2011.06.21

6月19日(日):
    午前中百万遍のてづくり市に行ってパンを買った。ソフトクルミとトマトパン。そのまま京大付属図書館に行ってチャン・デュク・タオの「言語と意識の起源」(岩波現代選書)を見つけて読み始めた。三石君が昔読んで感動した本でいつか読みたいと思っていた。長らく絶版になっていたが、1998年に復刻されていたようである。実存主義と現象学の方法論をマルクス主義に持ち込んだ人で、先駆的と言われ、ヨーロッパで認められた最初の東洋人哲学者である。学位論文の方も有名なようであるが、抽象的で判りにくいということである。その概要がこの本の解説にある。その抽象的で判りにくい思考の具体例がこの本となったようである。ベトナム人であって、評価の高い人であるが、ベトナムに帰国し、この本はベトナムで書いた。

    第一部が「意識の原初形態としての指示の運動」である。最初にゴリラとヒトとの比較が出てくる。ゴリラは肉が欲しいときに私の手を取って肉の上に置く。これは他者の行動を誘導しよういうことであるが、あくまでも「近接性の誘導」である。ゴリラにとって対象の外在性は彼の感覚器とその延長から遊離しない。知覚が彼に与えるイメージは自身の身体の行動(延長も含む)の諸可能性の関数としてだけ決定されている。隔たった対象は指示できない。距離というイメージを持たない。客観的外在性(自身とは独立に存在している)としては知覚できない。こういうのを「感覚運動心性」と呼んでいる。それに対してヒトはおそらく道具を使った集団労働(つまり狩等)における必要性から自身とは隔たった対象を手で指示することが出来るようになった。指示の原型はまず相手に向ってから次に対象に向う。これは赤ん坊もそうだし、デモ隊や軍隊を動かす時の司令官の手の動きそのものでもある。その発展型として相手に視線を向けて手が対象に向う、という型も出てくる。更に視線だけが対象に向うようになると、見かけ上ゴリラと区別はつかないが、その含意としては他者への指示なのである。狼だって集団行動するが、それは獲物や他の狼の状況から受動的に促される行動であって、他の狼が指示するわけではないという。この指示による集団行動はヒトにとって適応的であったために発達したが、それはまだ意識とはならない。

   「指示」が相互的になり、それが一定の型として確立してしまうと、それが共同意識になる。狩の行動へと集団を駆り立てるための「道具」である。ここでタオ氏は一人だけ狩に遅れてきた場合を想定する。相互に指示しあって狩をしているという状況に間に合わなかったので自らの指示は他者に認識されない。それは自分に帰ってくる。指示した自己は他者として再帰的に認識される。この他者を直接必要としない指示は再帰的な指示となり、それが個体としての意識の起源となる。自らをその対象に関わらせようとする自らの指令、それが意識である。最初から一人で生活するのであればこんなややこしいものは不要であるが、神経系を共有できない他者を動かすことで生活を成り立たせようとするとその手段が必要となり、それが自らに再帰的に働くようになる。つまり意識の起源は他者であり、共同労働である。さて、指示は身振りや発声を伴うことが多い。どちらかというと発声によって指示の規格化(共同化)が促進される。ここでちょっと疑問。狼が狩に誘う時に吼えるその吼え方や、サルが外敵を見つけたときに仲間に知らせる叫び声などは、「指示」ではないのか?それは「本能」であるから指示ではない、というのであろう。「指示」は獲得された習性でなくてはならない。しかし、本来的にその区別は難しいと思う。多分「指示」ではあっても、個人の意識にまでは至っていない、ということなのであろうが、これはまた証明困難である。程度問題と考えておく事にする。それでも概念としての「指示」から「意識」へという考え方は有用な見方と思われる。なお、ここでの「指示」は吉田民人が使った「指令」という用語のような一般的な意味ではなく、あくまでも主として手や視線やジェスチャー、発語をつかった「他者を対象に関わらせようとする行為」という意味に限定しておかねばならないのは言うまでもない。

