2002.02.02

      出張帰りの電車で金谷武洋の「日本語に主語はいらない」(講談社)を読んだ。そういえば国語の時間に出てきた日本語文法の話はすっきりしなかった。特に主語を規定する助詞がそうだし、語順にしても。これが実は明治時代に英語文法に倣って作られて日本語に強制的に当てはめたものであることを知った。

      高島俊男の「漢字と日本人」(文春新書)では、外来文化と書き言葉が漢字として日本に受け入れられたという経緯から、漢字を道具として使っているうちに、いつしか漢字の字面を想起しない限り語の意味が判らないという特異な言語になったということであった。この傾向は明治期に米欧の新しい概念を翻訳するときに強制的に当てはめたために加速された。混乱の主因としては日本語の母音の数が漢語に比べて非常に少ない為に同音異義語が膨大な数になっていることが関係している。かな−漢字変換の時にこれは実感する。したがってもしもヤマト言葉で米欧の新しい概念を翻訳したとしても長ったらしくて使いづらいものになっていたには違いない。(しかし時々は試みてみるのも面白い。たとえば「夫婦」を「つれあい」と表す事でずいぶん印象が変わる。)同音異義語が多く、特に概念的に抽象的な語がそうであるから、日本語では演説や講演を論理的に組み立てようとするとどうしても状況説明の為の文章が多く必要となる。簡潔にしようとすれば漢字を表示して視覚に訴えるしかない。演説よりは読み書きに適した言語なのである。ただし感情表現については日本語は優れている。最近はアルファベットをそのまま使って概念を表すという傾向が出てきたように感じる。カタカナ表記でも今までの日本語になかった母音や子音が追加されてきている。しかし今まで使ってきた漢字表記の方はそのままにしているから、これとの関係がまた判りにくくなってきている。

      「漢字と日本人」が国策言語の語彙版であるとすれば、「日本語に主語はいらない」は国策言語の文法版である。ここで主語と言っているのは意味論的な主語(動作や状態の主体)ではなくて、形態論的(文法的)な意味である。文法的に主語を同定するためには主語が必須の要素として文中に存在しなくてはならず、それは述語が主語に相関していることが決め手である。米欧語では述語が主語の性数によって語尾を変える(屈折)ということがあり、主語が決まらないと述語の形が決まらない。昔から主語が在ったわけではなく、屈折だけでその述語の主体を区別していたのであるが、第三者を主題とする際に屈折している内に私とあなたの明示を伴うようになったのであろう。この辺の主語の発生については述べられていないので、また別の研究を見る必要がある。日本語は主語が必須の要素ではなく、述語だけで文章が成り立つ言語である。主語とされてきた要素は「が」という助詞を伴う語句であるが、これは「を」とか「の」とか他の助詞を伴う語句と同等の扱いを受けるという意味で単なる修飾要素(意味限定要素)である。こうしてみると、言語というのはそもそも述語が中心であって、米欧語(インド−アーリア語属)では述語の主体という修飾要素に対してだけは述語が形態を変えるという特徴を持つということである。しかし述語の修飾要素には述語が動作の場合にその動作の対象を示すものもあり、場所を示すものもあり、といろいろな種類があるので、それらを互いに区別しなくてはならない。この区別は米欧語や中国語では語順であり、主体となる要素は述語の前に来るし、対象となる要素は原則として述語の後に来る。(ただしこれについてはいろいろな規則が言語によってはあるし前置詞を伴えば特に語順を限定する必要もなくなる。)こうして主語が必須の要素として定着すると、それまでになかった私やあなたに相当する機能語が新しい符号として登場する。これが人称代名詞である。米欧語を学ぶときは人称代名詞と動詞の関係を徹底的に暗記して、その関係を文中で構築するという意識が常に必要であるし、動詞の語尾変化がそれを助けている。日本語や韓国語では助詞で区別するので語順をあまり気にしなくてもよいが、原則としてはどの要素も述語の前に来る。主語は無いので人称代名詞も無い。「私」や「あなた」や「彼」は単なる名詞である。(他の名詞と何ら機能が変わらない。)日本語では主語はしばしば省略されるのではなく、最初から主語は無いのである。動作主体を特に区別したければ、助詞の「が」をつけて述語の前におけば良い。それが無い場合は状況から判断されるしかないが、そもそも日本語の発想としては動作や状態の主体が想定されていなくて自然になるという意識が最初からある場合が多い。(責任の所在が不明瞭ということでもある。)中国語(北京語など漢民族の言語)では助詞を原則として取らないので、語順は厳格に守らないと意味が通じない。同じ語が名詞にも動詞にもなるのでなおさらである。

