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「アルテミシア」の画像です

 ARTEMICIA 

1997年作品。フランス=イタリア合作映画。101分。配給エース・ピクチャーズ。 監督・脚本アニエス・メルレ(Agnes Merlet)。共同脚本クリスティーヌ・ミレール。脚色・台詞アニエス・メルレ、パトリック・アモ。音楽クリシュナ・レヴィ。撮影ブノワ・デロム(AFC)。美術アントネッロ・ジェレング。録音フランソワ・ボルグ。編集ギイ・ルコルヌ。制作パトリス・アダッド。共同制作者クリストフ・メイヤー=ウィール、レオ・ペスカローロ。アルテミシア=ヴァレンティナ・チェルヴィ(Valentina Cervi)、オラーツィオ=ミシェル・セロー、アゴスティーノ=ミキ・マノイロヴィッチ、コジモ=ルカ・ジンガレッティ、コスタンツァ=エマニュエル・デヴォス、ロベルト=フレデリック・ピエロ、判事=モーリス・ガレル

 美術史上初の女流画家として知られるアルテミシア・ジェンティレスキは、1593年7月8日にローマで生まれ、1653年にナポリで亡くなった。作品は、絵を学び始めてから伝説のレイプ裁判までを中心とする彼女の半生を、駆け足で描いている。やや表情は乏しいものの若々しい存在感を放つヴァレンティナ・チェルヴィは、描くことへの情熱と好奇心に満ちた17歳のアルテミシアになりきっていた。とても魅力的。「ある貴婦人の肖像」(ジェーン・カンピオン監督)で印象的だった鋭い意志を秘めた瞳は、アルテミシアにうってつけだった。波瀾に満ちたストーリーだが、父親のオラーツィオ、恋人のアゴスティーノの描き方が弱い。そのため、物語が平板になった。名優をそろえながら惜しい。

 作品に罪はないが、修正ぼかしの無神経さに腹が立った。いますぐのぼかし全廃は無理としても、もっと繊細な配慮ができないものか。一方、映画チラシには感心した。チラシ表紙には、アルテミシアが目を閉じて砂浜に横たわる静かなシーンを使っているが、映画を見た後には、そのシーンが驚くほど官能的に輝き始める。ヴァレンティナ・チェルヴィの強い瞳を強調せず、あえてこの場面を採用したスタッフのセンスを評価したい。


Realplayer版「アルテミシア」予告編(550KB)

 nettoyage a sec 

「ドライ・クリーニング」の画像です

1997年作品。フランス=スペイン合作映画。97分。配給シネマパリジャン。監督アンヌ・フォンテーヌ(Anne Fontaine)。脚本・台詞ジル・トーラン、アンヌ・フォンテーヌ。撮影カロリーヌ・シャンプティエ。美術アントワーヌ・プラトー。編集リュック・バルニエ。ニコル・クンスレール=ミウ・ミウ、ジャン=マリ・クンスレール=シャルル・ベルリング、ロイック・カリュ=スタニスラス・メラール、マリリン=マチルド・セニエ、イヴェット=ナヌゥ・メステル、ピエール=ノエ・フリジェ

 クリーニングの仕事に職人的なこだわりをみせる完全主義者のジャン=マリ。妻のニコルは夫との仕事に追われ続ける毎日に欲求不満気味。ふと立ち寄ったナイトクラブでショーをしていた美貌の青年が翌日ラメ入りのドレスをクリーニングに出すところから、物語は始まる。ナイトクラブのショーはすくぶるエロティックだが、その後はむしろ淡々と日常を描いていく。その積み重ねが、複雑な三角関係をリアルにした。映画の主人公は青年ロイック・カリュや、彼に溺れるニコルではない。この作品の中心は、自身のバイセクシャル指向に目覚めて葛藤するジャン=マリだ。自分の指向を封じ込める彼の苦悩が映画を紋切り型にしていない。

