DARK CITY |
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1998年作品。アメリカ映画。100分。配給ギャガ・ヒューマックス。監督アレックス・プロヤス(Alex Proyas)。製作アンドリュー・メイソン、アレックス・プロヤス。 製作総指揮マイケル・デ・ルーカ、ブライアン・ウィッテン。原案アレックス・プロヤス。脚本アレックス・プロヤス、レム・ドブス、デビッド・S・ゴイヤー。撮影監督ダリウス・ウォルスキーA.S.C.。プロダクション・デザイナー=ジョージ・リドル、パトリック・タトポロス。音楽トレバー・ジョーンズ。編集ドブ・ホーニグA.C.E.。衣装デザイナー=リズ・キーオー。ジョン・マードック=ルーファス・シーウェル(Rufus Sewell)、バムステッド刑事=ウィリアム・ハート(William Hurt)。シュレーバー博士=キーファー・サザーランド。エマ・マードック=ジェニファー・コネリー(jennifer Connelly)、Mr.ハンド =リチャード・オブライエン、Mr.ブック=イアン・リチャードソン、Mr.ウォール=ブルース・スペンス、ワレンスキー刑事=コリン・フリールズ、カール・ハリス=ジョン・ブルーサル、ハッセルベック=ミッチェル・ブテル、ストロンボリ=フランク・ギャラカー
素敵な予告編だったので、新しい感覚に出会えるかと期待して観た。映像はスタイリッシュで独特な重苦しい雰囲気も気に入ったが、ストーリーの基本や宇宙人の造形が90年代製作とは思えないほど古めかしい。宇宙人が宇宙に都市をつくって人間たちの実験をする、夜の零時に人々を眠らせて意志の力で街を変える、記憶を注射器で脳に移す。50年代、60年代SFのアイデアだ。とりわけ、宇宙人がしろ塗り、はげ頭で黒い服を着ているのには驚いた。「マーズ・アタック!」のような意図的に安っぽさを狙ったとは思えない。
考えてみると、最近のSFは昔のアイデアを最新のSFXでビジュアル化するものが多い。かつての「ブレードランナー」のように新しいビジョンを見せてくれるものはほとんどない。「ダークシティ」も過去から現在までのアイデアを寄せ集め、アレックス・プロヤス監督の力技でまとめあげたものだ。物語の展開に説得力がなく、宇宙人の実験の意味もあやふやなままだが、明るい絶望に満ちたラストシーンだけは今風だ。
学校III |
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1998年作品。日本映画。133分。配給=松竹。監督=山田洋次。原作=山田洋次、鶴島緋沙子。脚本=山田洋次、朝間義隆。撮影=長沼六男。美術=出川三男。音楽=冨田勲。照明=熊谷秀夫。編集=石井巌。小島紗和子=大竹しのぶ、トミー=黒田勇樹、高野周吉=小林稔侍、斉藤先生=寺田農、鬼塚健=ケーシー高峰、金栄洙=笹野高史、倉本節=余貴美子、村上=小林克也、高野藤子=秋野暢子、山本=吉岡秀隆、北=さだまさし、紗和子のおばさん=中村メイコ、井上幸男=田中邦衛
不況の中で再就職を目指し職業訓練校に集まった中高年の心の触れ合いを描いたドラマ。この種のテーマにありがちな紋切り型の展開ではない。重くならず軽くならない脚本は見事だ。説教臭くなく、安易な答えも用意しない。物語を盛り上げておいて、観ている人、一人ひとりに後のストーリーを預ける手法は、「息子」の余韻を思い起こさせる。「学校」シリーズは、ここに来て、教師と生徒ではなく、生徒同士の交流、しかも若者ではなく中年の交流を描き、「学校」の狭い枠を超えた。あるべき「学校」を描いたともいえる。
映画を観て泣くことは多いが、これほど何度も涙を拭いた作品は久しぶりだ。逆境の中で気丈に振る舞う小島紗和子のさりげない言葉が琴線に触れてくる。大竹しのぶは、やはり抜群にうまい。トミー役の黒田勇樹には天性の役者的器用さを感じた。「ギルバート・グレイプ」の卓抜なディカプリオに迫る。脇役もベテラン揃いで味わいがある。乳癌の手術に向かう紗和子の「なんちゃって」は、自分の弱さを知りつくした上でのおおらかさだ。ここに生存の美学が凝縮している。名作。ただし、最後のとってつけたような雪のシーンはいただけない。
BOOGIE |
