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 デカローグの画像です




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デカローグの画像です

1988年作品。配給シネカノン。ポーランド映画。監督クシシュトフ・キェシロフスキ。脚本クシシュトフ・ピェシェヴィチ、クシシュトフ・キェシロフスキ。音楽ズビグニェフ・プレイスネル。編集エヴァ・スマル。主演クリスティナ・ヤンダ、ダニエル・オルブリスキ、ズビグニェフ・ザマホフスキ他

  • 第1話「ある運命に関する物語」53分
  • 第2話「ある選択に関する物語」57分
  • 第3話「あるクリスマス・イブに関する物語」56分
  • 第4話「ある父と娘に関する物語」55分
  • 第5話「ある殺人に関する物語」57分
  • 第6話「ある愛に関する物語」58分
  • 第7話「ある告白に関する物語」55分
  • 第8話「ある過去に関する物語」55分
  • 第9話「ある孤独に関する物語」58分
  • 第10話「ある希望に関する物語」57分

 「DECALOG」=十戒。この9時間20分に及ぶ10連作は、痛ましい子供の事故死から始まり、遺産相続をめぐる苦いコメディで終わる。宗教的な苦悩に満ちたテーマが続いた後、10話の冒頭でパンクロッカーが十戒を破れと歌う。さまざまな仕掛けが絶妙にブレンドされ、各作品の終わり方も余韻に満ちている。第5話と第6話は独立した映画になっているが、連作版の方がはるかに優れている。

 キェシロフスキ監督は、「ふたりのベロニカ」(1991年)、「トリコロール/青の愛」(1993年)という忘れ難い優れた作品を生み出しているが、「デカローグ」を観た後では、やや生温い印象を受ける。それほどに、この連作は美しいバランスと緊張に満ちている。一種神秘主義的な表現も全体の中にさりげなく置かれ、後期の作品ほど露骨ではない。

 最高傑作と断言しよう。スタンリー・キューブリックが「ここ20年の間で1本だけ好きな映画を選ぶとすれば、それは間違いなく『デカローグ』である」と絶賛したのも、けっして誇張ではない。


ケスの画像です

 ケ ス 

1969年作品。112分。監督ケン・ローチ。製作トニー・ガーネット。原作バリー・ハインズ。脚本バリー・ハインズ、ケン・ローチ。撮影クリス・メンジス。音楽ジョン・キャメロン。美術ウィリアム・マックロウ。編集ロイ・ワッツ。ビリー・キャスパー=デイヴィッド・ブラッドレー、ファーシング先生=コリン・ウェランド、ピリーの母=リン・ペリー、ビリーの兄=フレディ・フレッチャー

 おお、ケン・ローチの「ケス」!!。生前のキェシロフスキをはじめ、多くの監督が絶賛していた「ケス」。その「ケス」がやっと劇場公開された。期待を裏切らない、極上の作品。ビリー・キャスパー役のデイヴィッド・ブラッドレーは、純粋さと粗暴さが混在する多感な少年の姿を演じ切っていた。演技経験がなかったことが、逆に信じ難いほどの深い演技を生み出したのだろう。

  60年代後半のイギリス・ヨークシャーの日常が、過不足なく巧みに切り取られる。家庭では貧困と苛立ちが、学校では管理といじめが、ビリーを取り巻いている。目標もなく、気の弱い悪ガキとして日々を過ごしていたビリーは、偶然見つけたハヤブサのヒナの餌づけを通して、生きがいを見い出していく。「ハヤブサは飼い慣らせない。人に服従しないから好きなんだ」というビリーの言葉が少年の心を象徴している。

 ビリーが兄の馬券代をふところに入れたばかりに、ハヤブサのケスは怒った兄に殺される。ケスの亡骸を埋めるシーンで映画は終わる。いくらでもクライマックスを用意することができ、観客を泣かせることができるにもかかわらず、映画は不意に終わる。この抑制こそが「ケス」を非凡な作品にしている。

 それに比べスペイン内戦をリアルに描いた「大地と自由」(1995年)は、ドキュメンタリーのような素晴しい迫力で観る者に重い問いを投げかけ、構成も緩みがなく見事だが、最後の最後の抑制を欠いたばかりに「ケス」に一歩及ばない。

 自由と民主主義を守るため、自発的に反ファシズムの戦いに参加した青年デヴィッドが、大きな政治の力の前で挫折していく姿を追っている。組織と自発性という古くて新しいテーマが差し出される。映画は主人公が年老いて死に、その遺品を孫娘キムが整理する中でその生涯を理解していく形をとっている。理想に燃えて生きることの意味を、若い世代に伝えたいというケン・ローチ監督の熱い思いが反映したものだ。

 しかし埋葬のときにキムが赤いスカーフを握り、かつてのデヴィッドのように右手を掲げたのには、幻滅した。遺品を整理しただけで思いが伝わるのなら苦労はしない。経験の伝達の困難さという現実から眼をそらせ、安直なハッピーエンドを用意したケン・ローチ監督は、明らかに「ケス」よりも後退している。


