私と家族の近況
私と家族の近況

*あしがらみち*

2011年 前半分:最新は6月度


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6月度(June 30, 2011)

 先月は海外に住む外人の友人たちからの原発事故に関連したお見舞いと、それへの回答について書きましたが、今月は海外の日本人の友人から 「 日本の政治は一体どうなってるのか解説しろ 」 という要請が来て、それに答えました。 答えるとなると、ただ不満や怒りをを述べるだけと言うわけにも行きません。 調査や事実の整理も必要です。 当初からこのホームページには政治と宗教についてだけは書かないという 「 掟 」 にして来ましたので、私の答えについてはここには書きません。



 先月末に、平塚の馬入川河口右岸の河川敷にある 「 馬入・光と風の花づつみ 」 に行ってきました。 盛りの時期を狙って行ったので、一面のポピーはまさに満開。 美しさを堪能できました ( 上の3枚の写真 )。

 6月に入って16日には早起きして東京駅から 「 はとバス 」 に生まれて初めて乗り、「 江戸味覚食い倒れツアー 」 というのに参加してきました。 朝食は築地の場外市場で寿司、昼食は浅草の葵丸新の天ぷら、夕食は柴又の川甚でのうな重という、胃腸にとっては大変な重労働でしたが、幸いお腹も壊さずに楽しむことが出来ました。 腹ごなしのためか、各所でずいぶん長い距離を歩かされました。 両国にある 「 江戸東京博物館 」 という所にも連れて行ってくれました。 それはそれは立派な大きな建物で、体力と時間があれば、じっくり観たら本当に物知りになれたことでしょう。 私たちには残念ながらその両方とも備わっていませんでした。

 半年苦しんだ右肩の痛み ( 医者は 「 80肩だ 」 なんて言う ) がようやく治ったと思ったら、めったにない事ですが軽い風邪をひき、その影響で副鼻腔炎になってしまい・・・ いつまでたっても医者と薬から縁が切れません。

 
5月度(May 31, 2011)

 福島第一原発のトラブルは、まだまだ予断は許さないものの、幸い、5月に入ると、当初の頃のように 「 連日ハラハラし続け 」 というような状態ではなくなってきています。 とは言え、月末になって被害の実態が明らかになってくるにつれて、その程度と言うか深刻さがはっきり分かってきました。

 人心の落ち着きは国内外とも次第に戻ってきているようで、一旦故国に帰って行った外国の駐在員や家族も次第に日本に戻ってきましたし ( 欧米人は外国語教師、留学生等が大半戻ってきているけれど、中国人は全般に戻ってくる人が少ないとか・・・ )、一時途絶えかけていた海外からの観光客も、西日本方面から始まり関東へと戻ってき始めているとか聞きました。 

 個人的な事を申しますと、私の外国の友人たちは、日本の地理について正しい知識を持っている人たちが殆どで、日本は面積こそ小さいけれど、北東から南西にかけて3,500kmほどもの長い範囲に伸びている国だという事を知っていますから、私が 「 自分の家は震源地から遠いので地震ではビクともしなかったし、原発からも270kmも離れているから空気も水も食べ物も、以前とほとんど変らない状況で入手でき、摂取でき、放射能の値も多少気にする程度、今のところ健康被害も受けずに平穏に暮らせている ( 家をなくされた方々、強制避難を勧告された地域の方々には誠に申しわけないほどの幸せですが ) 」 と言えば、皆、ああ良かったと直ぐに理解し安堵してくれました。 中には近く日本に遊びに行きたいと言う人もいます。

 しかしあまり良く日本の事を知らない少数の友人たちは、私が小さな島の片隅で福島原発のすぐ隣で健康被害の危機に曝されているのではないかと、真顔で心配して下さっていました。 その人たちを安心させるために何度もメールを書いて、私が認識できる範囲の現状を詳しく説明する英語漬けの日々もありました。 もちろん、彼らの想像を絶する津波の被害については、全ての友人たちに地盤沈下のこともも含め詳しく伝えました。 原発から数十km範囲の方々の恐怖や困難についても書きました。

