2000.11.12

     丸山圭三郎の「ソシュールを読む」の序章を読んだ。講義録である。「言葉に先だって観念があり、言葉はそれを代理するという考えは間違いであり、言葉と観念は裏腹の関係にある。丁度水面上の空気の圧力が変化すると、サザナミが生じる様に、未分化なカオスである心の働きに言葉が形を与えて始めて観念となる。」しかし言葉だけが形を与えるのではないというのが僕の考えである。勿論言葉は超越しているので、社会の中で意味を与えられ、表舞台に見えると言う違いはあるが。

      p.167.:言語という現象は何か実体に基づいていて、それを詳細に検討すれば本質が見えてくると言うものではない。音の秩序と意味との関係を調べて行っても何も見えてこない。音と意味と言う実質があるのではなくて、その対応関係、相関関係があるだけなのだから。言語主体の意識は辞項の差異と関係しか知覚しない。言語を解析する方法としては、潜在的かつ同時的意識の次元である連合関係(記憶の世界)と顕在的かつ線的(時間的)空間の次元である連辞関係(言述)に着目するしかない。我々は連辞の型を頭の中に持っていて、それらの型を用いるときに連合語群を介入させている。それらの連合群の内部で何を変えれば単位を差異化し得るかということを我々は知っている。創造的活動とは結合活動に他ならない。その素材は我々の内部にある。何故既存の語を組合せて、かって一度も存在しなかったメッセージを形成することが出来るのか?それは一つ一つのシーニュ(意味するもの意味されるものの関係)がそれだけでは何も意味しない差異に過ぎないからである。意味は実体ではなく、差異の網目の間の空間に過ぎない。これらは実際の症例に対応する。失語症には連合関係が壊れる選択能力の障害(会話が出来ても意味をなさない)と、連辞機能が壊れる結合能力の障害(意味のある語を発することが出来ても脈絡ある文章に出来ない)がある。

      この辺を読んで思い出したのは、科学におけるモデルの役割である。それが表立って意識され始めたのはおそらく量子力学や相対性理論が生まれた今世紀始めの物理学であるが、そこでは自然を素朴に実在と考えていても本質が見えてこない。あるモデルを作り、それに基づいて計算し、その予言と実験データがどう異なるかを見て、初めて自然の本質が見えてくるということである。本質的に複雑で不可知である自然を完全に理解することは出来なくて、我々に出来るのは自分の作ったモデルとどう異なるかということだけである。モデルが持つべき性質はそれが自然を再現出来るということではなくて、計算可能であるということだけである。差異が明らかになれば、今度はその差異をモデル化することが出来る。自然科学はこのようにして発展してきた。理論と実験が合っているとか合っていないとかいうことではなくて、どのように異なるのかを明確にすることが重要なのである。まして何もモデル無しに自然に立ち向かってもそれは動物的本能で餌を探すのと大差がない。

      p.198.:恣意性について。嵐の絵が嵐を意味するという記号の使われ方は自然的絆を元にしており、記号学の対象ではない。髑髏の絵がその文化圏によって危険を表したり、勇気を表したりする例はある程度記号の恣意性が高い。しかしこれらのシニフィエ(意味されるもの)はあらかじめ分節された事項や概念であり、シニフィアン(意味するもの)はそれを指向しているに過ぎない。通常の言語は言語によって複雑で連続的で不可知な現実を分節した結果を指向しており、これは言語そのものでしかない。すなわちシニフィエとシニフィアンは区別できない。言語による分節の尺度は人間の都合で行われており、言語外の現実に基づくのではなく言語体系自体にあるという真に不自然な尺度である。ところで、ここで言語記号の恣意性を、それが自分勝手に作りかえられるという意味と誤解してはならない。言語と概念の間に本質的関係が無いという意味で恣意的なのであり、言語をその概念に結びつけるものを言語の内部には持っていないという意味である。社会全体もその関係を変えることは出来ない。それは過去の継承がシーニュに進化事実を押し付けているからである。言語は本質的に恣意的な記号でありながら、私達一人一人にとっては必然的なものとして押し付けられていて、私達の意識に到達するのはシニフィアンとシニフィエが一体となったシーニュであり、ある音のイメージは否応無しにある概念を担っている。これがラングである。

      p.205.:線状性について。言語のもつもう一つの不自然性はそれが聴覚を基に発達したということによる線状性である。豊かで広がりのある自然を一次元的な制約の中に閉じ込めた結果、追憶や持続の形で連続性を持った意識が空間的な一線に置きかえられてしまう。アキレスと亀のパラドックスに表れるように、連続であるべき時間がいかようにでも分割可能なものとして扱われる。

