私と家族の近況
私と家族の近況

*あしがらみち*

2012年 前半分:最新は6月度


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6月度 (June 30, 2012)

 東北被災地支援旅行と銘打ったツアーに参加し、岩手県の沿岸に沿って被災地の現況を勉強してきました。 別に勤労奉仕をするわけでもありません ( したいと思ってもこの年齢と体力では無理です ) が、せめてもという事で、地元のお土産品をたくさん買い込んだり、三陸鉄道北リアス線の復興資金に少額の寄付をしたりしました。 北リアス線はこの4月に一部が復旧し運行を始めたので、その区間に乗ってもみました。 満席状態の乗客はほとんどが私たちの様な旅行者でした。 鉄道の再建復興のためにはとても良い事でしょう。


トンネルと橋脚だけは残ったが、線路、ホーム、駅舎、駅前の街並みなどは跡かたもなくなった。
津波到達点より僅か10mほど高くに在っただけで助かった家がある。
岩手県下閉伊郡田野畑村島越



鉄骨も鉄筋もコンクリートも津波の力で曲げられ千切られてしまった。
同上、島越駅前跡



美しい海岸には分別された瓦礫の山が続く。
岩手県九戸郡野田村付近


 被災者を含む何人もの地元の方から、当時の様子を伺いました。 「 地震そのものではどの家も施設も大きな被害は受けなかった 」、「 被害はすべて津波の為だ 」、「 死者と不明者は、避難せず家に居た人と、津波見たさに海岸に向った人だけで、直ぐに高台に避難した人たちは足もとまで水が押し寄せたが全員助かった 」 など、印象深い話ばかりでした ( もちろん、地域によって事情はさまざまに異なることもあるでしょうが )。

 厚さ1cm以上の鉄骨が曲がり、ねじ切られている様子、家々がコンクリの基礎だけ残して一面跡かたも無く消えている光景、一応分別整理は済んでいるが、うず高く積み上げられた瓦礫の山また山・・・これらをあちこちの町で見て、改めて被害と被災者のご苦労の大きさを再認識できました。 もっと南に下り、宮城や福島の方にも行きたかったのですが、それは次回にします。

5月度 (May. 31, 2012)

 5月の3日に4人目の孫が生まれました。 今までの3人は全て男でしたが、初めて女の孫が出来ました。 息子が晩婚だったので、こういう次第ですが、普通なら曾孫が生まれてもおかしくない年齢です。

 先月も書きましたように、5月14日から22日まで、横浜→韓国の麗水→同じく済州島→中国の上海→横浜というコースの8日間のクルーズの旅に出掛け、上海では在住の親しい米国人夫妻に会い、観光案内をしていただく筈だったのですが、何と、旅行社がオーバーブッキングしていて、出発の5日前になって 「 申し訳ありませんが船室がございません 」。 いくら怒ってみても、ないものはなく、泣く泣く中止。 半年も前から綿密に準備していたのに、口惜しくてたまりません。 高齢化と共に、空の旅による海外旅行は、時差だけでなく ( たとえ宅急便を使ったとしても ) 大きな荷物を引きずってある程度は歩かなくてはならないこと、ホテルを出るたびに荷物の詰め直しをしなくてはならない事などが苦痛となってきました。 そこで客船によるクルーズの旅を選んだのでしたが・・・

 もちろん旅行社は平謝りで、払いこんだ金は全額返還した上で、近いうちに類似の旅行を無料で提供すると言っていますが、何か気が抜けてしまいました。

 このクルーズの途中で、21日朝には金冠食があり ( この日は私の80歳の誕生日でもありました )、それを、遮るもの一つない東シナ海上で見られる筈でしたが、致し方なく自宅の庭で観察・・・ところが、私の家は金冠食が見られるベルト状のゾーンの中心に在るというのに、空は一面の濃い雲で、何も見えませんでした。 日本中の多くの土地で良く見られたというのに、そしてこの神奈川県でも友人たちの話を総合すると、ほとんどの地域でどうにか見る事が出来たのに、私の住むこの地域だけは運悪く、数少ない 「 終始全く見えなかった 」 地域ということでした。