 海外の友人たちが添付して送ってくる海外で公表されている原発事故の情報を見ているうちに ( 特に3月の15から20日あたりにかけて )、海外の著名なTVや新聞、団体、諸機関の中には ( この状況下での原発への反対ないしは消極姿勢は当然なのですが ) 色々の策略や思惑もあってか、非常に悲観的に、センセーショナルに、誇大に事故を報道しているものが少なくないことを知りました。 中には笑ってしまうほど荒唐無稽なものも散見されました。 原発事故対策を日本人には任せておけないから欧州人の指揮下に置けなどと言う内政干渉まがいの動きもありました。

 日本に来て自分で調べたわけでもない外国の学者や政治家、偏見の強い団体などが、机上のシミュレーション、伝聞、単なる推測などを基に、もっともらしく解説したり、押しつけがましい主張をしたりしているケースも少なからずありました。 もちろん、その逆のなぜか分かりませんが過度に ( 或いは故意に? ) 楽観的な、状況弁護的な報道や意見もありました。 そういう海外の不正確な情報に、彼ら外国の友人たちが振り回され誤解し心配していることを知るにつれて 「 こんなばかげた事はあってはならない! 」 と痛感しました。

 こんなことを海外の友人たちに知らせているうちに、日本での1960年代の 米・ソ・中国等の原爆実験で放射性物質の微粒子が毎月多量に降ってきた頃の実態 を思い起こし調べる事になりました。 一方では今回、3月中〜下旬には、月間降下量として 茨城県内や東京都内でさえあの忌まわしい1960年代とほぼ同程度の放射性物質が降ってきた事も分かってきました。

 こうした中、私たちは誰もが、自分は素直に聴き、しっかり考え、冷静に判断していると思っていますが、個人の性格の違いや先入観がとても大きく作用していて、実際にはそうはなっていない事が多いように、私には思えて来ました。 ネット上の情報には 「 自分の好みの情報だけを選択して読み、そうでない情報はクリックもせず無視してしまう 」 という特性があります。 人々が 「 自分の耳に心地よい情報ばかりを交換し合い、連帯感を高揚させ、確信を深めて行く 」 という傾向というか懸念もあります。*1  自分が求めていなかった種類の情報や、自分の今の考えと合わない情報などとの 「 思いがけない出会い 」 があった時、切り捨てずにその真偽を確かめる 「 慎重さ 」 と、それを冷静に評価検討の上、信頼でき納得できると考えたら素直に受け入れて従来の認識を改めるという 「 受容力 」 みたいなものが私たちには求められるのではと思います。

 「 自粛 」 も度が過ぎると復興の妨げになるのでは・・・と先月書きました。 その考えをさっそく実行に移して?、中旬、福島県に隣接する群馬県の奥の方の 「 秘湯 」 を2カ所訪れてきました。


この宿は車で玄関の前まで行けないという点で稀に見る宿です。 車を停め、狭い急坂を降り、長いつり橋で渓谷を
渡ったら今度は急坂を登り、計500m近く歩いてやっと玄関にたどり着きます。 それだけに文字通り秘境の宿です。

 JR吾妻線は、東日本大震災以来、別に線路が地震で損傷を受けたというわけでもないのに、高崎 - 渋川 - 草津間の急行 ( 一日3本 ) が4月末まで上下ともすべて運休になっていました。 理由は節電のためと言うよりは、要するに乗ってくれるお客が来なかったからのようです。 5月連休のころから休日は全部、週日は半分くらい復活されましたが、指定席は往復ともガラすきでした。 温泉宿は、一方は 「 連休はまあまあだったがその後の客足は元に戻っていない 」 状態のようでしたが、もう一つの方は連休後も良いとのことでした。 最悪の状態は脱しつつあるようです。 ともあれ、今回もゆったりと秘境ムードをエンジョイ出来ました。


日本中から集めた古民家が並ぶ中をどこまでも歩いて行くと、古民具で飾られた受付。部屋に案内され
るとそこには古民家から採ってきた建材が使われており、そこに在った古家具が並ぶ。 堪能しました。

