さて、次は言語関係です。この空気のように当たり前に与えられた機能を敢えて反省する必要を感じるのは何故か?それは自らの思想が言語による制約から逃れられないということを意識するからでしょう。まずは、言語学入門といった感じの本から。

2002.02「ことば、この未知なるもの」ジュリア・クリステヴァ(谷口勇、枝川昌雄訳、国文社)

2000.04「言葉と無意識」丸山圭三郎(講談社現代新書)

2000.11「ソシュールを読む」丸山圭三郎(岩波書店)

2001.05「チョムスキー」田中克彦(岩波現代文庫)

2004.11「言語の脳科学」酒井邦嘉(くによし)(中公新書)

失語症の事例から一臨床医が脳の中で言語機能がどういう風に分担されているかを推定しています。とても実証的で説得力がありましたが、以下の書評では内容を詳しくは書いていません。ご興味がありましたら読んで見られることをお薦めします。

1999.10「ヒトはなぜことばを使えるか?」山鳥重(講談社現代新書)

2011.01「言葉と脳と心:失語症とは何か」山鳥重(講談社現代新書)

2011.01「脳から見た心」山鳥重(NHKブックス)

ヒト以外の動物から見た言語で、視点が面白い。

2000.02「ことばの誕生」正高信男(紀伊国屋書店)

2004.05「ケータイを持ったサル」正高信男(中公新書)

2007.01「ヒトはいかにヒトになったか」正高信男(岩波書店)

言語の起源はいろいろな観点(淘汰圧)から語ることができます。私はディーコンの本で記号論なる分野があることを初めて知りました。タオの本は途中で諦めていますが、唯物論的言語起源論として代表的なもののようです。

1999.11「ヒトはいかにして人になったか」テレンス・W・ディーコン(金子隆芳訳、新曜社)

2000.08「ことば、始まりと進化の謎を解く」ジーン・エイスチン(今井邦彦訳、新曜社)

2008.02「心とことばの起源を探る」マイケル・トマセロ

2011.06「言語と意識の起源」(1~2未完)チャン・デュク・タオ(岩波現代選書)

言語の起源を考えるときにしばしば子供達がどうやって言語を習得しているかを参考にしていますが、以下はそれに焦点をあてた研究です。

1999.12「子供達の言語獲得」小林春美、佐々木正人編(大修舘書店)

2007.02「ヴァーチャル・インファント」須賀哲夫・久野雅樹(北大路書房)

言語は必ずしも音声がなくても成立する。その場合一次元の時間の流れだけでなく、空間を使うことでコミュニケーションがより効率的になる可能性がある。書き言葉、特に漢字の効率性もそういう風に考えることが出来る。

1999.12「インディアンは手で話す」渡辺義彦編(径書房)

2000.01「ココ、お話しよう」F.パターソン、E.リンデン(都守淳夫訳、どうぶつ社)

言語の存在論とでも言うべき本で、こういう臨床医のプラグマティズムが私の考え方に近い。

2005.11「私とは何か-ことばと身体の出会い」浜田寿美男(講談社選書メチエ)

日本で暮らしているとそれほど気にならないのだが、日本語は複雑怪奇な言語である。人々の会話を観察すると、意味がすれ違っていることが多い。外国で暮らす場合、困るのは何も外国語能力だけの問題ではなくて、何を言いたいのかが日本語でも判らなくなっているからである。その内慣れてくると、仕事の上では外国語の方が便利でさえあることに気づくのであるが、同時にいつも何か言い足りないという気分が残る。

2006.09「日本人はどこからきたか」植原和郎(小学館)

2010.01「日本語の正体」金容雲(三五社)

2006.01「二重言語国家日本」石川九楊(NHKBooks)

2011.09「漢字が日本語をほろぼす」田中克彦(角川SSC新書)

日本語は主語を曖昧にしたまま成立する言語である、とはよく言われる。しかし、これは日本語だけの特徴ではなく、近代以前はその方が自然だった。個人が共同体から切り離されて独立した人格を要請されるようになり、そういう社会状況が主語を生み出した、とも言える。主語-述語-目的語による命題こそ言語の本質である、とされてしまったのである。

2002.02「日本語に主語はいらない金谷武洋(講談社)漢字と日本人」高島俊男(文春新書)」

2007.03「日本語文法の謎を解く」金谷武洋(ちくま新書)2007.03.18

2007.04「英語にも主語はなかった」金谷武洋(講談社)

2010.01「日本人の脳に主語はいらない」月本洋(講談社選書メチエ)