フリーマンの随想

その93. すぎやまこういち君の死を悼む

76年間続いた交友の思い出

( Oct. 20, 2021 )


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 10月7日午後、スマホのニュースで、一週間も前に親友すぎやまこういち君が亡くなっていたことを知りました。  カホルとともに、ただただ驚き、悲しい思いにうたれるばかりでした。

 そういえば、今春、彼が九州で体調を崩して倒れ、現地でしばらく入院していた折は、お見舞いがてら何度かご夫妻と電話で話をしましたが、その後、小康を得て東京に戻って以降は、どう過ごしていたのか、 ついつい聞かずにに過ぎていたことを悔やみます。

 すぎやまこういち ( 椙山浩一 ) 君と私とは、どちらにとっても、相手は 「 一生で最も長期間つきあった良き友人の一人 」 です。 私が彼と知り合ったのは中学二年生の春 ( 1946 )、 敗戦から1年も経っていない頃でした。 クラスでは私の席の左隣りにすぎやまの席があり、すぎやまの前には青島幸男の席がありました。 すぎやまは杉並区荻窪の四面道の家から、 この中野区鷺宮の都立武蔵中学 ( 旧制 ) までの5kmほどの砂利道 ( 当時は ) を、毎日、雨が降っても自転車で通っていました。

 その頃以来、私たち二人は親友となりました。 毎月何回も、日曜日の午後に、私は時には妹を連れて、彼の家に遊びに行くことに決めていました。

 椙山家のご両親は私達を大変かわいがってくださいました。 彼とその弟妹たち、彼らの多くの友人たちとそのきょうだいたち・・・若い男女多数が毎月何度か彼の家に集まり、麻雀、トランプゲーム、 レコードでのクラシック音楽鑑賞、合唱、ジェスチュア遊び、そして時には彼の高校後輩の服部克久氏の上手なピアノ演奏などなど・・・・そしてその後は近くの大きなホールに移ってご両親主催の社交ダンスパーティを楽しみました。  すぎやま一家は全員社交ダンスも非常に上手でした。

 敗戦直後の本当に何もない極貧の時代に、素晴らしい、本当に楽しい青春のひと時を、毎月何回も私に与えてくださったのは、椙山家の皆さんでした。

 彼と私は、別々の高校 ( 新制 ) に進学しました ( 1948 ) が、この集まりは少しずつ大きくなりながら、私たちが大学を卒業する時まで続きました。 大学と言えば、一緒に東大に合格した後、 入学式には二人そろって濃紺の背広を着て、待ち合わせて一緒に出席したことを覚えています。 その当時 ( 昭和二十六年、1951 ) は、学生は全員黒の学生服に角帽と決まり切っていましたが、 私たちはそういう 「 お仕着せ 」 的な服装を拒否したのでした。

 大学生になってからもこの楽しい交友の集いは続きました。 文化放送の 「 家族対抗歌合戦 」 という番組に出ようとした椙山きょうだい五人とお母さんの六人だけでは声部が揃わないというので、 私ともう一人の中学時代の友人が 「 すぎやま家の友人 」 という資格で加わり、椙山君編曲の 「 オン ザ サニー サイド オブ ザ ストリート 」 を歌って優勝したことも懐かしい思い出です。  その時2位だったのが、のちに 「 ザ・ピーナッツ 」 となり、すぎやまこういちが作曲した 「 恋のフーガ 」 などの曲を歌って有名になった、当時はまだアマチュアの少女だった双子の姉妹でした。


写真の説明は文末に載せました。

 大学卒業以降は、私たちは別々の全く無関係の世界で働いたので、ごくたまに会うだけの長い年月が過ぎました。 その後、半世紀近く経った六十歳代後半、私が現役を退いた直後、すぎやまから連絡があって 「 一票の格差を考える会 」 という政治団体を立ち上げるから手伝ってくれないかと誘われました。 組織やホームページの立ち上げと運営、経理などをすべて私に任せてくれました。  彼が会長、私が事務局長となってゼロから会を立ち上げ、一緒にいろいろと熱心に活動したあたりから以降の事は、このホームページにも一部書いてあります。