 この地域には 「 日本ロマンチック街道 」 という名のドライブウェイがあるので、小さい車を借りて新緑にむせかえるような街道筋を走りまくってきました。 20年近く前、ドイツでレンタカーを借りて、カホルと2人であの 「 本物の 」 ロマンチック街道を3日かけてゆっくり走った後、リヒテンシュタインを通ってスイスに抜けた事があります。 日本のロマンチック街道は全く感じが違うけれど、それなりに綺麗でした。 私は恥ずかしながら軽井沢という町に、生まれてこの方、行った事がなかったので、ここも訪れて奥方の買い物に付き合いました。 また、一昨年工事を止める止めないで大きな話題になった八ッ場ダムの建設サイトにも行ってみました。 2時間ほど見て回り、あの頃はまだ出来上がっていなかった巨大な高架橋を歩いて渡ってみました ( 工事はその後も少しずつ進んでいるのです )。 とにかく、新緑に映える峡谷の自然がひたすら美しかったとだけ、申しておきます。


左:下から2号橋を見上げる  右:2号橋の上から下を見おろす

*1: 原発事故問題に関してはネット上に今も無数のデマや誤情報が飛び交っています。 あの孫正義氏さえ 「 日本医師会が福島第一原発の50km以内に立ちいらないよう勧告した 」 というデマを信じて他人に転送し、後日訂正陳謝したというのは有名な話です。 また、最近では自民党の村上誠一郎議員が国会質問の中で、「 フランスの会社が作っている汚染水処理装置では、1トン当たり2億円の処理費がかかる。 総計で10数兆円になる 」 と得意げに誤った情報を発言したのがネット上に飛び火し、それを信じてしまった人たちの間で大騒ぎになりました。

4月度(Apr. 30, 2011)

 今月も最初は 「 リヴィングストン・デイジー 」 の話をさせて下さい。 4月上旬に遂にどの鉢もプランターも満開となり、微妙に異なるさまざまな色の花を楽しんでいます ( 実際はこの倍以上の数の株が咲き乱れています。 この後も花の数は増え続けています。 )。




 小田原の近辺に住んでいながら、入生田 ( いりゅうだ ) にある黄檗宗の長興山紹太寺 ( しょうたいじ ) の有名なしだれ桜 ( 樹齢330年以上、樹高約13メートル、根元の周囲は5メートル弱 ) を一度も観に行ったことがありませんでした。 例年大変な混雑と聞いていたのが、主な理由でした。 満開と聞いた7日の夕方、「 やはり一度はみておこう 」 と、歩いて訪ねてみたところ、山門に居た案内の方が 「 歩くと急坂を20分登らないとならないが、早朝7時頃なら誰もまだ来ないので、車で上がることが出来る 」 と教えてくれました。 そこで、翌8日、早起きして7時前に車で到着。 山門から桜のある所までの道路は、聞きしに勝る細い曲がりくねった急勾配の林道でしたが、対向車がないので何とか着く事が出来ました。 駐車場はないし、こんな細い道では軽自動車だってすれ違うことはできませんから、昼間は車で行く事は不可能です。

 薄曇りの早朝なので、写真の色はまるで墨絵のようですが、もともと花びらが薄墨色の桜のようです。 満開ではありましたが、私たちの他にたった一人来ていた、毎年何回も写真を撮りに来ているという年配の人の話だと、最近とみに樹勢が衰えているそうで、昔に比べれば非常に花の数が少ないのだそうです。 そのせいか、あまり感動しませんでした。


 あの3月11日以降は、毎日が 「 祈るような、気分が暗い日々 」 でした。 あの原発の事故さえなかったら・・・ただの地震と津波の大被害だけだったら・・・時間と金と智恵と努力と、そして多少の試行錯誤の積み重ねで、数カ月から、長くかかるものでも5年もあれば必ず立派に 「 もと以上に 」 復興できる・・・そういう自信を日本人は皆持っていると思うのですが、原発事故の深い痛手は、それほど直ぐには治りません。 今後、次第になんとか治って行くとは期待しているのですが、それさえ、もう一つはっきりしない上に、もっと恐ろしい状況が突如訪れるのではないかという不安すら多少あります。 最終的に解決するには二十年以上かかると考えられてもいます。 世界中の人々に今後更に迷惑をかけてしまう可能性もないとは言えません。 あれこれ考えていると、原発の事故が起きてしまった今と、仮に起きなかった場合の今とでは、私たちの毎日の暮らしの中での 「 心の明かるさや安らぎ 」 みたいなものが、全く違うという事に気付かされるのです。

