2005.11.03

浜田寿美男「私とは何か−ことばと身体の出会い」(講談社選書メチエ)

    和歌山駅ビルの本屋で見つけて、書き出しの人間的な語り口に惹かれて買っておいた本である。自白の心理学がどうも有名なようであるし、自閉症の子供達にも日常的に接していて、そこから逆に照らし出されてくることを纏めたものが本書である。専攻に脈絡が無い様であるが、結局のところ研究対象を選ぶというよりは、現実の困難にさらされている人たちの問題を考えるということが彼にとっての研究である、という風に考えると理解しやすいような気がする。そういう意味では本書は副産物に過ぎない。どうも比叡平に住んでいるみたいである。

    読んでいて気持ちのよい語り口なのであるが、その辺は省略する。筋は比較的判りやすい。人は身体性に立脚して生きているが、それは本来的に個別性共同性の2つの契機を持つ。また共同性の契機を相補性同期性という2つの側面に別けて考えることが出来る。これは人が進化の過程で遺伝子レベルで身につけたものである。赤ん坊は最初から人として予定されているのであって、経験だけから社会性を身につけるのではない。このあたりはピアジェの発達論とは異なる。「個別性」というのは物理的にこの空間を占めているのは私の身体であって、それは他者の身体とは重なることはないということである。世界を直接見る時にはこの視点でしか見ることが出来ない。「同型性」というのは他者の身体に対して同じ姿勢を取るという本能的性向である。口を開けた人を赤ん坊が見るとき、赤ん坊はそもそも見ている他人の口と自分の口を同じ口であるということを知らない。(そもそも他人という概念も無いが。)にも拘らず赤ん坊はつられて口を開ける。そもそも人の顔に対して特別の関心を最初から示す。これは遺伝的に組み込まれているとしか言いようがない。その仕組みは勿論判らないが、しかしそのような性向を示すことが出来ない赤ん坊も居るし、その赤ん坊はやがて自閉症として認知されるのである。表情を理解するというのも同型性に因る。「相補性」というのは他者の志向性(動物が生きているということは志向性を持つ、いつも何処かに向かっている、ということである。)に応えるということである。目を合わせる、ということはその端的な現れである。相手の能動性を感じ取る、ということは自分の受動性を認めることであり、同時に自分の能動性は相手の受動性を予定している。人と人とのコミュニケーションはこのような能動と受動のやり取りなしには成立しない。自閉症の子供達はこの目を合わせるということが非常に困難である。従来の心理学は人を個別的な存在として考え、環境は感覚刺激として考え、心という仮想的な世界に刺激から意味を紡ぎだすモデルを想定する。心と身体は切り離して考えるから共同性は学習すべきものと考える。しかし人は本来的に共同的な存在であり、共同的な身体性を持つ、と考えるべきで、そう考えないと身体的障害としての自閉症の理解が出来ないのではないか?具体的な例は本の中にいくつかあるが、ここには再録しない。人は主体性を持つように予定されている。しかしそれだけではない。他の主体を認め、それに応じて自分を制御するようにも予定されている。勿論予定されていることは実現されるとは限らないが。

    人が本来的に持っている以上のような性向を契機として、人は「意味」の世界に入っていく。大人にとって環境は「意味」で満ちている。意味の無い存在は殆ど見当たらないまでに我々は環境の全てに亘って意味付けをしている。しかし赤ん坊のときはそうではない。赤ん坊にとって世界はまだ意味を持たない。ピアジェは赤ん坊が物に触り、その働きを体験して意味付けていく、と考えた。しかし、それだけでは意味が孤立してしまう。意味は社会的なものでない限り人にとっての生存価値を持ち難い。社会的な意味を見出すための仕組みは他者との3項関係である。経験の共有、同じものを一緒に見る、という行為は人に特異的なものであると言われる。人は他人の目の向きに敏感に出来ている。それまで目を合わせていたその当の目が他に向かったとき、自分の目もそれを追う。このような性向も遺伝的に予定されていると考えられる。経験を共有するということは、それだけに留まらない。その時の他人の感情もまた共有される。このようなプロセスの中に同型性と相補性の2つの契機が組み込まれていることは容易に想像できるであろう。意味世界はこうして親から子へと引き写されるのである。自閉症の子供にはこれが困難である。しばしば彼らは特定の物に執着する。彼らにとっての意味が社会性を持たないから周囲の人には理解できないが、彼らにとっては数少ない意味の世界なのであるから、無意味の世界という恐怖から逃れる為にその特定の物に執着することになる。(サルトルの嘔吐という小説はこの無意味の世界の恐怖を描いている。)

    「意味」の実質的な内容がこうして明らかになると、「言葉」に対する見方もまた変わってくる。言葉は記号であり、それは典型的には音韻の連鎖という「意味するもの」とその志向する内容「意味されるもの」の組み合わせである。これはこれで正しいが、それだけでは抽象であって、人は言葉の世界に入れない。子供を部屋に入れて、犬を入れ、「イヌ」という音声を聞かせ続けて、その関係付けが身についたとしても、それがイヌという言葉の学習になるだろうか?必要なのは犬が人間世界で持つ意味なのであり、それを人は「イヌ」と発音しているのである。犬という現実的な存在そのものが意味を持たなければ、「イヌ」という発音もまた何の意味も持たない。そう考えると、「意味するもの」と「意味されるもの」だけでなく、その組み合わせを操っている人そのものが必要であることが判る。本人も入れてこれを4項関係と言う。具体的には、人がその犬と「イヌ」に注意を払うということを共有することによって、その組み合わせの「意味」が共有されるのである。自閉症の子供達はしばしばテレビを見て言葉を覚える。人の動作や状況に応じて言葉が発せられるようになるのである。しかし、それは会話の言語ではない。言葉は状況に向けられているのであって、相手に向けられてはいない。冷たくなっている自分の手に人が触って、「冷たい」という言葉を発したとき、それは相手が自分の手について言っているということは普通の人には自明なことであるが、自閉症の子供達はしばしば自分が相手の手に感じる暖かさを意味していると了解する。(いろいろと自閉症の話が出てくるが、自閉症だからといって社会的でないとういことではない。普通の人のプロセスを辿ることが困難であるということで、その人なりのプロセスを見つけさせることが重要である。)我々は無意識の内に相手の立場に立って言葉を受け取っているのである。同様に、もし優しい人であれば、自分が冷たいと感じても、相手の立場に立って「暖かいでしょう」というであろう。このような主客の転換は4項関係でしか学ぶことが出来ない。こうして言語の本質が対話であることに気づく訳であるが、その先には一人二役の世界が広がっている。相手が現実に存在しなくても、人は対話をすることが出来る。というより言葉は本来対話なのであるから、自分と相手を想定しているのである。こうして「私」の世界が出来上がる。つまり想定された相手が見ていると想定される私の身体が「私」である、ということにでもなるのであろう。

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