2010.01.05

    金容雲「日本語の正体」(三五館)を読んだ。日本語と韓国語は膠着語に分類され文法的には同じであるが、音韻体系が相当異なるし、何よりも基本的な数詞についての対応があまり見られないということで、その関係についてはあまりすっきりと説明した本に巡りあえなかった。この本はやや断定的過ぎるとはいえ今まで不明とされた部分に踏み込んですっきりさせている。

    一つの分岐点は1万年前で、そのころまで日本列島は大陸と地続きであったから、シベリアからやってきた古モンゴロイドが朝鮮半島と日本列島共通に暮らしていた。日本ではアイヌとして残り、また縄文人の祖先でもあった。現在に残るアイヌ語はアルタイの膠着語より古い抱合語である(主語が分離せず単語の中に取り込まれている)。その次の大きな民族移動は南方からの稲作民で、朝鮮半島にはBC10世紀頃やってきた。朝鮮半島では古モンゴロイドは消滅し、稲作民がカラ(韓)族となり、その一部が日本列島にも渡り、縄文人と混血して弥生人になる。(大野晋氏説南インドタミール語との関連についてはなんともいえないが語彙として残っているだけと考えられる。)朝鮮半島では古モンゴロイドは消えてしまったが、日本では地理的要因から北方にアイヌが残る。

    BC4世紀には北方の騎馬民族アルタイ(扶余)族が南下して高句麗を建国し、馬韓、辰韓、弁韓といった南方由来の諸国連合を平定して、百済、加那、新羅を建国し、カラ族はアルタイ系に吸収される。言語的にもそうなる。ただし、半島南西側の百済、加那と東側の新羅は地理的要因から文化的にはやや違いが見られる。この中で、加那は南方系がもっとも強く残っており、特にBC1世紀以来鉄器も普及していたが、その主勢力は日本列島に移ってしまって、6世紀には百済と新羅に分割されて消滅した。百済、加那の言葉カラは国を意味していて、kara→kona→kuni として日本列島では国を意味する。一方新羅ではナラが国を意味している。奈良の由来もそこからということであるが、どうもこれは怪しい。

    日本列島では部族国家の時代が続く。BC1世紀には既に漢書に「漢倭奴国王」の金印を貰ってくるほどの存在になっている。2世紀頃は魏志倭人伝に出てくる邪馬台国が知られている。これは親新羅的な連合国家だったらしい。その頃百済は中国の呉と組していて、日本列島には狗奴国を支援していたから、北魏−新羅−邪馬台国とは敵対していた。4世紀頃の日本は言語的には次々とやってくる朝鮮半島からの民族の言語が入り乱れていて、日本書紀にも「風習の異なる人々の言語が幾重にも亘る通訳を介してやっと都の言語になる。」と書かれている。順序としては、新羅系(饒速日命、物部氏が新羅系)、加那系金首露王(天孫降臨神話崇神天皇、藤原氏も加那系)、百済系の倭の5王(応神天皇に始まる、蘇我氏も百済系)である。その後の朝鮮半島での複雑な勢力争いに中で百済の人々が次々と日本列島に亡命して支配勢力となったために、言語的には百済語に統一されていく。

    アルタイ語の特徴は、膠着語(助詞で繋いでいく)、語順が主語−目的語−述語(但し、必須な要素は述語であって、他は装飾的である。むしろ意味的には助詞の機能が大きい。)、母音調和(単語の中に制限された母音だけが繰り返される傾向)の3つであるが、この内最後の要素は擬態語などに残るがその後の漢字の影響で薄くなっている。新羅や百済の役人たちによって作られた漢字による韓語の記述方法「吏読」(漢字を音韻的に借用する)は、日本では万葉仮名に相当する、というより、万葉仮名はほとんど百済の吏読そのものである。ただし、東国の歌には新羅の吏読がみられる。また漢語をその意味に従って朝鮮語で読む「訓読」も行われていた。これらが聖徳太子の師として知られる王仁(403年来日)を始めとする百済からの知識人によって持ち込まれた。勿論儒教や仏教と共にである。その中で日本では物部氏を倒した蘇我氏を中心に国家体制を固めていき、その後、蘇我氏の横暴に反撥した中大兄皇子(後の天智天皇)による大化の改新(645年)で、統一王朝としての基盤を固める。一方、朝鮮半島の新羅は高句麗、百済からの圧迫に危機感を覚えて唐と連合し、百済を滅ぼしてしまう。日本は百済再興に出陣したものの661〜663年の白村江の闘いで歴史的敗北となる。これを機にそれまで方言くらいしか差のなかった百済語→日本語新羅語→韓語が分化していく。

    新羅は唐の政治体制や宗教文化を全面的に取り入れて、唐との関係強化に努めたために、漢語の発音をそのまま保存し、母音の数を増やしていき、それに対応するために15世紀に到って独特のハングル文字を発明するに到る。しかし、日本では逆に漢語の意味読み(訓読)が定着していった。文章としての漢語を読みこなすための膠着語は漢語のような外来語をうまく取り込む仕組みでもある。つまり孤立語である漢語を助詞で繋いでいけばよいのだから。但し語順が異なるために、読み方に工夫が必要になる。中国人との交流が間接的であったために、話す必要は無く、漢籍を読みこなせさえすれば用が足りたのである。母音の数も減少していった。白村江の闘いから50年も過ぎた頃には新羅語と日本語の間には通訳が必要になっていた。日本列島には大陸からやってきた多数の民族と言語が残されていて、最終的に日本語としてまとまるのであるが、現在も方言として痕跡が残っている。特に関東には新羅由来の語や発音が多い。もっとも、江戸以降は関東語が標準語になってしまったのであるが。

    現在の韓語と日本語の単語の関係については数多くの例が出てくるが、どこまでもっともらしいのか僕には判断がつかない。従来説明できなかった数詞については次のように説明している。なお、3,5,7,10については新村出による説明である。「1」吏読で「河屯」hadu or hato−hito−ひとつ、韓語ではhana。「2」「途孛」の途−ト−トル(韓語)−ツ−対、連れ、孛(ペ)−ふ−ふた−ふたつ。これは2漢字が別れた「えびかに現象」。「3」「密(み:高句麗語)」、シッ(新羅語)−セ(sai:韓語)−さい(三枝)「4」ネッnet−netsu−yotsuよつ。古代語nyoがnoとyoに別れたため、nとyは変化しやすい。「5」高句麗語utsu−itsu日本語。「6」ヨソッyosot−yosu−mutsu。y→mもいろいろな例があるらしい。「7」高句麗語「難隠」ナンオンnanon−nana。「8」ヨドルyodoru−yadatsu−yatsu。「9」「鴉好」アホからアホブ(韓語)、それを訓読みにして、がこ−ここ−ここのつ(日本語)「10」高句麗語の「徳」。

    結局日本列島は大陸の端にあって海峡で隔てられ、大陸からやってくる民族や言語、文化を何一つ捨てることなく組み合わせたり改良したりしてきた。このやり方は西洋からの近代文明の受容に対しても同様であった。西洋の概念に漢字を当てはめて翻訳し、本家の中国や朝鮮半島に輸出してさえいる。帝国主義までも自分流に取り入れ、戦後は一転して民主主義を取り入れ、社会主義も同化し、経済のグローバル化は現在消化中というところであろうか?

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