2007.03.18

「日本語文法の謎を解く」金谷武洋(ちくま新書)

     以前の「日本語に主語はいらない」 とほぼ同様な趣旨であったが、多少クリアーで判りやすくなっている感じがした。復習には丁度良かった。

     日本語は徹底して「ある」を基本的発想とする言語であって、自然になるとかどうしようもなく存在する、という意識で表現が行われるから動作の主体や責任という意識が希薄である。動作の主体は指定されなくても文章が成り立つし、なるべく指定しないほうが自然である。動詞や形容詞はそれだけで立派な文章となり、主語をおく必要がない。動作の主体を表すときには修飾として現れるのみであり、その位置づけに応じていろいろな助詞(は、が、の、も、、、)が使われる。「する」はこれと丁度逆の扱いを受けていて、尊敬表現にはそのことが顕著に現れる。尊敬を表したい対象が動作の主体であるときにはその動作が何か自然の必然であるように表現されるから、基本的に「ある」が使わる。また尊敬する人の替わりに場所を表す言葉が使われる。逆に動作の主体たる自分を貶めるときには大自然の前では何ともちっぽけな存在たる人が主体であることを表すために「する」が使われる。このラインに沿って、(ある)主体尊敬&受身表現=自動詞−他動詞=使役表現&主体謙譲(する)、という見事な語法のシステム(語の活用法則)が出来上がっていて、これは金谷氏の発見である。

     英語は丁度逆であって、徹底して「する(Do)」を基本発想とする言語である。動詞は主語がないとその形が決まらない(人称活用する)から、基本構文には必ず主語と動詞がペアで必要となる。主語の繰り返しを避けるためにわざわざ代名詞が必要となり、主語であることを示すためにこれも人称活用する(主格として現れる)。これらの形の上ではっきり現れる文の要素こそ主語の要件であって、日本語ではそれが無いのであるから、主体を表す要素は補語として扱うべきである、というのが三上や金谷の主張である。英仏語で「ある」が嫌われることの顕著な例としては、自動詞的な表現をするためにわざわざ他動詞を使って再帰代名詞を目的語として持ってくる場合が多い。英語では基本的に自動詞と他動詞は同じ形をしていて、日本語のように対にはなっていない。したがって目的語を取れば他動詞、そうでなければ自動詞ということになる。要するに動作や状態の内容の詳細よりもあくまで「誰が」というのが重要なのである。日本語で「誰が」というのを言葉に入れると大抵問題を起こす表現になるが、英語では入れないと訳が判らなくなる。この辺が英仏語を自然言語とする生徒に日本語を教えるときにもっとも困る点のようであって、英語式の文法に従うと「誰が」が入ってしまうので不自然で相手に失礼な日本語のオンパレードになってしまうのである。

     ところで金谷氏の著作を読むと、明治維新以来の国語学者は何をしていたのだろうか?という疑問が湧いてくる。三上章や金田一春彦など少数を除いて、およそ言語の分析能力が無かったのではないかという印象を受ける。確かに一旦英語文法に当てはめて日本語を整理してしまうと、多くの矛盾があってもそれなりに筋が通っているわけだからそれで良いではないか、という気持ちになるのかもしれない。この辺はまた日本人的な不徹底さなのだろうか?それとも、三上氏や金谷氏に反論する人達にはまた筋の通った考えがあるのだろうか?そもそもこれだけの異論に対して、学会ではどうなっているのであろうか?公平に見るためにはその辺も調べてみる必要があるだろう。

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