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私と家族の近況
私と家族の近況

*あしがらみち*

2010年 後半分:最新は12月度



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12月度


中旬のある日の朝、今日はきっと・・・という予感に駆られ峠に向いました。
冬枯れの丘の山道を歩く私達の前で富士は刻々表情を変えて行きました。

 今年も終わりになろうとしています。 この 「 あしがらみち 」 を書き始めてから、もう10年もたちます。 言い古されている言葉ですが、月日の経つのはなんとも速いものです。 お蔭さまで私たち夫婦は医者には定期的に薬をもらいに行く程度のご縁で済んでいますし、自分の身の回りの事は自分ですべてやれます。 時には夫婦だけの個人旅行を計画実行するだけの認知力・体力もあります。  幸せと言うべきでしょう。 暮には期限が切れたパスポートの更新をして、今後もこれが使えるだけの健康がどうか長く続きますようにと祈りながら、今後10年間!は海外に行ける資格を作りました。

 今月は、もう師走ですから、先月のように旅行に行ったりもせず、もっぱら家の内外の掃除と不用品の整理、庭の手入れなどに明け暮れていました。 でも以前と違って、すぐに体のあちこちが痛くなることに、つくづく年齢を感じます。 昨年暮れに生まれた3人目の孫も、お蔭で元気に育ち最初の誕生日を迎えました・・・と、こう書いてくると、何ともわが身の老いを実感するばかりです。 最近海外の友人から貰ったクリスマスカードに 「 もう我々は empty nesters だ 」 と書いてありました。 これは子供たちが成長し成人して家を出て行ってしまった後に残された両親のことで、私どもはさしずめ old empty nesters です。 

 昨年1月に母が亡くなったので、昨年暮れは年賀状を出しませんでした。 一度そんな事があるとリズムが狂ってしまったらしく、年賀状を作ることまで何だか面倒くさくなり、しかし何もしなわけにも行かず・・・という次第で、重い腰に鞭をあてて頑張り、差出先別に4種ほど作りました。 そのうちの2つがこれです。 では皆様、どうか来年も宜しくお願い申し上げます。




 
11月度

 早いもので、もう11月になってしまいました。 8日に 「 秋を見つけよう 」 と箱根にウォーキングに出かけたら、仙石原の交差点脇の 「 長安寺 」 の五百羅漢の表情が実に素敵でした。 数十体すべてが昭和60年代以降に作られたものだそうで、日本にもまだこういう石仏を彫れる人がいたのかと、感心しました。

 ところで、あの東京スカイツリーの建設がどんどん進んでいると言うのに、カホルはまだ東京タワーにものぼった事がない!というので ( 私はまだ幼かった息子と甥を連れて、昭和40年代のはじめにのぼっています )、月半ば、わざわざ東京まで出かけて双眼鏡を手に展望台にあがってきました。 まさに 「 お上りさん 」 です。 晴天を狙って行ったのですが、西の空には雲ガ多く、箱根や丹沢の山々はかすかにうっすら見える程度。 富士山は全く見えませんでした。

 先月訪れた山梨の 「 秘湯 」 が素晴らしかったので、同じような所がないものかと探して下旬にまた出かけました。 一つは東京都の奥多摩、もうひとつは秩父の山奥です。 自宅 ⇒ ( 八王子、あきるの経由 ) 奥多摩の檜原 ( ひのはら ) 村の蛇の湯温泉 ( 泊 ) ⇒ ( 奥多摩湖*1を経由、名栗から天目指 ( あまめざす ) 峠を越えて*2飯能市に降り ) 秩父市荒川の鳩の湯温泉 ( 泊 ) ⇒ 日本最長の国道トンネルである雁坂トンネル*3 を通り山梨県の塩山から静岡県の須走経由自宅という、2泊3日のドライブ ( 約370km ) でした。 今回も両方とも期待に違わぬ素敵な秘湯でした。 付近の紅葉の名所は1週間ほど前が最盛期だったようですが、それでも十分にその美しさを堪能できました。


