田中克彦の「チョムスキー」(岩波現代文庫)を読みました。言語学と言うのはなかなか一筋縄では行かないんだなあと思いました。

    ソシュールが言語現象を学問の対象とするために、個人の発語活動である parole と区別して社会的に共通化された言語(langue)を取りだし、更にそれを通時的として、歴史的変化から防衛し、慎重に定義した事が、近代言語学(構造主義)の始まりであり、これによって、それまでの普遍言語(フランス語を範例とする、これにはラテン語からの国家的独立という背景があった)の考えを一掃したわけであるし、諸言語が対等の立場で研究される様になった訳でもあるが、チョムスキーはそれに対して、言語はヒトの本来的能力であり、その基本的構造は一つであるとする。現実の言語表現はこの普遍言語という深層構造の変形として説明出来るとする。その普遍言語のモデル(生成文法)を提起し、具体的には英語を対象としてどのように変形されているかを示した。普遍であるから何語でも構わないとはいえ、そうして洗練された普遍言語のモデルには英語を話す人達の心的構造が反映されてしまうが、だとしても実証するのが困難である。あくまでヒトとしての生物としての能力であるから、普遍言語の構造は社会的背景や進化とは無関係であると考える。田中はそういったチョムスキーの「革命的」な発想の起源にはユダヤ人としての普遍性を求める気持ちがあるという。社会的差別と迫害に悩まされたユダヤ人は傾向として普遍的な真理を求め、それに大きな価値を見出す事によって、差別に抵抗する(ある意味ではそれから逃避する)気持ちが強い。チョムスキーの社会的活動(ベトナム反戦)もそこに由来すると言う。

    さて、ソシュール流に言えば、普遍性と言うべきは言語活動の源泉(langage)であって、そのレベルの議論は単純に公式化されるような物ではない。後半生のソシュールはそのレベルの研究として言語の暗喩的な用法に着目して、詩の一般原理を探求した。丸山圭三郎は深層心理を持ち出した。要するに言語の本質は「論理」では無いのであって、ここがチョムスキーと異なる。しかし、近代構造主義言語学は langage の問題を避けることによって学問として成立しているようなところがあるために、チョムスキーの単純素朴な発想に対して批判は出来ても正面から答える事が出来なかったというところではないかと思う。時代的にも人工知能の言語処理原理として受け入れられ易い側面があった。しかし人工知能の企ては破綻し、知性と身体や環境とは切り離して考える事が出来ないし、langage もまた論理ではなく、生きると言う事全体から説き起こさなければ理解できないという事になってきている。しかし、少なくとも langue と langage の区分は有用な概念なのではないかと思う。それによって、個人の内部に蓄積されたエネルギーというものを想定して、社会的な制約条件と対比してみることが出来るからである。

<一つ前へ><目次>