 80歳と言えば 「 8020 ( ハチマルニイマル ) 運動 」 というのがあります。 80歳になっても自分の歯を20本以上残し、ちゃんと使えるようになっていようという運動です。 私は余裕を以ってこの記録を達成できました。 20本どころか、総数28本のうち、26本を現在残して満足に使っています。 失った2本の右下の大臼歯の跡にはインプラントを入れて、自分の歯同様に快適に使えていますので、全部そろっているのと変りなく、日常生活上全く不便はありません。 60歳過ぎまでは人並みにしょっちゅう歯が痛くなり、歯医者に毎月のように通っていた私が、こんなに丈夫な歯の持ち主に変れた経緯についてご興味があれば、 ここをご覧ください

4月度 (Apr. 30, 2012)

 4月はひどい目に遭いました。 2日の夜から発熱。 夜、単なる風邪かと思って寝ていたら5分ごとくらいの超頻繁な尿意と尿道の痛み。 しかし尿はほとんで出ません。 遂に堪えられなくなって救急車に来てもらって翌早朝緊急入院しました。 診断結果は 「 急性前立腺炎 」。 抗生物質の点滴をしながら8日間入院しました。 今はもう完治していますが、救急車に乗せられたのは生まれて初めてでした。 高齢化とともに体全体の抵抗力が低下してきているのが急な発症の原因だそうで、情けない事です。

 そんな状況の後で体調も本調子ではありませんでしたが、下旬には大学の前・後期の 「 同期会 」 がそれぞれ、しかも2週連続で熱海と東京で開催され、共に私が幹事長みたいな立場だったので、病み上がりを頑張って出席しました。 もうこの年齢になると、元級友たちも既に3割ほどが亡くなり、生存者も大半が健康上の問題を抱えています。 それでも3割程度の出席がありましたが、今回を以って両者共に終りとする事にしようと考え、提案、了承を得ました。

 全国から集まってきた数十名の級友たちと席を並べて過ごした 「 青春時代 」 が、もう60年も前の出来事だったと思うと、同期会をやめるという提案が可決された瞬間、何とも言えぬ 「 喪失感 」 のようなものがこみ上げて来て、残念でたまりませんでした。 しかし、そうかと言って、いつかはこの日が来るのですから、誰かがどこかで決断しなくてはなりません。  「 昭和ひと桁生まれ 」 の私たちには、いよいよ人生の閉幕が近づいて来たようです。

 景気の悪い話ばかりしてしまいましたが、月の後半は、本人は結構元気で毎日を送りました。 月末には2人で名古屋まで出かけて久しぶりに孫に会ってきましたし、カホルは15日に、半年ほども猛練習を重ねてきたコーラスの50周年記念発表会を成功させました。

 来月中旬には2人でクルーズ船に乗って、上海まで往復8日間の旅に出る予定です。 昨年10月に日本に遊びに来て、私たちが箱根観光を案内してあげた米国人夫妻が上海に住んでいて、ある米国企業の現地法人の社長をしており、私たちに是非遊びに来いと何度も言ってくるので、体力のある今のうちにと考えて行くことにしたのです。 中国には35年ほど前、まだ紅衛兵だの4人組だのが退陣したばかりの頃に、仕事の関係で1週間ほど滞在した事があるだけです。 人々は紺の 「 人民服 」 かカーキー色の軍服しか着ていませんでした。 その下のセーターや下着は穴だらけでした。 自動車など殆どなく、街は自転車の洪水でした。 あの頃から現在までの変化・変貌は、凄まじいとしか言いようがありません。 この目でそれを確かめるのが楽しみです。

3月度 (Mar. 31, 2012)

 3月下旬から4月初めにかけて、近くの山の雑木林の斜面に、楚々とした 「 かたくり 」 の花が姿を見せます。 芽をふいてから7年ほどして咲き始め、50年ほどは毎年開花するのだそうです。 ユリ科だと言われれば、花の形はなるほどと思いますが、どれも随分と下を向いて咲きます。


 昨年ようやく成功した 「 リヴィングストン・デイジー ( Livingstone Daisy ) 」 の秋蒔き⇒春開花に今年も成功しました。 冬の間は毎日夕方、重いプランターを屋内に移動して低温・霜による被害を避け、朝また屋外の日向に出すという苦労を重ねました。 今年は易しい春蒔き⇒夏開花も露地で行なおうと、月末に種をまきました。