 そして、通過地、宿泊地はどこも著名な手打ち蕎麦の名所 ( しかも新そば ) でしたので、インターネットで探りあてた評判の店を順に訪ね、昼食は3回とも蕎麦を食べましたが、皮肉なことに、唯一おいしかったのが、お目当ての店の一つが突然の休業だったのでやむを得ず入った近くの無名の店でした。


奥多摩檜原村の蛇の湯温泉たから荘


秩父市荒川の鳩の湯温泉の露天風呂棟。 猿、鹿などがいつ覗きに来ても不思議ではない環境でした

*1: 奥多摩湖に立ち寄ったら、そこは東京都民に飲料水を供給する小河内ダムが在る所でした。 小河内 ( おごうち ) ダム・・・ハテ?と・・・、はるか昔に繰り返し聞いた名前です。 よくよく考えたら、約60年前、私がまだ大学生の頃、激しい建設反対闘争があって、周囲がいろいろ騒々しかった事を思い出しました。 遠い遠い昔の話です。 今は静かで美しい紅葉の里でした。 秩父で立ち寄った浦山ダムも、小河内に負けないほど大きなものでした。 小河内は多摩川の上流域、浦山は荒川の上流域の水の貯水用です。

*2: 名栗から上って天目指峠を越える埼玉県道395号線は、曲がりくねった狭い急勾配の約7kmの道です。 私はこういう山道を中速度で駆け抜けるのが年甲斐もなく大好きなのですが、対向車と互いに早めに気付かないと危険なので、警笛を鳴らし続けでした。 幸い対向車には1台も会いませんでしたが、帰宅した夜は、がけ下に転落する夢を見てしまいました。 そう言えば、先月山梨県南部町から静岡県富士宮市に抜ける時通った桜峠越えの国道469号線も同じようなスリルに満ちた道でした。

*3: 国道のトンネルとしては国内最長 ( 6625m ) ですが、自動車用トンネル全体としては国内第8番目の長さです。

10月度

 5月下旬に大津市郊外の旧友の家を訪ねたとき、地面に咲き乱れる美しい花を目にとめ、何という花かと伺った所、南アフリカ原産の 「 リヴィングストン・デイジー 」 だと教えられました。 その後、種子も送ってくださったので、春蒔きしてみたのでしたが、害虫と暑さで無残にも全滅。 そこで今度こそはと秋蒔きに挑戦する事にし、3日にけし粒のような細かい種子を再びたくさん蒔きました。 3日後には発芽し、順調に育っているようなので、インターネットの情報を頼りに毎日熱心に世話をしています ( 写真は蒔いてから8日目 )。 花が見られるのは来年の春です。


 上旬には山梨県西部の南アルプス山麓にある温泉を2カ所、訪ねて泊ってきました。 すれ違いも不可能な細くて急勾配の山道を延々と車で登って行くので、カホルは助手席で悲鳴をあげていましたが、それだけに、どちらも苦労して行った甲斐のある秘湯でした。 2日目には朝早く夜叉神峠の登り口まで行き、歩きだしましたが、後期高齢者にはこの勾配は無理と悟り、途中で引き返して来ました。 3日間で400km以上のドライブでした。


十谷温泉 源氏の湯 ( 近頃珍しい 「 混浴 」 なんです )


桃の木温泉 山和荘別館

 下旬には一転、あるツアーに参加して長野県西南部の木曽谷の一番奥の 「 開田高原 」 とその周辺一帯の紅葉を観に行きました。 ここは信州の秘境とも言える、なかなか良い所でした。 木曽の御岳山のケーブルに乗って2,150m地点まで上がったら、遠く北・中央・南アルプスの山々を雲海越しにはっきりと眺める事が出来ました。 中山道の旧い宿場町も幾つか見学しましたが、ついこの間まで歩いていた旧東海道のそれとは、似ているところも多いが微妙に違う所もあって、それが興味深く思われました。


開田高原の木曽馬の里にて


同上。 ブルーベリーの紅葉がこれほど美しいとは知りませんでした

9月度

 18日、送ってもらった車を降りた後で車内に忘れものをしたことに気付き、急いで駆け出したら途端に舗装道路上に前のめりに転んで、膝をすりむき両手首を捻挫したまではまあ良かったのですが、下唇を切り、上の前歯2本の尖端が欠けてしまいました。 幸い、歯医者でも整形外科でも 「 不幸中の幸い 」 と言われ、診療各1回で済みましたが、後期高齢者は急に全速力で走りだしたりしてはいけないと、つくづく悟りました。

