2000年8月
多分、ほとんどの参加者はこの手の勉強会を学校などで経験しているのだろうけれど、関東出身の私には初めての経験。趣旨にはもちろん賛成なのだけど、でもやっぱり、あらかじめ決められた答えに個人の意見を矯正しようという雰囲気には強烈なアレルギー反応を起こしました。自分でもびっくり。
でも、天皇を讃える「君が代」が強制される学校なんかで、支配システムとしての天皇制と構造的にかなりパラレルな根を持つ同和問題の解決を促す教育を、今回私が体験したような「矯正」的な手法で行っているんだとしたら、、、
ちょっとはわかっている積もりでも、全然わかっていなかったことがよくわかった研修会でした。
ドクターフットで検索したら、この日記(7月6日)が引っかかったんだって! 今度は「ぷっ」すま秋のスペシャルに出るんだって、見ないと。
Mくんを変な人だと怖れていたKちゃんも「Mくんっておもしろい人だねー」と認識をあらたにしていました。
2次会にと、以前に時々訪れたムスターシュに行ったら、ガーン、つぶれてます。うるさい客にいつもむすっとしていた、あのヒゲのマスターは今どうしているのでしょう?
で、しょうがないので、わたしが大学に入りたてのころに行った飲み屋に行くと、そこは今時の(でもおしゃれじゃない)変な若者であふれていて、(MくんとKちゃんにとって)めちゃくちゃ入りにくい雰囲気。わたしも昔はあんな感じだったのか?!と思いました、、、
で、たまたま見つけたLiteっていう地下にあるお店(河原町四条上がる東入る)に入ってみました。とっても良かったよー。
最後にお茶でも飲もうかと、河原町三条上がるのオパールに入って、60年代を今風にアレンジしたなかなかな内装と、(百万遍あたりでは、とんと見かけない)おしゃれなお客達と、やたらと多い従業員(カウンターの中は大混雑)と、意外においしい自家製アイスクリームに、感激して帰ってきました。
ビール飲み放題のコースを(飲めないくせに)選ぶと、腕に巻くプラスチックのタグをくれました。自分で持ち込んだおせんべを食べながらビールをちびちびやりました。
夕暮れ時のコースだったので、ミシガンからやって来たというバンドの生演奏がつきます。これが、やる曲は明るい(通俗名曲)のだけれど、観客が少ない(我々を含めて4−5名)ために、暑さにもかかわらず、寒々としている。彼らも曲の合間の語りで「グレイトなショー」だなんだと自嘲気味。でも、陽がとっぷり落ちた後にやった2回目の演奏では、(暗くてまわりの景色が見えないから)たくさん観客が集まってました。よかったねー。
でも、時期が時期だけにイエローサブマリンは、、、 ちょっと、、、
大津には、京都のOPAにも入っているヴィレッジ・バンガードって本屋さんもありました。そこで、ドクター・ペッパー(私の愛飲商品)とチェリー・コークをしこたま仕入れてきました。なかなかないんだよね、ドクター・ペッパー。
夜にドリュー・バリモアの「ウェディング・シンガー」を借りてきて観ました。とっても楽しいコメディーでした。私もテーブルNo.9に座っているような気持ちにさせてもらいました。オススメ。
Taschen から出ていたピラネージの作品集を買う。なかなかステキ。値段も安いし。
辻ヴァージョンのラストが面白いと聞いていたのですが、クロード・ルルーシュ監督の「ダーバダ♪ダバダバダ♪」の「男と女」とほとんど同じネタでした。ちなみに人類が月に着陸する前に作られた名作映画です。辻くん、知っていてやっているのでしょうか???
そのほかにも、内容はさておき(もうどうでもよい。すきにして)、なんでフィレンツェの駅に「改札」があるのか??など、謎多き作品でした。(パクリなら)辻くんの本より、篠有紀子のマンガ「男と男」の方が気が利いていました。
ところで、「男と女」の最後に出てくる電車は京阪電車とデザインがおんなじ!なんだよー。知ってた?
