私と家族の近況
私と家族の近況

*あしがらみち*

2004年 後半分:最新は12月度

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12月度(Dec.31, 2004)

 とにかく、今年は、異常気象の連続でした。その最後を飾るかのように、12月も、ちょっと驚く異常な体験ばかりでした。

 まず、13日に、近くの海抜300mくらいの丘の上にあるゴルフ場に行ったら、南向きの斜面に植えてある白梅がもう3分咲きで、 辺りに良い香りを放っていました。 一昨年、孫を連れて元旦に近くの梅林を歩いたときには、一輪も咲いていなかったのです。  この辺りでは、種類にもよりますが、1月10日くらいからボツボツ咲き始めるものでした。
 
そこで、拙くて恐縮ながら一句 「 季語もはや死語となり梅咲く師走 」   理屈っぽいかな?

 私の家の庭のボケや蝋梅・・・これらは昨年までは、やはり年が明けてから咲き始めたのでしたが、 今年は、12月上旬に咲き始めました。 と思ったら、たしか3月頃咲くはずだった椿も、下旬に数輪咲き始めました。

 そして、極めつけですが、冬至の21日、日課のウォーキングで近くの丘に登り、歩いていたら、急に体中が痒くなったのです。  「ン?・・・アッ」と気づいたのですが、これは、毎年2月に入り、森の杉の花粉が舞う時期に、私が体験するあの痒さそのものだったです。  私は花粉で鼻炎にはならならないのに、背中やお腹の痒さが堪らないので、この時期は山には近づかないようにしているのですが、 まさか、12月下旬に、早くも杉の花粉が舞い始めるとは、思ってもいませんでした。  そこで辺りの杉の木を観察すると、茶色のあの恐ろしい杉のつぼみが、もう、はちきれんばかりに膨らんでいるのです。  大急ぎで逃げ出してきました。



 それでも、押し迫って30日には、近くの山々の300m以上の部分は、真っ白に雪をかぶりました。 あの満開の梅たちはどうしているのでしょうか。

 年賀状は、自作の写真主体のメールが4種で計約150通、 同じく写真主体の自製のハガキが5種で計約80通出すことになりました。( ほかにカホル専用のハガキも2種約40枚作ったんですよ! )

 私の場合、60〜70歳台の相手が半分以上ですが、それでも年々メールを受け取れる方 ( つまり、 ご自分のアドレスをご自分で開く方 ) の比率が増え、3分の2ほどまでに上っています。  除夜の鐘が鳴り始めると 「 今年は一体何通が Undelivered Mail Returned to Sender となって戻ってくるだろう 」 と考えながら、 準備しておいたメールたちを保存フォルダから送信フォルダにのせ替え、キーを押すときの気分は、なかなか味のあるものです。  そして、5分もしないうちに、ボツボツと、日本中からお返事のメールが届いてくるのです。   「 ああ、彼も今同じようにパソコンの前に坐ってるんだ 」 これは、メールならではの共感の世界です。

 メールの方が、画像も綺麗に見えるし、言葉もたくさん書き込めるし、それに、 まだ新年にならないのに新年の言葉を発送するという 「 そらぞらしさ? 」 も無いし、私個人としては好きなのですが、 受け取る相手の方の印象はさまざまでしょう。 毎日新聞の読者アンケートによると 「 失礼だ 」 と考える人が28%、 「 それもある 」 と考える人が72%との事、私が出す相手は、平均年齢より高い方たちが多いので、 3人に1人くらいは 「 何でハガキにしないんだ 」 と嫌な顔をされるのではないでしょうか。

 メールによる年賀状にもいろいろありますが、 私は自分で写真を撮り、相手を、家族構成や私の知る限りのご趣味その他で、いくつかのグループに分け、 デザインや挿入する写真や言葉も変えて作りわけ、送りわけています。 まあ、その努力に免じてお受け取りくださるよう、どうかお願いします。

   ハガキの方は、宛名だけは肉筆で書きましたが、これも、人によってはワープロやパソコンに書かせる方もいます。  時々、そういうのは機械的でいやだとおっしゃる方がいますが、これはそうも言い切れないのではないでしょうか。  機械を使いこなし、データベースを作って、良質の賀状を自分で印刷できるようになるまでの意欲、労力、時間は、 未体験の人にはわからない大変なもので、単純に 「 手抜きしたな 」 などと言ってはならないと私は思うのです。  そう、「 人もいろいろ 」 「 やり方もいろいろ 」 なのでしょう。

 さて、そういう風に苦労して作った年賀状を郵便局に出しに行ったら、年賀ハガキ用の投函箱は2つに分けてあって、一方には私製はがき、 もう一方には製はがきと書いてありました。 小泉首相、どうします?


