私と家族の近況
私と家族の近況

*あしがらみち*

2011年 後半分:最新は12月度


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12月度(Dec. 31, 2011)

 3年前から毎朝欠かさず起床時に体重を測り、記録してきました。 本年1月1日は76.0kg、今朝 ( 12月31日 ) は74.0kg。 1年でぴったり 2.0kg 減らすことが出来ました。 BM I は25.6で、 「 ホンの僅か肥満 」 という高齢者にとってはちょうど良い領域まで下げる事が出来ました。 体脂肪率も最近の測定で22%だったのでこれも同様です。 この領域に持ってくる迄に減食と運動とで随分我慢し努力した1年でした。

 お正月早々に以下のような話は書くのはどうも・・・と思いますので、暮のうちに書いておきます ( と申しながら、これを読む方々のほとんどは、これをお正月にお読みになるでしょう。 申し訳ありません )。

 暮になって私の母校の高校の同窓会会員名簿が手許に届きました。 自分の学年の部分を見ていて、改めて気づき驚いたのですが、卒業生110人のうち、既に45名が亡くなっているのです。  40%強です。 日本人男性の平均寿命は79.64歳です ( 2010年の統計 なお女性は86.39歳 )。 昭和7年4月から8年3月にかけて生まれた我々同級生の平均年齢はは今まさに79.2歳ほどですから、統計学的に言えば逝去者は50%近くに達してもよいのですが、それより10%ほど低い理由は、「 平均寿命とは0歳の人の平均余命のこと 」 だからです。 0歳から14歳までの間に亡くなった同年齢の方たちを含めているかいないかの差です。

 つまり、第二次大戦前後の貧しく非衛生な時代を15歳まで生き延びて高校に入学出来た人たちの平均寿命は、79.64歳よりも、ある程度高くて当然というわけです。 因みに大学入学時の同じクラスの人たちについて計算すると更に差は大きくなり、約30%です。 これも同様の理由で納得できます。 更に79.2歳まで生きてきた現在の生存者の平均余命は、約8.5年だそうですから、今日現在まで生き延びている同窓生たち ( 私を含む! ) の半数は、統計学的にはほぼ88歳まで生きられるだろうという事になります。 皆様、新年を機に、ご自分の平均余命を上記のサイトでお調べになったらいかがでしょうか。

 75歳を過ぎたら、毎年恒例だった 「 何月何日に人間ドックを受けなさい 」 という通知が医療機関から来なくなりました。 市から勧められる健康診断の内容もずっと簡略になりました。 余命いくばくも無い人たちに手間とお金をかけるのは 「 費用対効果 」 の観点から、社会的な意義が少ないという事かと思います。 50歳台、60歳台の人たちにもっと多く検診を受けていただくためにも、「 後期高齢者はもう体の事など気にし過ぎず、好きな事をして、適当な所で病を得て去っていってください 」 という考え方だとすれば、私には一理あるように思われ、納得できます。 ところが私ども夫婦は 「 それでも・・・ 」 と、しぶとく志願して、今年もそろって人間ドックを受けてしまいました。 幸い結果は 「 格別の異常は無かった 」 ということで終りましたが、何かこの社会にチョッピリ無駄をさせてしまったような後ろめたさを感じています。


 こんな事をいろいろと考えながら、今年も終ろうとしています。 カホルの声楽の発表会も無事済みましたし、やはり上記の 「 後期高齢者はもう体の事など気にし過ぎず、好きな事をして・・・ 」 という考えに立ち戻り、来年は1月から2月にかけて、あちこちと遠くに旅行しようと、計画を立て、手配しました。 このページにも写真入りでそれを報告出来るだろうと思います。 そして、そのためには 「 足腰を弱らせぬよう鍛えておかないと・・・ 」 という事で、今月はほとんど毎日、2人で1時間近く、自宅近くの山道を片端から歩き回りました。 色とりどりの秋の紅葉、寒椿や水仙の花、さまざまの柑橘類や柿、栗の実などに彩られた、遠く相模湾も見渡せる、本当に美しい静寂そのものの里山の道でした。


11月度(Dec. 5, 2011)

 先月19日に受けた副鼻腔炎の手術の予後は、幸い順調で、今月の10日頃にはほとんど平常の体調と気分で生活できるようになりました。 手術前の炎症の程度は相当悪いものだったようですが、永年自覚症状がほとんどんかったので、手術の前と後との差がはっきりわからないのが、ちょっと残念と言えば残念な感じです。

