2011.01.30 山鳥重「言葉と脳と心」失語症とは何か(講談社現代新書)
 (発話に至る経緯仮説)  1.言いたい事が湧き上がる。観念心象の段階。2.多くの発話レパートリーから対応する「音韻塊心象」が選択される(意識される)。3.音韻塊心象が発話単位(単語)の心象に文節される。4.単語性音韻心象が音節単位に文節される。音節心象の段階。5.発話の遂行。****** 3.以降のプロセスには言語のプロソディー(速度、リズム、抑揚、強勢)が必要である。つまり、発話は身体運動であり、それを滑らかに遂行するためには脳の中にある別の運動プログラムが必要となる。心象の音韻塊から中心となる単語の音韻塊に至るためには例えばアクセントを置かれる部分に注意する必要がある。このような「心的動作」は正に運動である。それを起動するのは感情の働きである。これは普段それほど意識しなくても良いが、心が別のことに捉われているときには起動のための余裕がなくなる。ブローカー失語では起動のための心的閾値が上がっていると考えられる。その部分をうまく起動できなくなっているから、社会的に通用する語彙に則った文法的な発話が困難となる。音節がはっきりとせず音韻塊として一気に吐き出されてしまう。あるいは、きっかけとなる音節がなかなか出てこない。文法を知らないわけではないのである。多くの場合歌は滑らかに歌えるが、これは音楽がプロソディーとなっているためである。

    心の働きは部分を繋いで全体を作るようには出来ていない。逆に全体が先にあって、そこから部分が探し出されて実行されていくのである。それを書き言葉として解析すると「文法構造」が見えてくるだけである。同様に、楽譜があっても音楽は出てこない。音楽にするためには、演奏者が楽譜に従って身体運動を訓練し、楽譜の背後に想定されるしかるべき「感情」乃至「心」をこめてその身体運動を駆動しなくてはならない。その身体運動には、演奏という身体運動だけでなく、「感情」や「心」を分節された音響、つまり個々のフレーズにまで文節する動作が含まれている。それが楽譜の「解釈」である。即興演奏では元々の楽譜が無いのであるが、これは見かけのことに過ぎない。即興演奏者も楽譜,或いは相当する耳覚えのフレーズで訓練しているのであるが、実際の演奏の時点でさまざまな楽譜を選択しているにすぎない。なお、ブローカー失語では、言語の理解は正常である。つまり、プロソディーが壊れている訳ではなくて単に発話の際には呼び出せないだけである。

    発話の進行は日本語のプロソディーに従った運動であるが、その運動に対して適切なタイミングで単語や音節の心象が供給されなくてはならない。それが間に合わないと最初の音韻心象が文節されず、あるいは勝手気ままに文節されるため、いかにも自然に会話しながらも意味不明の言葉を喋り続けることになる。しかも本人は意味不明であることを知らない。これがウェルニケ失語である。いわば、ブローカ野の活動は正常であっても、それを制御できなくなった状態である。ウェルニケ失語では、同時に、話し言葉や書き言葉の理解が出来なくなる。言葉の理解というプロセスもまた全体から部分へと進行する。まず聞いた音塊とその場の相手の態度や状況から全体的な印象が記憶と照合され、例えばそれが日本語なのか外国語なのか、質問なのか命令なのか、といった事が理解される。そこから先に分析を進める為には「心の構え」が必要になる。つまりそれだけ注意を集中しなくてはならない。通常の人はそれを無意識にやってしまうが、ウェルニケ失語ではそれが難しくなる。体軸の運動に関する命令文は比較的理解されやすいことが知られていて、これはそれに伴う身体の構えが心の構えを誘発するからである。しかし、その中で使われる個々の単語を切り離して問いかけても理解されない。勿論本人は理解できていない事を理解していないから、問いかけに対して適当に返答してくる。本人にとって理解はそこで完結しているが、周囲の人から見るとどうも理解できていなかったようだということになる。こういったことは日常的にも「聞き間違い」あるいは「空耳」として起きることがある。ウェルニケ失語ではつまり、意味とその形式とが「適当に」結合されてしまい、それが間違いであるという自覚が無いのである。

    伝導性失語というのもあって、これは、言葉の理解には支障が無く、発音や書字の間違いが生じる。音節数が多いほどその確率が高くなる。ブローカー失語が言語のプロソディーを活用できないのと対照的に伝導性失語ではプロソディーは問題ない。問題はもっと始原的なプロセスにあって、単語の心象は明確であるのに、いざそれを発語ないし書字しようとすると、音節を間違える。単語の心象を分節して音節の繋がりとしての心象を作り出すところがうまく行かない。ウェルニケ失語とは異なり、結果が間違いである事には気づくから、何回もやり直すことになる。

    失語症ではないが、左右半球が切断されると、右半球で知覚したものを言葉で表現することができなくなる。言語の中枢が左半球にあるからである。しかし、理解していないわけではない。同じ物を選択できるしそれに対する行動的反応も正常に行う。つまり言語的な意味で認知していないのに行動的には認知している。患者になぜそのような行動をとったかを尋ねると勝手な理屈で説明してしまう。これは判らないからではなく、よく判ったつもりになっているということである。左半球からは判らない筈なのだが、意識としては判らないということが有り得ないように出来ているのである。左右半球の分離ではなく、右半球を損傷すると、言語活動が活発になる。ハイパーラリアというらしい。多くはやがて落ち着いてくるが、言語活動といっても、言いたいことがあるわけでもなく、いわば自走してしまう。もう一つの特徴は右半球に対応する左側の身体についての作話現象である。左手は無いのに、有ると言う。いろいろ証拠を見せても理屈を付けて認めようとしない。このような現象から、山鳥氏は言語と意識と認知は独立した現象であろうと推測している。認知は意識されることなく働く。意識にのぼるのはその一部に過ぎない。意識にのぼるのは「心象」であるが、その大部分は知覚的心象と記憶性心象である。言語機能はそれらの心象に「名前」を付ける事で意識し易くさせる。これが発達してくると意識現象が言語活動に呑み込まれていくことになる。つまり、言語化されない心象が意識されにくくなる。左右半球が切断されると右半球が意識されなくなるのはそのためであろう。なお、言語化されない右半球の意識には空間間隔や身体図式のような意識空間の座標軸を与える役割がある。

    心の発生。心の大部分は感情であり、それは情動的感情(身体由来、内部)、感覚性感情(外部)、背景感情(経験の連続性、自己の同一性、過去と現在)。感覚性感情がもっとも意識される心象である。情動的感情は強くなって初めて意識される。背景感情は病的にしか意識されない。心象のまとまったものが「思い」あるいは「観念」であり、これは言語以前であるが、言語的な観念が「概念」である。心象は名前を付ける事で意識しやすくなる。その名前自身もまた心象である。(意味される心象=意味する心象の関係)。言葉は元々音韻塊心象としてあって、使う時に分節化される。そのプロセスでいろいろな失語症が生じる。いろいろな知覚心象もまた記憶の中では背景感情として蓄積されていて、想起するときに文節化される。こうした文節化によって明瞭な心象を作り出すためには座標軸としての空間と身体感覚が必要である。環境からの情報を正しく反映して行動しているとき、それが意識されようがされまいが、認知という言葉で言い表す。意識されない認知が結果として知覚されて意識に投影されるとき、その意識は正しい意識ではなくこじつけの意識となる。その誤りは本人には絶対自覚されない。意識は自らの意識を否定できないからである。デカルトはそれを全ての考察の出発点に置いたのであるが。

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