6月19日(日):
    毎日のようにバッハコレギウムジャパンのヨハネ受難曲を聴いている。何となく頭の中に残って鳴り響くから。何回も聴いていると次第に一つ二つのドイツ語の単語くらいは判別できるようになる。語り手のレシタティーボと合唱とアリアが緊張と弛緩でもあり、言語と音楽でもあり、起伏を作り出している、ということがだんだんと了解されてくる。それにしてもバッハのこの作曲は何と精緻なのだろうか?言葉=信仰と音楽との確執を栄養にして現代の作曲家でも出来ないような構造を作り出している。聴けば聴くほどそれが判ってくる。マタイ受難曲がイエスをまだ人間として見ている節があるのに対して、ヨハネ受難曲では完全に神の子として見ている。だから、ゴルゴダの丘に引かれて行くところでも、マタイ受難曲では重々しく苦しそうなのに、ヨハネ受難曲では軽快で速い。信者にとってイエスが受難することは喜ばしいことであり、イエスもそれを喜んで受け入れているのである。死の直前に「全ては成就された」と呟く。これに尽きている。

    今日はまた京大付属図書館で「言語と意識の起源」の続きを読んだが、あまり進まなかった。要するに指示という行為が最初にあって、その物質的内容(つまり発声とか身振りとか)が集団で共有されると、今度は一人になってもそれが思い出される、そのような在り方で指示の「対象」に対峙する時、それは意識の始まりとなる。ただその段階はまだ「群棲意識」とでも言うべき無名の意識である。そこまで至らないような指示作用というものもある。それは指示の身振りの傾向的意味という言い方をする。感覚的心性の段階においてはそれは意識にまで至らずに指示にしたがった行動として出口を見出す。その段階では対象が外的な存在としては知覚されない。指示運動のイメージによって主体とは別の外的なものとして知覚されるが、これはあくまでも指示の枠組みの中においてである。指示の意味が、意味する行為という物質的現実から離れると初めて対象と主体(私)という観念的な意味(意識の構造)が現われる。ところで、このように私という意識の起源はもともと他者であるから、現実には私が語っているのに他者が語るという幻覚が在り得る。ただこれが幻覚といえるのかそれこそが本当の知覚なのかは明確には区別出来ない。これが巫女であり教祖である。そのようにしてその民族集団の群棲意識を私が語ることで宗教が可能となる。
    全ての存在は物質とエネルギーであるから意識もそうである。意識の物質としての存在様式は、原初的には身振り、視線の運動、感嘆の声、などの外面化された運動であり、これは脳の活動として下書きされるだけのこともある(今日ではこれも検証可能な物質的存在である)。「象徴的に言えば」それは言語(内語)である。言語は意識の表現ではない、意識の現実的存在そのものである。言語の意味というのは意識に先立って存在する。意識無しでの交信しあう段階で既に意味を持つ。従って、言語の意味には、意識されていない意味もある。マルクスの分析で「商品語」というのがその例である。そこでは労働は抽象化され、交換価値とされる。労働の持つ使用価値としての意味は意識されない。今日的に言えば、意識の現実的存在は神経回路の興奮パターンと言えるかもしれない。しかし、そう言ってしまうと個人個人でそれぞれの遺伝子や過去の履歴に依存する全く異なる神経回路興奮パターンとして存在することになり、それ以上議論にならない。勿論大雑把には脳の局所機能というところは議論できるしもう少し細かく大分類した意味にまで迫れるかもしれないが、意識の内容までは判らない。そういう立場でいうと意識の現実的存在を言語と考えた方が議論がし易いということではないか?それは社会的に規定されているから当然その範囲でしか議論が出来ず、零れ落ちてしまうものがあるが、少なくともそういう立場に立てば意味の解析が容易となる。