 猛暑の期間は室内にこもって、いちばん小さな孫 ( 9カ月 ) と戯れたりして過ごし、幸い夫婦両名とも熱中症で倒れることもなく生き延びました。 言いならわされているように、お彼岸を過ぎたら急に涼しくなったので、脊柱管狭窄症の左脚をいたわりつつ、1日に40〜70分ほどの速足のウォーキングを再開しました。


 我が家の前の道路には既に十数本の電線、電話線や太い光ケーブルが縦横に架けめぐらされていて、2階の窓から美しい箱根の山なみの四季折々の写真を撮ろうとするときに、また夏の夜空の花火をめでようとするときに、毎度目障りで困っています。 所がここにきて、更にあるケーブルTV会社が新しいケーブルを架設するという事になりました。 まさか実力で阻止することもできず、泣き寝入り状態で容認するしかなかったのですが、不愉快で仕方ありません。


自宅玄関前で空を見上げると、このような惨状です

 このホームページでも、既にあちこちで、日本の空を汚している見苦しい架線の 「 景観公害 」 について述べてきました。 欧州の都市の街並みをTVの画面で見るたびに、大都会だけではなく、小さな田舎町でも、そして東欧の豊かとは思えない国々の街路にさえも、1本の電線も電柱もなく、そのことがどれほど街の景観を上品に美しくしているかということに気付かされます。 海外旅行をなさった方は、ご自分が撮った欧州の街の写真を、そういう観点でもう一度ご覧になってください。

 それに引き換え、この日本ではどうしてこうも無神経に!と腹立たしいほど、どこへ行っても上空には蜘蛛の巣のように種々の架線が張り巡らされています。 今月はこの問題 ( +尖閣諸島問題 ) で、腹を立ててばかりいました。 インターネットで検索すると、この種の公害に関しては 同じ思いの方々 もいるようです。

高村光太郎 智恵子抄 「 あどけない話 」 より
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
( 以下略 )

 
8月度

 よく 「 夏痩せ 」 と言いますが、私は困ったことに夏も食欲は衰えず、その一方、この異常な酷暑のため昼間はウォーキングすら出来ないので、どうしても運動不足となり、ビールの消費量が増すこともあって体重はちょっと油断すると1〜2kg増えてしまいます。 仕方なく昼食をほとんど食べずに我慢していると、やっと体重が横ばいとなります。 屋外で運動が出来る季節に早くなってほしいものです。

 月初めにハワイからお客さんが来て、3泊して行きました。 ハワイから来たと言っても、米国人と結婚した日本人の女性、昭子 ( しょうこ ) さんです。 私たちが米国のサウスカロライナ州に住み始めて間もない1989年、私たち夫婦が、ジョージャ州アトランタに住んでいた彼女と、同市内のある寿司屋で偶然隣り合わせに座って仲良くなって以来、とても親しいお付き合いが、もうかれこれ20年以上続いている事になります。 当時はお互い孤独な境遇で淋しかったので、しょっちゅう会っては互いに慰め合い助け合った事を覚えています。


南足柄市の夕日の滝にて

 その後、彼女の人生にはドラマのような有為転変が何度も有りましたが、今はハワイ島に移り住んで実業家のご主人と結ばれ、2人で幸せに暮らしています。 私たちはその後日本に戻ってきましたが、帰国後も親しいお付き合いは絶えることなく続いてきました。 私たちがハワイの彼女の家に遊びに行ったことが3回、彼女が日本の私たちの家に来てくれたのも3回ほどでしょうか。 そういう経過なので、今回も昔の思い出話も含めてカホルと3人、積もる話は尽きませんでした。

 先月ちょっと触れた講習の事ですが、それは、日本に移住して来た外国人に日本語を教えるための講習です。 私たちが米国に移住した時、現地の米人のボランティアの方々が無償で英語を教えて下さり、大変楽しく有益だった事を思い出したカホルが、「 アメリカで受けた恩を日本で返そう 」 と考え、2人で参加したのでした。