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 この年齢になると、やはり自分の肉体のメンテナンスが最大の課題ですね。

 今年の第一の成果と言えば、昨年4月から始めている減量作戦です。  節酒と筋肉鍛錬とウォーキングを軸にして、1年8カ月で8.5kg減らせました。  一旦使えなくなった現役時代の上等のスーツやベルトが、すべてまた使えるようになりました。  皮肉なことに、着用する機会は、今やもう殆どなくなってしまっているのですが・・・。  腕時計もゆるくなり、体脂肪率も26%から18%に減り、 5、6年続いていた脂肪肝も解消しました。 あと数kg減らせれば、肥満の域を脱し理想の体重で、これが来年の目標です。

 第ニの成果は、1月中旬に8日間、私にとって生まれて初めて入院・手術というものを体験し、 積年の ( 軽度の ) お尻の患いを切除してもらったことです。  旅行でも、庭の草むしりでも、ゴルフでも、一切心配せず悩まずに、やれることの有り難さと言ったら、なんとも幸せなことです。

 まあ、老体はいつ突然駄目になるか分からないもの、自信を持ちすぎることなく、そっと感謝しながら来年に臨みます。


11月度(Nov. 30, 2004)

 今月は 「 フリーマンの随想 」 その64に紹介した、 私が在米中に翻訳した 「 南部とは・・・新しく南部に住もうとする人たちのために 」 という本の完訳を、 このホームページに掲載する仕事に、延べ40時間ほど使ったでしょうか。  日によっては、ほとんど1日中、パソコンにしがみついていました。 当時、東芝のワープロに打ち込み、 フロッピーに保存してあったファイルを、まずテキストファイルに変換し、これをパソコンに入れてからホームページに写し取り編集する仕事、 挿絵や図表をスキャナーで写し取り、これを修正してから GIF ファイルにする作業などでした。  今日、ようやく、最後の1章も完了しました。 疲れましたが、満足感もあります。 全部を読むのは大変でしょうが、 どこかちょっとだけでも覗いてくだされば嬉しいのですが・・・。

 その傍ら、年賀状のパソコンによる印刷も終え、あとは、喪中の知らせが来終るのを待って、宛名書きをするだけです。 「 ホッ 」

 中旬の11、12、13の3日には、3日連続で、同窓会に出席するため東京に出ました。  12日は小学校の、13日は高校の同期会でした。 まあ、顔をあわせた旧友たちは、遠路来られるだけの体力があるのですから、皆元気でしたが、来られない人も次第に増え、その中には、 最近体調を崩してしまった方も多く、明日はわが身と思えば、健康の大切さが身に染みて感じられます。

 年末を控えて、築後17年、あちこちが少しづつ傷んできた自宅の最初の補修を、年初から計画していましたが、 今月中旬漸く行いました。 と言っても、もちろん、自分でやるわけではなく、 次々にやってくるいろいろな職人さんたちの仕事を時々眺めているだけのことでしたが、終ってみると、ちょっぴり幸せな気分です。

 同時に、地震対策も、念入りに再点検し、必要な追加を自分で行いました。  震度7でも来ればもう駄目でしょうが、5強 ( あるいは6弱? ) くらいまでなら、当家では多分、額一枚落ちないことでしょう。  たとえば、普通は1種類の方法で壁に吊るす額を、4種類の手段を併用して固定しているのですから。  それでも慢心は禁物ですから、今も、暇さえあれば ( 暇ばかりかな? )、種々の耐震補強処置をコツコツと続けていますが・・・。

