2000.08.26

ジーン・エイスチン「ことば、始まりと進化の謎を解く」

      ここの所言語についてのいろんな本を読んできたが、それらを深入りしすぎることなく、ちょっと距離を置いて分りやすく纏めてある感じである。最初の方の「言語にとって得意なこと不得意なこと」というのが主調である。「言語は実は伝達が得意な訳ではない。空間的情報と感情に関する情報を扱うのは不得意である。事実に関する情報でさえ誤って伝達される事がある。人は往々にして嘘をつくからである。嘘をつくと言うことは言語の本質の一つ、存在しない現象を扱うという能力の現れである。言語は社会的役割−社会的絆の維持、他者への影響力行使−を果たすのが得意である。」

      咽頭が下がると言うこと、赤ん坊が早く産まれて生後に脳が発達するという事は言語の発生にとって必要条件であった。動機としては人が社会的関係を維持する必要性があり、その中からいろいろな形で音声を使っている時期が長かったのではないかと推測される。その後、言語が言語として発生する為には名前を単一の事物に絞り込む事「命名意欲」への飛躍がまず必要である。赤ん坊では大体生後 18 ヶ月である。その上で単語の順序付けには言語より先にある存在論的カテゴリーが重要な役割を果たす。生物であるか、行為者かどうか、大きいか小さいか、といった存在論的重要性が語順に影響している。語彙は身体と周辺の空間の命名から出発して、それが周囲の環境を表現する様に拡張され、また心の中の概念を表す様にも使われ始めた。時間が経過しても同一性を示すものとして名詞がカテゴライズされ、急激な変化を表すものとして動詞がカテゴライズされた。空間的な関係を表すものとして付置詞(前置詞や後置詞)が主として動詞から派生し、時間的な意味に拡張された。属性は時間的な安定度からいうと名詞と動詞の中間にある。ある言語はそのために状態動詞を派生させ、ある言語は形容詞を派生させた。時制、法、相の発達については、西欧的な言語では動詞に付属させるような変化が見られる。これはいくつかの候補が出現して淘汰される。このような語と語の関係が意識されると、それは自己生成的に構造を作り上げる能力を獲得する。文は複文化し、単語は結合されて新しい単語を生成する。

      諸言語の間に普遍的に成立する法則を見出すのは意外に困難である。名詞と動詞の区別すら明確でない言語もあるが、それでも十分他の言語と同等の機能を果たしている。すなわち何か言語以前のものに駆動され、そのときに見出した表現手段が淘汰されて生き残ったものが現在の言語である。言語活動を制約する条件が言語の形を作っているに過ぎない。その条件の内で最も大きいものは母国語である。人は母国語の中に制約条件を発見するが、可能性としてはそれこそ無限の表現形があるという次第である。そういった現象の裏にある言語の本質は何か?言語は確かに社会的関係の維持のために人が自らの発声を利用して作り上げた手段である。他の手段に比べて幾らかの優れた特長を持つが、表現として、あるいは伝達手段として、更には思考の媒体として考えた場合、言語が全てではないし、言語よりも優れた手段もある。言語がこれら全ての手段として想定されたのは歴史的には比較的最近のことではないかと思う。少なくとも文字の発明が必要であった。文字に接してそれを復唱するということが、思考に言語的(社会的、責任とか自由とか)な秩序を与える。その代わり空間的秩序や情緒的秩序は幾分破壊される。絵も彫刻も数式も音楽も舞踊すらもある種の言語であると言えないことはないが、これらは明らかに言語的制約を踏み出した所に存在する手段である。また言語自身初期の言語的制約をカバーする様に自己増殖してきた。それでは言語的制約、言語的秩序とは何か?物事を分節し(あれとこれという風に区別し)順序だて、線的に並べて見ること。

      もう少し広く、自分も含めた世界を切り出して表象として操作すること、ということになると言語の制約をすこしはみ出す様に思われる。言語をそのような広い(万能の)意味で捉えているのは社会の中のごく限られた階層の人達である。したがって大多数の人達に伝えたいときには言語以外の手段が必要になる。言葉の意味が言葉だけで伝達されるのはあくまで可能態としてであって、書き言葉ではある程度(風に飛ばされた花粉の様に)許容されても、話し言葉では対話無しには意味をなさない場合が多い。

      要するに言語にせよ、絵画にせよ、音楽にせよ、その守備範囲はどんどん変わってきているということである。一般的には拡張されてきているが、必ずしも本来得意な範囲ではないし、起源を考えるとき、あるいはその本来的な姿を考えるとき、誤解の要因となる。言語優位な人もいれば、絵画優位な人もいる。

      自分で反省してみても、気分とか精神的姿勢とが言うものは言葉よりも先にある種の音楽のフレーズやリズムで意識されることが多い。例えばタチアナ・ニコラーエワの演奏のレコードでバッハのパルティータを聴きながら、あれこれ明日会う人との事を考えていると、ふと弱気になりかけた自分が素直に自分であれば良いと言う風に立て直される事があるが、そればあるフレーズのあるニュアンスがそのまま心の感じ方を作っている様に思われる。言葉は後からそれを解釈して、このような文章に仕立て上げる。ああこれはそういうことなんだという直観はこうして書いてみないとはっきりとした表現にはならない。行動は自分がそうしている姿として意識されるが、余程反省的でない限り言葉にはならない。車の運転もそうだし、物理の問題を考えているときは殆ど線画で心が占められている。こうしてみると言語というのは人に説明したり思考を自分の為に整理する手段として使われているのであって、思考そのものは言語を必ずしも必要としていない。言葉、特に書き言葉というのは、仮想的にせよ自己をそこに固定化して明確化し、意思と責任の所在を明らかにする、と言う作用があり、近代的自我を作り上げるのに有効である。

      言葉が全てではないし、言葉に囚われていては何も生み出せない、とはいえ、言葉にしない限り思考を整理し発展させることは難しい。言葉の得意とする事と言えば何でもかんでも繋いでしまえることではないかと思う。線的でありながら、言葉は他の言葉に繋がり、そこから別の思考が始まる。この発展性ということは、言葉の齎す恩寵である。書き言葉によってこの発展性が言葉に齎され、さらにカードやらパソコンやらによって、利便性が拡大された。もっとも作曲家は音楽を操作発展させるし、画家は絵を使える。しかし言葉ほど意味と離れて自由に繋がりあう、つまり操作できる手段は無い。要するに言語は他の’表現’手段に比べて、特権的な地位を占めている。すなわち他の’表現’手段を記述出来るということで、これは言語があらゆる事を直接的に名付けるからである。とりあえずそう言う風に表現しておくということが出来る。このとりあえず間を持たせるような使い方というのは言語の本来的に最も得意とするところである。とりあえず私はあなたの敵ではないということを伝えることとか、何となくこの人には逆らえないと思わせることこそ言語の本質的な機能であるし、これが拡張されて一見全ての精神活動が言語で代表される様に見えてしまう。しかし心を理解するには心が必要なのであり、それは言葉そのものではない。

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