした。

もう一つ、合間を縫って、久しぶりに拉致問題に関連した随想も一つ書きました。 アップロードした20日頃は、 そこに書いた内容は、拉致家族 ( 年取った親たち ) の素朴な肉親の感情、安易な同情を煽る無責任な大半のマスコミ、そして、 それらを気にし迎合するばかりで、大局的判断に乏しい政治家たちの考え等とは全く違うものなので、 大げさに言えば、日本中を敵にまわすような気持で書き、載せたわけでした。

私は、米国に行って帰ってきてから、他人と違う意見を言う事、そのために孤立してしまうことを、以前よりはずっと、 不安に思わなくはなりましたが、それでもやはり、新聞を見てもTVを見ても、右も左も違う意見ばかりなので、気にはなりました。  それが、26日の朝になると、6チャンネルの5:45からの 「 ずばっと 」 という番組で、この問題の特集があり、 まさに私が1週間前に書いた内容とソックリの意見を、みのもんたが主張していました ( 裏にシナリオを書いた人がいるのであり、 別に彼の発想ではないと思いますが )。

それにしても、国家の外交は、マスコミの論調に合おうと合うまいと 「 国民感情 」 に逆らうものであろうと、 そんなことを気にせず、全く 「 外交的な 」 立場と信念を貫かなくてはいけないと思うのです。 マスコミの論調が国民の総意とは限らないし、  「 多数の国民の気持をバックに 」 外交を行うというような考えにいたっては、論外としか言いようがありません。

10月は他にもいろいろなことがありました。

ノーベル賞ダブル受賞: 元民間企業の技術者だった私にとっては、とても嬉しい報せでした。田中さんの人柄にも好感が持てます。  でも、首相や、スウェーデン大使と握手挨拶した時のペコペコ 「 おじぎ 」 は是非止めていただけないものかと思います。  握手するときは、頭を下げず、胸を張り、にこやかに相手の目を見つめましょう。 おじぎを併用すると奇異だし安っぽく見えます。

モスクワの劇場の事件: 米独仏などの首脳は700人を助けたことを賞賛し、モスクワの市民もおおむね肯定的でしたが、 日本の首相は先ず100人が死んだことに哀悼の意を表しました。  日本で同種の事件が起こったら・・・・・・政府は、よど号にもペルー大使館にもキルギスでの拉致にも学ぶことなく、 大金を払い屈服するのでしょうか。 

竹中大臣の新施策案: これがベストの処方箋かどうか、素人の私には論評できませんが、一斉にこれに異を唱えた大銀行の首脳たちが、 日本経済の立て直しよりは銀行の体面と自分の保身を重視する情けない人間らしいという事だけは、察しがつきました。

原発の事故隠し: 上記の銀行の場合と全く同じで、トップ企業の経営の責任者に必須の要件は、真の大局観と、 手腕と、良心と、そして処世の美学ではないでしょうか。  こういう真のエリート、リーダーの資質の養成を、戦後の教育の中で、日本人はきれいさっぱり喪失したので、 業績急回復の日産のゴーンさんばかりが偉く見えます。

9月度(9. 30. 2002)

彼岸花が秋分の日よりも10日以上も早く咲いたのは、異常気象のためだろうかと、昨年9月、 この欄に書きましたが、今年は、ピッタリ秋分の日に満開となり、チョッピリ安堵しました。 ところで、今年も早くも四分の三が終って、 明日からは10月です。 10月に入ったら、数日、紅葉を愛でに八幡平の方に行って来ようと考えています。

出っ張って来た腹を、少しでも凹まそうと、大分前から1日3回、腹筋運動に精を出していますが、 効果は遅々としています。 幸い、例の来春の市長選挙の応援活動で、毎晩のように会議があるので 「 夕食前に一杯 」  という悪習?が打破され、摂取するカロリーは確実に減っているはずです。 ここでもキーワードは 「 継続と忍耐 」 です。

この応援活動の中で、政策の策定をお手伝いしました。 もちろん、立候補予定者を加え、7人ほどの立派なメンバーと共に、 のべ40時間ほど、熱心に何度も会議を重ね、ようやく、長文の政策原本を完成しました。 これを元に、何種かの、 短い広報用のバージョンを作る仕事が残っています。

基本的な考え、立場をまずしっかりと議論し確定し、順に次第に具体的な話に入って行きます。  これには民間企業での新事業の展開の際の体験が、ある程度役立ちました。 現状の問題点は?、国や社会の要請は?、 他の案件との優先順位比較は?、現状との継続性は?、革新性は?、考えられる反対意見は?、など、多方面から検討しました。  手前味噌ですが、有識者たちとこんなに徹底的に議論し尽くして丁寧に政策を作る方式なんて、多分前代未聞ではないでしょうか。