 ジャン・マリがロイック・カリュを殺した後、ニコルが死体を始末し、二人で歩き続ける寡黙なラストには、ズシリとした衝撃を受けた。ニコルの強さと生活の重みが、画面を染めていく。余韻に満ちた結末。この余韻は長く続くだろう。ナイトクラブの官能、仕事場の慌ただしさ、夫婦の微妙な会話、子供たちのあどけない賑わい。落差のある多彩な映像を鮮やかに組み立てた監督の感性は、柔軟で強靱だ。


 SCREAM 

 2 

「スクリーム2」の画像です

1997年作品。アメリカ映画。122分。配給アスミック。監督ウェス・クレイヴン(Wes Craven)。脚本ケヴィン・ウィリアムスン。撮影ピーター・デミング。音楽マルコ・ベルトラミ。編集パトリック・ラッシャ。衣装生ャスリーン・ディトロ。デューイ・ライリー=ディヴィッド・アークェット、シドニー・プレスコット=ネーヴ・キャンベル、ゲイル・ウェザー=コートニー・コックス、シーシー・クーパー=サラ・ミッシェル・ゲラー、ランディ=ジェイミー・ケネディ、デビー・ソイト=ローリー・メトカーフ、ハリー=エリゼ・ニール、デレク=ジェリー・オコネル、ミッキー=ティモシー・オリファント

 夏場に嬉しい作品が公開された。前作の事件が「スタブ」という映画になり、試写会で観客はハロウィン・マスクを被ってはしゃいでいる。おもちゃのナイフをかざして騒ぎまくる。そして事件を模倣した連続殺人が劇場で始まるー。スプラッター・パロディ映画の「スクリーム」をさらにパロディ化するというコテコテの試みながら、前作以上に若者たちの底抜けのパワーが充満した「青春ホラー映画」に仕上がっている。

 恐怖を繰り出すタイミングがつかめるため、前作ほど怖くはない。しかし殺人の動機づけは、現代性と古典性をドッキングし、なかなかユニークだ。殺人犯に好きなホラーと問われて「ショーガール」と答えたホラーおたく・ランディが、あっさり殺されたときには、衝撃が走った。シリーズの核になる人物と思っていたからだ。予想を裏切るウェス・クレイヴン監督の感覚はなかなか若い。なんて意地悪で楽しく、残酷で明るい作品だろう。


「風の歌が聴きたい」の画像です

 風の歌が聴きたい 

1998年度作品。日本映画。161分。監督=大林宣彦。原案=高島良宏、小田大河。脚本=中岡京平、内藤忠司、大林宣彦。撮影=坂本典隆。美術監督=竹内公一。編集=大林宣彦。高森昌宏=雨宮良、高森奈美子=中江有里、早瀬敦夫=勝野洋、早瀬照子=入江若葉、早瀬藍子=及森玲子、高森昌之=石橋蓮司、高森すみ=左時枝、滝先生=嶋田久作、鳥羽聡美=高橋かおり、北沢香織=柴山智加

 実在の聴覚障害者の夫妻をモデルにした前向きな人間ドラマ。文部省選定、厚生省推薦、郵政省後援である。なるほど、観る者に力を与えてくれるような、清清しい作品だ。オルゴールや電話のシーンに心が洗われる。人物描写は深くはないが美化することなく、しかし優しさに満ちたまなざしで描かれている。全体に影の描写が少ない中で、高森昌之役の石橋蓮司が父親の屈折を巧みに表現していた。傑作とは言えないが、悪い作品ではない。

 ただし、大林監督の作品としては、大いに疑問がある。大林作品は「A MOVIE」と銘打ってるようにどの作品も「個人映画」としての肌触りを感じさせるものだった。尾道連作だけでなく、「水の旅人−侍KIDS」「女ざかり」「SADA」などの作品でも、大林ワールドは健在だった。だが、この作品には独自の編集による味わいがない。それとも、次々と実験を続ける監督が、意識的に「作家性」そのものを消し去るという大胆な試みをしたのだろうか。