 ふり返れば今日まで、七十五年ほどにわたり、本当に思い出深く、楽しく、そして有意義だった青春時代とそれ以降の日々を与えてくれた椙山浩一君とそのご家族に、私は今も心から感謝しています。

 彼は酒はまったく飲めない体質でしたが、好奇心の強い美食家で、日本中の有名店を食べ歩いては自身のホームぺージで紹介していましたが、私の家のそばのに店に来るときは、 誘ってくれ、夫婦4人で食事を楽しみました。 勿論、金回りの良い彼のおごりでした。

 彼はまた、本当に才能の豊かな男でした。 学校の勉強もそれ以外の分野の事も、何でも物覚えがめっぽう速く、特に勝負事については天才的でした。 ゲーム 「 ドラゴンクエスト 」 の音楽を手がけたり、 日本中の競馬場のファンファーレを作曲したりしたのも、当然の成り行きでした。 1977年度には 「 バックギャモン 」 の日本選手権者にもなり、日本バックギャモン協会の名誉会長でもありました。

 大変な博識であり、また、とても近づきやすい明るい人柄でした。 彼が他人の悪口を言ったのを、私は一度も聞いたことがありません。  とにかく、人生を明るく楽しく生きることに対して、貪欲であり桁違いに有能でした。 私は彼と知り合え、仲の良い友人になれたことを、本当に自分の一生の宝物のように今でも思っています。

 10月上旬は、新聞が、テレビが、一斉に彼の死を悼み、彼の業績の大きさを、ひっきりなしに伝えていました。 それらを目にし耳にするたびに、私はそんな素晴らしい男と本当に仲良く、 そしてお互いを理解し信頼し合って生きてきたことを思い出し、大きな誇りを感じたのでした。

 そういう大切な立派な友人が亡くなった事は、私にとっても痛恨の極みですが、彼が、そして私も、それぞれの選んだ道で、九十歳まで自分が満足できる一生を送れたことは本当に幸せなことだったとも思います。   終わりにもう一度、私に沢山の楽しい青春の思い出を与えてくれた彼に、本当に心からお礼を申し上げたいと思います。

 彼が 「 あの世 」 とか 「 来世 」 とかを全く信じない人間だということをよく知る私は、今ここで 「 ご冥福を祈る 」 だの 「 あの世で近いうちにまた会おう 」 だのとは決して申しません。  そんな言葉を口にしたら、彼に、「 つまらんことをいうなよ 」 と言われるに決まっています。

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写真の説明: すぎやまこういちはドラゴンクエストの様なゲームの音楽だけを作っていたのではありません。 アニメ作品用の音楽 ( 子鹿物語、ガッチャマンなど多数 )、映画音楽、テレビ音楽 ( ゴジラ対ビオランテなど )、 有名なポピュラー音楽 ( 花の首飾り、亜麻色の髪の乙女、学生街の喫茶店など多数 )、皆様がきっと聞き覚えのある多くのCMソング、日本競馬協会のための幾つものファンファーレなどです。 しかし、 忘れてはならないのが、彼のクラシック音楽に対する情熱でした。  私には、ふとベートーベンを思い出させる、二つの古典的ともいえる交響曲、弦楽のための舞曲などを作っています。 彼は1991年、はるばるロンドン迄行き、 ロンドンフィルハーモニーを自ら指揮してこれらの曲を収録しています。 このあたりが、実は彼の人生の最大の夢の実現だったのではと、私は想像しています。 最初の写真は、この舞曲の日本での演奏収録版で、1970年代の後半頃に彼が私に進呈してくれたLP盤のジャケットです。 当時彼はきっと、とても嬉しく誇らしかったのでしょう。 彼はその後も、 ドラクエの演奏会の録音CDなどができるたびに私に贈ってくれました。

次の写真は、敗戦の翌々年、1947年の10月、まだ日本が極貧だった頃、それでも中学2年生全員で三浦半島の観音崎に遠足に行った時の写真です。 椙山は当時からカメラや写真に関心があり、 当時としては贅沢な小型カメラを持参しました。 人生の後半、彼は厖大な数のクラシックカメラのコレクターとなり、その分野の著書も一冊出しています。 中央が椙山、向かって右が私です。

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