 先月書きましたが、13日には、ランディ・デニン氏が、お台場の東京ビッグサイトで開かれているサプリメントの見本市を見に、久しぶりに日本に来たので、カホルと2人で横浜のホテルに会いに行きました。

 ランディは在米中家族ぐるみで親しくなった米国人の技術者で起業家です。 とにかく、豪快で、マメで、多趣味で、器用で、思考柔軟で、エネルギッシュで、世界中を飛び回って・・・あんな風に生きたら人生はさぞ面白いだろうなといつも私は考えます。 現在はテキサスに 「 巨大な 」 豪邸を構え、サプリメントの販売会社を経営しており、時々日本にも商用や観光で来て、私たちの小さな家を訪ねてきたりもします。


カホルの茶色のネックレスは、ランディの奥さんの手作りのプレゼント

 彼はひと月に5つも10も、笑い話、驚くような写真や動画を送りつけてきます。 数年の間に私のパソコンから溢れてしまいそうなほどの量となり悲鳴をあげてしまいます。 「 デニン氏からのジョーク集 」 を最近掲載しはじめたので、ご参照ください。

 この所疲れ気味で元気がなかったカホルが、ランディが機関銃のような早口で ( しかし不思議と分かりやすい英語で ) 話す東西の森羅万象にわたる話を昼食を挟んで3時間ブッ続けに聞かされた後、数日間は 「 自分でも驚くほど体内に活力が漲った 」 と言っていたほど、彼のエネルギーは凄いのです。 帰宅後さっそく、「 お前はカホルにとって、この上なく効果的なサプリメントだった 」 とメールを打ちました ( その後数日でカホルは元に戻ってしまいましたが )。

 私が2008年にこのホームペ−ジに書いた、牛のBSE病関連の文章 について、最近ある方からご質問のメールが来ました。 それにお答えしているうちに気付いたのですが、10年近く前のあの頃は、日米関係がギクシャクするほど、日本中が 「 狂牛病 」 に慄いていました。 それが、10年も経つか経たない今、殆ど誰もこの問題を口にしません。 今日現在では、恐らく誰もが全く不安がらずに牛丼や焼肉を食べています。 この4〜5年、TVや新聞にその関係のニュースはほとんど皆無と言ってよいほど報道されませんし、ネット上にも、2008年あたりのものを最後にほとんど記事は出ていません。

 恐らく、世界各国で肉牛の飼料、解体作業、調理方法 ( たとえば英国ではハンバーグに牛の脳みそを加えていたのを止めた ) 等が改善されたためと思われます。 またBSEに罹った牛の発生も、日本では2008年を最後になくなった様ですし*、恐れていた人間の発病 ( vCJD ) も日本では幸いゼロのままです。

 しかし、よく調べると、狂牛病の脅威が皆無になったとは、まだ言えません。 にも関わらず、現在は食の安全と言えば放射能問題に限定されてしまっているかのようです。 新しい脅威が出てくると、古い脅威は簡単に人の念頭から消え去るものなのでしょうか。

 放射能の問題もBSEの問題と同様に、種々の除染対策の努力が今後徐々に成果をあげ、また、半世紀前の中国ほかの度重なる核実験による大量の放射性降灰が、その後日本列島から雨で洗い流されてしまったのと同様の事も起きて、陸上の居住区域の環境が浄化され、不幸な発病なども無く・・・と経過して行く事を祈るばかりです。 そうして狂牛病の不安同様、放射能の不安も人々の念頭から消え去ってしまう日が10年後、20年後に来ると良いのですが。

*: BSEに罹った牛は1992年がピークで、全世界で3万7000頭余り ( 殆どは英国内の発生 ) も発生しましたが、2010年にはわずか7頭に減りました。

2月度 (Mar. 5, 2012)

 今月も、いつになく寒い中、幸い晴れの日が多いので、毎日のように40〜50分、山道を2人で歩き続けました。 最近ではMapionの地図を眺めているだけで、景色の美しい道か、そうでない所かが分かるようになり、毎日のように新しい眺望を発見しています。 問題は近傍に車を停めておける場所があるかどうかで、時には下見が必要になります。

