私と家族の近況
私と家族の近況



*あしがらみち*

2012年 後半分:最新は12月度


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12月度 (Dec. 29, 2012)

 衆院議員の選挙が終わりましたが、今回もまた 「 一票の格差 」 が大きな問題になっているのに、 それが放置されたまま突然の選挙が強行されたことは、多くの皆様がたがご承知の通りです。  永いこと 「 一票の格差を考える会 」 の仕事を続けてきた私としては、この問題について、是非ひとこと書きたいと考えました。  このページをご覧頂ければ幸いです

 3カ月近くも毎日のように苦しみ続けたカホルの肩痛も、ようやくおさまってきました。 原因は医師にもいまだに不明なのですが、 痛みの発症の半月くらい前から服用を始めた、ある高血圧の薬の副作用らしいという疑いが濃厚です。  この推測に基き服用を中止し、翌日から症状が好転するという対応策に辿りつくまでにロスした3カ月は、 練習を重ねてきた独唱の発表会への参加断念や、中尊寺への旅行ツアーへの参加取り消し等、老い先短い身にとっては何とも勿体ない無為の期間でしたが、 ともかく、ようやくのことで12月下旬にもとの日常生活が7〜8割取り戻せる所まで回復して来ました。

 所が、この看病の間に私の心身にのしかかっていたストレスと疲労のため、今度は私の上半身に突然 「 帯状疱疹 」 が発生してしまいました。  幸いごく早期に帯状疱疹だと気づいて適切な治療を受けることができたので、半月ほどで一応治ったと言える所まで来ました。  通常は激しい痛みに見舞われるようですが、私の場合、軽い痛みで済みました。  ここでちょうど年末になりました。 2人にとって何とも慌ただしく辛い3カ月でしたが、年賀状も半数くらいはメールにさせて頂くことにし、 何とか間に合わせました。 しめ飾りも用意出来ました。

 暮れからお正月にかけては、この思いがけぬ苦労を慰め、病後の体を 「 いたわる 」 意味で、気楽に過ごそうと考えました。  ただのんびりと遊ぶだけというのも申し訳ないので、福島の温泉に行き、復興の一助に僅かでも被災地に金を落としてこようと考えました。  大晦日や元日を旅先で迎え、過ごすというのは、2人ともたぶん生まれて初めての体験です。  大掃除は10月以降続けていた家財の大整理と共に、ある程度は自然に済んでしまっていたし、お節料理は作らなくてよいし、 気楽な年末年始を過ごせそうです。

 そういう次第で、大晦日は不在なのでこのページは今日29日にアップロードします。 鬼が笑うと言われそうだし、 あと1年も生きられるかどうか、だいぶ疑わしいのですが、あえて言わせていただくなら、仮に来年またこういう事態になっても、 旅先でホームページのアップロードくらい出来るような超小型のノートパソコンを私は持っているはずです。

 今年もアッと言う間に終わってしまいました。 @ 5月には2人目の内孫が生まれました。  今まで孫は3人とも男の子でしたが、今回は初めて女の子でした。 A 7月にはクルーズ船というものに乗って初めて上海や済州島に行ってきました。  B 8月には7年半乗ったアリストを売り、小さいアクアを買いました。 我が家の3大ニュースと言っても、せいぜいがこの程度のことでした。

 次点は C 本を実物で買わず、タブレット端末で電子図書の形で読むようになったことかな。  気楽に読む文庫本などはこの方式が 「 家財が増えない 」 のでとてもよいのです。  両名とも今年は1回ずつ入院しましたが、どちらも命に関わるような心配はない程度の病気でしたし、すぐに全快しました。

では、皆さま、どうか来年が今年より少しでも良い年でありますように。



11月度 (Nov. 30, 2012)

 当地にも秋はやってきました。 「 ざる菊 」 という名の、ざるを下向きに伏せたような形の菊が、神奈川県西部地域では近頃あちこちで育てられています。  最近、福島県にも移植されたと新聞に出ていました。 当地でも、庭や畑にこれを育てる人たちが増えている事がわかります。  11月中旬が見頃なので、ウォーキングがてら、あちこちで写真に撮ってきました。 あいにくの曇天だったので、 あまりきれいに写っていません。 残念なので、後日晴れた日に他の場所に行って撮ったのが3枚目です。



