2004.05.22

       「ケータイを持ったサル」正高信男(中公新書)を読んだ。

      1940年台に今日の日本社会の原型が出来上がった。サラリーマンと専業主婦。かっては憧れの対象であった専業主婦も一般化し、専業主婦は子供に生甲斐を見出すようになる。しかしこれは必ずしも子供のためにはならず、安楽な環境の中で、子供は社会に出て行く強さを身につけないまま成長する。内輪の世界でのもたれ合いの心地よさを保つための手段がケータイである。これはサルの社会での音声コミュニケーションと同じである。本来的に言語というのはそうやって生まれてきたもので、内と外を区別して安心するためであるから、方言が発達する。孤立した集団内では言語がこのような発展を示す事が多い。このようなコミュニケーション手段を持つサルは直接対面しないような大きな集団を作ることが出来る。しかしヒトがサルと異なるところは、更に公的な共通のシンボルとして言語が発達した点にある。大きな社会を作ったり、他の集団との調整が必要だったりするからである。

      公的な世界への旅立ちの拒否が「引きこもり」であり、公的な世界の無視が「電車の中でのケータイやお化粧。。。」である。さらに、このようにして育ってやむを得ず一応自立した大人たちは、もはや心理的に子供という厄介な他人を疎ましく感じ、責任を持とうとしない傾向が出てくる。従来は性交と必然的に結びついていた出産を切り離し、コントロールする手段が出来上がると、このような気持ちを充足させるいろいろな手段(避妊など)を利用して、社会全体としては子孫が残せなくなる、ということに至っている。いくら社会的な環境を整えても、本質的に子供を作りたくなければあまり効果が無いのではないか、というのが著者の考えである。

      他にもいろいろと面白い事が書いてあった。笑いの起源はダーウィンの説によると、チンパンジーのパントコールである。これは本来攻撃的な威嚇の仕草であるが、弱いチンパンジーが強いチンパンジーを背にして他のチンパンジーを威嚇する、という場面でのみ使われる。これは他のチンパンジーを威嚇することで、背後の強いチンパンジーとの絆を強めようということである。それがさらに進化すると、他のチンパンジーが居なくてもあたかも居るかのようにパントコールをして、仲間意識を強めようとする。つまり笑いの起源は第3者を一緒に貶めることによって、お互いの絆を強めるということなのである。赤ちゃんの笑いは生得的で機械的なものであり、それを見た大人の「かわいい」という感情を引き起こすように出来ている。大人は言葉をかけ、赤ちゃんは言葉を覚える。勿論音節を持った言葉は大変に難しく、息の細かいコントロール無しには出来ないから、最初の内は手足をバタバタさせて呼吸を細かく区切ろうとする。このようなプロセス全体が遺伝的に組み込まれていて、赤ちゃんの周囲のヒトを巻き込みながら、赤ちゃんの知性が発達していく。

       さて、内輪の世界の安堵感を目指すことと、公的な世界での決まりごとの確認とは、言語の二つの側面であって、それぞれパロールとランガージュに対応すると思われる。しかしよく考えてみれば、これはいずれも安心感のためであって、その普遍性の範囲が異なるに過ぎない。言語においては、その範囲はかなり明確であり、私的な用法から公的な用法まで様々であり、最終的にはその言語を共有する民族全体というのが範囲である。音楽もそういう目で眺めてみるといろいろなレベルがある。

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