 中旬には小・中・高校から大学まで、更には元勤務先のものまで含めて5つもの同期会が一斉に開催され、とても全部は出席できなかったものの、頑張って3つに出席しました。 そうしたら、疲労がたまったのか、胃の具合が急に悪くなり、何をしても治らないので、急きょ胃カメラの検査を受ける羽目になりました。 幸いにも、ガンのようなものは全くなく、「 胃と食道はとてもきれいで健康ですよ 」 と言われたのは良かったのですが 「 それではいったい何が原因なのだ 」 という事になり、永年毎日7〜9種類も服用し続けてきた常用薬の副作用ではないかという事で、詳細は略しますがそれを調べようとして、なんだかんだと大変でした。

 胃は、月末になってようやく平常の状態に戻り、振り返ってみると、この1カ月半は医者の所に通ってばかりいるうちに過ぎてしまったことになります。

 胃だけではなく、愛用のパソコンも4年を過ぎた所で、立ち上げ時に異音を毎日発生するようになり、これはてっきりハードディスクが壊れる前兆だろうと考えて予備の小さいノートパソコンを買い、いざという時に備えました。 新しいパソコンを立ち上げ、そこに大事なソフトやデータを移す作業も、この齢になると結構しんどく、胃の調子がなかなか良くならなかった原因の一つはこれだったかもしれません。

 そんな次第で、今月は何も掲載するような話も写真もありません。 パソコンの不調もあり、この11月分のアップロードも、5日ほど遅くなってしまいました。

10月度(Oct. 31, 2011)

 自宅の庭にも秋が足早やにやってきて、あの木にもこの木にも、小さな赤い実や黒い実が沢山つき、それに呼び寄せられた小鳥たちが、毎朝賑やかに群れて啼いています。 毎年の事ですが、何週間かして、ある日気がつくと、これらの実はきれいに食べ尽くされてしまい、すっかり無くなっているのです。


手前の赤く紅葉した木には赤い実、その向こうの緑の葉の木にも赤い実、その左の少し紅葉した木には黒い実・・・実が小さくてわかりにくいので下に接写の写真を


 10月の初めの1週間ほど、中国では国慶節の連休だったので、ある米国企業の中国支社を任されている米人の夫妻が上海から4泊で日本に遊びに行くから会いたいと言ってきました。 彼らには、20年ほど前、在米中に、私ども夫婦も、私の部下たちの家族も、英語をボランティアで教えていただいた他、いろいろとお世話になったのでした。 そこで私たちは2日目に彼らを箱根にお連れし、3日目の午後に観光案内をする事にしました。


 箱根一帯を半日車を運転しましたが、万一事故でも起こしたら・・・とちょっぴり心配でした。 幸い無事に観光案内を済ませる事が出来、大いに楽しんでもらえたようです。 好天の箱根には、彼ら以外にも外国人、とくに若い中国人の旅行者たちがおおぜい観光に来ていました。 仙石原や大涌谷などでは、周囲の人間の半分が中国人ではないかと思うほどの中国語の洪水でした。 震災と原発事故に因る外人観光客の減少は、箱根に関する限り、だいぶ払しょくされて来たように思われました。

 たぶん初めての海外旅行なのでしょう。 豊かな大都市部の青年たちでしょうか。 若い中国の男女たちが喜々として写真を撮りあっている姿* を見ていると、「 日本の青年たちにも、ついこの間まで、こういう時代が、あったなあ・・・ 」 という感慨が湧いてきました。 現在では、私の周囲の青少年たちは 「 外国旅行や海外留学は? 」 と聞くと 「 面倒くさい 」 と尻ごみするのですから・・・

 6月に風邪がもとで罹ってしまった副鼻腔炎 ( いわゆる蓄膿症 ) が、抗生物質の効かないタイプのものだという事が分かり、体力のある今のうちに手術をしなさいと言われて、東海大の病院で4泊5日の入院・手術をしてきました。 めったに病気をしない私にとっては、入院も手術も生まれて初めてと言ってもよいほどの体験ですから、相当迷いました。 意見を求めた知り合いの医師達の中にも、 「 余命も残り少ない79歳にもなって全身麻酔の手術なんて、ガンでもなければやるものじゃない 」 と忠告する人もいれば、「 わたしならやるよ。 こういうタイプを放って置くとロクな事はない。 是非やりなさい。 熊井さんの体は実年齢より10歳は若いから大丈夫 」 と尻を押す人もいて、迷うばかり。 でも結局 「 やるかやらないか迷ったらやる 」 という若い頃からの信条?に従い18日から22日まで入院してきました。