 ところがどっこい、習ってみて 「 日本人なら誰でも外人に日本語を教えられる 」 というような安易な考えは誤りであることがよ〜く分かりました。 日本語の文法を十分に理解していること、生徒の間違いに敏感に気付き正確に指摘修正できること、言ってはいけない事や不必要な説明をわきまえて言わない事など、多くの高い能力が求められます。 日本人が米国に移住した時は、既に基本的な単語や初歩の英文法は知っており、読み書きもある程度できるが、「 聞き取り話す事だけが殆ど出来ない 」 という状況でしたから、米人ボランティアは 「 聞き、話す 」 事を教えるだけで良かったのでした。 しかし日本語を初めて習う外人たちは当初カナ文字すら読めず書けないし、単語も文法も知らないわけです。 そういう人たちに、初日から系統的に、順序立てて、絵を用いながら文字を使わず耳から教え込んで、 「 正しい 」 日本語を話せるようにする作業を行うのです ( 生徒の母国語・・・例えば中国語や韓国語、英語などが出来る必要はありません )。 

 この場合の 「 正しい 」 日本語とは、「 文字で文章を書く場合の正しい日本語 」 の事で、くだけた日常会話の日本語ではありません。 ですから、「 見れる 」 だの 「 食べれる 」 だのという言い方は教えてはならないそうです。 動詞や形容詞を見たら直ぐに、その活用形の種類を正しく認識できなくてはなりませんし、音便の規則についても説明出来なくてはなりません。 助詞だって、たとえば 「 ・・・は 」 と 「 ・・・が 」 の違いを正確に知り、正しい使い分けが出来、更にその使い分けのルール*1を入門程度でよいから正しく教えられる ( 「 教えれる 」 じゃありませんよ! ) 力量が望まれます。 学生時代国文法が大好きな科目だった私でしたが、久しぶりに頭の中を鍛え直された思いでした。 教授法のポイントをよく理解するためには、今後も更に長期間の見学、勉強、実習などを受けることが必要と実感しました。

*1: もし 「 が 」 と 「 は 」 の使い分けにご興味がお有りでしたら、ここをクリックしてください

  
7月度

 今月も、もちろん、大小さまざまな出来事や会合・・・旧職場の同僚たちの集まり、大学の同期生たちとの懇親会、親戚の慶事、地域の夏祭り・・・などがいろいろとあり参加しました。 また、そのうちにくわしく書いてみたいと思いますが、新しい勉強を志し、カホルと共に毎週1回講習に通い始めました。 でも、特に取り上げて書きたいのは下記の旅行だけです。

 40年以上前から、一生の間に是非一度は行きたいと願い続けていた 「 立山・黒部 」 に、遂に行ったのです! 娘が生まれた昭和38年に完成した黒部ダム・・・その工事のすさまじい苦労 ( 犠牲者なんと117名 ) を描いた裕次郎主演の映画 「 黒部の太陽 」 に夫婦そろって感動して以来の夢だったのです。 良さそうなツアー旅行の広告が新聞に出ていたのでそれに飛びつき参加しました。 どこに行くにも個人旅行以外はほとんどしない私たちにとってツアーへの参加は珍しい体験です。 実は、この地域だけは自分で個人旅行を計画する事が難しいのです。 特に乗り物の座席の確保などが・・・

 @東京駅→新幹線と特急で魚津駅→宇奈月温泉駅→トロッコ列車で鐘釣駅→宇奈月駅に戻り小川温泉泊  A→バスで称名滝を経て立山駅→ケーブルカーで美女平駅→バスで弥陀ヶ原→室堂泊  B→トロリーバスでトンネルをくぐって大観峰→ロープウェイで黒部平→ケーブルカーで黒部ダム→トロリーバスで扇沢駅→バスで上田駅→新幹線で東京駅 という2泊3日の日程でした。 幸いお天気も良く、室堂周辺は残雪も沢山残っているのに、観光客はまだ少なく、そして景観は予想以上に美しくて、本当に 「 行ってよかった! 」 と言うのが実感です。 写真はここに掲載しました


黒部ダムの展望台にて


立山山麓の室堂のみくりが池にて。 湖面に映る立山

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました

この先です。