当初は、1人で作れといわれれば、鉛筆を舐め舐め、私独りだって2晩も有れば、 格好の良い公約を作文する事くらい出来るのではと思っていましたが、 そういうやり方ではいけないし、本当に良いものは出来ないということが、よく分かりました。

それと 「 一般市民がそこまで知らなくても 」 という気がするほど多岐にわたる過去のいきさつ、法律の要請、 地域行政の実態などを知り、随分と勉強にはなりました。 と同時に、 そこまで精通していなくては就任後の業務が正しく果たせないというなら、それに叶う人材は僅かしか居ないな・・・私は、 絶対にそんな役に就ける資格も気力もないな・・・首長など、頼まれてもまっぴら御免だな・・・という気になりました。

まあ、もともと私は、何にも拘束されず、誰にも命令されず、言いたい事を言え、 言いたくないことは言わなくてよいフリーマンが 「 理想の生き方 」 なのですから、これはまったく当然の思いではありますが。

9月の最大の話題は、何と言っても 「 小泉首相の歴史的訪朝 」 でした。 中国でも韓国でも、 欧米の多くの国でも、首脳たちがこの訪朝と首脳会談を立派な成果だと褒めているのに、日本の各種マスコミの報道では、 大勢としては、首相も、粘り強い水面下の努力で首脳会談に漕ぎ付けたと思われる事務当局も  「 ドジで、不誠意で、やるべきでない合意をしてきた 」 阿呆とすら見なされてしまっているようです。  それにもかかわらず、小泉首相への支持率 ( 調査はなぜかいつもほど多くは行われなかった ) は急反発したと伝えられています。

この辺が、どうしてもシックリ来ず、私たち夫婦は暫くモヤモヤした気分で居ましたが、9月22日付けの毎日新聞朝刊3面の  「 時代の風 」 に載った、作家の高樹のぶ子氏の寄稿 「 視野広げアジア平和へ 」  を読んで、ようやく胸がスッキリしました。 ご興味のある方は、是非全文をお読み下さい。  手に入らない方のために、部分的引用には誤解が付きまとう事を恐れつつも、その内のごく一部を引用します。

「(前略) 今回の首脳会談で一番重要だったのは、実は拉致問題の情報入手ではなく、核やミサイルに関することだったのが、 はっきりしてくる。 日本自身の安全についてだ。 脅威が取り除かれ、平和と信頼が成立しない限り、個人の真実など、 本当のところは得られるはずがない。 報告書などいかようにも作ることが出来、その検証は不可能なのだから。  その一番重要な点は、報道として軽視された。 目の前に在る悲劇に心を奪われて、未来のことはあまり話題にされなかった。  (中略) 私は不幸なことに多少とも想像力があるから、何十万人の朝鮮人家族の、日本人と同じ嘆きが目に浮かぶ。  これは自虐でもなんでもない。 想像力の問題だ。 今湧き起こる悲憤は、自分たちだけに起きたことではないのである。(中略)  本当に人命を大切にすると言うのは、すでに存在する被害に怒り狂うのではなく、将来起こるかも知れない被害を想像し、 未然に防ぐことだろう。 冷静になって、あの未熟で危険な国家を、アメとムチを使いながら大人にして行かなくてはならない。  そのためには、私たち日本人がまず、自らの怒りを客観視し、アジア全域のことを考えられる大人になることだと思う。 マスコミもだ。」

被害者のご家族の気持を汲んで支援し、確認、救出、補償に努めるということと、過去を償い、 現在と将来を見据えて国の方針を決めて推進するという重要事とは、はっきり区別して考え、 ぞれぞれ対処しなくてはならないということでしょう。  今回は ( 或いは今回も? )、マスコミの嗅覚よりも一般国民の直感の方が的を射ていたということでしょうか。

なお、次の週 ( 9月29日 ) の同じ欄でも、東大教授の山内昌之氏がほとんど同じ趣旨の論評を述べています。

8月度(9. 5. 2002)

8月度を書くのが、少し遅れました。前に書いたように、来春の市長選に出馬しようとしている、ある友人のために働いており、 その仕事が、この8月は非常に忙しかったので、自分のことだけをした日と言えば、花火大会や夜の海の夜光虫を見に、 孫たちと伊東の別宅に2回ほど泊まりに行ったくらいで・・・そうそう、酔狂に真夏のゴルフも2回やりましたが、あとは、 猛暑の中、働いてばかりいました。 夜光虫やうみほたるは、船底がガラス貼りになっている船を夜の海に出して、 船が立てる波のエネルギーで励起されて彼らが光るのを見るのですが、それは美しいものでした。