 幸い、順調に手術は済み、無事退院してきましたが、当分の間、終日鼻孔に綿球を挿入、外出の際は更にマスク着用、風邪は絶対に引かない事、当面毎週1回通院など、今後も半年ほど色々と大変なようです。 入院中と退院後1週間、運動を禁止されましたが、質・量ともに質素な院内食のお蔭もあって体重が5日で約2kgほど減った事くらいしか嬉しいことのなかった10月後半でした。 月末現在は、ほぼすべて従前通りの生活に戻っており、せっかく減った体重を元に戻さぬよう、種々努力中です。

*: 日本人だと 「 ハイ、チーズ 」 と言う所を、彼らは 「 イー・アル・サン 」 と言って撮っていました。 なるほど
9月度(Sept. 30, 2011)

 「 暑さ寒さも彼岸まで 」 とは全く良く言ったもので、23日の夜から急に涼しくなり、掛け布団を少し厚くしました。 思い起こすと、米国 ( 東京とほぼ同じ平均気温の州 ) 在住の頃の我が家は、全室一括の大型電気冷暖房システムが完璧だったので、掛け布団というか毛布の厚さや枚数は、夏と冬でホンの少し変るという程度でした。 真冬でも家の中では薄着でした。 いくらなんでもあれは贅沢過ぎで、日本では到底真似が出来ない事です。 ましてや今後は、ますます 「 日本流 」 を強調して省エネに努めなくてはなりません。

 そう言えば、背広も日本では冬服、合い服、夏服と買いわけ着わけていましたが、米国では合い服だけで1年中快適に過ごせました ( 紳士服売り場でも季節により服地の厚さが変る事はありません )。 冬用の厚い下着なども不要でした。 移動はすべて空調された車でしたから駅のホームで寒風にさらされるなどという事もなく、冬、戸外を短い時間歩く必要のある時だけ、厚手のコートを羽織れば済みました。 でもこんな 「 無季節生活 」 をしていたら、寒暖に対する自分の体の抵抗力が衰えるのではないかと当時は気にしていました。

 彼岸花は今年もぴったりお彼岸に満開になりました。 すすきも一斉に穂を出し始めました ( 下の写真 )。 7、8月は暑いので早朝6時半頃ウォーキングをしていましたが、お彼岸以降は毎日午後か夕方に歩く事にしました。 日本では戸外だけではなく室内でも、季節は休むことなく流れています。


 10月の初めに旧友の米国人夫妻が東京と箱根を訪ねて来日するというので、その日程計画作成のお手伝いをしました。 こういう時、メールは実に便利な道具です。 原発や放射能については、3月以降私が克明に状況を知らせていたので、今回はひと言も質問されませんでした。 初老の夫妻の4泊5日の滞在なら、この地域ではもう何も心配することなどないという事を、彼は自分の頭で理解・判断できているようです。

 計5回の医者通い、車検、お彼岸の墓参、ゲルバーのピアノ演奏会 ( 横浜 )、庭の草むしり、来春花壇に咲かせる花のための準備、もう読まない大量の古い雑誌の処分 ・・・こまごまとした用事をひとつひとつこなしている内に、9月はあっという間に終りました。 台風15号の被害は私の家は幸い何もありませんでしたが、近所の田の稲は刈り入れを前にあちこちで倒伏・・・お気の毒な事です。 それでも、皆さん頑張って何とか刈っています。


倒伏しなければこんなに美しい稲穂なのに。 「 どうですか。 出来は? 」 「 いいようですよ。 でも放射能を調べないと・・・この辺り大丈夫と思うけどね 」

8月度(Aug. 31, 2011)

