2006.09.16

植原和郎「日本人はどこからきたか」「日本人新起源論」

     東図書館で借りていた、植原和郎「日本人はどこからきたか」(小学館創造選書)を読んだ。1984年の本で、講師8人による朝日レクチャーのまとめである。なお、同じ著者の「日本人新起源論」(角川選書)にもざっと目を通した。こちらは1990年の本で、京大で行われたシンポジューム・討論をまとめたものである。自然科学、文化人類学、言語学、民族学、考古学、など諸学の専門家の話であるから、全体がまとまっているわけではないが、およそのところは、以下の様であるらしい。

    人類は大まかには直射日光と寒暖への適応にしたがって、ネグロイド、コーカシアン、モンゴロイド+オーストラリア原住民に分かれるが、日本人はモンゴロイドに属するのは勿論である。そのモンゴロイドは約3万年前の氷河期以前の原モンゴロイドとその後の新モンゴロイドに分かれる。これはもともと髭や掘りの深い顔立ちだった原モンゴロイドの内北方に住んでいた人たちが、氷河期の寒冷化でノッペリした顔と細長い眼に適応進化したからである。(ネアンデルタール人はこの氷河期で滅びた。)縄文期に日本に住んでいた人たちは主として原モンゴロイドに属すると考えられている。現在では南方ポリネシアや東南アジアに住んでいる人たちに近い。(アメリカ大陸に渡った人たちも原モンゴロイドである。もともとアジア地区全体に分布していた。)新モンゴロイドの影響は約3500年前にあった世界的な民族大移動の一環であった(鈴木秀夫)。これは最後の寒冷化(平均3.5度低下)によって、ヨーロッパ北部とユーラシア中央部に居た人たちが、南方へと移動したことによる。ケルト人、ギリシャ人、ヒクソス人、アーリア人、新モンゴロイド、である。勿論それ以前にチグリス・ユーフラテス、インダス、中国では農業を基盤にした文化が成立していた。移動して進入した人たちは、ある場合は征服し、ある場合は取り込まれた。言語については、征服者の言語が残るわけではなく、被征服者の言語が支配的になる場合も多い。日本では基本的には古い言語体系が残ったと考えられる。大陸から来た人たちは強力な文明を齎したが、日常語や日本語の文法までには影響を及ぼさなかった。こうして新モンゴロイドの特徴が九州と近畿と本州に齎されるが、それは時間的にも地理的にも分布を持っていて、東日本には縄文文化が中途半端に残され、北海道と沖縄にはそのまま残った。人種的にもこれらの人たちは縄文人がそのまま進化したと思われ、言語的にも古日本語の特徴を持っていると考えられる。

    さて、その言語体系であるが、大きく言えば、日本語は膠着語とされ、ウラル・アルタイ語に近いが、アイヌ語は膠着語より古い抱合語の特徴を持っている。(金田一京助の発見である。)これは主語述語という分割が出来る前の段階で、意味的な主語が述語の接頭語として固着してひとつの単語として機能するような言語である。私(ア)くれる(クレ)という意味で、アクレ、となり、その間にあなた(エ)を入れれば、アエクレ、という風に真ん中に語を挟んでいってひとつの単語を作っていく。アメリカ・インディアン、エスキモー、バスク語も同様である。日本語は新モンゴロイドの齎したアルタイ語(膠着語)の影響を受けてその後変化したわけであるが、単語レベルを分解すると抱合語によって出来ている場合が多い。文章の作り方(文法)を見てみると、たとえば、「梅の花が咲いた。」というのは「梅」という単語を「の」で「花」に付けてひとつの擬似単語となし、それを「が」で「咲いた」に繋いで、全体がひとつの情景を表す擬似単語を作っていると考えてもよいくらいである。(梅原猛の説である。)インド・ヨーロッパ語と異なって、日本語では名詞や動詞よりも、助詞や助動詞が主役となっていて、その使い方で最後に意味が確定するので、機能的な意味での主語は存在しない。(こうして文章を書いていても、丸を打つまでは言いたいことが確定しないので、考えながら屈折させて書くことが出来るし、客観的な描写の中に主観を紛れ込ませることが出来る。)またアルタイ語系統にはRで始まる単語がほとんど無いのに対して、アイヌ語と同様日本語には多いというのも、アイヌ語と日本語が類縁であることを示している。

