2000.04.29

「言葉と無意識」丸山圭三郎(講談社現代新書)
    丸山圭三郎という人はソシュールの研究者の様です。私は良く知らなかったのですが、ソシュールは言語学の枠組みを変えるような仕事をして、構造主義の元祖の様に扱われているのですが、ソシュール自身は自分の考えでは言語が捉え切れないことに気づいて、後半生を詩の言語について研究していました。詩の中に主題となるような言葉をばらばらにして埋めこむ手法(アナグラム)こそ詩の本質であると考えていて立証しようとしたようです。

    丸山圭三郎はそれをネタにして、言語活動には、社会的に規制された意味での言語(基本的な構造を持ち、発語と意味とが社会的・恣意的に関係付けられている)とは別に、人間の自由な環境への働きかけという行動としての言語活動があり、それは無意識に繋がるような深い意味を持っている、という風に発展させて、文化全体に亘る考察を展開しています。フロイトやユングやラカンも出てきますが、まあなかなか一筋縄では理解できません。人はあまりに言語に依存しているためにしばしば本質的なものを見失いますが、最後の方にいろいろ例が出ていてまあ参考にはなるかもしれません。

    私自身はそう言うことよりも、何回も読み返していろいろな詩の例を読んでいる内に、これは結構美的体験というものの本質を突いているのかも知れないなあと思い始めました。つまり意味の多重性。暗喩というのはまあ分りやすい例で、もっと広く歌詞と音楽とか、音楽でも声部は分りやすくて、リズムとメロディーの組合せや、バッハで良く見られますがメロディーを拡大したり、反転して重ね合わせて見たり、とか、芸術作品といわれるものを冷静に解析すると一体これは遊びなのか?それとも意味があるのかと思うことが多いのですが、実はそれが美的価値を作り出しているのかもしれない。要するにその人にとっての美的体験というのは、一直線に行動選択に繋がるような意味を慎重にはぐらかすべく多重の意味を持つように構成された体験なのではないかと思います。美的体験のためには、言葉なら言葉、音楽なら音楽、色なら色と何でも良いですが、それを意味付けるチャンネルが多くその人の内部に蓄積されている必要があって(その意味で子供には美的体験はあり得なくて、これこそ老人の特権だと思いますが)、それだけになかなか共有し難いものではないかと思います。しかし上手くいけば全人格的なものを伝えることも出来る可能性を持っていると言うことでしょうか。

    それはともかく、新書本ながら中身の濃い本だと思います。なかなかの名文ですので誤魔化されない様にしないといけませんが。

      第1部はロゴスとパトスの議論で、西欧思想の流れでは意識と無意識、理性と情念、人工と自然の様に対立的な概念であるが、本来的には一つのものであって、世界を分節化することによってそれに自らが関わって行く手段となる。ロゴスが意識の表層にのぼるのにたいして、パトスは深層的なものと捉えるべきである。とか言うこと。

      第2部と第3部はソシュールの解説で、要するに言語の議論が意味するものと意味されるもの、表現形態とその意味内容や対象の関係についての議論であったのを、言葉と言葉の関係性に注目して法則性や理論をくみ上げた処が新しい。実体論から関係論へのパラダイムシフトであった。言葉の意味の反復可能性と言うのは概念として認識されるが、それは概念として括られる対象が同一性で括られるからではなく、語の反復可能性があるが故に対象の同一性が錯視されるのではないか?事項の意味が超越的に存在するのではなくて、個々の事項の意味はそれが置かれるテキスト全体の関係性の中で明らかになるものである。私達は意識の表層面でこそ同じ構造のなかに居るように思えても、深層においては独自の生を特殊な体験として生きているにも関わらず、恣意的分節である言語の網に絡め取られて、各人の価値観が等質化・画一化されているのにしばしば気づかない。ソシュールはその様に制度化された構造をラングと呼び、人間の持つ本来のシンボル化能力とその活動をランガージュと呼んで区別した。その活動においては言語は決して約束事ではなく恣意的でもなく、表現と内容が密接に結びついた身振りや音楽や絵画と比較し得るようなものである。

      ソシュールが晩年熱中したアナグラムの世界は言葉の表層的な意味に隠された別の意味がバラバラにされた文字や発音としてはめ込まれてるものである。多くの詩がその観点で分析された。日本では百人一首の例も挙げられる。伊勢物語のカキツバタというのもその例である。遊びの様であって遊びでもなく詩の意味を潜在意識的に暗示する作用がある。音楽で言うとポリフォニーに似ているが、ポリフォニーが表層意識にある複数の意味を並べるのに対して、アナグラムはむしろ表層的な意味の裏にある深層意識を塗りこめる手段である。深層意識にあるものは個人と言うよりも文化や歴史が蓄積した社会、他者の意識でもある。最後には語るのは私ではなく、私の中の他者である、という意識にまで進む。意味の多義性や意味の不在というところに至って、完全に制度的な制約から逃れた表現が完成する。このように考えて行くとソシュールの先にあったものは、フロイト、ユング、ラカンの精神分析や、東洋の無の思想であるといえる。

      第4部は無意識の世界から身体論に入る。我々は身体によって世界を地と図に分節して生きているわけで、これはまあユクスキュルの環境世界やアフォーダンスの考え方であるが、人間は身体だけでなく言語によっても世界を分節する。身体は言葉の利用によって環境から開放されると同時に言葉に拘束される。

      第5章は現実の世界、貨幣、性欲、死の恐怖を上記の考えで分析したものである。どうも上手く纏まらない。この人の言葉はそのスタイルと切り離して意味を別の言い方に置きなおすのが困難である。これは結局理解が足りないのかもしれないが、重要な単語の内容が、書かれてあるテキストの中でしか意味を持たなくて上手く定義できないからでもある。また時間を置いて読んで見たい。

      L'huitre  ,brillamment blanchatre. C'est un monde opiniatrement clos.  ,un sachet visqueux, et verdatre, qui flue et reflue a l'deur et a la vue,frange d'une dentelle noiratre sur le bords.  フランシス・ポンジュは自らの詩を解説して、この中で atre という2重母音が目立つのは uitreという2重母音に無意識のうちに引き摺られていたからだと言っている。ボードレールの詩の例:Je sentis ma gorge serree par la main terrible de l'hysterie. hysterie という最後の言葉は文全体の中にも埋めこまれていて、それが導線となっている。すなわちsentisのi、serreeのs、terribleのterrieである。これは言葉の遊びではなく、字義的な言葉の意味以上の内容を伝えるための手段である。この本は言語論として読むよりは芸術論として読んだ方が良い。

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