 今月は忙しくあちこち飛び回りました。 まず、先月末から今月3日まで、沖縄本島に出掛けてきました。 他にも用事はあったのですが、あの壮絶というか悲惨というかお気の毒というか、適切な言葉を思いだせないほどの状況下、沖縄本島での1945年春の米軍の猛攻撃に対して勝てるはずのない戦を戦い、死んでいった沖縄の民間人たちの事を考える時、生きている間に一度、あの 「 ひめゆりの塔 」 をはじめとする 「 民間人による本土決戦 」 の跡を訪ね、心から慰霊したいと考えたからでもあります。 また琉球王朝の数奇な歴史にも、この目で触れてみたいとかねてから考えており、それを果たすこともできました。

 1945年当時、私は12歳の純真な 「 愛国少年 」 でしたから、もしこの沖縄本島に住んでいたら、きっと、命を捨てて戦い、無残に死んでいっただろうとは思う一方、上層部に、民間人だけでも降伏させて命を永らえさせるという決断が当時なぜ出来なかったのかと、本当に残念に思いました。 同時に、沖縄の地に実際にこの足で立って、改めて、1972年の米国からの沖縄返還は本当に良かったと思いましたし、更に遡れば、明治時代の前半に琉球国が沖縄県として日本国の一員となったのは、当時の為政者たちがしっかりしていたからだ と痛感しました。

 この明治前半の歴史的経緯は沖縄返還以前に学生だった私は学校では全く教えられていません。 ネットでいろいろと調べてみましたが、「 へー 」 と驚く事ばかりで、自分の無知を恥じました ( 例えば これをご覧下さい )。 沖縄諸島から先島諸島、更には尖閣諸島にかけてのこの160ほどの美しい島々が現在もし他国の領土だったら・・・それはもう、私にとっては考えるのも嫌なほど不快な悪夢ですが、当時の為政者が一歩間違えていればその可能性は十分あった のでした。 そのときどきの為政者( たち )の資質と決断力で、遠い将来にわたっての国の命運、人々の幸・不幸が決まってしまうのです。 そう考えるにつけても、現在の日本の状況は非常に心配です。

 台風9号が沖縄本島を直撃し、しかもそこに、のろのろと居座ってしまう直前、幸運にも那覇を離れることが出来ました。 あと半日遅いフライトを用意していたら、少なくとも2日は、猛烈な嵐の中、ホテルの中で何もせずに閉じ込められてしまう所でした。


左:ひめゆりの塔の慰霊碑  右:世界遺産の セーファウタキ ( 斎場御嶽 )にて

 暑いさ中、あちこち観て回った沖縄の旅の疲れがとれるかとれない9日に、今度は友人が良い席を用意して招いてくれたので、阿波踊りを観に徳島に行きました。 どうせあそこまで行くならと、前後に小豆島と淡路島を付け加え、計6日の列車の旅となりました。 幸い、全日程が快晴でした。

 生まれて初めて 「 生 」 で見る阿波踊りは聞きしに勝るエネルギーに溢れたものでした。 春先から毎日のように練習に練習を重ねてきた男、女、子供たちが、揃いの衣装で夕方から深夜まで、街中を練って踊りまくるのです。 ひと晩ではありません。 11日の前夜祭に始まり、15日まで計5日間、全身を使って毎日、長時間踊り続けるのです。 汗でドロドロになった着物は、毎日夜のうちに洗い、アイロンを掛けて次の日に備えます。 三味線、よこ笛、各種の太鼓、鉦、その他の楽器による強烈な音楽は深夜まで街中に響き続け、耳を聾するばかり・・・

 とにかく、この徳島中のエネルギーをすべて集めたら、原発の1基分くらいあるのではないかと、冗談半分に考えたほどでした。 人口26万ほどの徳島市が、この数日間は130万人ほどに膨れ上がるそうで、夜の繁華街 ( もちろん全面交通止め ) はどこも東京の朝の新宿駅並みの混雑でした。 とにかく事前の予想を遥かに超える迫力があり、一生の想い出に観ておいてよかったと、今もつくづく思います。 ご興味のある方は是非 写真をご覧下さい。 動画も2つ入っています。

 小豆島と淡路島では、ちょうどお盆休みにあたっていたためか、どこも賑やかな子供連れの若い人たちで満員でした。 瀬戸内の島で静寂な時間を過ごしたいと考えていた私たち老夫婦は、余り有難くない期間に迷い込んで来てしまったようです。 今回は阿波踊りに合わせたため、致し方なかったけれど、もうお盆の期間中に旅行するのは止めます。 暑くて疲れも倍増しますし・・・ それと、成人だけを受け入れる宿を探す事にしようと思います。