6月20日(月):
    朝から雨だったが午後には止んだ。今日はまた京大付属図書館で「言語と意識の起源」を読み進んだ。この人は一つのことを繰り返し説明する。最初は結論だけが出てきて、しばらく読むとそれのやや詳しい説明があり、またしばらく進むとちょっと別の角度からの説明がある。こうして深まっていくような書き方だから、僕の要約もなかなか完結しないで同じことに触れると言う次第である。指示という行為は勿論適応進化の結果であって物質的というか生物的な現象である。それが指示行為の共有化の段階(共同労働)に至って、他者から対象が指示される、というイメージが残っていて、他者が居ない時において自分で対象を指示するという行為と重なり合う。こうして対象は自分=その他者に対して外的な存在として「意識」される。指示行為の運動感覚は明らかに自己の身体としての感覚であるから、その他者のイメージは自己の身体と重なり合うことになる。こうして意識する主体としての自己が他者のイメージで定着する。他者は勿論多くの経験の中で物質的には多くの他者であり、自己として同化された他者は多くの他者のコピーということになる。さて、指示行為の意味というのは指示された対象に対する身体的運動であり、具体的な物質的な存在である。しかし、指示行為が脳内の興奮パターンとして「下書き」され、その意味もまた脳内のモデルとして想起されるようになると、そこには観念的な意味しか存在しないことになる。対象は「志向」される。「感覚的確信としての意識」が完成する。この段階に至って他者の心が自己の心と区別される。(所謂心の理論:他者の知っていることと自分の知っていることは違うということの理解、が成立する、ヒトでは3〜4歳ということである。)第一部最後の方にマルクスとエンゲルスとレーニンの思想が引用される。この人は唯物論者なのである。マルクスによれば、認識には3つの契機がある。@は自然であり、Aは人間の認識=脳の興奮パターンであり、Bが自然の脳への反映形態(概念、法則、カテゴリー等)である。エンゲルスによれば、脳は自然を自らの内に再生産するが、そのプロセスは自然が自分自身を認識する、という事に他ならない。まあ、判ったようで判らないが、とりあえずはあまり関係ないように思える。

    第二部は「融合言語」となっていて、何のことだか判らないが、その序文で物質の定義をする。物質とは要するに我々の意識の外に存在するものである。それを唯一の実在と考えるというのが唯物論ということになる。次に記号論の話になる。記号の意味は記号である。しかしこのままでは記号の世界に閉じこもるしかない。記号と物との関係が無くてはならない。ヤコブソンが出てきて、記号は他の記号との関係においてのみ自分の意味を見出す。まあ、これは記号が世界を分節する、ということを言っていてその分節の仕方こそが記号の意味を規定しているから、記号の決まり方には恣意性が伴う、ということである。このままでは記号世界は閉じてしまうが、本来的に記号の起源は指示であり、対象と直接的な関係を持つということである。つまり、言語について語るには言語の起源について語らざると得ない、という事が言いたいのであろう。それこそがこの本の主題であるが。

  I.道具の生成
    ヒトへの進化の話である。ここでは二足歩行というのが、手を使うという方向へ淘汰圧によって促された、と想定する。その淘汰圧とは言うまでもなく道具の使用である。猿の道具作りは労働だろうか?猿はあくまでも生物学的欲求に従って見つかったものを加工するが、あらかじめ準備しておく、ということはしない。道具作りの為に道具を用いるということがないのもその為である。準備の為には不在対象の表象が必要となるのである。オルトヴィア渓谷第一層ヴィラブランキアン階の上層でのアウストララントロプスはまだその段階である。なるほど多種の石器は見つかるが、形に一貫性はなく、その場その場の必要性に迫られて作られたものである。これが、類型的形態をとれば生産労働のレベルである。次のカフアン期においては石器に自然物の面と加工された面の両方が見られる。すり合わせて片側加工したものである。ここでは2つの石のどちらが目的物でどちらが加工道具かの区別がないから加工とは言っても中間的である。それらの融合イメージがあったと思われる。次のオルドヴィアン期に至って初めて両刃の石器が現われる。ここで加工するものと加工されるものの分離が生じた。これは狩に備えて石器を作っておく、という準備行動であり、石器のイメージは石器を作る前から頭の中にあるということが想定されるのである。

    広島に帰ることになったので1週間程お休みである。長くなりそうなので、ここまでを(1)とする。

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