1999.12.11
    東図書館で先週借りた”インディアンは手で話す”(渡辺義彦 編著)を読んでいる。大部分は個々の手話語の説明であるので、飛ばして面白そうなところだけ。手話への切っ掛けは赤ん坊の単語の組合せが現れる前に身振りの組合せという形で表れるので、おそらく進化の過程でも喉の構造が整備される前、ネアンデルタール人等は使っていたのではないだろうか?類人猿の例としてチンパンジーは有名であるが、ゴリラの赤ちゃんを育てながら手話を教えたという例が記述されていた。「ココ、お話しよう」(どうぶつ社)バーバラ・パターソン。

    モンゴル系である北米インディアンが手話と普通の言語の両方を使っていたというのも面白い。何となく古代日本で漢字と話し言葉という別々の体系を使い分けていたのと良く似ている。手話は細かく分かれていた部族を超えて会話するという広域的な機能があった。絵文字から表意文字への進化というのも手話が媒介したのではないだろうか?部族の間に秩序が出来て、言語の壁を超えるために使われていた手話が形をなしたものと考えられる。これが文字の始まりであるならば、いろんな部族が接触しあう機会が多く、それらが征服したりされたりして部族間の秩序が出来あがって行く地域で文字が発生したというのも理にかなう。やがて言語が統一されると表音文字でも事足りるようになるという事か?そう考えると、文字と話言葉は起源が異なるものであるという事になる。

    手話の「文法」は話し言葉とは異なる。話し言葉が一次元であるのに対して、手話は3次元であるから、助詞等は不用である。時間的な順序もそれほど重要ではない。空間的な位置関係を利用して文法が出来ているからである。手話の苦手な処は抽象的な単語である。これは手話のアイコン依存性によるが、例えば漢字に見られるような組み合わせを使えば拡張できるかも知れない。実際漢字の構造と手話とは良く似ている。また受身や使役のような力点をどこに置くかを表す直接的な表現が無い。総じて手話の世界には人間社会の階層性が余り反映されていない。手話における個々の単語は地域によって異なるが、基本的にアイコン的であるから、比較的インターナショナルなコミュニケーションが可能である。人は分節した精密な言語を獲得するに従って、アイコン的なあるいはインデックス的なコミュニケーションに鈍感になっている。子ども同士であれば、日本語で一生懸命訴えれば外国人に通じるのに、大人の外国人には通じないことが多いのもそのせいである。

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