 先日の新潟の地震直後のNHKの報道で 「 支局の本棚が皆倒れて、資料が散乱し・・・ 」 と、その光景を流していましたが、 震度6程度の地震で戸棚がすべて倒れるような 「 対策不足 」 を、みずから報道するという 「 無恥? 」 ぶりには驚きました ( それとも、みずから反面教師になって見せようという健気な心がけでしょうか? )。  当家では、少なくとも、家自体が倒壊しない限り、倒れて困る戸棚は一つも倒れないでしょう。

 当家だけでなく、日本中で最も大地震の可能性、危険性が高く、いつ激震が来てもおかしくないといわれているこの地域 ( 東海地震、関東地震等、いくつもの、いつ起っても不思議でない大地震の 「 地震防災対策強化地域 」 つまり、 危険区域が、すべて当地をカバーしているのです ) の各家庭では、多くが当家と同様のレベルだと思います。  近隣の工場や事務所などでも、戸棚はすべて壁に頑丈に固定されており、 戸棚の中身も簡単には飛び出さないように、処置してあるのを見ています。

10月度(Oct. 30, 2004)

 月初めに、4日ほど宮崎から鹿児島にかけて短い旅をしてきました。 二人とも、生れてこの方、九州にだけは一度も足を踏み入れた事が なかったのです。 そういうわけで、期待も大きかったのでしたが、関東地方がこの間ずっと雨続きだったのに、九州は快晴続きと、 運も大変良い旅となりました。食べ物も旨く、温泉もよく、森伊蔵の焼酎とやらもたっぷり味わうことが出来ました。

 鹿児島県の知覧という町にある特攻隊の記念館では、慶応の学生から学徒出陣で志願し、 特攻隊員として昭和20年の4月に22歳の若さで戦死した、従兄の熊井常郎の消息にも改めて触れることが出来、 良い思いでとなりました。

 彼のことについては、慶応の学生時代の親友で、 その後塾長にまでなられた石川忠雄氏が、10年前に日本経済新聞に長文の暖かい追悼文を載せてくださいました。  彼の辞世の歌 「 新しき光に生きん幼な児の幸を祈りて我は散らなむ 」 には、戦後、作曲家大中寅二氏が曲をつけてくださいました。

 死を明日に控えて、誰しも冷静になどなれるはずがないのに、 彼は自分の死を「大日本帝国」のためでもなく 「 天皇陛下 」 のためでもなく 「 米英撃滅 」 のためでもなく 「 両親や家族 」 のためですらなく、 戦局不利な中、この先どうなるか分からない「 日本中の幼い少年少女の未来 」 の幸せのため なのだと位置付けたのでした。  あの時代のあの軍国主義一色の思考パターンの圧力の中で、これは凄いことだったと私は思うのです。  この歌を思い出すたびに、私は今も彼の心の崇高さと自分や家族の今の幸せとを思わずにはいられません。

 ここに来るまでは、私も、特攻隊などというのは無謀な愚挙だったとだけしか思っていませんでしたが、 改めて、彼らが、他の人たちより少々生真面目だったばかりに、 あの何とも気の毒な運命に引きずり込まれて行った 「 戦争の犠牲者 」 であったことに気づいたのでした。  彼らの行為を単純に賛美するのが良くないのと同様、「 特攻隊 」 という言葉だけで反射的に嫌悪感を抱くのも良くありません。  当時のあの異常な環境の中、追い詰められていった彼らの境遇と心境を正視し、理解し、深く同情してあげなくてはならないと思います。

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 これとは別の他のいくつかの立派な記念館 ( 特に名は伏せます ) も訪ねましたが、展示の解説に添えてある英語の文章の中に、 私の英語力でも首を傾げたくなるような部分がいくつも目につき、気になり続けていました。本件については、 長くなるので別のページに書きました

 先月書いた新車も月半ばに納車されたので、早速中央高速を爆走し、 ヴィーナスラインで美しい唐松林の紅葉 ( と言っても黄色 ) を鑑賞してきました。 車の性能と装備には十分満足しましたし、 特に最新版のDVD−ROMによるカーナビの性能には驚きました。

 事前にインターネットであちこちの町の有名な蕎麦屋を探し、一部は予約までして訪ねましたが、 新そばの季節だというのに 「 これだ! 」 という旨いものには今回も出遭えませんでした。  私の要求レベルが高すぎるのかも知れません。 でも、5年ほど前に、佐久盆地から別所温泉に抜ける途中、 名ももう忘れてしまった小さ〜な村の古い造りの蕎麦屋でたまたま食べた蕎麦の素晴らしさを今でも忘れられないこの舌が、 「 キットどこかにあれと同じくらい旨い蕎麦があるはずだ 」 と、食いしん坊の私を今日もそそのかすのです。

