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「アントニア」の画像です

 ANTONIA 

1995年作品。オランダ=ベルギー=イギリス合作映画。103分。配給エースピクチャーズ。監督・脚本マルレーン・ゴリス。撮影監督ウィリー・スタッセン。音楽イロナ・セカス。美術監督ハリー・アメラーン。編集ミシル・ライヒヴァイン、ウィム・ラウリル。衣装ヤニー・テミナ。アントニア=ヴィレケ・ファン・アメローイ、ダニエル=エルス・ドッターマンス、テレーズ=フェール・ファン・オファーロープ、アレゴンデ=ドーラ・ファン・デル・グルーン、バス=ヤン・デクレイル、厭世主義者・曲がった指=ミル・セイハース、ディディ=マリーナ・デ・グラーフ、ラーラ=エルシー・デ・ブラウー

 最初に微笑ましい幻想シーンを盛り込むことで、観ている者に寓話的な安心感を与えながら、マルレーン・ゴリス監督は性の規範から逃れた女性たちの生き様を正面から描いている。その生き方の揺るぎのなさは、たおやかな風景と相まって清々しい。

 妊娠と出産が生きがいのレッタは早死にするものの、呆気なく死んでいくのは男たちだ。この辺は「数に溺れて」などの初期のグリーナウェイを連想させる。ただ、本当の対比は厭世主義者・曲がった指とアントニアだろう。二人は仲が良いが対照的な生き方をしていく。ショーペンハウエルとニーチェの関係のように。アントニアの娘が美術、その娘が音楽、そのまた娘が詩を志すというのも象徴的だ。

 「すべては終ることはない」。この母系社会の圧倒的な現実肯定を前にして、男たちは今反論する余地もなく立ち尽くす。しかし、すべてを許し包み込む甘美な世界に身をゆだねる訳にはいかない。私は、嫉妬しつつ賞賛はしない。


「心の指紋」の画像です

 SUNCHASER 

1996年作品。123分。配給日本ヘラルド映画。監督マイケル・チミノ。音楽モーリス・ジャール。製作総指揮マイケル・チミノ、ジョセフ・M・カラッチオロ。編集ジョー・ドーグスティン。衣装ヴィクトリア・ポール。撮影監督ダグ・ミルサム、B.S.C.。脚本チャールズ・レアヴィット。強盗殺人犯ブルー=ジョン・セダ。医師マイケル=ウディ・ハレルソン

 マイケル・チミノ監督、6年ぶりの新作。前作「逃亡者」に比べ、はるかにスケールが大きく、研ぎ澄まされた映像には監督の全身全霊が込められている。カーチェイスをはじめ、相変わらずの力業だ。

 しかし、しかしである。ネイティヴ・アメリカン・ナバホのハーフ、16歳の殺人犯ブルーが末期癌を宣告され、主治医を誘拐してグランドキャニオンの聖なる山に向かう。医師は、少年のときに病に苦しむ兄ジミーに頼まれ生命維持装置を外したというトラウマを持っていたので、やがてブルーを助けながら山を目指していく。このストーリーの不自然さが最後まで気にさわった。

 中でも、息も絶え絶えだったブルーが険しい崖を登り始めるのには、まいった。医師の心変わりも唐突で説得力が乏しい。そして、神秘主義に逃げ込むようなブルーの救済や、薬を得るために強盗までした医師を上昇志向が強かった妻が手放しで迎えるラストシーンも奇異な感じを受けた。そして山の頂上で二人が抱きあい、ブルーがマイケルに「おまえは本物の男だ」と言う場面では、あきれてしまった。

 重いテーマを抱えながら安易な解決を求めず、広い世界へと走り続けることの困難性。チミノの映画は、力強い映像表現の陰に探究に疲れた監督の弱さを映し出している。


 THE 

 FIFTH 

 ELEMENT 

「フィフス・エレメント」の画像です
1997年作品。127分。アメリカ・フランス合作。配給日本ヘラルド映画。製作パトリス・ルドゥー。監督・原作リュック・ベッソン。脚本リュック・ベッソン、ロバート・マーク・ケイメン。撮影ティエリー・アルボガスト。編集シルヴィ・ランドラ。衣装ジャンポール・ゴルチエ。音楽エリック・セラ。コーベン・ダラス=ブルース・ウィルス、ゾーグ=ゲイリー・オールドマン、リールー=ミラ・ジョヴォヴィッチ、コーネリアス=イアン・ホルム、ルビー・ロッド=クリス・タッカー、ビリー=リューク・ペリー、マンロー将軍=ブライオン・ジェームズ、リンドバーグ大統領=ティニー・リスターJr

 前作「レオン」では、ハリウッド的なアクションをうまく生かしていたが、「フィフス・エレメント」は、ハリウッドSFの悪いところを集約したような駄作だ。幼稚なストーリーと弛緩した映像に100億円の製作費が費やされた。