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 猫が行方不明 

1996年作品。91分。配給:フランス映画社。監督・脚本セドリック・クラピッシュ。撮影ブノワ・ドゥロム。美術フランソワ・エマニュエリ。編集フランシーヌ・サンベール。クロエ=ギャランス・クラヴェル、ジャメル=ジヌディヌ・スアレム、マダム・ルネ=ルネ・ル・カルム、クロエの同居人ミシェル=オリヴィエ・ピィ、近所のドラマー=ルマン・デュリス、グリグリ=アラピム

 古いパリと最先端の新しいパリが混在する11区を舞台に、行方不明の猫グリグリを探すなかで、多彩な人々が出会うコメディタッチの佳品。ブルックリンの雑多さに望みを託した『ブルー・イン・ザ・フェイス』ほど楽観的でないものの、緩やかな人々のつながりへの淡い希望が胸のなかに灯った。

 主人公のクロエは、地味で友人も少なく、途方にくれたように日々を送っている。男女関係のわずらわしさを避けるために、ゲイのミシェルと同居中。この辺の感覚は世界的なものだろう。ためらいがちに生きるクロエをギャランス・クラヴェルが好演している。もう一人忘れてはならないのが、猫好きのマダム・ルネを演じたルネ・ル・カルム。73歳にしてデビューしたとは思えない飄々とした個性は、映画全体をキュートなものにしている。

 クラシックからシャンソン、ジャズ、ヒップポップ、ジャングルなどなど、さまざまなジャンルの音楽を使っているのが特徴。11区の雑多な雰囲気を意識したものだが、意図して映像とズレた曲を選択している。黒澤明は映像と音楽のズレによって映画全体を活気づかせたが、その選択には繊細な配慮があった。その点、この作品はズレがやや鼻につく。


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 シ ク ロ 

1995年作品。128分。配給:パイオニアLDC。監督・脚本トラン・アン・ユン。音楽トン・タ・ティエ。製作クリストフ・ロシニョン。撮影ブノワ・ドゥロム。美術ブノワ・バルー。シクロ=レ・ヴァン・ロック、詩人=トニー・レオン、姉=トラン・ヌー・イェン・ケー、女親方=グエン・ホアン・フック

 前作の『青いパパイヤの香り』は、静かな官能が全編を包み込んでいたが、『シクロ』は猥雑な活気に満ちあふれたベトナムの現在に迫るパワフルな作品となっている。前作があまりにも予定調和的だった反動とも思えるほど、喧騒と腐敗が全体を染め上げている。

 時代に流されていく人々をリアルに描こうとしながらも、色彩美を捨てきれず随所にわざとらしい仕掛けが散乱する。前回が柔らかな美しさとすれば、今回は痙攣的な美しさといえるだろう。とかげのしっぱや金魚をくわえたシクロの、凍りついた様な表情は、やはり忘れ難い。

 トニー・レオンが演じる詩人は、作品のなかでの役割がブレていたのではないか。あれでは詩人というよりは、ただのヒモ、殺し屋だ。姉役のトラン・ヌー・イェン・ケーの魅力は健在。独特なエロティシズムがただよっている。


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 学 校 2 

1996年作品。122分。配給:松竹。監督:山田洋次。製作:中川滋弘。プロデューサー:深澤宏。脚本:山田洋次、朝間義隆。撮影:長沼六男。美術:出川三男。音楽:富田勲。編集:石井巌。青山竜平=西田敏行、緒方高志=吉岡秀隆、北川玲子=いしだあゆみ、小林大輔=永瀬正敏、久保佑矢=神戸浩、小宮山勇吉=中村富十郎

 夜間学校を舞台にした「学校」はややわざとらしさが感じられたが、「学校2」の脚本は自然で実によくできている。養護学校を舞台としながら、日本の教育、学校、社会全体を鋭く問い返す力を持つ作品に仕上がった。その余韻の重さは「息子」をしのぐ。

 この作品では生徒たちが前面に出ている。先生はサポート役に過ぎない。生徒たちの試行錯誤と交流の中で生徒自身が変わっていく。心に深い傷を受け無口だった高志が、暴れる佑矢を怒鳴り、佑矢がおとなしくなるという決定的な場面がある。ここに描かれているのは奇麗事ではない。人間が切実に関わり合う時、しばしばこのような瞬間が生まれる。そして、その後の人間関係が劇的に変わる。このシーンのリアルさが映画全体を輝かせている。

 手がつけられなかった佑矢が、あまりにも急におとなしくなってしまった点や、卒業式で小林先生が社会の差別や偏見をあからさまに批判する発言の必要性に疑問は残ったが、雪の中の秀抜な熱気球のシーンや教師と生徒の関係をつかめずに悩む教師の真摯な姿が久々に強く胸を撃った。普通学校の歪み、普通教育の狭さ、一般教養の粗雑さに、あらためて気付かされた2時間だった。


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