2008.02.16

1月31日(木):
    マイケル・トマセロ「心とことばの起源を探る」(勁草書房)を読み始めた。最初の方に要約がある。ヒトの特徴を3つ挙げている。道具使用と記号使用と社会組織である。これらは勿論他の動物にも見られるが、ヒトの特徴はそれらが世代間で継承発展させされ、20万年という短期間で著しい進展を見せたということである。問題はそれを可能にしたヒトの固有な特性は何か、ということで、1.同種の者と同調する能力を進化させ、他者を自己と同じく、意図と心理状態をもった存在として理解する。2.その結果新しい形の文化学習と社会的生成が齎された。3.ヒトの子供はこうして既に形成されている文化的社会集団の中でそれらを学び取り、言語を使用し、自己を認知するようになる。多くの認知プロセスは哺乳類に共通のものであるが、霊長類になると他の個体間の社会的関係を理解する。物に対しても同様に関係を認知し、同様な関係(カテゴリー)を持つ物を示すことが出来る。しかし、それらの間に意図性や因果性を認知するのはヒトに固有の能力である。明らかに物理現象の因果性の認知は他者の意図性の認知に起源を持つと思われる。

2月2日(土):
    チンパンジーの学習や文化の継承は、行為の模倣ではなく、その結果に焦点を当てた学習である(エミュレーション学習)。同一の結果を齎す行為が2種類あって、一方が効率的で、他方が非効率的であるとする。チンパンジーの赤ちゃんでは効率的な方が学習頻度が高いが、ヒトの赤ちゃんは両方とも同様に真似して覚える。つまりヒトの赤ちゃんは結果を観察してではなく、行為する他者そのものの意図を理解、同化して模倣学習をしているのである。コミュニケーション手段の学習も同様であり、チンパンジーの赤ちゃんと母親の間で生成してくる合図の体系はその個別の関係の中からしか生まれて来ないから、それぞれのペアで異なる。個体発生における儀式化であって、模倣学習ではない。ただしヒトの社会の中で育ったチンパンジーは模倣学習を示すことが知られている。これはヒトの社会では他人と自分と対象物、という指示の3者関係(共同注意)があるからであろう。このような模倣学習は確かに当面の目的に必ずしも最適であるとは限らないが、それを身につけることで、その個体は新しい環境に晒され、その学習行為を改良していくことが出来る。何の意味もわからずに九九を覚えてしまい、それが高度な算術の役に立つということである。こうして改良された行為が次の世代に引き継がれていく。「累進的な文化進化」が可能なのであって、この仕組みによってヒトは驚異的な速度で「文明」を築いてきたのである。また2人以上のヒトが共同で作業をするときに生まれる改良も同様に他者の意図を理解し、まずは行為を真似てみる、ということでその改良が生まれてくるのである。言語というものも、その共同発明であり、お互いに使うことで、進化していく。自立語が文法標識に変化したり、冗長な談話形式が無駄のない統語的な構文へと固定化される。数学も同様であるが、その役割は言語ほど普遍的なものではないために、民族間でその発展形式に大きな相違が見られる。

2月16日(土):
    トマセロの本は、その後断続的に読んでいる。類人猿とヒトとの相違が、他者の意図を認知するところにあって、そこから全てが演繹される、というのが荒っぽく言えば彼の主張である。生き物を生き物として認知する、という意味では、この他者はこういうときにこういう行動をとる、とか、こう仕掛けたらこう反応するとか、そういった過去の経験の類型化と記憶は類人猿との共通項であるが、そういう認知の中に、「意図」と「行為」の仕分けを持ち込むところがヒトの特徴ということになる。ヒトについてそうであることは誰もが納得するが、これは主観的にしか確証できないのだから、類人猿がそうでない、というのは必ずしも納得できないのではないだろうか?勿論いろいろな実験例を持ち出して、トマセロは説得しているが、それらはあくまでもヒトから見てそうであるに過ぎない。というか、われわれはチンパンジーにはなれないし、なったとしてもヒトと学問的な話は出来ないのである。しかし、実を言うと、こんなことはどうでもよいのである。われわれはヒトの事を知りたいのであってチンパンジーがどうあろうと構わないのだから。そして、このような見方は結局ヒトにしか出来ないのであって、神の立場から見てどう見えるかについては、一切判らない。

    さて、そのヒトの認知能力の特徴は生まれて9ヶ月後前後にはっきりと生成してくる。その間のプロセスの因果関係はあまり明瞭ではないが、関連したいろんな赤ちゃんの行動から、それが裏付けられる。これを「9ヶ月革命」と呼んでいる。たしか、バラバラに動いていた手足が一旦動きを止めて整合的に動き始めるはもう少し前(2〜4ヶ月後)であった(多賀厳太郎 )。ヒトは自動歩行装置を持っていて、赤ちゃんを支えてやると2〜4ヶ月までは自動的に歩き始めるが、それ以降になるとそういう反射は無くなって、「意図」を持って歩き始める。そしてこれはチンパンジーについてもいえる。(日本ザルではそういうことは無い。)要するに運動機能の統合が大脳によって行われるのである。リーチングもその頃に始まる。