 リュック・ベッソンは、物語のうまさではなく、映像の巧みさで引き付けるタイプの監督だが、世界救済のイマジネーションはあまりにも貧困だ。23世紀のビジョンも、人種や文化の混在化を除けば、二昔前のお手軽なSFコミックと変わらない。衣装を担当したジャンポール・ゴルチエは、監督の個性を際立たせるデザイナーのはずだが「コックと泥棒、その妻と愛人」(ピーター・グリーナウェイ監督)や「キカ」(ペドロ・アルモドバル監督)でみせた冴えが感じられなかった。

 唯一の救いはエリック・セラの音楽だ。さまざまなジャンルの音楽を取り入れ、要所要所で映画の雰囲気を盛り上げていた。中でも異星人ディーヴァが歌う「ザ・ディーヴァ・ダンス」はオペラとヒップを見事に融合し、束の間の至福をもたらしてくれた。


 THE 

 PILLOW 

 BOOK 

「枕草子」の画像です
1996年作品。127分。 イギリス・フランス・オランダ合作映画。配給エース・ビクチャーズ。監督 ・脚本ピーター・グリーナウェイ。撮影サッシャ・ヴィエルニー。録音ガース・マーシャル。エグゼクティブ・プロデューサー=デニス・ウィッグマン。プロデューサー=キース・カサンダー。書・カリグラフィー=ブロディ・ノイエンシュヴアンダー。美術・衣装ワダエミ。清原諾子(ナギコ)ヴィヴィアン・ウー、父=緒形拳、ジュローム=ユアン・マクレガー、出版者=オイダ・ヨシ、清少納言、叔母、メイド=吉田日出子、母=ジュディ・オング、ナギコの夫=光石研、ホキ=本田豊

 主人公が生き生きしているピーター・グリーナウェイの映画を初めて観た。これまでは、悪意に満ちた知的な遊戯が作品を支配し、登場人物はからくり人形のように存在感が希薄だった。作品を制御しきれなかった結果ではないだろう。音楽の使い方も柔軟になっている。グリーナウェイの新しい地平として評価したい。

 もっとも、作品が十分に成功しているかといえば、否定的にならざるを得ない。中国人のヴィヴィアン・ウーを起用したことは、許せる。しかし日本の文字に対するいいかげんな美意識はグリーナウェイらしくない。肌に文字を書かれることの快感は、流れるような美しい文字によって支えられる。映画の文字はうまくない上に、武骨な漢字の楷書ばかりでエロティックさに欠ける。おどろおどろしい寺山修司的な世界はそぐわない。スレンダーな東洋人の肌に、ひらがなか草書体で書けば官能的な優雅さが伝わったはずだ。

 映像をデジタル化し、複数の映像を重ねるなどさまざまな技法を凝らしているが、全体を通じて妙に薄っぺらな印象が残った。「プロスペローの本」で切り開いた重層化した映像の豪華さが感じられない。代わりに、安易な東洋趣味に流れる場面が目立った。

 しかし、 身体中に文字を書かれて死んだ同性愛の相手の死体を掘り出し、皮膚をはぎとって巻紙に整え、全身に巻つけて恍惚となるシーンには、グリーナウェイらしい 残酷な官能が息づいていた。深みとバランスを欠いているものの、映像密度の高さにはいつもながら圧倒される。


「コーカサスの虜」の画像です

 PRISONER 
 OF 
 THE 
 MOUNTAINS 

1996年作品。95分。 カザフスタン・ロシア映画。監督セルゲイ・ボドロフ。製作ボリス・ギレル、セルゲイ・ボドロフ。脚本セルゲイ・ボドロフ、アリフ・アリエフ、ボリス・ギレル。撮影パーヴェル・レベシェフ。美術ヴァレリー・コストリン。音楽レオニード・デシャトニコフ。サーシャ=オレグ・メンシコフ、ワーニャ=セルゲイ・ボドロフ・ジュニア、アブドゥル・ムラット=ドジェマール・シハルリジェ、ジーナ=スサンナ・マフラリエヴァ、ハッサン=アレクサンドル・ブレエフ、大佐=アレクセイ・ジャルコフ、ワーニャの母=ヴァレンティナ・フェドトヴァ

 チェチェン戦争は、コーカサスとロシアの長い対立と融和の歴史を背景にした、しかし奇妙な戦いだ。この作品は90年代のチェチェン戦争をテーマにした初めての映画だが、戦いの不可解さを象徴するように、最後まで視点が定まっていない。その歯切れの悪さをどう読むかで、この映画の評価が分かれるだろう。

 ロシア兵を襲って捕虜にしたチェチェン人がロシア軍に自由に出入りしていた。捕虜になった子供が母親に手紙を書き、その母親と捕虜にした チェチェン人 が直接会って交渉した。武装して襲わなければ拘束しないのかと思っていたら、最後にロシア軍が村を無差別空曝した。観ていて不思議に思うシーンだが、それが事実だという。おおらかさと残酷さが隣り合せの連続に戸惑い続けた。これが現代の戦争か。

 距離感を保ち直接ロシアの侵略性を批判してはいないものの、チェチェンの長老アブドゥル・ムラットの最後の許しに、報復の連鎖を断ち切るという監督の希望が託されていることは間違いないだろう。


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