そういう忙しさの中で、7月24日に国会を通った、いわゆる 「 5増5減 」が、8月31日施行のはこびとなりました。  私が事務局長をしている 「 一票の格差を考える会 」 では、これは一歩前進ではあるが、根本的には不十分であると考え、 同じ意見を持つ経済同友会の幹部の方々や、有志の国会議員のご賛同を得て、10月に、 全国新聞に3段抜きの意見広告を出そうと考えています。

いろいろ手を出しすぎの憾みもありますが、その意見広告の文案づくりにも結構時間を使いました。  経済同友会事務局ほか、いろいろな方からいろいろな意見や忠告が出て、調整に苦心しましたが、ようやくまとめる事ができました。  現在の状況を解説すると、次のようなことです。

第三者機関である衆議院議員選挙区画定審議会の勧告 ( 5増5減 ) に基づく改正公職選挙法が7月24日に国会で成立し、 8月31日より施行されました。 これにより、選挙区ごとの 「 一票の格差 」 は従来の最大2.57倍から2.06倍まで縮まり民主主義の基本である参政権の平等の観点からは一歩前進したと言えます。 しかし、その後、 最近総務省が発表した、今年3月末の住民基本台帳人口で計算し直すと、2.06倍の格差は、またもや2.12倍に拡大し、 格差が2倍を超える選挙区も9つから19に増えてしまうなど、まだまだ不十分と言わざるを得ません。

そこで、さらなる 「 一票の格差是正 」 のステップとして、全国の衆議院300小選挙区を決めるにあたり、 47都道府県に1議席づつをまず配分し、残り253議席をを人口比例で配る 「 基数1配分 」  という不合理なやり方を規定している  「 衆議院議員選挙区画定審議会設置法 」 第3条第2項を改正することが、是非とも必要と考えるわけです。 故竹下元首相発案のこの狡猾な規定がある限り、一票の格差はこれ以上縮小出来ないからです。

7月度(8. 1. 2002, 8. 3 一部追加)

私の高校時代の友人の考古学者佐原 真君が、7月10日、逝去された。 千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館長を、 つい1年くらい前まで務めておられた。 高校時代には、民俗文化研究会という同好会を作り、リーダーとして  ( というより、彼以外に他にメンバーなどほとんど居なかったようで、独りで )、時々授業を放り出してまで、 夢中で調査や自作の 「 機関誌 」 への執筆をやっていた。 「 民族 」 ではなく 「 民俗 」 だよとその違いを教えてくれたことだけは、 今でも覚えている。 大学は ( 多分第2志望の ) 大阪外語大に入り、ドイツ語を学んだことになっているが、 彼がおとなしく真面目にドイツ語を勉強していたとは考えられない。 卒業後京都大学の大学院に入り、そこでついに、 考古学の学問の場に所属出来たのだと想像する。

一昨年佐倉方面に旅行したとき、フラッと博物館を訪ねたが、忙しい人なので、あいにく不在で会えなかった。  NHKのプロジェクトXに出てきたのもその頃だったと思う。  昨年の今頃、高校の同期会の幹事だった私が、旧友の前で短いスピーチをしてくれないかと頼んだとき、文字通り二つ返事 で快諾してくれた。 そのとき、電話口で聞いたところでは、膵臓ガンの手術をしたばかりだとの事だった。  要するに 「 今、みなに会い、皆の前で話をしないと、いつ死ぬか分からないから喜んで引き受けよう 」 という感じだった。  あんな高名な学者なのに 「 館長は先日辞めた。 いつでもどこにでも行き、誰の前でも無料で話をしてあげるから、 これからも遠慮なく頼んで下さい 」 とも言ってくれた。 「 覚悟はできている。 人生は最後の瞬間まで全力をあげる 」  という態度に打たれた。

同期会では何と 「 宦官 」 について、20分ほど、学問的な薀蓄を傾けてくれた。  耳を傾ける旧友たちの誰もが、やつれた蒼白い顔の彼の上手な話の中に引き込まれてしまった。  

逝去の翌日、彼の業績を称える訃報が、殆どの大新聞の1面に載った。 私の中学、高校時代の友人には、全国的な著名人も少なくないが、 1面に大きく訃報が載る人は、今後もそう多くはないだろうと思う。 その後も、いろいろな雑誌や新聞に、彼を偲ぶ記事が出ている  ( たとえば、毎日新聞8月3日の 「 通説にひるまぬ好奇心 」 を読んでください )。  子供の頃から自分の好きなことだけを夢中でやり続け、その分野で華々しい業績を挙げた彼の一生は、 実に幸せで素晴らしいものだったろうと思わずには居られない。

