2006.01.14

「二重言語国家・日本」石川九楊(NHK BOOKS)

    今日の言語を考える上で文字を補助的なものと見るわけにはいかない。もともと文字がなかった頃を想定してみても、その時の言語は今の言語とは異なる。文法規則さえ文字に影響されている。西洋の言語が文字をアラビアから輸入したときに既にフェニキア・ギリシャの文化水準は高かったからアラビアの象形文字を解体して表音文字が生まれたが、もともと成立していた話す言語を基本とした語彙の体系はさほどの影響を受けなかった。しかし、東アジアにおいては、中国が漢字という文字による言語体系を整備していて、その圧倒的な造語力で周辺地域に大きな影響を及ぼし、それを文字として受け入れざるを得なかった周辺地域は話す言語によって語彙体系たる漢字を修飾することで妥協的な言語体系を築いた。これがいわゆる膠着語と言われる。それは漢字という孤立語体系に対する防衛的適応であった。その後も語彙の供給を漢字として受け入れ続けた結果、多少とも日常生活を離れた場では、我々は話し言葉を使うたびに対応する漢字の形を思い浮かべざるを得ないという奇妙な言語生活を強いられている。本来の中国語においては個々の漢字に別々の発音が割り当てられているが、和漢字は音だけでは区別が付かないのである。駄洒落の材料には事欠かないが。

    石川氏は言語において話す言葉を基本としたソシュールには痛烈な批判を浴びせている。単に現時点での言葉を解読しただけで言語の本質を掴んでいない、という。誰が「差異の体系」として言葉を使っているだろうか?という訳である。石川氏はソシュール流に言うとパロールのレベルでの進化論的な意味合いに言語の本質を見ている。またチョムスキーの生成文法も抽象化された仮説にすぎないという。言語を一つの側面から眺めて整合性のある理論解釈の体系を築き上げ、それに合わないものは本質的でないと捨象する。まあ理論と言うものはそんなものではあるので、石川氏の考えもその内の一つであろう。

     西洋語が声帯の震えを感触として言語を紡ぎだすのに対して、東アジア語は紙に書くときの抵抗感を感触として言語を紡ぎだす。アルファベットと漢字を同列にしてはならない。漢字の一つ一つの扁や旁がアルファベットの文字に対応すると考えられる。西洋語においてはアルファベット文字が一次元的に並んで語を構成するのに対して、漢字においてはそれらが二次元的に集合して語になっていると見るべきである。西洋語の出来上がり方は時間的であり、音楽的な秩序に向かうが、漢字は空間的であり、形を志向する。書が基本にあり、絵画もまた一種の書である。音楽は本質的に詩として扱われている。文化的には、見ること(形への拘り、恥の文化)、手を使うこと(筆から箸へ)、線を基本とする美学(字画の描線の発展形)という3つの拘りが特徴的である。西洋におけるような形象から本質への深化とそれによる人工的な体系化はあまり志向されない。それはむしろ屁理屈乃至は野暮と感じられるのである。体系化するときにはむしろ極限まで簡略化象徴化されてしまう。そこでは論理性はむしろ排除されて形の美しさが強調されることになる。

     歴史としてBC200年頃(縄文時代)までの日本には統一した言語もなかった。その頃の言語は文字を持たなかったのでどんなものかすら判らない。文字はBC1400年頃の殷の時代に生まれた。BC200年には秦の始皇帝によりそれまでの古代宗教文字から政治文字(篆書)へと統一された。東アジア全域は文字の文化に浸されていくことになる。周辺地域では生活語以外はこの中国語の語彙体系の中に呑み込まれてしまうのである。弥生時代や古墳時代は中国の枠組みの中での辺縁地方として位置づけられる。漢委奴国王の金印や卑弥呼の貰った親魏倭王の称号は公文書に必要なものであるから、その証拠である。中央政府の冊封体系の中に組み込まれた一地方の官僚であった。