      主語の有無に関係しているが、助詞の「は」については特別な取り扱いが必要である。これは単文を超えて話題を提示するときに使う助詞である。詳しく表現すれば、「についてですが、、、」という意味で使われる。聞き手の意識をその語に引き付けておく為の表現であって、主体でもいいし、動作の対象でもいし、要するに何でもいい。文とは独立しているので、後続の文にも影響する。

      さて、以上の事は江戸時代には既に良く判っていた事なのである。明治になって以上のような事実(国学者の仕事)が無視されて、日本語もまた米欧語の文法に従わねばならないという要請によって今日の学校文法が作られた。金田一京助や三上章といった一部の学者はこれに反発したが、現在まで不自然な日本語文法が教えられているばかりか、実害は無いとは言えチョムスキーの生成文法を日本語に適用することが流行している。あるがままを観察するという事が忘れられている。日本語を外国語として学ぶという実践が無い限り、文法というのは解釈だけの問題になり、学んでも忘れるだけで済むが、外国語として効率よく学ぶにはやはり文法が必要である。金谷氏もカナダのケベック州(フランス語圏)で日本語教師をしていて、学校文法に従うと奇妙な日本語が出来てしまうので仕方なく過去の文法に戻したという事である。

      金谷氏の新規な考えが次に展開される。それは目的語に相当する領域である。米欧語では直接目的語を取る動詞(他動詞)と直接目的語を取らない動詞(自動詞)の区別がある。これも主語の議論と同じであって、動詞の意味の区別にしたがって目的語という構造上の要素が生じている。しかし日本語では助詞「を」の付いた語句を目的語として同定してみても同様な法則は成立しない。また米欧語では他動詞からは受け身形が出来るので、これも自動詞との区別の指標になっているが、日本語では自由自在である。述語だけで文が成り立っているという日本語の性格から見て、意味の上からは明らかな区別のある自動詞、他動詞を整理する法則は無いのであろうか?あれば学習者にとって有益であろう。それは受け身−自動詞−他動詞−使役という文法用語でいう態(voice)の軸で捉えると判りやすい。米欧語では受け身を表現するのに特別な動詞を助動詞として使っている。英語では be動詞であるし、仏語ではetre動詞であり、いずれも存在を表す。また使役を表すにも同様であって、英語ではhaveやmake等、仏語ではfaire(英語のdo相当)が使われる。英語でdoが使われないのは他の用途にもdoが多用されているからである。(また米欧語では自動詞の語彙が少ない為に他動詞と再帰代名詞を使って自動詞の代用をする事が多い。起こすという意味の他動詞は仏語ではreveillerであるが、起きるという意味では se reveiller とする。ここで se が再帰代名詞の三人称単数形である。「起きる」という意味で「自分を起こす」と表現する。日本語でのこの「自分」は再帰代名詞とは言わない。明らかに「起きる」という表現が普通であるから。再帰代名詞は日本語には無い。)日本語でも実は同様であって、受け身では「在る」、使役形では「する」が使われている。ただし、語尾に融合しているので活用形の様にしか見えないだけである。 この両極の態に対して日本語の自動詞−他動詞は間に位置づけらる。こういう風に位置づけられた趣旨は日本語の自動詞と他動詞が自然と人為の対比を表すからである。受け身形は米欧語の受動態の意味(単に能動態の言い方を変えただけ)ではなく、自然に為ること(自動詞)の延長として更にその事に対して為すすべも無く在るという意味(無力感)やお任せするの意味(尊敬)を担っている。逆に使役形は人為的な行為(他動詞)の延長としてその責任(行為者)を意識させるという意味を担っている。日本語の自動詞−他動詞がこのようなものであるから、行為の対象を明示するしないは本質的では無くなってしまうのである。(この点は西欧的な論理を日本語で表現しようとするときに曖昧になりがちなので注意を要する点である。)さて元の動詞が上記の意味で意味論的に自動詞であろうと他動詞であろうと、対応する他の態の形に変換する法則がある。別の言い方をすれば変換された態との比較において自動詞、他動詞が定義される。以下便宜上動詞の連用形で考える。

