2007.01.28

    「ヒトはいかにヒトになったか」正高信男(岩波書店)は彼の研究対象であるテナガザルと赤ちゃんを結んで出来た本である。テナガザルは音楽的なフレーズをいくつか持っていて、それらを組み合わせて啼くことが出来る。しかも掛け合いのようにしてオスとメスとが「即興演奏」をすることが判ってきた。勿論目的は縄張りの確保など、生存に意味があるが、その学習の過程を見てみるとヒトの赤ちゃんと同じように親しい関係者を真似しながら学ぶのである。事情があって人間が親代わりになると、人間から学ぶ。いくら周囲のテナガザルが啼いていてもそれを真似たりはしない。音の継起に対しても多くの類人猿で協和音的な音楽への好みが見出されている。このように、類人猿のレベルでは音楽的なコミュニケーションが一般的であるが、そのうち、その中から気にいった一部を切り出して啼くことができるようになる。子供が言葉を覚えるときには、いろんな音調を真似しては発音してみる。そして大人の反応を見て習慣付けるのである。

    しかし、言語という意味でヒトを特徴つけるのはやはり音調の文節化とその組み合わせの能力である。文節化には特異的な遺伝子が必要であるということが最近判った。それは約10万年前に現世人類に広まったのである。一言で言えば、息を細かく止めることで次から次へと短い発音を繰り出すための喉と舌の制御能力である。この運動性の言語中枢は発声だけに関わるのではないことも判ってきた。人の行動を見ただけで運動性の言語中枢が活動する。これによって、人は他者の行動を自分の行動に照らし合わせて理解するのである。要するに、言語の本質は、外界にある事物を客観的に表現することにあるわけではない。また文法構造によって複雑な内容を表現することにあるのでもない。そのような言葉は口先だけの言葉である。言葉によって相手の気持ちを汲み取ることが出来なければ何のための言葉か?それ以外では達成不可能な、参与者の共感を齎すことにこそ言語の本質がある。つまり、他者との共感のための手段なのである。そういう観点から見ると、発声の音調やリズムは言語の共有された客観的な意味よりも重要である。そもそも客観的な意味という概念自身が明確に定義できるだろうか?意味は行為の中でしか顕わにならないし、子供が言葉の意味を獲得するプロセスは行為の中なのである。外国語を覚えるときには自国語で記された単語帳があるが、そんなものは第一言語習得時には存在しない。

    言語にはまた聴覚刺激に対しても明瞭に音素として区別する能力が必要である。音素というのはけっして決まった音ではないが、それをカテゴリー化するように学習されるために、中間の音素というものが認識できなくなるのである。このような学習能力は霊長類以外にもあることが判っている。しかし、それが本格的に賦活されるのはヒトが音調の複雑な文節化を成し遂げた後である。これが進みすぎると逆に外国語の学習が困難になることは周知の通りである。音素の体系化は文化によって異なるからである。

    鏡に映った自分が自分であると判るのは 2歳からである。これはチンパンジーでも可能であるが、3〜4日かかる。ニホンザルでは自ら進んで鏡に興味は持たないが、たとえば餌を置いてやるとかすると、鏡の特性を利用できるようになる。しかし、鏡に映った自分はあくまでも他の個体としてしか認識しない。もっと進んで社会的な意味での自我が出来上がるのは小学生になったころである。誰もが自分と同じ主体性を持っていると気づくには、どうしても共感が必要である。これはヒトだけの特性(言語中枢なしでは生まれない機能)であるらしい。他人がする行為に伴う感覚を自分の感覚として理解することで、自分の行為を見て他人が感じる感覚に思い至ること、こうして自分を他人の目で見ることができるようになる。これが自我である。これは感覚についても言える。痛みは幼いころ周囲の大人が自分の怪我に対して「痛いね」ということによって痛さを意識するのである。動物は痛くても痛みをあまり感じない。