 ついでに、普通に見られる白い花ではなく、赤い花が咲くそばの畑や、露地にそっと咲くリンドウの花も撮りました。  そばの原産地は中国の奥地雲南省からヒマラヤにかけてと言われており、そこでは、ピンクや赤色のそばの花が珍しくないそうです。


   わが家の裏の柿の木に、今年も沢山、実がなったのですが、高いところに生ったのものは、このご老体では危なっかしくて採取できません。  すると、いろいろな種類の野鳥が次々に飛んできて、食べてゆきます。 そっとカメラを向けると、用心深い鳥は 焦点合わせの赤い光に驚いてか逃げてしまいますので、よそを向いた隙に急いで撮るしかありません。 鳥の名前は、毎回図鑑と首っ引きで調べるのですが、 ほとんど徒労に終わります。 なぜだか分りませんが、見たのと同じ鳥が載っていることは稀です。

 今月は同期会、同窓会のたぐいの集まりが計4回もあり、幸い全部に出席できました。 自分の医者通いは3回で済みましたが、 カホルに首から肩にかけての原因不明の痛みが出て、何も手につかない有様。 車の後部座席に横臥状態で乗せて週に2回ほどの医者通いでした。 このため、楽しみにしていた中尊寺への旅行はキャンセル。   友人たちにももそういう人たちが増えてきましたが、これからは2人揃って健康という時間は次第に減ってゆくのかも知れません。

                         
10月度 (Oct. 31, 2012)

 9月の下旬から、一念発起して家財の整理を始めています。 10代の頃から現在に至るまで、70年近くの人生で貯まりに貯まった家財道具、機器、収集品、書類、書籍、写真、衣類、 その他の内、もう使うことのなさそうなものすべてを、思い切って大部分捨ててしまおうと考えたのです。 一日に3時間以上働いても1室あたり3〜10日かかります。  不要物の80%以上を捨てるという目標のもと、生じる廃棄物は、可燃物、不燃物合わせて毎日5〜30kgに達します。  自分はなんでこんなに 「 物を貯めこんだ 」 のかと呆れるばかりです。

 うまく整理できた例をひとつ挙げますと、1988年ころから10年間ほどの間にワープロで作ったフロッピー60枚の内容は、 友人がすべて1枚のCD−Rに移してくれました ( メディアの容量の進歩に驚きます )。  結果としてフロッピー約100枚、CDとそのケース約50ずつを捨てられましたが、それだけで大きな紙袋に2つもありました( 下の写真1 )。  また、古いパソコンの周辺で使っていた接続ケーブルや電源アダプター等の不要品が、何と10kgもありました ( 下の写真2はその一部 )。 ワープロも、古いパソコン数台も、 キーボードやモニターも、みなルールに従い捨てました。


 過去50年間に買い、使い、そして使わなくなったスチルとビデオのカメラが20台以上もありました。これらのうち40年前のNIKON−Fだけはカメラ好きの友人がもらってくれましたが、 のこりは全部大型カメラ店に持ち込み、無料でリサイクルに引き取ってもらいました。 若いころ家族たちを撮った8mmのフイルムやテープは、このカメラ店でDVDに写しとってもらった後、全部捨てました。

 なぜこんな事を始めたかと申しますと 「 自分の人生が最終段階に入った今、仮に明日自分が死んだら、残された子供たちが、 これらの家財を全部捨てるだけでもひと月近くかかるに違いない。 現在同居しているわけでもないのに、そんな時間と労力とを彼らに費やさせては申し訳ない。  その上、何が大事で何がガラクタかが分からないまま、高価で貴重な品々( 数は少ないけれど、この私だって持っているので、リストを作りました ) を、それと知らずに捨ててしまわれても困る・・・ 」 と、 まあ、そんな風に考えたからです。

 思い切ってどんどん捨ててゆく中で、自分がかつて全力で苦闘した現役時代の記録・・・作業日誌、研究報告、頂いた表彰状、自分の発明にかかわる特許の明細書、 雑誌や内外の学術誌に掲載された私の論文、退職後行なった社外での講演や大学での講義の記録、米国在住中に現地の新聞や雑誌に写真入りで自分が紹介された記事・・・のようなものが出てくると、 ついつい、捨てる手に 「 ためらい 」 が生じてしまいました。