淡路島にて  左:松帆の郷の露天風呂からは明石海峡大橋が目の前  右:明石海峡公園にて

 月末に熱海市の花火大会の花火を、対岸の真鶴半島から撮影しに行きましたが、突然の天候悪化と、当方の技量不足で、ここでお目にかけられるレベルの写真は撮れませんでした。 それにしても、花火自体が出す黒煙が上空に停滞して、せっかくの花火を見えにくくしてしまうという問題を解決する手段はないものでしょうか。

7月度(July 30, 2011)

 明日 ( 7月31日 ) はちょっと忙しいので、前日の今日、7月分をアップロードしておきます。 先月末に罹った副鼻腔炎も幸い何とか全快に近く、昨年来の右肩の痛みもようやく治ってきたので、これからは元気に活動できる事でしょう。 8月は暑い中をあちこち遠くまで出掛ける用事があるので、それにはまず体を鍛えておこうという事になり、2人で毎朝6時頃から40分ほど、近くの山道を順に歩きました。 中にはクマはともかくイノシシやシカ、スズメバチくらいは出てきそうな場所もあり、誰も居ない、うす暗い早朝の山道は少々怖かった事を白状します。 でも、時には 「 やま三つ葉 」 の新芽をを見つけて採って帰り、天ぷらにして食べたりも・・・梅雨明けの6日から25日間、大雨の朝以外は一日も休まず頑張りました。 家に帰りシャワーを浴びてから食べる朝食は、何とも言えぬ美味しさです。

 東北大震災に関連して、何でもよいから、僅かでも足手まといにならない範囲で奉仕活動をしたいと願っていた所、現役時代働いていた会社から、「 写真洗浄のボランティア 」 をしてみないかというお誘いがあり、11日に妻と娘と3人で出掛けてきました。 東北の各被災地から集められた無数のアルバムに入っている写真は、海水と泥で無惨に汚れていましたが、それぞれの持ち主の方々にとっては大切な宝物です。 手元に1枚でも多く綺麗な形で戻らせてあげたいと願わずにはいられません。

 実際、丁寧に上手に処理すると、立派に観賞に耐える、元に近いレベルの画像に戻るものも少なくありませんが、なにぶん被災後4カ月も経っているので、ゼラチン膜の腐食も進んでおり、水で洗ったとたんに画像のほとんどが溶け去ってしまうものもありました。 もっと早くお手伝いを始めればよかった・・・と思わずにはいられません。 それでも、被災者方に少しでも喜んで頂きたいと、広い体育館の中で、集まった人たち全員が懸命に努力していました。 私たちは次の週も行き計2回働きました。 もっと行きたい気持でいっぱいでしたが、後期高齢者にとっては結構疲れる立ち仕事で、これが精いっぱいでした。

 ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、夏の夜、富士山に登る人たちが身につけているランプ・・・これが50km以上も離れた私の住む町から見えると言ったら、「 まさか 」 と疑う方のほうが多いと思います。 この私だって、自分の眼で見るまではこの話を信じませんでした。 もちろん、1個のランプの灯が見えるはずはありません。 何千個ものランプが登山道沿いに一列に密集して並ぶから、遠方から細い光の蛇のように見えるのです。 それにしても1個の明るさはせいぜい大型の懐中電灯程度だという事を考えると、実に不思議な事実です。

 肉眼で見えるこの光をカメラで写せない筈がないと考え、いろいろテストをしています。 週末、登山者が多く、晴れて雲が無く、月明かりも明かるすぎない日の午後9時頃、1分以上のバルブシャッターでこの微かな細い光の蛇をとらえることができそうです。 来月ご報告出来ればと思っています。


 我が家も節電をという事で、まず、遮光率60%という白いネット状の幕を、幾つかの陽のあたる窓の外側に設置しました ( 上の写真 )。 久々に汗を流して DIY をしただけの効果は実感できます。 我が家は幸いどの部屋も大きな窓を設けた造りなので風通しがよく、裏の青田越しに吹き抜ける涼風のお蔭もあって、昼間はエアコン無しで何とか7月をしのぎ切りました。 夜は雨戸を閉めるので、エアコンを少しだけ使いますが、そんなこんなで、昨年の同時期より使用ワット数が19%減りました。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました

この先です。