気を取り直して「朗読者」を読む。
出だし3分の1の文章は秀逸。あまりに陳腐な設定や構成を、そのなめらかな文章で読者を麻痺させて感じなくさせてしまう。力のこもらない自然な文章。ただ、後半はその伸びやかさが失われ、凡庸さ(platitude)が顔を出す。
まあ、設定からして読者を甘く見ているように感じられる。想いを秘めた恋人たちが、お互いに忘れてしまったであろう約束を忘れずに、フィレンツェのドゥオモの屋上で再会するというもの。もちろん江國香織も辻仁成も、じゅうぶん(陳腐だとは)わかってやっているとはいえ、、、これは、、、
主人公はミラノで育ったいわゆる帰国子女で、大学時代を日本で過ごした後、ミラノに帰って来て、アンティークの宝飾店に勤めている。大学時代の恋人を忘れられないまま、現在は紳士的で明るく(平等主義的な)アメリカ人の恋人と表面的には何一つ不自由のない共同生活を送っている。職場での暖かい人間関係、そして昔からの友人がいる。
読んでいて、どうしても鼻につくのは、「保証」ということだ。
アンティークの高級なアクセサリーを扱うことは、主人公の仕事として悪くないしゃれた仕事。アメリカ人の恋人の収入は高く、高級な品々に囲まれた生活を楽しんでいる。しかし、仕事をやめるわけにはいかない。それは自意識が許さないのだ。
世間的には申し分のない恋人と生活をしていても、主人公は大学時代の恋人を忘れることが出来ない。彼女は、甘い餌でたやすく懐柔されたりないのだ。
つまり、(経済的にも精神的にも)自立した人間として保証された上で、恋人から与えられる贅沢な生活も保証されているわけだ。(男性主人公だとこの時点で失格となる。感情移入の対象となりにくいので。)
さらに、社会的に認められた男性のパートナーとしてあちこちに引き出され、彼の親族や友人からもパートナーとして認められている。つまり、”女性”としてのプライドも保証されているわけである。
そんなご丁寧なお膳立ての後に、ストーリーは始まるわけである。やれやれ、、、
終盤では彼女の方からアメリカ人の恋人の元を去り、自立した人間としてのプライドは更に強固になり、大学時代の恋人との劇的?な再会によって女性としてのプライトも更に上がる。贅沢な生活が消えちゃったけれど、これは作品の効果として使われている。
唯一、「善」とされるのは彼女の気持ちであり、決断なのである。その意味で彼女は決定的に勝者なのだ(でなければならないのだ)。
そして物語の構成上、精神的な問題が物質的な問題と等価であり、するすると交換されるのだ。
ハリウッド映画の「めぐり逢い」(Love Affair)、そしてその本歌取りの映画「めぐり逢えたら」(Sleepless in Seatle)で、主人公が再会を果たすのはエンパイアステートビルの屋上である。「めぐり逢えたら」でも、この「冷静と情熱のあいだ」でも、高いところに登って再会したり、当て馬にされる男性の使い方など、まあそっくりなわけであるが、共に女性によって制作されているのは偶然だろうか? (他にも似たのはたくさんありそうだけどね。)
江國香織は映画「めぐり逢えたら」と須賀敦子の作品を融合させたような作品を、きっと作りたかったのだろうと想像する。でも、これは、、、
本の帯には「江國香織が女の視点から、(略)紡ぐひとつの恋ー。」ってあるけど、こんなのが「女の視点」だなんて言われたら女性が怒ると思うよ。
(「八月のクリスマス」を観た後で書いたから、カリカリしてるねー。 辻くんの方に期待! でもこんなこと書いちゃったから、きさらぎ。さん貸してくれるかな? 貸してねー。)
「接続」、まあまあでした。
可哀想に今日の犠牲者は、鯖江市に住む彼のダイビングのお仲間らしい。突然、押し掛けられて大変だろうなあー。身内なら甘受するけど、、、
今日は琵琶湖で花火大会らしい。研究所の皆さんも結構出かけたみたい。
夕方、仕事をしていると研究室のO先生が「おとうさんからお電話ですよ」と、電話を取り次いでくれた。電話を受けると、確かにそれは私のパピー(父親)。
なんと彼は琵琶湖の遊覧船、ミシガン、の上から電話をかけてきたのだ。で、これから会いたいんだって、、、 なんて突然、、、
北のそこそこ美男工作員が、南に潜入、途中で日本で顔をなかなか美男に整形して、南に再潜入。南の情報部員の人の良さそうなそこそこ美女をたぶらかして、恋人になり、彼女を利用して情報を、、、 となるとねー。
京都のロシア正教の教会の前晩祷(土曜日にある)を覗いてみました。とっても暑くて大変でした。でも、神父さんはとても暑そうな服を着ていたからほんとうに大変だろうなあー。京都が正教の南限では?とか思っちゃいました。神父さんはとても良い感じの人でした。
丸善で、これも話題の「朗読者」を買いました。原語(ドイツ語)版ではもし買っても、永遠に読めそうにないので英語版(装丁がきれい!)を買ってみました。
先日古書店から買った松永伍一著「聖性の鏡−イコン紀行」(平凡社 1981年 絶版)を読みました。
著者はかなり正直に(あけすけに?)自分の感じたことを書いているのですが、そこに共感できるか、反発するかで、評価が変わる本でした。ちなみに、私は著しく後者でした。本の最後の方には、著者らが設立したイコンの販売を目的とした組織が、日本人の好み(アンケートまで取っている!)に合わせてイコンの買い付けをする話まであり、読んでいて気分が悪くなりました。
正常でした(良かった!)
となると、もともとこんなものなのか? ちょっと複雑。
「大地の子」を見て少しうるうる。
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