2002.02.02
ジュリア・クリステヴァ「ことば、この未知なるもの」(国文社)

      西洋語で主語が成立したのは十二世紀であるらしい。松本克巳「主語について」:月刊言語100号の6月号(1991)に記述があるらしいが、手元に無い。ジュリア・クリステヴァの「ことば、この未知なるもの」(国文社)の11章が中世の言語学に充てられている。BC2世紀から4世紀にかけて、ケルト族はオガム文字、ゲルマン族はルーン文字を作り上げた。BC10世紀にはスラブ族がアルファベットを生み出した。ギリシャ正教を自国の言語で布教するために福音書を翻訳する必要があった。グラゴル文字から更に簡略化されてキリル文字となった。自分たちの言語音を分析してアルファベットに当て嵌めるという作業は音韻構造の自覚と研究無しには出来なかった筈である。しかし文法に関する限り、自民族の言語を解析しようという意識は無い。文法は専らラテン語を学ぶ為に研究された。アレクサンドル・ド・ヴィルデューの「青年の為の教習書」が名著として紹介されている。文法は論理学でもあった。むしろギリシャ・ローマ以来の伝統としての論理学の実践として文法が説かれたというべきである。この見地からは文章の中での諸要素間の関係が第一義的に重要である。語順や語形であり、順序が論理的価値を決める。主格は動詞を支え、最初に置かれる。否定語は動詞の前に置かれる。主語と動詞の関係は6つの格を記述するように促す。考え方の根底には能動要素(支配体)と受動要素(被支配体)との間に打ち立てられる関係がある。動詞は文を支配する。つまり構文の内部で他の品詞をもたらす。名詞は静的な安定した要素であり、動詞によって構文の中に位置づけられて複合体を完成させる(支える)。

      各民族言語の文法が研究されるのはルネッサンスの16世紀である。知識人の共通母語であったラテン語よりも日常使われている言語に基づいて「知」を体系化する事が行われる。これは社会経済活動が中産階級に支配されるようになり、ラテン語では間に合わなくなったためである。実際的な知識は日常語でしか語れない。そして日常語を正確に使う為には言語の教育が必要であり、その為には文法が必要であった。17世紀のフランスで著述された「ポール・ロワイアル文法」はその集大成である。認識し判断する、という精神作用は<命題>乃至は論理文に主部と述部とそれらを結ぶ連結部をもたらす。主部は人が断言する対象であり、述部は内容である。語は一般的に思考の対象を表す語(名詞、冠詞、代名詞、分詞、前置詞、副詞、これらを纏めて実詞substances)と思考の形態と様式を表す語(動詞、接続詞、間投詞、これらを纏めて形容詞adjectifs)に分けられる。これら二つの要素を結び付ける為に実詞が格を持つ。ギリシャ語やラテン語では全ての名詞が格変化するが、フランス語では代名詞のみであり、名詞の格変化は数のみである。その代わりに小辞(前置詞)が使われる。要するに西欧語では文を命題と見做す考え方から主部と述部という基本的な関係が第一義的になったという事である。重要な事はこの言語観(「正しい言語」は主部と述部を備えた命題の表現でなくてはならない)が社会的な要請により、社会的教育によって広まったという事である。今日までこの言語観は根強く残っている。

      18世紀百科全書派による言語観も基本的に命題論であるが、主部と述部については意味論的にではなく形態論的に論じられている。この結果ヨーロッパの言語は、フランス語、イタリア語、スペイン語のような行為主体−修飾を伴った行為−行為の対象という自然な(論理的)語順を取る分析的言語とラテン語、ギリシャ語、ドイツ語のような語順に拘らない可逆的言語に分類される。19世紀に至ると諸言語を進化論的に統合するという見方が生まれて来る。サンスクリット語の発見により比較言語学が生まれ諸言語の起源や関係が論じられる。またその過程で実証主義が方法として定着することで論理の表現としてのみ言語を解析するやり方に加えて、言語を心理学的観点から論じる事が出来るようになり、20世紀初頭の構造主義言語学(言語は意味論や論理表現とは離れて一つの構造体として捉えられる)へと繋がる。それにしても、印欧語族の範囲を出ていないのであり、例えば日本語をまともに研究しようとしても上記のような西洋で培われた言語学の方法論しか手段が無いというのが現状である。

      プラハ言語学サークル:実際に使われているコミュニケーションとしての言語を共時的に分析すること、通時的(進化的)現象は共時的な分析の結果現れる言語の構造全体の中で評価しなければならない。具体的には音韻の分析から、音韻対立の原則を見出した。言語とは弁別的諸要素が二項対立の関係にある一つの体系である。いずれの言語でも関与的な対立は約12項である。ヤーコブソンは公式ソシュール理論における記号表現の線状性に疑いを挟み、詩的言語に見られる面状性を分析した。換喩(隣接性による諸単位の連鎖、散文や叙事詩)と隠喩(類似性による諸単位の連鎖、叙情詩)という軸で語られる。

      精神分析からの言語学。精神分析学は患者のあらゆる徴候をことばと見做す。そこにことばの法則に類似した法則を見極める。夢の言述は象形文字の解読のようなものである。徴候に精神分析医が見出すのは事実や原因ではなく、その徴候の動機づけである。ことばとしての無意識の働きには「置き換え」、「圧縮」、「形象化」といった基本的操作が認められる。無意識は矛盾を知らない。否定は無意識にとってはその否定対象の肯定に他ならない。患者の徴候(身体症候も含む)は言語体系であり、言語の法則に従うように見えながらある種の始源的言語とも見做される。それは無意識の表意体系でもあり、一般大衆の象徴的表現にも適用可能かもしれない。精神分析学によって言葉は層状となり、記号表現と記号内容は分離され、それらの関係を考えざるを得なくなる。一つの言語表現には複数の論理が有り得るということである。言述はこうしてその現場たる個人やその背景たる発達史を無視しては語れなくなる。「機智」はしばしば無意識の働きを利用している。また原始社会の禁制やトーテムの意味もそうである。

      ところでこの「ことば、この未知なるもの」は過去から現在に至るまでの言葉についての研究や考察を一冊に纏めた百科事典のようなものである。最終的には副題に示すように記号学の薦めとなっている。言葉に限らずその体系を内部の記号が差異の統辞法で文節されるような体系として研究すること、これが記号学である。アメリカのパースとヨーロッパのソシュールがその提唱者である。記号論は「語用論」話す主体の為の理論、「意味論」記号とその指示内容の関係の研究、「統辞論」記号相互間の形式的関係の記述、の3つに分けられる。言語学は記号論の中で最先端と言えるが、他にも構造人類学があり、これには親族構造が音韻論とパラレルになっていることが発見されている。身振りや舞踊も記号論の立場で研究されている。音楽は記号論の中で極北に位置するかもしれない。それは指示内容を持たない記号であるから。絵画は現実を再現するのではなく、世界と言葉の中間にある模像を表象する。写真は過ぎ去った現実であり、我々が安全地帯にいる現実なのであるが、映画は現実に生きつつある虚構である。映画はシーケンスやショットを切り取ってそれをモンタージュのように組み合わせる。動物の使う記号もそれ自体記号論の対象になる。

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