     650年頃南北朝時代を経て統一国家が誕生すると共に、それを真似て孤島が日本として、半島が新羅として中国から独立する。白村江の戦いはその象徴である。この敗戦を契機に誕生した国家日本は政治国家中国に対して脱政治国家とでも言うべき性格を持っていた。それは緩衝地帯に新羅が存在したことで成立したと考えられる。文字としては起送収という三折法によって楷書が誕生した。一つ一つの線において始まりと終わりを明確にするような書法である。国家を作った日本の官僚達は中国語を取り入れることで国としての体裁を整えようとした。仏教徒がその役割を担った。仏教というのは国家を挙げての識字運動であった。その中で中国語の翻訳表現として訓読みが、和語の中国語翻訳表現として音読みが、生まれ、それらを発音で表記するために万葉仮名が作られた。一つの漢字には漢語と和語の二重の意味が張り付いている。雨 を 「う」と発音するときと「あめ」と発音するときにはその意味が微妙に違うことに気づくであろう。それぞれが別の語彙体系の中にあり、しかも「う」という発音はもともとの中国語の発音のような差異性が希薄となっているから同音異義語と混同しやすい。こうして中国語を吸収する段階が進むと、漢字そのものの崩しの段階(嵯峨天皇、空海、橘逸勢)を経て、3種類の文字が生まれる(女手、片仮名、和様漢字)。女手は中国語の枠に入りきらない表現を受け持ち、片仮名は孤立語である中国語を訳するために生まれた辞(助詞や助動詞)を担当し、和様漢字は中国語を崩した表記の仕方である。もはや三折法ではなく漢字の表記は蛇行した独特の字体となっている(小野道風)。

     こうして1000年頃に日本語の骨格が出来上がったが、その特徴は極めて文学的であることである。政治語、思想語、抽象語はあまり消化されることもなく、中国語のままで残された。「天の思想」も「陰陽思想」も無視された。日本のおかれた地理的状況がそのような日本語の性格を形作ったのであろうし、それは今日に至るまで日本文化の特徴でもある。天皇が歌会始を執り行うというのはこの日本文化の本質がまさに和歌という二重言語体系の詩にあることを示している。言語的に見るとその後、鎌倉室町の時代には、一方で宋からの新たな中国語の流入(禅宗)と他方で鎌倉新仏教(親鸞、日蓮)による二重言語の大衆化が進展した。このことがその後の歴史を動かす政治勢力を作っていった。江戸時代の鎖国によって、二重言語は「成熟」するが、次の時代を切り拓く切っ掛けは西洋の文化の流入「蘭学」(片仮名)であり、これに刺激されて、二重言語体系の反省から「国学」(ひらがな)他方では「儒学」(漢語)が生まれる。

     明治維新後の正書法は江戸時代のような漢字と仮名の馴染みあった御家流ではなく、一昔前の楷書とこれまた一昔前の女手仮名の組み合わせになった。明朝体活字はその具現化である。西洋の概念が日本独自の造語として多くの漢字熟語を生み出し、これが中国に逆輸入された、ということは日本の近代化の東アジアにおける位置づけを象徴している。戦後に至って、西洋の概念は漢字化される暇もなく、片仮名がこれに充てられるようになった。いわばその意味や内容を吟味理解する暇も無いほど急速な概念の輸入を強いられたということである。

     小共同体が様々な交通を経て、上位に包括的共同体を形成したときに、その包括的共同体と下位の共同体との二重の共同性への複雑な帰属の運動がもたらした観念の疎外が宗教であり、神、天、主語、である。中国語の文字はこの垂直線の意識とそれを直角に横断する水平線の意識を具現化しているし、左右対称や鏡面対象や均一・均等の美学と意識もそこから生じてくる。一方、音写文字によって文字の中に垂直線を失った西洋では、キリスト教の神への話し言葉の形でこれを保持している。これらに対して、日本語の世界では、斜めの「流れ」と「傾き」と「間」が美学となる。天のはかりごとである自然と人間のはかりごとである人為を区別するという意識が希薄である。自然は四季として矮小化され、褒め称えられる。次々と外来する政治体制も思想も本来は人為であるにも拘らず「流れ」として把握されるから、身を任せるか抵抗するか、という意識しかなく、本質的に正しいかどうかを問う姿勢が見られない。漢字と送りかなの関係に象徴されるのは凭れあいである。「間」の由来は、漢字を使うときの二重性から一つ一つの言葉に対して反省せざるを得ない、ということであり、「間」というのはつまり現象からその裏を推定する心の働きである。