    しかし「9ヶ月革命」においては、他者を「意図」を持った存在として認識し、それによって自己の「意図」を意識するのである。そのあいだの繋ぎには当然自己を他者に映して認識する、という本能が無くてはならない。そのような本能があるのかどうかは判らないが、そういう説明をするしかない。具体的には、まず大人が注意を向けている近くの物を注視ようになり、約2ヶ月後に大人の視線を追従して遠くにある物を注視できるようになり、更に2ヶ月後に遠くにあるものに大人の注意を向けるために自分で指差すことができるようになる。自然状態のチンパンジーの赤ちゃんにはこういうことは起きないが、ヒトが育てるチンパンジーにはある程度起きることが知られている。さて、自己の統合というのは、どんな動物にだって必要なことである。そうでないとまともに生きていけない。動物はそれによって過去の経験を現在の行動に生かす事ができる。しかし、ヒトでは自己の統合が起きる前に、あるいはそのプロセスにおいて他者と自己の同一化が生じるのである。これが本来的に他者との同一化の傾向を持つためなのか、それとも赤ちゃんの時間が長いからなのか、は僕には判然としないが、自閉症の傾向を持った子供達にいろいろな程度でこのような他者認識が困難であるのはよく知られているから、かなりな程度この他者認識の傾向は遺伝的に決まっているのであろう。少なくともヒトは自己の意識というものを他者の意図として取り込んでいくのである。いわば、自分の動物としての自然な行動を他者の行動の観察の中で得た「意図」と「行動」の因果関係に投影して記憶の中に整理していく、ということである。「意図」の意識というのは物質科学的にはわれわれの主観と異なり、行動の後で生じることはよく知られている(リベット )から、あくまでも自らの行動の整理なのである。科学的に想定される「意図」を探っていくと所謂「無意識」を認めざるを得なくなる。赤ちゃんは精神分析学者として振舞っている。

    アフォーダンス の認識についてもヒトの赤ちゃんには特徴が見られる。動物は全て自分と物との関わりの中から自然発生的なアフォーダンスを物に割り当てていく。しかし、ヒトは他者がそのものを扱うやり方を真似することから「文化的な」アフォーダンスを割り当てる。この2つのアフォーダンスは一致するとは限らない。それらを区別して扱うことは子供の「ふりあそび」「・・・ごっこ遊び」からも充分推定できることである。そこでは感覚運動的に捉えた物が大人の世界での意図に沿う物(道具)に見立てられて使われる。しかも子供はその区別を知っていて、大人に提示している。これこそ、子供が大人の「意図」をその「行為や対象」から切り離して認識し、「行為や対象」の代替品を自分で意識的に見つけている、という究極の「真似」遊びである。ここから「記号」が生まれてくる。というより、「記号」を求めるようになる。記号は自分で勝手に作るものではなく、大人の真似をして覚えていくものだからである。

    記号は、社会的な「間主観的な」共有物であって、しかもそれが指す現象や物の特定の解釈である。「特定の」(文化依存的な)解釈であるから、記号は「視点依存的」である。子供が記号を学ぶということは、この視点の中に自分を置くということであり、そのようにして子供は世界を内面に取り入れていく。勿論感覚運動的に世界を内面化していくことも並行するわけであるが、ヒトにおいてはそれよりも、大人の視点で世界を内面化する方が早く進んでしまう。そして、この記号学習は「9ヶ月革命」が終わっていないと始まらないのである。何故なら、大人の発する言葉が何を指しているのかは、大人の「意図」を把握しない限り判らないからである。言語の指示機能というのはその指示対象を指示する、ということではない。そうではなくて、ある人間が別の人間の注意を世界の中の何かに向けさせようとする社会的な行為である。だからこそ、言語は(第一言語は)共同注意場面の中でしか伝承されないのである。トマセロはこのことをいろいろな制御された「言語獲得実験」で統計的に実証している。

3月6日(木):
    子供が言語体系を取り込むようになると、様相が一変してくる。言語記号にはそこに体現された視点が張り付いていて、言語を使うということは社会的に形成された視点に立つということである。また言語はその視点を変えるための規則構造を内包しているために、子供はいろいろな視点を選択できるようになる。場合に応じて物のアフォーダンスが変わる。これ自身は動物でも同じことであるが、言語のもう一つの特徴は相手がある、ということである。私の視点だけでなく、相手の置かれた立場や理解の状況に応じて言語は変化する。こうして、言語は相手のものでもある。言語記号は他者に知覚・概念的状況についてのある特定の解釈をさせ注意を向けるために使われる。どのような場面に対しても、それが同時に何通りもの視点から解釈できるということであり、空間に存在する物体から切り離された存在として世界を眺めることを可能にさせる。