 これらは、心を鬼にしてもなかなか捨てられない品々です。 これらをすべて廃棄物の袋の中に入れてしまった日の夜、ひどい喪失感というか、虚脱感に襲われ寝られなくなってしまいました。  結局、翌日、これらを袋から取り出して一つにまとめてダンボール箱に入れ、「 死んだら捨ててもかまいません 」 と書いた内容説明のメモを張り、当面残すことにしました。

 それほど大事なものでもないのに 「 もう見ることもないだろう 」 と考えて、数十年間の現役生活中に頂戴した名刺が整理保存してあった二つの大きなファイルを捨てた時でさえ、一瞬、 自分の半生がこれで消えてしまうかのような淋しさを感じました。 蔵書だってそうです。 高校生、大学生のころ買って夢中で読んだ本は装丁も紙質も粗末ですが、 茶色く変色したページに書きこまれた自分の字を見たりすると、どれもこれも皆大事にとっておきたくなります。

 でも、もう手に取りひろげて読むことなど今後絶対にないと思えば、この際捨てるしかありません。 今日50冊、明日80冊と・・・  その時、自分の思い出深い 「 過去の生きざまの証し 」 が、ひとつまた一つと消えてゆくのです。

 毎日記録をとりながら作業しているうちに、もう既に30日ほどが経ち、廃棄した物品は累計150kg以上に達しました。 この調子ですと、来春に終了するまでには恐らく1トン前後を捨てることになるでしょう。  家の重心が下がって、いくらか地震対策にもなるのでは・・・と半分本気で考えたりします。

 今月はろくにウォーキングもせずに、殆ど毎日こんなことばかりしているうちに終わってしまいました。 毎月1回診察を受けている医師に 「 運動は続けていますか 」 と聞かれ、 この話をしたら 「 そういう家事労働的な事も継続的に沢山やれば体に良いんですよ 」 と言われ、ひと安心。 快い全身運動だと思って今後も毎日続けます。

9月度 (Oct. 1, 2012)

 30日の台風17号の被害を避けようと、近所の稲田では28、29日は稲刈りと稲架 ( はざ ) 掛けのラッシュでした。 でも、幸いこの地では雨風も大したことはなく、 今朝 ( 10月1日 ) 散歩してみたら、まだ刈られていない田の稲も全く倒伏していませんでした。

   月半ば、一泊二日の旅で浜松市の北、引佐 ( イナサ ) 町 ( 浜松駅前で借りた小型レンタカーで1時間弱 ) に在る、臨済宗の古寺 「 奥山半僧坊方広寺 ( オクヤマハンソウボウ・ホウコウジ ) 」 にお参りに行ってきました。  と申しても、参禅に…というような殊勝な心根の旅ではなく、ただ、その静まりかえった山奥の古寺の雰囲気に 「 打たれ 」 に行っただけです。  舌足らずな文章ではなく、むしろここをクリックして 写真をご覧いただき、私どもがその日感じたその印象深い 「 たたずまい 」 の何分の一かをでもお伝え出来ればと思います。  個人的には、10年ほど前に訪れた、近くに在る有名な 「 龍潭寺 ( リョウタンジ ) 」 よりはずっと強いインパクトを感じました。



門前の菓子屋で 「 大あんまき 」 ( ¥450 ) を買いました。  数年前、旧東海道を歩いていたとき、静岡
西部から愛知東部の街道沿いに、これを売っている店がいくつかありましたが、いろいろな事情で一度も
買えませんでした。  今回、ようやく手に入れ食べることができました。 量も多く結構美味でコスパは高い。

 先月購入した AQUA は、小型のハイブリッド車ですから、燃費が大幅に改善されるはずと期待していました。 市街地を買い物しながらチマチマと走った場合、 アリストが6.5km/L程度だったのに対して、約19km/L。 郊外を少々遠乗りしたときは8〜9km/Lに対して24〜28km/Lと、いずれもちょうど3倍程度の向上が見られました。  もっとも、最初のうちはそれほどの低燃費とはならず不満でした。 しかし運転のコツが分かってくるにつれて上記のような良い値が出てきました。  上述の浜松で借りたほぼ同じ大きさの Vitz が郊外走行で約16km/L程度でしたから、ハイブリッドという方式は確かに燃費が良いと実感できます。

 先月は6回も医療機関にかよったと申しましたが、今月は幸い2回で済みました。 この国の医療保険制度が赤字に苦しんでいるのは、( 止むをえないことではありますが ) 医者にかかる頻度の高い高齢者の数が、益々増えてきていることが主な理由のようです。 最期まで医療保険をたくさん使わないで済む体で生き続けられれば、それに越した事はありません。  そうありたいものと祈っていますし、そのための努力も続けるつもりです。

