2010.01.02

     月本洋「日本人の脳に主語はいらない」(講談社選書メチエ)を読んだ。2ケ月もかけてだらだらと読んでいたのだがどうも退屈であった。随分と論の進め方が下手な人である。要点は最後の章にちょっとだけある。

言語を発するとき、脳の中では事前に母音が準備される。何故ならば、子音は母音無しには作れないからである。それを脳の中で「聴き取る」のであるが、ここで、母音優位な言語(日本語やポリネシア語)と子音優位な言語(英語やドイツ語)では、聴き取る場所が異なる。母音優位な言語で育つと、母音は左脳で直接解読されるが、子音優位な言語では右脳でまず判断される。これは子音優位な言語において母音だけの語が非常に少ないから、自然音として受け取るためである。というようなことが脳の最新の検査機械で明らかになっているということである。なお、これは角田忠信氏が最初に脳波によって発見したものである。要するに母音優位な言語においては認知から言語への移行がスムースであるから、述語を主体とした(述語だけでも成り立つ)言語となる。主語は意識されない。しかし、子音優位な言語においては、右脳にあると言われる自他の分離の中枢を刺激するために、主語や人称代名詞が言語の中に組み入れられてしまう。左右の脳を結ぶ脳梁を通過する時間は数十ミリ秒であり、この間に左脳は「主語」を準備するのである。まあ、こういうこともあるのかもしれないなあ、とは思う。

述語主体の言語から主語を必要とする言語への変化はイギリスで15世紀ごろに起きた現象であるとされている。その背景には上層階級が下層階級に異種言語を強いたということがある。述語の主体を示す語尾変化が無くなったのである。だから、子音優位というのは、社会的な適応で発生した主語を必要とする言語に音声組織が適応した結果と考えるほうが因果関係としては正しい見方ではないだろうか。日本語は江戸時代までは述語主体の言語であったから、そもそも主語という概念が存在しなかった。明治での近代化推進によって、ヨーロッパの言語に倣って主語を立てた表現が輸入された。夏目漱石の「我輩は猫である」という表現は当時のモダンな流行感覚を刺激するものであったらしい。言語活動に何らかの法則を求めるという意味で文法を考えるのであれば、音にならない脳内の言語活動、つまり認知の働きを含めて考えざるを得ず、そういう意味で、表記された言葉の中で閉じた文法体系は例外ばかりの不完全なものにならざるを得ない。ところで、具体的に解析されているのは日本語と英語だけで、例えば中国語は中間的な位置づけとされているだけである。この人は言語学者ではないから仕方ないとは言え、もう少し種々の言語についてまとめて欲しかったと思う。

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