    知性の話も面白い。「数を数える」ということはヒトだけでなくライオンなどの高等哺乳類でもできることが判ってきた。これは敵と味方の数を比較することが必要だからである。実験室ではネズミを使って検証された。何回か同じような餌やりを繰り返して、何回目かに餌をやらないとすると、その何回目というのを覚えている。しかしこれは数えているわけではない。ヒトでもそうであって、ほんの少しの時間の視覚刺激で、数えなくてもある程度の個数の大小関係や足し算引き算の目安が判るのである。これは数的把握そのものが言語なしに直観的になされているということである。聴覚障害者に対して、自分の知らないアメリカ手話での数提示を見せたときと、それが数を意味するという風に教えてから見せたときの脳活動の比較から、活動域の差を分析することによって、活動差は言語野だけでなく、左右両半球頭頂葉と左半球前頭葉内腹側部にもあることが判った。ここに数認識部位がある。健常者では実は自分の知らない言葉の学習が難しくて、このような実験がなかなか上手くいかないらしい。聴覚障害者で判ったもう一つのことは、個数の視覚的刺激から直感的に数を捉える能力が健常者よりもはるかに優れている、ということである。ただし、言語的な計算は劣っている。それは一時記憶がどう使われるか、ということであって、聴覚障害者は一時記憶を視覚刺激のために使っているのである。すなわち見たままをスナップ写真のようにしばらく記憶しておくことができる。この能力は他の類人猿でもあるが、ヒト健常者で著しく退化する。なぜならば同じ領域が聴覚刺激のために転用されてしまうからである。これが言語を認識するための適応であったことは言うまでもない。一時記憶の活用としては、ある意味で視覚刺激の方が聴覚刺激よりも便利である。なぜならば、視覚刺激はその中から部分を自由に切り取ってくることができるのに、聴覚刺激の一時記憶はあくまでその時間順序でしか引き出せないからである。しかし、この時間順序でしか情報を再利用できない、という制約が因果関係の認識、というか解釈の好み、へと向かわせたと考えられる。2+3=5というのは、それまでは本当の等値関係として直感的に認識されていたのに、時間順序を以って認識されると、2+3が5に為る、という因果関係としての認識に変わるのである。数えることの言語化である。それは行為化といってもよい。この習慣は更に発展して、事象に対してもその原因を求めるという性向ができ始めた。言語における「文法」も実際の自然な適用においては、この因果関係の自然さに従うことが判っている。例として連想照応がある。英語の定冠詞 the の使い方である。直接その名詞が登場していないのに、聞き手と話し手の間で状況から判る場合には定冠詞が付かないとおかしく感じる。

    最後の章は文化である。だんだん議論が怪しくなってくるが、まずは、ニホンザルで見られる文化の伝承とヒトに見られる文化の伝承の違いがどこにあるか?ニホンザルの場合は文化的行為そのものを真似るのではなく、行為への興味からその場に近寄り、同じような行為を偶然することによって、その効用を悟る、というプロセスを辿る。行為そのものを真似ることは言語的な脳でしかできない。さて、このような社会的学習はもう一つの側面として、他者の行為に対してそれが自分の学習した行為かどうか、という価値判断を伴うものとなる。これは同じであれば快、違っていれば不快というのが基本的な反応である。共通の行為のセットが出来上がり、それを社会的学習によって同じくするグループが生じてくるのである。こうしてヒトは数多くの部族集団に別れていく。言語は隣り合っていても敵対する部族間では通じ合わないように進化する。そのような集団間の違いも言語によって明証的に説明し尽くす、というのが次の段階である。ヒトは説明できないことが起きるとパニックに襲われる。交通事故にあっても意識がある場合のほうが無い場合よりもより軽症で死亡するのはそのためである。意識があるために却って自分の置かれた状況を説明しようとしてパニックに陥るためである。ともあれ、ヒトは他人に対してなぜそのように行動するのか、という説明を思いつかないと落ち着かない。あれはその人の子だからとか、最近では血液型がどうだとか。しかし、どうしようもない存在は自然であり、他の動物である。これらはなかなか説明が難しいのでやがて「神」として祭り上げてしまった。そうして何らかの礼拝行為によって心理的不安を払拭するようになったのである。共通した行為のセットを持つ集団は当然共通した「神」のセットを持つ。そしてそれを確認することが集団の結束にとって不可欠となる。こうしてみると、言葉の持つ「恣意性」というのは宗教についてもいえるのである。集団の中には神の意志を伝える者、霊能者が必要となる。彼らは現代風に言えば解離性人格障害者である。歴史が積み重なるにつれて、その中でも大きな影響力を持つ霊能者、教祖の言行は記憶され伝えられるようになる。その教義は森羅万象を説明し尽くすものでなくてはならないから、伝える人々は解釈を加えていって大きな宗教体系が形成される。近代科学もまたその一つの形態であるといえる。実際、神の創り賜うたこの世は時を経る内に枝葉が茂りその本質が見えなくなってしまったから、神の使命によりそれを払いこの世の構造を白日の下にさらさねばならない、というのが字義通り実証主義(positivism)科学の主張であった。神がありその下に人間があり、その下に人間のための自然がある、という世界認識。したがって人間は自然の仕組みを究明して神の志を知り、それを利用し尽くす権利と義務がある。一方で教会は自然科学の営為に対して自らの教義を守ろうとしたところに限界が生じた。科学とキリスト教の対立はこうして見かけのものとして存在するが、それは実際上の問題として神を抜きにして技術を適用し自然を改変しつくすという方向に向かいつつある。神を無視するということはつまり未知なる物への崇拝の気持ちを失うことであり、人類全体にとって危険なことでもある。今日すでに生半可な宗教に頼るわけにも行かないが、幸いなことに自然はまだ豊かであり、未知である。それを知るのにもっとも有効なのが他ならぬ自然科学の研究である。とりわけ生物学的研究は人間に課せられた限界についての知識を提供してくれる。最終的に正高氏がたどり着いたのが、生物多様性ということで、自らの限界を知ることで相手を尊重するという発想の重要性である。
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