 MIDNIGHT IN THE GARDEN 

 OF GOOD AND EVIL 

「真夜中のサバナ」の画像です

1997年作品。アメリカ映画。155分。 配給ワーナー・ブラザース映画。製作・監督クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)。脚本=ジョン・リー・ハンコック。原作=ジョン・ベレント。撮影=ジャック・N・グリーン、A.S.C.。美術=ヘンリー・バムステッド。編集=ジョエル・コックス。音楽=レニー・ニーハウス。ジョン・ケルソー=ジョン・キューザック、ジム・ウィリアムズ=ケビン・スペイシー、ソニー・サイラー=ジャック・トンプソン、ミネルバ=アーマ・P・ホール、ビリー・ハンソン、マンディ・ニコルズ=アリソン・イーストウッド、ジョー・オードム=ポール・ヒップ、シャブリ・ドゥボー=ザ・レディ・シャブリ

 クリント・イーストウッド監督の20作品目。悪と正義の対立を描いてきた監督は、新しい境地に足を踏み入れつつある。同性愛者の殺人事件とその裁判がストーリーの中心だが、そこに善悪の対立はない。真実と嘘の区別すらない。真実は最後まであいまいのままだ。とりとめがないといえば、とりとめのない物語だが、登場人物が魅力的で飽きさせない。実在の事件を取り上げたとは思えないほどに、個性的な人たちが人生の機微をかいま見せてくれる。

 ジム・ウィリアムズの虚実を揺れる雰囲気がすべてを包み込み、ジャーナリスト・ジョン・ケルソーは、その磁場にとらわれ、事件への距離感を失っていく。映画は事件にひきづられることなく、ゆったりとした距離を保ちながら進む。シャブリ・ドゥボーという自分の役を演じたザ・レディ・シャブリの輝きに象徴されるように、監督の度量の深さがうかがえる作風。サバナで暮らす人々の姿を自在に描き出す成熟された手法は、気負ったところがない。選曲も心憎いばかりのセンスだ。監督68歳。これからの作品こそ、おおいに期待していいだろう。


「D坂の殺人事件」の画像です

 D坂の殺人事件 

1998年作品。日本映画。90分。配給=東京テアトル。監督=実相寺昭雄。原作=江戸川乱歩。脚本=薩川昭夫。音楽=池辺晋一郎。撮影=中堀正夫。美術=池谷仙克。編集=西東清明。蕗屋清一郎=真田広之、明智小五郎=嶋田久作、須永時子=吉行由実、花崎マユミ=大家由祐子、斎藤勇=斎藤聡介、秋村キセ子=小川はるみ、小林芳雄=三輪ひろみ

 実相寺昭雄監督の耽美的な世界。計算された構図による映像と紙細工の書き割りによる遊び心が、江戸川乱歩のたくらみを的確に表現している。始まりの15分間のテンションの高さは、観る者を虜にする。まず真田広之の妖しい演技に賛辞を送ろう。自らを緊縛し描写する彼の美しさが、この作品を崇高なものにしている。そして100本以上のピンク映画に出演し監督としての才能も高く評価されている吉行由実の存在感ある演技が、映像に艶を与えている。花崎マユミ役の大家由祐子も驚くばかりの官能の表情をみせる。

 贋作をめぐる殺人事件は、明智小五郎の推理で、鮮やかに解決する。嶋田久作は幅の広い役をこなす俳優に成長した。無駄のない展開で心地よいが、「屋根裏の散歩者」までは健在だった官能的なねちっこさが、今回は乏しかった。それが作品の均整を高めていることは理解できるが、実相寺らしさが薄れたことも否定できないだろう。