 そうこうしているうちに、また今年も同期会、同窓会のシーズンが近づいてきました。  私の場合、戦中・戦後の混乱期に学生時代を過ごし転校を繰り返したため、全部出席すると7〜8回にもなります。 その後の社会生活の中で生じた同窓会もいくつかあります。  今年はそれらのうち幾つ出られることでしょうか。 最初の一つ、東京で開催された高校の同期会に29日に出てきました。  「 10月後半〜11月前半にこの種の会が集中しすぎる 」 と昨年悲鳴をあげたら、今年は9月開催に変えてくださったので顔を出さないわけにはまいりません。  そして・・・致し方ないこととは言え、懐かしい常連の顔が、病気などのため、いくつか欠けてしまっていました。

 
8月度 (Sept. 1, 2012)

 8年近く乗りまわしてきた3,000ccのアリストの巨体?は、80歳前後になってしまった私ども夫婦には次第に荷が重い感じがしてきたので、この際売却し、小さなエコ車 ( AQUA : 1,500cc+モーター ) に乗り換えることにしました。  もう100kmも200kmもの遠方にドライブすることもないでしょう。 しかし近くのスーパーや医療機関に行くためには、腕力や脚力の衰えがあるので、小さくてもよいから車がぜひ必要なのです。 交通網の発達した大都会とは違うのです。  8年前にアリストを買ったときは、自分の年齢を考えて、これが自分の人生にとって最後の車購入になるだろうと本気で考えていたのでしたが、( 「 幸いにも 」 と言うべきでしょうが ) そうではありませんでした。

 アリストはディーラーの下取り値が不満だったので、インターネットで買取り業者を探し、4社ほどの中から一番高く買ってくれるところに売りました。 ディーラーの言い値の倍以上に売れ、これも面白い体験でした。


 一方、ちょうど5年間愛用してきたデスクトップのパソコンが ( この半年ほど不調でしたが ) 急に具合が悪くなって、ついに20日に壊れてしまいました。 この日あるを予想してデータ等のバックアップはこまめにしておいたので、問題なくもう一台の新しいノートパソコンに乗り移ることが出来ましたが、移行と調整には3日ほどを要しました。 メーカー側は診断して修理できますよと言いましたが、なんと5万円以上かかるとのこと。 パソコンにとって5年はもう平均寿命だと思うので、スクラップにしてもらいました。

 今月のカレンダーを見返して見ると、1カ月の間に6カ所の医療機関に1回ずつ行っていました。 いずれも検診+簡単な診療程度でしたが、こう回数が多いと、やはり体力・健康の衰えを感じざるを得ません。 来月はこの半分以下にしたいものです。 世間ではよく「 夏痩せ 」 と言いますが、私はちょっと油断するとすぐに1〜2kg肥ってしまいます。 連日昼食を殆ど食べずに体重維持に努めています。

 
7月度 (Jul. 31, 2012)

 5月に、旅行社の不注意なオーバーブッキングのせいで出発直前にクルーズ船に乗れなくなくなってしまった上海への旅・・・旅行社がお詫びにと用意してくれた別のクルーズ船でようやく今回行ってきました。 お詫びの 「 無料提供 」 旅行とは言え、今回のツアーは内容的に私どもの意に沿わない面も多いものでした。 その上、暑い盛りの7月でもあり、上海には朝着いて夕方出港という慌ただしい滞在です。 それでも、上海在住の米人R氏夫妻には8カ月ぶりに会えましたし、用意して下さった車で送り迎えされて、無事、要所の観光をすることが出来ました。



済州島の埠頭にて

 中国と言えば、35年ほど前、まだ 「 紅衛兵 」 だの 「 4人組 」 だの * が退陣したばかりの頃に、仕事の関係で1週間ほど北京とその周辺の小都市に滞在し、現地資本の工場で技術指導した事があります。 人々は男も女も紺の 「 人民服 」 かカーキー色の軍服しか着ていませんでした。 その上着の下のセーターや下着は穴だらけで気の毒でした。 首都北京ですら地下鉄はまだないも同然、自動車も殆どなく、朝夕の街は通勤の自転車の洪水でした。 工場の設備や製品の品質は、お話にならないほどお粗末でした。 あの頃と、今回見た現在の上海周辺の驚異的な経済発展のレベルとを比べると、到底同じ国だとは思えないほどで、まさに 「 凄まじい変貌 」 と形容するしかありません。