 新聞に 「 震災前なんと平和な古新聞 」 と言う川柳が出ていて、全く同感ですが、「 震災前 」 と言うより 「 原発事故前 」 という方が、よりぴったりします。

 原発の事故は既に起きてしまった事で、直接の被災者でなくたって、日本人は生きている限り、これと今後長い付き合いをして行かなくてはならないのですから、自分の生き方、心の持ち方などを、今までのそれとは意識的に変えてやらないと、暮らしの中での 「 心の平静さ 」 が保てません。 その辺りの事をいろいろと考え続けたひと月半でした。 それにしても、被災された方々の避難所での暮らし、被災地の無残に荒れ果てた瓦礫の山などをTVで見るたびに、なんとお気の毒な事かと、胸は痛むばかりです。 重い病に罹った人の苦しみは、いくら同情してみたって健康な人には到底分からないのと同様、被災した方々は私たちの理解を超えた苦痛に遭われているのだろうと思います。

 こんな時に体のあちこちが痛いくらいで不満など言ったら罰が当たるだろう・・・・などと考えていたら、正月から続いているしつこい左ひじの腫れや右肩の痛みが、いつの間にか快方に向かっていました。

 そうそう、今月中旬、伊豆半島西海岸の雲見の、ある可愛らしい宿にふらりと出掛け、おいしい 「 かさご 」 の塩焼きや刺身の盛り合わせをいっぱい食べてきました。 ここも昨年来訪れ続けている 「 日本秘湯を守る会 」 の加盟宿の一つです。 聞けば3月11日のあと、前日まで連日満員だった宿がキャンセル続きとなり、閑古鳥の鳴くお気の毒な状態になってしまったそうです。 お蔭で、誰もいない貸し切り露天風呂を気ままに満喫できましたが、「 自粛 」 も度が過ぎると復興の妨げになるというのは、本当のことだと身をもって感じました。 そんなこんなを色々考えたあと、ボランティアとして駆けつけたい気持は山々なのに、高齢と体力低下でそれも出来ない身としては、福島産や北関東産の野菜や果物を時々意識的に買って食べ、せめてもの僅かな支援をしています。



3月度(Mar. 31, 2011)

 先月書いた 「 リヴィングストン・デイジー 」 ですが、月末になって、遂に咲きました! 昨年春、京大の植物学の先生をしていた方の家に咲いていた南アフリカ共和国原産のこの花の美しさに惚れ込み、是非自宅で咲かせたいと考えて種子を頂き蒔いて以来10カ月、幾多の?失敗と労苦 ( 冬の間は毎晩屋内に取り込み、朝、外に出して陽に当てるなど ) を重ねて遂に開花に漕ぎつけました。


2011.3.12 最初の一輪



2011.3.20 咲き乱れるさまざまな色の花!

 ところで、今回の三陸地方の巨大地震ですが、実は、2月ほど前に、仙石線や気仙沼線のローカル列車にゴトゴト揺られて、この地方に2泊3日で旅行してきたばかりでした。 あの僅か40日後に、津波で町全体が壊滅的な打撃を受けた女川 ( おながわ ) 町の 「 かき祭り 」 を観に行き、海岸で焼きがきの無料食べ放題に参加してきました ( 写真下左 )。 気前よく大きなかきを振舞ってくれたこの写真のおじさんたちはどうなったのでしょうか。 石巻や塩釜では珍しい水産物のお土産を買ったり、全国的に有名な寿司店で美味しい寿司を食べたりしました。 これらの町も津波や工場の大火災などで甚大な人的・物的な災害を受けたのです。 美しい金華山や松島に近いこれらの町の被災者の方々は本当にお気の毒な事でした。


 実は、きたる5月には、今度は八戸から宮古にかけて海岸線をドライブし、その途中で遠野や平泉を訪れようと詳細な6泊ほどの旅行プランを立てていました。 宿泊を予定していた宿の一つ 「 たろう観光ホテル 」 を調べたら、全て津波に流されて跡かたもなくなっていました。 あの10mの二重の防潮堤で万全の津波対策を誇っていたのに町全体が壊滅したという宮古市田老にあるホテルです。 ホームページを開くと震災の翌々日付で 「 たろう観光ホテルは今回の東北地方太平洋沖地震の影響の為、しばらく休館いたします。 ご迷惑おかけいたしますが宜しくお願いいたします。」 とありました。 お気の毒としか言いようがありません。 他の海岸沿いの宿泊を予定していた宿も、全て同じような状況でした。