9月度(Sept. 30, 2004)

 22日には、カホルと二人で渋谷のオーチャドホールに、ニューヨークシティバレェを観に行きました。  切符を頂いたから行ったわけで、お恥ずかしながら、この歳になるまで、バレェというものを観たことはなかったのです。  カホルは数年前、サンクトペテルブルグのを観た事があるそうで、その方が素敵で感動的だったと言っていました。  私は、全くの素人考えですが、絵画でも音楽でも、欧州で王侯貴族の後ろ盾で発展してきた伝統芸術が米国に渡ると、 良くも悪くも、皆、こういう風に アメリカン に変貌してしまうのではないかと思うのです。  それは、料理におけるような 悲惨な変貌 では決してありませんけれども。

 話は飛びますが、プロ野球のストは教訓的でしたね。  老人が多数を占めるオーナー、会長、コミッショナーたちが、自分の利益ばかりを考え、現状維持に汲々とし、 排他的に振舞い、小田原評定を繰り返し、果ては責任を果たさず逃げ出したり、 「 たかが選手が・・・ 」 などという高慢なせりふを口にしたりするのを見聞していると、老害 という言葉を改めて痛感します。

 相撲の横綱審議会などでも同様、老人が多数を占めていますが、何も 「 事件 」 が起きなければこれらの人たちでも何とか務まるのです。  しかし、緊急事態が起きたり、根本的な改革を迫られたりすると、老人たちにはもう何も出来ないのです。  しかも、彼らは自分たちが時代遅れで無力だと言うことに、最後まで気付けないでいるのです。  こういうことは、今に限らず昔からあったわけで、以前書いた 元寇の折の朝廷勢力などもそうでした。

   結果が良かろうと悪かろうと、すべてが 「 自己責任 」 で完結し、周囲には迷惑をかけないで済む個人経営の自由業なら結構ですが、 「 組織の長 」 は70歳になる前に権力の座から退くようにしないと、周囲が迷惑するだけです。  自分の意思で退くのが一番良いのですが、退きたがらないなら、周囲がやめさせるようにしなくてはなりません。 

   「 一票の格差を考える会 」 の、新聞紙上への意見広告掲載も、無事、22日23日24日の3日間で完了しました。  それぞれ、前記の日付をクリックして下さればご覧になれます。 Acrobat の pdf ファイルは拡大してお読み下さい。

 8月1日に再開した体重削減計画ですが、9月も順調に推移しました。 毎朝秤に乗り方眼紙にグラフをつけていますが、 60日間で3.0kg減ですから、平均で1日にちょうど50gづつ、ほとんど直線的に減量できています。  9月末には、この1年間での 「 新安値 」 75kg台に、ついに突入しました。  昨年7月開始時の83.5kgと比べると、途中種々の理由で山や谷や平坦期がありましたが、15カ月で約8kgの減少です。  体脂肪率の数値からは、9kgくらい脂肪が減り、1kgほど筋肉が増えた勘定になります。  今年中に目標の理想体重71kg・・・はちょっと無理としても、来年春までにはこれを達成できるという希望が見えてきました。

 ところで、愛車ですが、6年乗ったので、ここらで違う車に買い換えようかな・・・という気になりました。 自分の年齢を考えると、 あるいは次が人生 「 最後の車 」 になるかも知れません。 二人で出かけていって、以前から頭に描いていたいくつかの候補車に、 一つ一つ試乗させてもらい、インターネット上に、多くの人たちから寄せられている賛辞や批判と、実際に較べ合わせてみました。  情けないことに 「 メーターの文字が小さくて昼間日光が反射すると読めない! 」 なんていう高齢者特有の発見をする車もあったりして、 やっぱり試乗は大切と実感しました。

 近くの街道筋にも 「 こんなにいつの間に出来たのか! 」 と驚くほど数多く並んでいる中古車買取業者の店を次々に回る一方、 インターネット上での査定もしてもらい、愛車の現在の価値を品定めしました。  普段は出入りしない店に入り込み、初対面の人たちと話をするのは、なかなか面白い体験です。