    もう少し大きくな枠組みで見ると、主語−目的語−述語の語順をとる、アイヌ語、朝鮮語、ギリヤーク語、ツングース語、満州語、モンゴル語、ウィグル語、チベット語、ビルマ語、ペルシャ語、ネパール語、ヒンディー語、ベンガル語、シンハリーズ語、ドラヴィダ語、が類縁であり、これらがもともとアジアに広くあった膠着語あるいは抱合語を祖先としていて、孤立語である中国語に押し出されるようにして周辺に残されたと考えられる。(安本美典の説である。)稲作関連の単語が南インドのドラビダ語族であるタミル語と著しい類似を示す以上、縄文後期に何らかの強い影響があったということも考えられる。(この説に対しては、この本では全面的に否定されている。)このように、日本語は古い言語としての側面が色濃く残っており、そこに大陸周辺で海に取り囲まれているということから、多様な言語的な影響が積み重なって出来ており、ヨーロッパ諸語とは出来方自身が異なる。(ヨーロッパ諸語は、言語の系統的な分岐として綺麗に整理できて、ラテン語、ゲルマン語、スラブ語の3つに集約できる。また南方系ではポリネシア語、インドネシア語、メラネシア語の3つに集約できる。)稲作がどの経路で齎されたかは大野晋氏の意見もあるが、大方は大陸から齎されたというのが定説となっている。しかし、大陸から齎されたのは畑作であって、稲作は南方系の技術であるから朝鮮半島から齎されたとしても、間接的なものである。いずれにしても、縄文後期は寒冷化のために縄文文化が衰退しかけていたところに農業が入ってきた。ただし、西アジアでは麦、東アジアでは稲、という文明の分類の中で、共通しているのは共に畜産による肉食の日常化も伴っていたという点である。おそらく海を隔てたからであろうが、日本に畑作や稲作が齎されたときに畜産が入ってこなかったということはその後の文化の形成を決定付けている(佐原真)。多くの家畜を扱うために去勢を行うことや、それを利用して品種改良を行う事は一万年も前から大陸の人類には共通していたのであるが、日本には伝わってこなかった。人間の家畜化である奴隷や、勿論中国における宦官やヨーロッパにおけるボーイ・ソプラノも、日本人の発想ではありえなかった。勿論家畜そのものは渡来したが、畜産技術は伝わらなかった。畜産(特に山羊)の影響はよく知られているように森林の破壊である。オーストラリアの例が有名である。日本の山が森林であるのは非畜産農業のせいなのである(安田喜憲)。日本人の宗教観には「森林としての山」が色濃く残っている。死者は山に行くのである。神は山からやってくる。一神教が荒涼とした山頂や砂漠に聖地を持ち神が「天」に居るのとは対照的である。

((参考))「日本人新起源論」より、安田善憲「日本民族と自然環境」:花粉分析による日本列島の気候分析

(1)33,000年前に大きな気候変動(寒冷化)によって、対馬海流が日本海に入らなくなった。雪が降らなくなる。乾燥化。大陸と地続きになる。北方草原に生息していた大型哺乳類が入ってくる。石器としては新しい形のナイフ型、石刃技法による石器が出てくる。ヨーロッパではネアンデルタール人が絶滅。津軽海峡の陸続き具合は不安定であったので、動物や人の流入は殆どが朝鮮半島経由であった。アフリカでは南西モンスーンが衰退して大旱魃に見舞われる。

(2)13,000年頃にこの氷河期が終わる。日本海側には再び雪が降り始め、湿潤を好むブナやナラなどの落葉広葉樹林が拡大していく。このころバイカル湖のあたりに発生した荒屋型彫器という特徴的な細石刃を持った文化が日本にやってくる。長崎では最初の土器が出現する。その後気候は温暖化し、現在よりも暖かい気候となる。縄文海進期と呼ばれている。朝鮮半島経由あるいは対馬海流に乗って南方的な栽培作物や文化が福井のあたりまでやってきた。

(3)6,500〜5,000年前の温暖な気候では日本海側は雪が少なくなって乾燥化していた。日本列島はいくつかの地方文化圏に分かれて発展していた。九州の塞ノ神式土器文化、中国から近畿東海にかけての北白川・磯ノ森式土器文化、関東の黒浜・諸磯式土器文化、南東北の大木式土器文化、北東北と南西北海道の円筒下層式土器、北海道の北筒式土器、である。

(4)5,000年まえから、再び寒冷化し、東日本の日本海側では積雪量が増加し、スギが増加する。海面が低下し、高山では凍結により地表が崩れて海岸に砂が運ばれ湾が埋められていく。このようにして、縄文時代の森林と海産物によって豊かに育まれていた生活が次第に困難になっていく。このころ北海道から九州まで一様にソバが出てくる。大陸から気候の寒冷化によって、畑作・ソバ栽培の技術をもった人たちがやってきたと考えられる。世界的な寒冷化による民族移動の一環である。西からやってくるから、日本列島本州の東西差が大きくなる一方で、北海道と沖縄には縄文人が混血を免れて残る。

(5)2,800年前に佐賀県に稲の花粉が見つかっている。既に出来ていた畑作の基盤の上に陸稲が、そして水稲の技術がやってきたと考えられる。それが朝鮮半島経由なのか南方(台湾)経由なのかは判らない。弥生時代の始まりである。

<一つ前へ> <目次>