 大地震と大地震との間の数百年にもおよぶ間隔と比較すれば誤差範囲とも言える数十日前か後かという僅かの差で、地震・津波に遭遇せずに済んだことは、偶然の僥倖としか考えられません。 東北地方にボランティア活動に出かけるには歳をとり過ぎています。 せめてもと考え市を通じて義捐金の寄付をしました。

 福島の原発のトラブルに際しては、東電という会社の幹部たちが、社長以下、危機に際して的確に対応・立案・指揮・実行できない人たちが多いらしいということが分かり、唖然としました。 こういう人たちに危険な原子力発電を任せ切っていたという事実に戦慄を覚えます。 それにひきかえ、自衛隊、消防、東電の現地職員、下請けの作業者たちの命がけの復旧作業のご苦労には、本当に頭の下がる思いです。

 これら多くの方々の献身的努力により、何とかギリギリの所で鎮静化して行く事を祈らずにはいられません。 米国人、中国人、イタリア人、ベトナム人・・・10人以上の海外の友人たちから、地震の翌日から私たち夫婦に矢継ぎ早に安否確認と見舞いのメールがきました。 これがもし航空郵便だったらと考えると、メールという手段の素晴らしさを改めて感じます。 一つひとつ丁寧に返事を書きました。 どの国でも連日トップニュースでTV・新聞とも詳細に甚大な被害の様子を報じていますが、ご多聞にもれず報道が正確さに欠けたり誇張されていたりする場合もあるようなので、私に出来る範囲で状況を正しく伝え、誤解を解くように努めています。

 今年はスギの花粉が凄くて、箱根外輪山の中腹など、晴れた日の午後2時頃になると、毎日、巨大な黄色のつむじ風状の花粉の煙があちこちに立ち上っているのが、10kmくらい遠くからでもよく見えます。 山全体が薄黄色に霞んでいます。 写真に撮ろうとしても、コントラストが弱くてなかなか肉眼で見えるほどはっきりとは写りませんが・・・ でも、月の後半、福島原発の放射能の話が気になりだすと、もう花粉のことなんて忘れてしまいました。

 
2月度(Feb.28, 2011)

 昨年5月に東海道五十三次を歩ききった後、一度に長い距離を歩く事がほとんどなくなってしまったので、もしかして、自分の脚がなまってしまっていると困ると考えました。 そこで、19日に小田原駅から大雄山線の終点の大雄山駅までの10.5kmを ( 昔からある旧道を出来る限り利用して ) 歩いてみました。 幸い、問題なく2時間25分 ( 時速4.3km ) で歩けました。 脊柱管狭窄症の痛みも発生しませんでした。

 それ以外にも、晴れてさえいれば、近くのまだ歩いたことの無い山道 ( 近くの山道はほとんど歩き尽くしてしまい、もうあまり残っていないのですが ) を探して、2人で毎日40〜60分歩きました。 山道の両脇には、種々の柑橘類が育てられており、立派に実っているのですが、人手不足のためでしょうか、収穫される事もなく、沢山の鳥たちがついばむに任せてそのまま放っておかれています。 どうせ鳥たちが食べてしまうのなら・・・と、手を伸ばし、一つ頂戴して食べてみると、当然のことながら実に美味しい! 何とももったいない事です。 梅もあちこちで満開ですし、早咲きの種類の桜を見かけることもあり、楽しい脚の鍛錬です。

   40年ほど前の旧職場の仲間たちが集まる夕食会が、久しぶりに開かれました。 私が30歳代の頃、若々しい青年、娘さんだった人たちが、もう定年を過ぎている・・・そのことで自分がいかに老人になってしまったかを、改めて実感しました。 それでも、元気な皆さんに混じってこちらも元気に会話を楽しめた事が幸せでした。

 10月に蒔いた 「 リヴィングストン・デイジー 」 は、寒さを避けて毎晩室内に取り込むなど、熱心に世話をしたお蔭で、今度こそ立派に育ってきました。 けし粒より小さかった種から、100株近くの大きな苗が育ちました。 3月になれば美しい花を咲かせてくれる事でしょう。


2010.10.11



2011.1.16



2011.2.28

 こんな事をしているうちに、短い2月ガあっと言う間に過ぎて行きました。 これでは、たちまち人生が終わってしまう・・・そう考えて、3月にはあちこち旅行に出掛けて見ようと考えています。