    子供の言語獲得はかくして、認知の発達と対応している。9ヶ月には共同注意(意図の認知)が始まるが、言語はまだ獲得していない。14ヶ月には場面の記号化が始まり、対応して一語文が使われ始める。18ヶ月には場面を出来事と参加者(物)とに分離識別し、22ヶ月には参加者(物)を記号的に表示できるようになる。ここで統語的な表現、動詞の島構文が使われる。これは個々の動詞ごとに関係する者(物)を纏める構文であり、まだ一般化されていない。36ヶ月になると、場面自身のカテゴリー化によって、参加者(物)の意味や役割の一般的な記号的表示がなされる。この段階で動詞に共通する構文が使われるようになる。しかし、このような記述だけでは言語の特徴を充分述べたことにはならない。言語は個々の状況において、個々の自分の状況と個々の相手の状況によって使い分けられなくてはならない。自然言語が決して数学的論理で説明できないのはその為である。自然な会話においては語用論が重要となる。子供はそのような複雑な習慣を大人や子供同士の談話の繰り返しの中で試行錯誤的に学んでいく。こうして、他者の意図や心が自分の意図や心と違う、ということが判るのは大体4歳頃である。

    自然科学の立場で「心」を捉えようとすると、身体と脳の生理学に始まって行動と発話を介した他者との社会的交流の全体像の中に辛うじて浮かび上がるかどうか、というものになる。主観を存在として認めてしまえば、「心」は最初からそこにある。誰もがそれを否定しないから、それで済んでしまう。飢餓感や恐怖やらの基本的な感情は身体的なものであり、それに囚われている、という表現がぴったりする。ただ、それを意識する、ということはおそらくまた別のことなのだ。そしてこの意識というものが、他者の同化的観察と物まね能力によって、生まれてくる。見るにせよ聞くにせよ触るにせよ他者を認知するということが意識の始まりである。認知しているということは意識されない。むしろ認知が意識である。認知された他者は自分に置き換わる。というよりも意識の上では最初から他者と自分の区別はない。痛い、悲しい、嬉しい、という他者の様子を認知することで我々は自らの痛みや悲しみや喜びを意識する。他者の扱う物や事に対しても同様である。そこでは動作主と対象物の関係性が意識され、自分と対象物の関係性に置き換わる。言葉はその中で生まれ、関係性を象徴する体系として発達し、意識を自意識たらしめるために決定的な契機となる。それまでは意識の中に他者と自分との区別は無かったものが、言葉を仲立ちとして具体的な他者との競合関係に遭遇することで他者の心と自分の心の分化が生じる。勿論動物行動学的には最初から自分と他者は別物である。しかし、意識の上でそれが別物になるのは4歳頃である。

    かくして結局「心」の科学的記述やその働きの因果関係は生理学的要因から脳神経的要因、更には殆ど自動化されてしまった本能的要因、それらを齎した個人と社会、民族の来歴全てに関わってくる。言語体系というものの中にこれらの全ての痕跡が残されていることは確かであるが、かといって言語だけでは捉えきれない。

    言語だけが意識ではない。言語化できない意識がある。しかし、成人は言語の構造を利用して自分の意思を扱うことが可能となる、という意味で言語は特別である。これが思考であり計画である。言語によって自分が取り得るさまざまな立場を想定し、身体をそのように置きなおすことが可能となる。動くときには確かに動きへの直接的な意志は意識できない。しかし、動くための想像を巡らすことは出来る。自分の行動が他者の目で見てどうなっているべきか、ということを言語の助けを借りて想像することが出来る。そこに身体を投げ出すという意志そのものは思考とはまた別物であり、われわれの意識には遅れて到達する。思考は脳の複雑な回路を導くための導線を与えるに過ぎない。リベットの実験では被験者は何時でも手を出すように準備している。被験者は実験が始まる前から手を出すという思考を行っている。しかし、何時手を出すかは気まぐれに任せている。その気まぐれが生じた瞬間を意識するのは既に手が出た後なのである。予め思考しておいた内容がその人の意志だとすれば、意志は行動の前にあったことになるが、正にそのときに手を出すということについての意志だけを意志と考えれば手を出すという行動を意識的には制御していないことになるから、意志などは行動の原因ではないということになる。結局のところ、行動への直接の意志は意識の制御を外れているのである。意識の出来る事は具体的な行為の為の予行演習であり準備までなのである。自らの身体動作についての多くの経験を言語化して対応つけて整理しておくことによって言語による身体動作の予行演習が可能となる。これが自由意志というものの正体である。しかし身体動作そのものが成功するかどうか、そもそも身体動作が行われるかどうかはある程度確率的な現象である。だからこそ身体動作の為のリズムやタイミングが重要となる。それは動作のタイミングを習慣付けることによって間違いないタイミングで動作が起きるようにするための訓練である。殺人が罪に問われるのは殺す瞬間の行為そのものがその人の直接の意志だからなのではなくて、殺すように自分の身体を訓練しているその思考内容が罪だからである。しかし思考内容を客観的に判別することは不可能であるから、行為から推定するしかない。かくして、やや象徴的に言えば、言語無しには罪も存在しない、ということになる。

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