 新車の値引きの相場についても、現在のインターネットには、すべての車種について驚くほど詳細に出ています。  セールスマンとの上手な折衝の仕方についても、有益で懇切な手ほどきが、読みきれないほどたくさん載っています。  これでは本当にセールスマン泣かせだと思います。 この種の情報は、現在の車を買った6年前には、 ほとんど存在していなかったように思います。  この6年間の情報公開量の爆発的な増加とその内容的な向上、それらへのアクセスの容易化と迅速化に、改めて驚きを禁じ得ません。

 ですから、現在でもインターネットに接することが出来ない人たちは、 これらの情報が乏しいままでディーラーを選び、査定や値引き交渉に臨むわけで、非常な不利を免れないだろうと想像します。  いわゆるディジタル・ディヴァイドというやつです。

 良くも悪くも 「 とんでもない情報化社会 」 に変わってしまったものです。 ともかく、そう言うわけで、私の場合は、 たった1週間の間に、実に多くの有益な知識を得ましたし、数多くの興味ある体験もしました。

 自分の孫のような年齢の若いセールスマンたちは、皆、気持のよい人たちですし、 昔と変わらず夜遅くまで熱心に働く人たちばかりでした。  その度合いが少々激しすぎるので 「 連日こんな有様で、家庭や家族は大丈夫なのだろうか? 」 と、気になるほどでした。  そんな好感の持てる人たちばかりなだけに、幾つものディーラーに口をかけて互いに競争してもらい、順に絞って行く過程で、 選にもれた人たちに 「 断り 」 を告げるのは、私にとっては ( もちろん彼らにとってもですが ) なかなか辛い作業です。

 地域の防災訓練や老人会主催の地域清掃奉仕なども何度かあって、9月もバタバタと過ぎて行きました。  昨年の今頃は、北スペインからポルトガルへと田舎町を一人でうろついていたのが、 ついこの間のことのように想い出されます。 全く、1年の過ぎ行くのが早すぎます。 今年も3/4が終りました。

8月度(Aug. 31, 2004)

 幸か不幸か、夜は10時になると無性に眠たくなり、朝は5時半に自然に目が覚めるという、早寝早起きの体質の私は、 オリンピックも、昼間に前日の分を時々見る程度でした。 皆様はどうでしたか。

 夏痩せなんていう現象も、私にとっては遠〜い遠〜い国の話です。 7月はちょっと油断したらまた体重が増え気味なので、 ウォーキングを週に数日ではなく毎日8000歩以上 ( ただし夕方涼しくなってから ) やることにしたら、 20日間で2kg減って元に戻りました。  もちろん、禁酒も節食も筋トレも継続しながらです。 雨でも傘をさして1時間歩くのです。 これは口で言うほど簡単な話ではなく、 強い意思の持続が必要でした。 「 こんな苦労を続けるくらいなら、肥満で早死にしても構わない! 」 と思うほどでした。

「ああ、暑いなァ」

 私は以前の半分も食べないようにと我慢しているのに、これだけ運動していないとすぐに肥るのです。  でも、お腹が再び醜く出っ張るのは、やっぱり嫌ですから、頑張るしかありません。  消化吸収が悪いのか、基礎代謝が活発な体質なのか知りませんが、相当食べても飲んでも肥らないという人がいますよね。  本当に羨ましい!

 15日には 「 一票の格差を考える会 」 が催した 「 今こそ一票の格差是正を! 」 という討論会に、 事務局長として出席して来ました。  3人の衆参議員と慶応の曽根教授をお招きして、パレスホテルの一室で2時間近くの熱心な討議が行われました。  その内容は、9月23日(木)に、産経新聞東京本社版に見開き20段で大きく掲載しますので、 静岡以北青森までの方はご覧頂けます。 それ以外の地域の方のためには、近日、閲覧ページを開きますが、 翌24日から10月22日までなら、ここからご覧いただけます。。

 その前日と翌日には、衆参議員約50名、経済同友会幹部有志約30名、一般の有識者約10名のご賛同を得て、 この方々の連名で、国会議員と最高裁裁判官に向って 「 一票の格差 」 の是正を強く呼びかける全5段の意見広告を同紙に掲載します。