 毎月、小さな旅行をすることにしていたのに、月末に例の大雪が降って、車が出せなくなり、泣く泣く今月の旅はキャンセルしました。 それにしても、今年は花の開花が遅れていますね。 当地では梅は1ないし1.5カ月、河津桜も少なくとも半月は遅れています。 3月になったらまとめて花見に行くつもりです。

 本当にあっという間に過ぎてしまった2月でした。 今月は書くことも無いし、載せるほどの写真も撮りませんでした。 ホームページの片隅に、「 デニン氏からのジョーク集 」 というページを新設したのでご覧下さい。 彼とはもう何年も会っていないけれど、毎週のようにメールは来ます。 3月13日にカホルと横浜に出かけ、商用で訪日する予定の彼と一緒に昼食を食べる予定にしています。

1月度 (Jan. 31, 2012)

 このホームページを開設してから、早くも13年が経ち、14年目に入りました。 1998年・・・あの頃は気力も体力も充実していて、次々に本を買ってきてはむさぼるように読み、パソコンの勉強をしていました。 「 今昔の感 」 とは、まさにこういう事を言うのでしょう。 15年間に買ったパソコンはカホルの分も入れて7台。 今も夫婦ともまずまず ( 濁点が有りますのでご注意 ) 元気で、ボケも ( 多分 ) あまり無く生きていられるという事実に感謝しています。 私は今年の5月に遂に満80歳になりますが、今も毎日、3台のパソコンの前に合計数時間は坐って、忙しく脳みそと指先を動かしています。

 元日は往復80分歩いて近くの神社に初詣してきました。 その後も昨年の12月と同様に、山道主体の1時間前後のウォーキングを2人で毎日欠かさず続けています。 とにかく、体力と脚力をつけておかなくては困るような旅行を、今年は色々と計画しているものですから・・・

 ところが、12日に、ある山道を歩いていたら、カホルが 「 何か体調がおかしい。右の肩胛骨の下あたりが痛いような苦しいような・・・ 」 と言いました。 歩いているうちに治ったのですが、翌13日になっても断続的にそれが続くので、普段お世話になっている病院に行き診て頂いたら、心電図と造影検査の結果、狭心症と診断され、その場でまた1本、新しいステントを入れられてしまいました。 術後、医師にX線動画を見せられ、「 早めに来たのが幸いだった。 放っておいたら近い将来重い心筋梗塞になるところだった 」 と言われました。 翌々日の朝退院以降はどこに行って何をしてもいいと言われ、実際、17日以降、外出やウォーキングを怖々と再開しました。 それにしても30分で検査と治療が終ってしまうことに、医学技術の進歩を改めて感じ、驚きました。 13日の金曜日は、今回はとても運の良い日でした。




上: 午後遅くの日間賀島久渕港。 下: 日間賀島西港から見た日没

 医師にそう保証されたので、昨年このページに書いたように、今年はあちこちに出掛けるつもりです。 その手始めとして、26日から28日まで、2泊3日で愛知県の知多半島の尖端の横に点在する二つの小島に行ってきました。 日間賀(ヒマカ)島と篠島です。 海も景色もきれいな上に各種の魚介類の旨さが格別という噂でしたが、まさにその通りでした。 日頃のトレーニングのお蔭で、2人揃って、日間賀島では寒風の中、自転車で島を一周観光し、篠島ではアップダウンの激しい絶景の山道を70分歩く事が出来ました。

 帰途は伊良湖岬に立ち寄りましたが、ここは結婚10周年の記念旅行で訪れた所で、40何年ぶりという事になります。 周囲の風景は殆ど変りなく、建物だけが立派に新築されていました。




上: 篠島南端の高台から西側を見下ろす。 下: 篠島の前浜ビーチ


左: 日間賀島での夕食の一部: ついさっきまで生きていたヒラメと伊勢海老の刺身。 右: 篠島での昼食: 名物のじゃこ丼 ( 他に朝どれのカレイとアイナメのフライが最高でした )

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました

この先です。