      言語は(ラングは)恣意的でありながら、その時代の意識では必然的である。しかし本質的には可変であるから、時代と共に変動する。偶発的な事象によって、シーニュの持っている分節線がずれていき新しいシーニュが生まれる。

      p.233.:第2の恣意性は言語体系の中で、個々の辞項の持つ価値がその体系内に共存する他の辞項との対立関係からのみ決定されるということである。第1の恣意性(シニフィエとシニフィアンの関係)はこの第2の恣意性の2次的産物である。潜在的な連合関係における恣意性はその体系における概念の配分と大きさの恣意性である。現実と言う連続体をどう分節しているかということである。それに対して顕在的な連辞関係における恣意性とは語順や種々の文法規則に見出される恣意性である。これらの2つの次元のなかでのシーニュ同士の分割のあり方や結合の仕方をここでは価値と呼んでいる。

      p238.:シーニュに一つの機能、一つの価値を与えることができるのは、シーニュ間の差異だけである。人が事物間に樹立する絆が事物に先だって存在し、これらの事物を決定する働きをなすのであって、如何なる事物も、一瞬たりとも即自的には与えれていない。というのが人の言語活動における認識のあり方である。

      p243以降は言語論から人間論に移る。自然を分節して生きて行くと言うのは動物一般の生きる原理であって、感覚と運動によって、環境のカテゴリー化を自らの中に作って行くということである。古くはユクスキュルが言った事である。最近では市川浩という人が研究していて、その世界を「身分け構造」と呼んでいる。これに対して人は「描く、彫る、歌う、身振る、話す、書く」と言ったイメージを作る能力、時間や空間的距離を作る能力を持っており、言語活動の本質はそこにある。これをランガージュと呼んで、その実在形であるラングと区別している。こうして作られた構造を「言分け構造」と呼ぶ。表向きの言語の発生以前に人はこの能力を持ち、そのために動物的な「身分け構造」を犠牲にしてきた。この過剰で不自然な仮想的幻想の世界に生きることによって、人は動物のもつ自足する欲求ではなく、無限の欲望を持つことになった。

      p.276.:所与としてのランガージュは言語能力、言語活動、更にはシンボル化能力のことである。所与としてのラングは国語体としての、音韻、形態、統辞、意味の体系であり、その内実は抽象的なコード、歴史、社会的産物としての制度や共同主観的沈殿物としての<構成された社会性>という性格と有している。所与としてのパロールは個人がラングなるコードに基づいて組み上げる具体的なメッセージ乃至は発話行為そのものである。これはあくまで個人的行為でありながら他者との関係をつくるという意味で<構成する社会性>を担っている。

      記号学としてのラングとパロールはパロールを事実、ラングを本質として扱い、文化をそのように認識することが構造主義の方法論でもある(還元学的記号論)。それに対してソシュールが試みた方法論はパロールを意味生成運動の理論モデルと考える。文化としての言分け構造、すなわちコスモスと、見分け構造が破綻して表れるカオスとの間の往復運動のモデル(固定された構造の変革モデル)である。

      p.279.:ランガージュには2つの極があり、一つはイコン的感性的であり、一方はイデア的理性的である。映像化能力と言語能力と言い換えても良い。前者はパトス的交感を可能にするが、論理的でなく、流通性や蓄積性に劣る。後者は論理的であり、流通しやすく蓄積されやすいが、数量化デジタル化することによって生ける現実から乖離しやすい。東洋と西洋の違いにも対応する。

      ラングの本質は、形相性(関係に過ぎない)、離散性、否定的価値の対立構造としての体系性、非可逆的線状性、シーニュそれ自体も言分け構造内の他のシーニュとの差異にすぎないという「実在の砂漠」である。これに対してパロールにはラングという構造を実現して行く、すなわち現存する概念を具体的な言語活動にする働きと、ラングの中で与えられる差異関係を用いながら新しい関係を作り出すという「創造的使用」とがある。後者は主体が生きられる世界である意味のマグマを言葉の宇宙に変える働きであり、意味志向の状態にある沈黙に表現を与える行為である。これはラングが本質的に持つ恣意性を個人が利用するということである。当然ながらその局面では言葉の持つ記号性そのものが否定される。言葉の映像化(イコン化)として、意味の複線化に着目すれば、これがアナグラムに通じる。言葉は身体運動そのものに類似してくる。

      本来は固有の意味と価値を持っていた道具類が一定の文化体系の中でのみ機能するシンボリックな価値と重ね合わされたり、一定の経済体系の中でのみ機能する交換価値に蔽われて非自然な欲望の対象となる現象は良く見られる。「記号化した物」である。このように記号化されていながらそれと気づかれない対象を記号として、更には幻想として、実在の砂漠として暴くのが記号学の第1の使命であるが、それだけではニヒリズムに陥るだけである。言語の恣意性を逆手に取ることによって、新しい概念を生み出すと言うパロールの働きが必要である。

<一つ前へ><目次>