1999.11.18

「ヒトはいかにして人になったか」テレンス・W・ディーコン(金子隆芳訳、新曜社)


    副題が「言語と脳の共進化」となっていますように人がどうやって言語を獲得したのかを考察した本です。第1部:言語、第2部:脳、第3部:共進化となっていて、その通りの内容です。第2部は言語に焦点をあてた脳の現在の研究到達点の解説になっていますので、面白いのですが、一言で言えば脳の回路は可塑的であるということであって、考察の基礎にはなっていますが全体の論旨からすれば重要ではありません。この人の論点は、
言語は記号であり記号を扱う脳が如何に出来たかという事に尽きます。

    最初に”記号”ですが、定義の仕方が分かりにくいので私の理解を書いておきます。何かが何か他のことを意味するというのをここではレファレンスと言っていますが、それには3種類、あるいは3段階があるといっています。

最初の”アイコン”は類似表象の同一視に由来します。漫画や肖像画のようなものです。これは全く自然であって、神経回路が世界を認識すると言うことは原理的にそうです。全く同じ事象が繰り返されると言うことは無いのであるが、神経回路から見て同じ回路で処理されればそれは同じものであると言うだけのことです。

次にこのようにして確立したアイコン同士の間に経験的に繰り返される相関関係があれば、一つのアイコンが別のアイコンで示される表象を意味するということが学習されます。これがインデックスというレファレンスの形式です。(連想記憶や条件反射の原理。人以外の動物も程度の違いはあれ、これらの適応能力を持っている。)

しかし記号は勿論これらアイコンやインデックスの要素は持っているにしても,また学習の過程でアイコンやインデックスとして認識されるにしても、それらに無い特徴を持つ。すなわち恣意性である。何の本来的な関係も無いものが何かを意味している訳ですから。そもそも恣意的な記号が何かを意味するということが、何故神経回路に記憶されるのだろうか?という事を考えてみると、記憶を支える為にはアイコンやインデックスとは別の仕組みが必要である。それが記号同士の関係である。記号はそれが意味するもの同士の関係を記号同士の間に射影されることによって記憶される。インデックスとそれが意味するものとの関係よりも、こうして射影されたインデックス同士の関係の方に注意を向けることによって、インデックスは記号になる。すなわちこのような記憶の仕方によって、もともと必然性のあったインデックスとその意味との関係が切り離されて恣意的になる、と考えれば良いと思われます。

    ミカンの実物を見せて”ミカン”と繰り返し、”ミカン”という発語に反応してミカンを手に取ったとしても、”ミカン”はまだミカンのインデックスである。他に”リンゴ”や”ナシ”を教えたとしても依然としてインデックスである。これらは教えた人の恣意的な連合であるから教えられた人にとっては必然であってもその連合が繰り返し継続しない限り失われる性質のものである。語の中では固有名詞が未だにこのレベルにありますね。”ミカンをください”の意味を同様に教え、”リンゴをください”の意味を教え、それらから”ナシをください”が発語されるようになれば記号である。この段階では”をください”という記号が”ミカン”や”リンゴ”や”ナシ”といった記号と維持している関係が学習されている。実際にこのような記号化を行う為には個々に脳の中に出来て行くインデックスそのものに囚われるのではなくて、そこから距離を置いてその背後にある法則性を見出さねばならない。つまり注意の転換あるいは遊びである。ナシを食べるためには”リンゴをください”ではなくて、”をください”の前の”リンゴ”を消去して替わりに”ナシ”を代入しなければならない。ナシが目の前に無いときでも”ナシをください”と言う事が出来るし、ナシを思い浮かべることもできる。実際に外国語の単語を憶える時にこのようなやり方をしますね。語と語の間の役割や並び方の関係だけでなく、語と語の間の類縁関係や対立関係や包含関係等、記号はそれ自身で閉じたシステムを作っています。このシステムの中に取込むことによって、単語の学習速度は飛躍的に効率化されます。個別に単語を丸暗記して行くのではなくて、組合せを変えた実験を行い、単語を記号システムの中に位置付けて行く。このようにして強化された記号同士の関係は現実を反映してはいても、現実そのものではないし、現実がなくても頭の中に存在できる。つまり現実には無いものを想像できるという事にもなる。