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1997年作品。アメリカ映画。155分。配給=ギャガ・コミュニケーションズ。監督・脚本=ポール・トーマス・アンダーソン(Paul Thomas Anderson)。総指揮=ローレンス・ゴードン、ロイド・レビン。製作= ジョン・ライアンズ、ジョアン・セラー。音楽=マイケル・ペン。撮影監督=ロバート・エルスウィット。美術監督=ボブ・ジンビッキ。衣装デザイン=マーク・ブリッジズ。音楽監修=カリン・ラットマン。エディ・アダムス/ダーク・ディグラー= マーク・ウォールバーグ、ジャック・ホーナー=バート・レイノルズ、アンバー・ウェイブス=ジュリアン・ムーア、ローラーガール=ヘザー・グラハム、リード・ロスチャイルド=ジョン・C・ライリー、リトル・ビル=ウィリアム・H・メイシー
アメリカ・ポルノ映画界の大スター・ジョン・ホームズをモデルに、70年代後半から80年代前半の業界の人々の姿を温かな視線でまとめた作品。ポルノ雑誌「ハスラー」を描いた「ラリー・フリント」のような猥雑感がなく、また当時の風俗を再現しているものの「オースティン・パワーズ」の脳天気なノリもない。お行儀が良すぎるほど、上品な仕上がりだ。
ポール・トーマス・アンダーソン監督の才気は、人物描写に表れている。エディ・アダムスの家族、製作会社に集まる人々、一人ひとりが影を持ちながら息づいている。短いエピソードで人物像を浮き上がらせる手さばきは26歳の作品とは思えない。89年に26歳で「セックスと嘘とビデオテープ」を撮ったスティーブン・ソダーバーグ監督を思い出した。
THE MASK OF |
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1998年作品。アメリカ映画。137分。配給=ソニー・ピクチャーズエンタテインメント。監督=マーティン・キャンベル(Martin Campbell)。脚本=ジョン・エスコウ、テッド・エリオット、テリー・ロッシオ。原案=テッド・エリオット、テリー・ロッシオ、ランドール・ジャンソン。製作総指揮=スティーブン・スピルバーグ、ウォルター・F・パークス、ローリー・マクドナルド。製作=ダグ・クレイボーン、デビッド・フォスター。撮影=フィル・メヒュー。編集=トム・ノーブル。音楽=ジェームズ・ホーナー。美術=セシリア・モンティエル。衣装=グラシエラ・マソン。 アレハンドロ・ムリエッタ/ゾロ=アントニオ・バンデラス(Antonio Banderas)、ゾロ/ドン・ディエゴ・デ・ラ・ベガ=アンソニー・ホプキンス。エレナ=キャサリン・ゼタ=ジョーンズ(Catherine Zeta-Jones)、ドン・ラファエル・モンテロ=スチュアート・ウィルソン、ハリソン・ラブ隊長=マット・レッシャー
懐かしのゾロ。アントニオ・バンデラスの起用によって、90年代版の「ゾロ」が誕生した。コメディ・シーンを多めに加えた冒険活劇。さまざまな要素を自然に盛り込んですっきりとまとめたマーティン・キャンベル監督の手腕が光る。剣によるアクションのハラハラするような心地よさを、久しぶりにたっぷりと味わった。ゾロとエレナが剣を交える場面の古典的なまでのセクシーさも微笑ましい。金採掘現場での大アクションシーンへと雪崩れ込んでいくテンポは悪くないが、ふだん派手なCGシーンばかり見せられているからか、結末はやや物足りない。
渋いアンソニー・ホプキンスと熱いアントニオ・バンデラスの共演という点はかりが強調されているが、エレナ役のキャサリン・ゼタ=ジョーンズは、もっと取り上げられていいと思う。気品の高さ、意志の強さ、容姿の華やかさ、そして剣さばきのかっ達さ。二大スターに負けない存在感があった。彼女を推薦したスティーブン・スピルバーグのけい眼を誉めなければならない。
A PERFECT MURDER |
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1998年作品。アメリカ映画。107分。配給=ワーナー・ブラザース映画。監督=アンドリュー・デイビス(Andrew Davis)。脚本=パトリック・スミス・ケリー。撮影=ダリウス・ウォルスキー、A.S.C.。美術=フィリップ・ローゼンバーグ。編集=デニス・バークラー、A.C.E.、ドブ・ホーニング、A.C.E.。音楽=ジェイムズ・ニュートン・ハワード。衣装=エレン・ミロジニック。スティーブン・テイラー=マイケル・ダグラス、エミリー・ブラッドフォード・テイラー=グウィネス・パルトロウ(Gwyneth Paltrow)、デイビッド・ショー=ヴィゴ・モーテンセン、モハメド・カラマン=デイビッド・スーシェ