 でも考えてみれば、日本だって昭和20年の敗戦直後の焼跡のバラックと飢えとつぎはぎのボロ服の時代から、35年後には昭和55年というバブル景気直前の繁栄の時代にまで、発展・変化していたのですから、これは不思議でもなんでもないことに気付くのです。

 上海に1日、韓国の済州島に半日、釜山に1日いただけですが、このページには事前の予想通りだったことは一切書かず、予期と違う、思いがけない体験・見聞をしたことだけをいくつか書いてみたいと思います。 「 百聞は一見に如かず 」 と申しますので、写真もご覧下さい。

 そうそう、今回、生まれて2度目になりますが、旅行にノートパソコンを持参しました。 船室では Wi-Fi の無線 LAN に有料で接続できるというので思い切って持ち込んだのです。 R氏との連絡や子供たちへの毎日の報告などのメール、天気予報やニュースへのアクセスなど、大変便利しました。 旅先での無線への接続は初めてでしたが、事前に勉強しておいたのでそれほど苦労せずに成功しました。 便利な時代になったものです。



東シナ海上での日の出

1.上海にて

1−1. 入国管理を済ませて税関の建物を出た所で、R氏ご夫妻が待っていて下さるとばかり思っていましたが、いくら探しても居ません。 困って Information に居た英語を話せる若い女性を泣き落として彼女の携帯で、R氏の携帯に掛けてもらうと、そこから2kmほどシャトルバスで行った先の駐車場で待っているとのこと。 早速そこに行きましたが、そこにも誰もいません。 困り果てて駐車場の管理所らしい建物に飛び込み、そこに居た3人の中国人の老人に交渉。 向こうは中国語しか喋れないし、私は中国語がまったくできません。 手真似で必死にお願いした所、その事務所の電話でR氏の携帯に電話して車を呼び寄せてくれました ( 中国人の運転手と話したらしい )。 まさに 「 地獄で仏 」 に遭ったという感じでした。 しかも、彼らはカホルが差し出したお礼の品も固辞して受取りません。 中国の市井の一般市民が、見知らぬ日本人旅行者にこれほど献身的に親切だと知った事は、誠に貴重な体験でした。

1−2. 中国の中華料理は、日本のそれとは微妙に味や香りが異なり、いくら上等の料理でも、私ども日本人には100%満足というわけには行かないものだと、私は信じていました。 しかし、外灘 ( ワイタン: 旧租界 ) の和平飯店 ( Fairmont Peace Hotel ) の最上階のレストランで食べたそれは、私が生まれてこの方、食べたどの中華料理よりも断然美味しく、日本人の私の舌にピッタリで、しかも全品、非の打ちどころのない、上品な最高の味でした。 上海の最上級のホテルの中にあるレストランだとは言え、これは私の今までの認識を全く覆すものでした。 出来ることなら、ここで食べるためだけに、もう一度上海に行きたい!

2.韓国にて

2−1. 済州島と釜山の街を走る自動車は、乗用車もバスもタクシーもほとんど全部と言ってよいほど韓国製でした。 日本と違い軽自動車というカテゴリーがないので、全てが新しい普通車です。 内装も乗り心地も良く、韓国の自動車産業の急速な発展を肌で感じました。 1日半の観光の間に街中で見かけた日本車がホンダ車1台だけだったのには驚きました。 上海では日本車、ドイツ車ほか各欧州車、中国車、更には米国車までが混然と走っていたのに・・・そして米国でも欧州諸国でも日本車は沢山走っているのに・・・円高ウォン安だけでは説明できない何かもあるのかも知れません。

2−2. 韓国の携帯電話は、もうほぼ100%がスマホ系だそうです。 私が持っているような従来型の携帯電話など、もうほとんど目にしないと言われました。 ここにも韓国の電子産業と経済の発展が歴然と見てとれます。 ただし、スマホの過度の普及が社会現象として良いことかどうかは今後の 「 問題 」 でしょう。

*: 先日某民放TVを観ていたら、選ばれて出て来た10名ほどの一流大学の優秀な学生たちのほとんどが、「 紅衛兵 」 が何かを知りませんでした。 昭和は遠くなりにけり。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました


この先です。