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私の住むこの小都市で起きた 「 市会議員の定数を24名から18名に減らそう 」 という住民直接請求の署名集めの件です。   去る4月度の所に、私が妻と二人で署名集めをしたときの話を書きましたが、その後日談です。  最終的には 全有権者の52.3%という、過半数の有効な賛同の署名を集めることが出来、 これを6月中旬、議会に提出しました。

すると、当然の反応でしょうが、現職の議員たちは狼狽し、有権者の過半数の要請を無視するわけには行かない・・・と言って、 そのまま認めるのは、自分たちが非効率的存在だと言われたのを認めることになり悔しいし、 議席数が減れば次の選挙で自分の当選も危ない・・・これは何とかしようということで、住民直接請求は拒否し否決するかわりに、 議員有志から修正提案 ( 何と24名から ホンの2名だけ減らすというミミッチイ修正案 )  を出し、これを可決するという対抗手段に出ました。

私は、誘われてこの間の委員会や本会議を傍聴しましたが、議員たちの利己的議論のレベルの低さにホトホト呆れ、 地方自治の実態に愛想が尽き果てました。  この程度の低レベルの議論しか出来ない、自分たちの保身しか考えない人たちに、今まで市政の根幹を任せていたのは、 一部は自分たち市民の責任でもあります。 お恥ずかしい事でした。

住民の過半数の意思は尊重すべきだから、18人に減ることも甘受しようという実直な議員も、ひと桁の人数ですが居ました。  残りは、22人へと2人減らすだけでお茶を濁そうという議員が12人、 いやこの際、逆に法定数の30人に増やしてしまおうという、とんでもない意見の共産党議員が2人、その他という内訳でした。

22人で済まそうと言う人たちの論拠の主なものは、次のようなものでした。 括弧内は、私の反論です。  議会の傍聴者は発言を禁じられていますが、傍聴の間じゅう、こう反論したくて、仕方ありませんでした。

1.残りの47.7%の定数削減反対の住民の意見を尊重したい  ( この47.7%の何割かは、留守だったため、署名簿について説明してあげられなかった人たちですよ。  残りの全部が反対者ではないことくらい分かっていながらこういう事を言う狡猾さ!  大体民主主義社会の多数決という精神を、どうしてそう都合よく忘れられるのですか? )

2.有権者の過半数の意見に縛られては、議会そのものの存在価値はなく、議会制民主主義が否定される ( 唖然として言うことなし )

3.国が議員定数を確定するのがよい ( 「 国に決めてもらおう 」 など、地方自治を返上する気ですか? 自分の頭で独自に物を考えられない人は議員になどなるな! )

4.この市と同じくらいのサイズの日本の都市の議員数の平均値を調べたら約22人だった ( 何でそういう  「 横並び 」 と人真似の精神から脱却できないの? なぜ他市に率先して改革を行なおうとしないの? )

5.議員数を減らした他の市で議会が活性化されたかどうか不明 ( そんなことが理由になるとでも言うの?  あなた方が馴れ合いで緊張感を失っているから議会が活性化していないのです )

そのほか数々の、笑止千万な、理由にもならない屁理屈を、真面目になって何時間も述べ合っている議員どもを見ていたら、 本当に情けなくなり、その後数日、飯がまずくて仕方ありませんでした。

話があと先になりましたが、当市の借金は何と319億円もあるのです。 この苦しい財政問題を  議員自らが真摯に認識し、行政の簡素化、経費削減に向かって率先垂範すべきではないでしょうか 。  市民はとっくに、そのことに気づいているからこそ、 50名以上もの自治会長経験者が立ち上がり、市民の過半数が賛同したのです。

地方小都市の自治会長経験者と言えば、実際のところ、いわゆる 「 革新派 」 などはほとんど居ず、 大部分が穏健な保守層の人たちです。  いわゆる旧家の跡継ぎの当主たちも居ます。 そういう人たちさえもが見るに見かねて、何十人も集まり、 2年間も協議して、ついに住民直接請求運動の実現に漕ぎ付けたのでした。

今、私に分かっていること・・・それは既成政党と議員は 「 革新 」 を名乗るものも含め、すべて旧時代の  「 議会の都合 」 「 議員の論理 」  でしか、物事を考える事が出来ない 「 体制擁護的 」 「 時代錯誤的 」 存在になり下がってしまったこと、一方、 一般市民は、敏感に問題点を嗅ぎ分け  「 このままでは駄目になってしまう 」 と理解し、構造改革を望み、考え、行動する存在に変貌、成長してきていることです。

よく勉強していないので、断言は出来ませんが、あの長野県議会と長野県民の間にも、多分、 これと同様の不幸な断層が生じてきているのではないでしょうか。 いや、国会議員と国民との間も、とっくにそうなっているように思えます。 ,

 
このあとはです。 8月末に掲載します。

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ご感想、ご意見、ご質問などがあれば まで。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました

この先です。