こちらもヒッチコック監督「ダイヤルMを廻せ!」のリメイク。女性がめっぽう強いというのが90年代リメイクの特徴だろうか。人間関係は現代的にアレンジしているものの、登場人物に奇妙なほど葛藤がない。そして、サスペンスとしてはストーリーのひねりが弱い。44年前と違った携帯電話の新しい機能を取り入れたと宣伝しているが、あっと驚く使い方をしているわけではない。その他の小道具にも切れがない。
マイケル・ダグラスの悪役は珍しいが、屈折した役柄が多かったので、意外性は乏しい。グウィネス・パルトロウは、このところ出演が続いている旬の女優だが、好き嫌いがはっきり別れるタイプだ。私はそれほど魅力を感じない。今回のキャリアウーマン役には特に違和感がある。さりげない清さ、上品なシンプルさと果敢に男を殺す意志の強さがうまく噛み合わない。ヴィゴ・モーテンセンにとっては、間違いなくジャンプ台になっただろうが、絵の才能を持つ詐欺師の複雑な感情は伝わってこなかった。
MUTHU |
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1995年作品。インド映画。166分。配給=ザナドゥー。監督・脚本=K・S・ラヴィクマール(Ravilkumar)。音楽=A・R・ラフマーン。撮影=アショークラージャン。振付け=P・H・タルンクマール。美術=マヒ。編集=K・タニカーチャラム。ムトゥ/地主=ラジニカーント、ランガナーヤキ=ミーナ(Meena)、ラージャー・マライヤシンマン=サラットバーラ、アンバラッタール=ラーダー・ラヴィ、テーナッパン=センディル、ウァライヤーパティ=ヴァディヴェール
「娯楽映画の極限」「一本で一生面白い!」「人生感が変わる」。マスコミでもホームページでも最大級の賛辞の嵐。劇場は終日まで超満員が続いていた。確かに観客を楽しませるために盛り込んだメニューはボリュームがあり、パワーは並外れている。ヒロインのランガナーヤキ役ミーナも可愛い。しかしながら、映画としてはそれほど優れた作品ではない。圧倒的なサービス精神は認めるものの、全体的には未熟さや手抜きが目立つ作品だ。演技もギャグのセンスもかなり寒い。
最近公開されたインド映画では「ボンベイ」の方がはるかに出来がいい。女優の演技力も一枚上。マスコミがなぜ「ムトゥ踊るマハラジャ」ばかり持ち上げるのか、不可解だ。「ボンベイ」には、宗教対立という深刻なテーマがあり、映像も計算されていて「ムトゥ踊るマハラジャ」のようなオバカ度が低いからだろうか。インド娯楽映画の域を超える広がりがあるからだろうか。笑っておしまいという娯楽映画に現実のシビアな問題を持ち込み、緊密な映像を構築していく、そういう新しい動きこそ大切なのに。
鬼畜大宴会 |
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1998年作品。日本映画。106分。配給=鬼プロ。製作=財前智宏。監督・脚本・編集=熊切和嘉。撮影=橋本清明。照明=向井康介。撮助=近藤龍人、山下敦弘。記録=前田隼人、金井亜由美。 音楽=赤犬。音響=松本章。美術=安井聡子。雅美=三上純未子、岡崎=澤田俊輔、熊谷=木田茂、杉原=杉原敏行藤原=小木曽健太郎、山根=財前智宏、相澤=橋本祐二、平=平良勤
1974年生まれの熊切和嘉監督が大阪芸術大学の卒業制作として製作、97年の「ぴあフィルムフェスティバル」で準グランプリを受賞した作品。70年代の学生運動のリンチ殺人事件をテーマにしているということで注目されたが、舞台装置を外せば、典型的なスプラッター映画だ。闘争の祭り性、性と暴力、左翼と右翼など、意味ありげな切り口を示しているものの、それが突き詰められている訳ではない。学生運動を徹底的に侮蔑し嘲笑しているように見えながら、いい加減さに満ちた熱い時代への監督の羨望も感じられる。