    さてそこで本題ですが、社会の成員にこのような記号システムを植え付けることで共通の記号システムを持った成員同士のコミュニケーションが飛躍的に豊かになることは当然としても、そもそも抽象的な事項や心のコミュニケーションを必要としなければ記号システムは無用の長物であることも確かです。単に無用の長物というだけでなく、そのために脳の他の機能は大きな損失を受けることになります。(実際人の脳は他の動物に比べて劣っている点が多くあります。)

ヒトが社会的行動を必要とし始めた時、すなわち社会秩序を、その場その場で示される個別の威嚇や争いによってではなく、”約束事”として維持しなければならなくなって、最初は儀式を発明したというのが著者の仮説です。集団で何度も何度も動作を繰り返し、象徴的な事物を崇める事によって、社会秩序の意味が了解され、その表現として(忘れない様に)多くは服装をインデックスとして利用し始めた。結婚式とか成人式とか宗教の儀式とか今でも残っていますね。儀式の中で演技によって物語が語られ、その特定の身振りが特定の意味を持つようになる。身振りが組み合わされて記号化される。このようにして脳は記号システムに扱える様に進化し始めた。やがて喉の構造と制御が発語に適する様になったとき、その進化した脳に言語が棲みつくようになった。言語が一旦発生すれば強力なコミュニケーション手段として社会的な淘汰圧が働いて、言語と脳は加速度的に共進化するという次第です。

500万年前に類人猿と分かれ、2足歩行の為に産道が狭くなり早産となった訳ですが、250万年前に石器により肉を主食とし始めてから、脳が更に成長期間を長くし、子供の未熟な脳が言語に晒される。言語はその未熟な脳に浸透し易い様に進化したと考えられる。複雑な文を聞いても漠然としか判別されないが故に言語の統語規則が自然に植えつけられる。この考えはエリサ・ニューポートという人が最初に提案したそうですが、脳の進化よりは言語の進化の方が圧倒的に速い訳ですから、言語の方が子供の脳に適応したと考えるべきであるという訳です。

    言語の寄生によって本来記号システムを必要としない脳の他の機能も記号的な処理に取って代わるようになる、ということで、人間を理解しようというのが最後です。

(1)霊長類が使用している多種多様な叫びは人では整理され、わずかに発語の音調に痕跡が残っている。叫びが集約され特定の本能的情動伝達手段となったものが、笑いと泣きである。真似ることによって伝染し他者と同じ情動を共有できる。言語が発生するまでの間、笑いと泣きの社会的意義は極めて大きかったものと推察される。それぞれ呼気、吸気を利用した制御されない発音である。

(2)人は他者の行動を”心”の現われとして理解する。他者の行動を単に個別にインデックスとして利用し、他者の敵意や善意を予想することは他の動物でも出来るし、むしろ飼い犬の方が人間より得意である。しかし、個々のインデックスを統合して記号システム”心”として了解することが出来るのは人間の特徴である。”心”には恣意性があるから人は過度に信頼したり、過度に疑ったりする。

(3)人は世界全体についてもそれをシステムとして認識する。記号システムとしてこの複雑な世界を認識するという傾向は言ってみれば言語寄生によって齎された精神病の一種であるかも知れない。偶然を偶然として認める事が出来ない。宗教にしても哲学にしても科学にしても手段が異なるだけであって、この観点から見れば同じ起源のものであるという事になると思いますが、ちょっと行きすぎでしょうか?その手段というのが大変な意味を持つわけです。

(4)およそ全ての脳内神経活動は表象として認識された時、それは意識である。したがって動物にも意識はある。その覚醒レベルは中脳と脳幹上部にある少数の細胞によって本能的に調節されているが、他の動物と違って人では調節不全(神経や精神の疾患)に陥りやすい。調整すべき対象が相対的に多いからである。言語システムの自律性は発生的には社会に支えられたものではあるが、それでも自由意思という意識を齎している。これは言語システムによって人が仮想世界に棲むことが可能だからである。体と心は別物であって人には魂が存在するという意識もそこから生まれている。このように人の意識は他の動物にはない特徴を備えている。バーチャルリアリティというのは何もコンピュータの専売特許ではなくて、本来的に言語が持つ性質です。コンピュータは感覚器官に訴えると言うのが違いですが。

(5)意識については更に議論を続けてはいますが、余り明瞭な議論ではありません。計算機に意識を持ちこむことが出来るかということも議論されていますが、これにはまた別の論考が必要と思います。
以上。

<一つ前へ><目次>