     言葉に形よりは内容を求め、論理性を追求する。その為に石川氏は日本の言語政策について提言をしているが、かなり難しいと思われる。片仮名使用の適正化と語彙の再構成と語彙制限の廃止(片仮名語を漢字化し発音を片仮名でルビとする。また漢字制限を撤廃する。)、縦書き化、毛筆教育の徹底化、出版物の再構築(図書館の充実)、日本語教育の再構築。縦書きとか毛筆教育とかは文字を書くという行為に立ち戻って言葉の本質を身体に滲みこませるためである。起源としてはそうかもしれないが、今更横書きワープロの利便性からは離れられない。

     石川氏の言うように日本の文化は日本語の特質を持っていて、あまり論理的な志向がないように思われる。論理学はアリストテレスを思うまでもなく、西洋において方法論として意識されてきた。インターネットで調べるとインドにもそれらしきものがある。主張が正しいかどうかを考えることは何も言葉とは関係ない訳であるが、それをある方法論に則って進めるやり方は西洋のものであって、我々はそれを輸入している。小学生の頃、論理的に複雑な(AND OR NOTの絡まった)問題が集合の包含関係で簡単に判ることを兄に教えてもらったことがある。それには確かに眼を開かされた思いがしたのである。考えるということにも方法論が必要なのである。ゲーデルの不完全性定理を俟つまでもなく、論理だけでは真実性は証明できないのであるが、少なくとも仮説を検証するためには仮説から論理的に実験可能な状況を導かねばならない。物理や化学や工学の世界では数学という道具があるが、それでも変数や定数の意味は言語で与えなくてはならず、日本語よりはやはり英語の方が頭が整理される感じがする。そういうときの概念はもはや日本語とか英語とかではなくて、中性的な科学的概念として意識されている。人間科学となると、まだ人間の言語に頼らざるをえないのかもしれないが、それでも訓練された研究者であれば、中性的な概念を扱うことになるのではないだろうか?(そういうことを想定すると吉田民人のやっていることも理解できるような気がする。)

石川氏の言うことはそういうことではなくて、日常的な問題に対しても一般的な人たちがある程度論理的な志向で現実を処理している、ということで、そうなるとやはり言語の性格は影響するものかもしれない。しかし、例えばこうして考えている今の自分を反省してみるならば、自分で記した文章の内容を要素としてそれらを吟味したり積み重ねてみたりしているに過ぎず、このような操作は日本語とか英語とかには依存していないように思われる。文章の内容さえ明確であれば良いのである。

結局、こういう個人的な反省操作ではなく、人と人の相互作用の中で論理を展開するときの容易さというのが言語の性格に依存している、ということであろう。確かにそうかもしれない。同じ内容でも、論理的な内容であれば、日本人に日本語で説明するよりは、米国人に英語で説明する方が、理解され易い場合が多い。また、予備校生の頃の小林秀雄の文章を英訳したときの何ともいえない失望感や、大学に入ってから、それまで小林秀雄や中原中也の訳でしか知らなかったアルチュール・ランボーの詩を原語で読んだときの雲の晴れるような気分を思い出してみると、思考や感情が言語に捉われるということも理解できるような気がする。

      記号としての恣意性というのは原理的にそうなのだが、個々の言語は歴史を背負っていて、その現在形を構造的に研究するだけでは、あまり役に立たないということであろう。同じ言葉にいつも同じ意味を籠めてはいないというのは、どんな言語体系でも言えるが、日本語の場合は特にそうかもしれない。論理的な内容を話すときに特に障害となるような気がする。例えば、吉田民人の文章は日本語よりは英訳、あるいは表にしてしまうとかした方が意味が明瞭になるのではないか、というようなことはあるだろう。個人的にも、学術的な内容について話した記憶は既にそれが日本語であったか、英語であったかは残っていなくて、ただ内容だけが残っている。それは何語なのか?概念の関係性としか言いようがないから、例えば数式になってしまう。関係性を関係性として記憶する、というのは研究者としての訓練によって獲得したような気がする。これでは確かにコミュニケーションとしては障害になってしまう。でも英語圏の研究者はより日常言語的に記憶しているのかもしれない。。。

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