過激な暴力描写に批判の声があるものの、スプラッターとしてみれば目くじらを立てるほどのことはない。無邪気に楽しんでいるだけだ。暴力が空回りする場面もある。才能はショッキングなシーンではなく、林の中の木漏れ日の美しさや追跡シーンのリズミカルな映像感覚にあるように思う。むき出しの残酷シーンよりも、狂気をたたえたリリシズムに長けているのではないか。未熟さは否定できないが、若き監督の多面的な才能の萌芽が詰まった作品であることは間違いない。
SAVING |
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1998年作品。アメリカ映画。170分。配給UIP。監督スティーブン・スピルバーグ(Steven Spielberg)。脚本ロバート・ロダット。製作スティーブン・スピルバーグ、イアン・ブライス、マーク・ゴードン、ゲイリー・レヴィンソーン。撮影ヤヌス・カミンスキー。編集マイケル・カーン。美術トム・サンダース。衣装ジョアンナ・ジョンストン。音楽ジョン・ウィリアムス。ジョン・ミラー=トム・ハンクス、シェームズ・ライアン=マット・デイモン、ホーバス=トム・サイズモア、ライベン=エドワード・バーンズ、ジャクソン=バリー・ペッパー、カパーゾ=ヴィン・ディーゼル、アパム=ジェレミー・デイビス、メリッシュ=アダム・ゴールドバーグ
「戦争映画の歴史を変えた」と絶賛されているスピルバーグ監督の新作。冒頭のオハマビーチの戦闘シーンは、臨場感を高めるためのさまざまな工夫が生かされている。しかし「兵士の視線で撮られている」という評価は的外れだ。兵士に俯瞰する余裕などない。随行したジャーナリストの視線に近いが、あのような目まぐるしい移動による観察は不可能だろう。いかにも戦場にいるかのような錯覚を覚えさせる映像テクニックのたまものなのだ。基本は「ジュラシック・パーク」と同じ。観客は安全な場所にいて、スリルを楽しんでいる。
「反戦映画」という位置付けにも疑問がある。戦争の悲惨さや理不尽さを描いただけで反戦映画たりうる時代は終った。この作品は、過酷な状況の中でのアメリカ兵士たちの尊厳を描くことで、戦争自体を舞台化している。戦争を起こさないためには何が必要なのかという問いがない。観客に真剣な問いを突き付ける鋭さがない。むしろ「私は戦争の悲惨さを知った」という自己満足を与える危険がある。捕虜になったドイツ兵を卑屈に描く姿勢も気に入らない。ドイツ兵の尊厳はどこにあるのか。
POUSSIERES D'AMOUR |
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1996年作品。ドイツ・フランス映画。122分。配給セテラ。 監督ヴェルナー・シュレーター(Werner Schroeter)。 草案ヴェルナー・シュレーター、クレール・アルビー。音響監督/ピアノ=エリザベット・クーパー。 撮影エルフ・ミケシュ。 美術/衣装アルベメト・バルザック。編集ユリアーネ・ロレンツ。アニタ・チュルケッティ、 マルタ・メードル、 リタ・ゴール、 ローレンス・デイル、 セルゲイ・ラリン、 イザベル・ユペール、 キャロル・ブーケ、ゲイル・ギルモア
苦悶の上に咲いた耽美な華「薔薇の天国」の強烈な映像が忘れられない。ヴェルナー・シュレーター監督との出会いは、人生の幸運だろう。新作「愛の破片」は、愛と死という痛苦な問いが、オペラに癒されていく幸せな作品だ。身体に折り畳んでいた感受性の翼が広がり、音を呼吸し始める。音楽は世界の外から響いているように感じる。次々と歌われる有名な曲、歌声に包まれながら音楽に見放されていなかった自分を発見する。女優のイザベル・ユペールが、モーツアルトを歌い出す心地よい驚きも味わうことができた。
映画の構成は「リチャードを探して」(アル・パチーノ監督)に似ているように見えるが、監督の姿勢はまるで違う。アル・パチーノが愚直なまでにシェークスピアに迫ろうとしたのに対して、シュレーター監督は歌手の声にこだわり続けている。映像は喜びと遊びに満ち、肩に力が入っていない。ただ、監督自らが「多くの友人をエイズで亡くした」とさりげなく語るシーンに、シュレーターの悲しみが込められていた。次作は、フルトベングラーのドキュメントらしい。
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