 8月はこの関係の準備で、普段よりいくらか忙しい毎日でした。 新幹線 「 こだま 」 にも1年ぶり?で乗ったら、 車両が新しくなっていて、少々驚きました。 この田舎者の年金生活者は、金はあまりないのに、 時間だけはたっぷり過ぎるくらいあるので、いつもJRの昼間の鈍行にしか乗らなかったものですから・・・。

 「 一票の格差を考える会 」 の4年間の活動の中で私が学び、考えたことを、ここに書きました。  お読み頂ければ幸いです。

7月度(Jul. 30, 2004)

 
 6月に南イタリアに行った話の続きです。 オルセー美術館をまだ見てないことに気づき、 もういつ行けるか分からないことだし、パリに立ち寄って、見てから帰ろうということにしました。  そのとき、シャンゼリゼ通りを歩いていたら、例のルイヴィトンの店が大改装中でしたが、 20m以上もありそうな2つの巨大なバッグの模型で、店の正面を飾っているのにビックリしました。  同じ高さの似た外観の建物をゆったりと並べることで上品な感じを出していたあの大通りが、 むき出しの商魂で汚されてしまったように思いました。 フランス人も、思ったほど利口ではなかったのでしょうか。

 無線LANのシステムを、今回我が家に導入しました。 この方式は、設定時に非常にトラブルが多いという話でしたので、 インターネットでメーカーのホームページの解説欄を開き、何度も熟読して問題点の理解を深めた後、購入、設置、設定しました。  そのためか、約30分ですべてを順調に完了することが出来ました。

 というわけで、今まで 「 遅い、遅い 」 と不満があったカホルのノートパソコンも無線でADSLにつながり、格段に高速化しました。  彼女が従来の 「 メールだけ 」 でなく、インターネットの世界にも入り始めたのは良いのですが 「 自分用のデジカメを持ちたい 」 と言い出す意外な展開になってしまいました。

 この種の新方式の導入は、ISDN、ADSL、ミラリング用HDDの外付けその他、今まで、毎年のように、 いずれも自分ひとりの手で実施して来ました。  こういう作業は、技術内容的には、今でも全く問題なく理解し実行できるのですが、 気力的には 「 もう面倒くさい。 多少不便、不安でも現状のままで結構 」 と思い始めるという風に、 次第に変ってきている自分に気づきます。  頭脳の衰えより先にやって来る気力の衰え・・・それが自分の老化現象だということを、改めて実感します。  そういう自分を奮い立たせて何とか頑張り続ける事が、老化の進行を遅らせる一助になるだろうとは思うのですが・・・。

 3日には横浜ローゼンコールの第30回定期演奏会を聞きに、横浜の県立音楽堂まで出かけて行きました。  大学の同級生だった宗方 素君が団長をしている、レベルの高いアマチュア合唱団です。 彼が2時間以上も、 ドイツ語も含めた全24曲をすべて譜面を持たずに暗譜で歌い通したことに、何よりも大きな感銘を受けました。  彼の頭は、老化やボケとは全く無縁のようです。

 中学生時代以来60年の長い付き合いの作曲家すぎやまこういち君からは、7月5日、メールが来ました。  今年中にドラゴンクエスト−8の作曲完成とその編曲、2つのオーケストラコンサート、室内楽コンサート、 3つのオーケストラによるレコーディング、着メロや着うたの調整、などなど抱えていて大忙しとのことです。  彼はいつも精力的にフル回転しています。

 25日には、これも同じ大学の同級生だった大野忠男君の個展を拝見しに、とある銀座の画廊に行きました。  毎年1回、そのつど、新しいテーマによる1年間の創作活動の成果を世に問いかけるということは、大変な気力の要る作業と思われ、 これにも改めて感心しました。 彼は、物事をいつも 「 深く掘り下げて 」 考え続けています。

 この他にも、70歳を超えた元気一杯の友人たちが沢山いますが、彼らは皆、常に自分に課題を与え、 自分を奮い立たせて生きているように思えます。 私も、私のやり方とペースで生活して行く中で、 気力が萎えることだけはないように努めて行こうと思っています。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました

この先です。