    1.連用形で語尾に i 音が来る場合と e 音が来る場合がある。それぞれが自動詞である場合と他動詞である場合があり、これが語に依ってまちまちであるが、語の本来の意味からいうと i 音が来る場合の方が本来的で在る事が多い。例えば、「立ち、」や「縮み、」が自動詞で「立て、」や「縮め、」が他動詞であるが、本来的にその動作そのものは内部から自発的に起こる事を意味しているので前者が先である。逆に「焼け、」や「砕け、」が自動詞で「焼き、」や「砕き、」が他動詞であるが、これは元々は他からの働きかけで何かが変形することを意味しているので後者が本来的な状態である。

    2.大部分の動詞は本来的な状態が他動詞から自動詞に変わるときに語尾が i や e から ari に変わり、自動詞から他動詞に変わるときに i や e から si に変わる。すなわち動詞の本来的状態(発生状態)から受け身の方向(自然に為る事を強調)に変化するときには「在る」の連用形を語尾に融合させ、使役の方向(人為的に為す事を強調)に変化するときには「する」の連用形を語尾に融合させている。前者の例としては、「敬い、」や「教え、」や「変え、」という他動詞から「教わり、」や「変わり、」という自動詞に変化する。後者の例としては、「通り、」や「出、」という自動詞から「通し、」や「出し、」という他動詞に変化する。

    3.自動詞が ri で終わり、他動詞が si で終わるという例もある。例えば、「回り、」や「渡り、」が自動詞で「回し、」や「渡し、」が他動詞である。

    4.これらの変化の先には受け身形として語尾が (r)are となり、使役形として語尾が(s)ase となる。上記の例では、「立たれ、」「縮まられ、」「焼かれ、」「砕かれ、」「敬われ、」「教えられ、」「変えられ、」「通られ、」「出られ、」「回られ、」「渡られ、」が受け身形であり、「立たせ、」「縮ませ、」「焼かせ、」「砕かせ、」「敬わせ、」「教えさせ、」「変わらせ、」「通させ、」「出させ、」「回らせ、」「渡らせ、」が使役形である。

    5.上記の例からも推察出来るように、自動詞から受け身形への意味上の変化も他動詞から使役形への意味上の変化も連続的であり、どちらとも解釈できるような場合があるし、これらのいずれかが使われない場合もある。自動詞または他動詞の内、意味上でいずれか一方しか無いかどちらとも言える場合(「食べ」とか「飲み」とか)は単に動詞と呼ぶべきであると金谷氏は言うが、文法上語の対比関係で定義するとすればそういう事になるであろう。この場合助詞「を」を伴う語句があろうが無かろうがそれに拘るべきではない。以上の例を含むように図示すると以下のようになる。

        無為・自然に為る事←                   →人為的・意図的行為
           (r)are--------ari-------i      i--------si--------(s)ase
                                      ×
                                   e      e
態      受動・可能・尊敬・自動    自動    他動     他動       使役

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