2011.09.20

   暇な時に少しづつ田中克彦の「漢字が日本語をほろぼす」(角川SSC新書)を読んでいる。p.94〜103にかけての文章は成程と思わせるものがある。「日本語をローマ字で書いてみると結構発見することが多い。日本語は母音を変えることで意味を屈折させているのである。これを漢字にしてしまうとそれが判らなくなる。日本語の歴史とは、声の日本語に漢字をあてがって、意味を目で見るものに変え、声無しの文字で固定する過程であった。つまりもともと日本語に備わっていた自力でことばを生み出していく体系の力をずたずたに切り裂き、破壊してしまったのである。漢字を身につけさえすればどんどん出世できると考えたさもしい人たちが、それと引き換えに日本の命、日本語の根を枯らしてしまった。」

    漢字の便利なところは発音されることなく意味が通じてしまう点である。それぞれの民族がそれぞれの言語でその漢字を読む。つまり訓読みである。これは何も日本だけの現象ではなく、周辺民族で見られたことである。そればかりではなく、中国国内においても多民族多言語であるから、全てが訓読みといってもよく、そういう意味で漢語は言語というよりは表意記号である。少数の知識人だけで国が治められている内はそれでもよかったが、民主主義の時代になると漢語の学習しにくさが弊害となる。中国の指導者自身がそれを自覚しいて、思い切った簡略化を進めている。かって、ケ小平は日本の訪問団が過去の侵略を詫びた時に、中国も日本に迷惑をかけた。それは孔孟の道を教えた事と、漢字の幣を与えた事である、と言ったそうである。やがて中国自身が漢字を捨ててピョンヨン表記に変えるかもしれない。本来発音だけで言語は成り立っているのである。現在の簡体字は公用語を普及させるための過渡的な手段と考えておけばよい。

    中国の周辺民族は漢字を取り入れるよりも、むしろそれからの脱却によって言語を守っている。自らの言葉を漢字で表記することに慣れてしまうと、言葉の本来の意味や他の言葉との繋がりが見失われてしまって、民族性が否定されてしまうからである。田中氏は具体的に周辺国の言語を説明していくのだが、彼はもともとウラルアルタイ語族の研究者である。言語の構造はその民族の世界把握の姿勢を反映している。ウラルアルタイ語族同士には単語における類似性があまり無いが文法構造は非常に近い。そういうやり方によって言語同士の類似性を研究する方法論がエルンスト・ラウジの「意味と構造」(講談社学術文庫)にあるらしい。ウラルアルタイ語族の国家は、西はフィンランド、ハンガリー、トルコ、旧ソ連邦から独立したカザフスタン、ウズベキスタン、キルギスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャン、東はモンゴル、南北朝鮮、日本、である。日本はかっては中国、現在はアメリカ志向であるが、民族的にはツーラン文化圏と呼ばれるユーラシア中央部の民族群の一角として日本を捉えなおすべきだ、と田中氏は言う。ロシアという国はその大部分を占めるこれらツーラン文化圏を重視するスラブ派とローマからヨーロッパを志向する西欧派の対立の歴史を持っている。そういう観点に立てば、ロシアと日本の関係にも新たな視点が見えてくる、と。

    明治維新後しばらくは漢字の弊害を意識してローマ字化とか言文一致運動とかが盛んだった。魯迅も日本のひらがな表記に関心を示し、日本が近代化で先を行っているのは漢字の弊害をひらがなで緩和しているからだと考えた。しかし、戦後しばらくたって、1970年台になると国語改革運動が起きて漢字を復活させようという動きが起きてきた。欧米の科学技術や社会制度を取り入れる上で、一旦漢語の造語能力を使ったのは正解であったとかいう解釈が生まれてきた。実際それは日本における新種のテクノクラート誕生の契機になったのであるが。それも今は英語が取って代わっているように思える。要するに、覚えにくい言葉というのはエリート意識と差別意識の温床となるのである。最近の問題としては東南アジアからの介護師資格に課せられた難しい漢語である。日本に必要な若い労働力を漢語が阻んでいる。漢字は学んでしまえばどうということもないが、学ぶ人たちにとっては大きな障害となる。そういえば僕自身も中学から高校にかけて漢字には苦しんだ。やむなく考えて実行したのが、日記であった。辞書を片手に漢字を多く使って日記を書くことで克服したのであるが、今となっては結局のところ一種の美意識を満足させるだけなのである。大学受験の時代に小林秀雄の文章にずいぶん惚れ込んだものであるが、もはやそれらは自意識過剰の読むのも恥ずかしい文章にしか見えなくなっている。また、最近友人と吉田民人の「自己組織系の情報科学」という本を読んでいるが、もはや死語となった漢語が次から次へと登場してきて、フランスで哲学を学んだ友人が困っている。確かに30年前にはこういう言葉も使われていたなあ、と思うのであるが、いつの間にか誰も使わなくなった。結局、やまと言葉で言い分けられないからこそ、それを漢語に頼って言い分けるのであるが、漢語は言葉ではないから、それでは日本語の造語能力の向上にはならない。むしろ目で見ないと意味が判らない単語を増やしているだけなのである。漢語に思いを籠めても後世の人には伝わらない。こういう矛盾をどう回避して言語に求められる要求に答えていくのか?やまと言葉はもともと抽象的表現に向かないから駄目というのではなくて、漢語や英語に頼らないで表現力を付けていく方策がないものかどうか?という問いこそが他ならぬ言語学者の課題なのである。とはいえ、これは原発を廃止するよりも難しい課題であるが。。。

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