   
1月度(Feb.1, 2011)


 もう時期はずれですが、年賀状は 昨年の12月のページ の後の方に載せました。 昨年は3年越しの 「 旧東海道五十三次全長踏破 」 を無事完了した、私にとっては記念すべき年でした。 ともあれ、またカレンダーが新しくなって、私の所にもいよいよ ( 昔風の数え年で ) 傘寿というものが来てしまいました。 私の所にだけは、もしかしたら避けて来ないんじゃないかと思っていたんですが、やっぱり来ました。 こういうものは、別に努力をしなくても、お願いをしなくても、向こうから来てしまうものですから、仕方ありません。

 1996年の6月、64歳のときに米国駐在から帰って来ると同時に会社を辞め、その年の暮に Windows95 のデスクトップを買い、独学でパソコンを習い始めました。 このホームページを作ったのは1年後の98年の1月でした。 あれからもう13年が経ち、現在のパソコンは4台目です。 このホームページを作り続けていられる間は認知症にはなっていないという事ですから、しっかり頑張ることにいたします。

 とは言いながら、寄る年波には勝てず、暮の大掃除の重労働のお蔭で夫婦ともども、ひと月たった今も右肩が痛んでいます。 近い将来、暮の大掃除はどこかの業者に依頼し、おせち料理は既製品を買うようになり、更にはお雑煮も他人様が作ったものを頂くようになってしまいそうな気がしています。 それまで元気で生きていればの話ですが・・・それでも、正月の2〜3日にかけては子供たちや孫たちが当家に勢ぞろいしてくれて、賑やかで楽しいお正月でした。

 その後、7日にはいつものウォーキングのグループに夫婦で参加し、飯田橋から新宿までぐるぐると歩いて 新宿山ノ手七福神めぐり の初詣を敢行 (!) してきました。 大晦日と三が日の牛飲馬食で数kg増えた体重も運動と減食で月半ばには元に戻し、「 365連休 」 * の生活を元気に再開しています。


 新宿の末広亭にはだいぶ長い事ご無沙汰してしまったので、18日に2人揃って顔を出しました。 お目当ては 「 彼も自分も丈夫な内に、是非もう一度聴いておきたい 」 とカホルが言っていた夜席のトリの小三治でしたが、なんとその日は急にお休み。 わざわざ片道2時間もかけて上京したというのに、なんてこった!!! 落語協会会長の小三治の代役はまだ49歳の若さで昨年暮れに副会長に選ばれた柳亭市馬 ( いちば )。 彼は小三治と同じ5代目小さんの弟子、つまり小三治の弟分で、ネタはむか〜し6代目圓生のを聞いたきり私にとっては今回が2回目の 「 首提灯 」 でした。 落ち着いた安心して聴ける語りでしたが 「 優等生的でちょっと・・・ 」 というのがカホルの意見でした。

 優等生と言えば、その正反対のハチャメチャな噺家が、この日も出ていた川柳川柳 ( かわやなぎ せんりゅう ) でしょう。 私どもは彼が大好きなのですが、彼も今年の3月には80歳なので、さすがに往年のファイト溢れる高座に接する事は出来ませんでした。 彼の10年前の 「 雄姿 」 にご興味のある方は ここを開けば 無料で9分間の熱演を見ることができます。

 「 箱根板橋の地蔵尊の大祭? そんなの一度も行ったことない 」 と言ったら、カホルが友人に呆れられたというので、23日に行ってきました。 我々はこの地に50年近く住んでると言っても、所詮は東京から移住してきた 「 よそ者 」 ですから、この種のことには 「 うとい 」 のです。 午前中でかけたのに、参拝者の行列は既に数百mもあり、30分以上並んでやっとのことでお参り出来ました。 沿道 ( 旧東海道の小田原・箱根間の一部 ) には100軒ほどの露店も並び、たいそう賑やかでした。 私は 「 おびんずるさん 」 の右肩を、カホルは膝を ( 写真下右 ) なでて来たので、両名の痛みが治ると良いのですが・・・


*: 自分も現役時代はモーレツに働いていましたが、それでも、今のような社会貢献が全くない生活は、現役の方々には本当に申し訳ないと思います。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました

この先です。