 Godzilla 

「ゴジラ」の画像です

1998年作品。アメリカ映画。139分。監督ローランド・エメリッヒ(Roland Emmerich)。プロデューサー=ディーン・デブリン。エグゼクティブ・プロデューサー=ローランド・エメリッヒ、ウテ・エメリッヒ、ウィリアム・フェイ。 共同エグゼクティブ・プロデューサー=ロブ・フリード、ケーリー・ウッズ。共同プロデューサー=ピーター・ウィンサー、ケリー・バン・ホーン。脚本ローランド・エメリッヒ、ディーン・デブリン。 撮影監督ユーリ・スタイガー。プロダクション・デザイナー=オリヴァー・スコール。衣装デザイン=ジョセフ・ポロ。音楽デビッド・アーノルド。ビジュアル・エフェクツ・スーパーバイザー=フォルカー・エングル。デジタル・エフェクツ=フィオナ・ブル、セントロポリスFX、ビジョンアート。ニック・タトプロス=マシュー・ブロデリック、フィリップ・ローシェ=ジャン・レノ、オードリー・ティモンズ=マリア・ピティロ、アニマル=ハンク・アザリア、ヒックス大佐=ケビン・ダン、ニューヨーク市長=マイケル・ラーナー

 ハッキリ言って、この作品に「ゴジラ」の題を付けたことは間違っている。オマージュ的な映像はあるが、ストーリー的にはなんら必然性がない。日本とアメリカの文化の違いに還元できない過ちだ。「イグアナドン」とでも、名付ければ良かった。あるいは百歩譲って「ゴジラーズ」。「ゴジラ」というイメージを取り去れば、最近のヒット作を混ぜこぜにし、過去につきあっていたテレビレポーターと研究者が、事件で再会し愛を確認するというお決まりのラブストーリーで味付けした娯楽作に過ぎない。都市の破壊シーンと迫力あるCGを楽しむだけ。「インデペンデンス・デイ」同様、いかにもローランド・エメリッヒ監督らしい底の浅い作品だ。

 「自然からの報復」の象徴であり超然としていた本家ゴジラは、アメリカではミサイルを避けて逃げ回った挙げ句、簡単に死んでしまう。「Godzilla」の中には「God」がいたのではなかったのか。200匹の子供ゴジラの登場は「ロストワールド」+「エイリアン2」+「ゾンビ」のノリだったが、これもミサイル2発であっけなく御陀仏。イグアナの突然変異だから、そんなものかもしれない。だからニューヨーク市長は選挙への利用しか考えてない。ましてや大統領が登場するほどの出来事ではなかったというわけだ。随分と「ゴジラ」を甘くみている。


「不夜城」の画像です

 不夜城 

1998年作品。日本映画。122分。配給=東映。監督・脚本・編集リー・チーガイ(李志毅)。 エグゼクティブプロデューサー=角川歴彦。原作=馳星周。 脚本=野沢尚。撮影監督=アーサー・ウォン(黄岳康)。音楽=梅林茂。美術=種田陽平。編集=エリック・コン。リウ・ジェンイー=金城武、佐藤夏美=山本未来、ホワン・シウホン=キャシー・チャウ、ユェン・チョンクイ=エリック・ツァン、ヤン・ウェイミン=ラン・シャン、ウー・フーチェン=椎名桔平、チラシ配り=馳星周

 原作に比べ、ラブストーリーが全面に出ているものの、新宿・歌舞伎町の非情な中国系マフィアを描き、妥協のないハードボイルドが貫かれている。日本、香港、台湾のスタッフとキャストが協力し困難を乗り越えて作り上げた骨のある作品だ。リー・チーガイ監督は、「世界の涯てに」のすがすがしさとは対照的な世界を良くまとめあげている。種田陽平らの力の入ったセットを生かしながら、監督の即興的なアイデアがちりばめられている。

 佐藤夏美役の山本未来が素晴らしい。優しさと残酷さ、強さと弱さ、純真さと狡猾さが交錯する難しい役を、余裕を持って演じているようにみえる。それに比べリウ・ジェンイー役の金城武は、魅力的ではあるがビターな場面でも持ち前の甘さが消えない。彼には観る者を浄化するような笑顔の方がふさわしいのかもしれない。ウー・フーチェン役の椎名桔平は、シャープな存在感が心地良かった。芝浦埠頭レインボーフブリッジでのラストシーンは確かに暗いが、十分納得のできるので後味は悪くない。むしろ美しさが印象的だった。日本映画には珍しいズシリとくるエンターテインメントだ。


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