キネマ点心のロゴです

Image Change Yamucya(JAVA)

懐かしのブロック崩しゲーム


「キュア」の画像です 

  CURE 

1997年作品 。111分。日本映画。製作=大映。配給=松竹、松竹富士。監督・脚本=黒沢清。製作=加藤博之。企画=池田哲也、神野智。プロデューサー=土川勉、下田淳行。撮影=喜久村徳章。照明=金沢正夫。美術=丸尾知行。編集=鈴木歓。音楽=ゲイリー芦屋。高部賢一=役所広司、佐久間真=うじきつよし、間宮邦彦=萩原聖人、高部文江=中川安奈。

 胸元をXに切り裂く殺人事件が続発するが、加害者はそれぞれ違っている。謎が深まる中、一人の記憶喪失者が重要参考人として浮かび上がる。一種のサスペンスではあるが、 犯人探しの映画ではない。テーマは、犯行の動機と催眠のかけ方、そして心を病む妻に疲れ果てている刑事・高部と犯人の壮絶な闘いですらない。倫理の壁が崩れかけている人間のもろさと狂暴さこそ、この作品の主題だ。感性の繊毛を逆なでする音と映像が、よそよそしい爛れた水のような恐怖を静かに育てる。

 私達を不安にさせる映像。そこには「羊たちの沈黙」(ジョナサン・デミ監督)を連想させる根源的な問いが偏在する。日常の中に殺人を忍び込ませる手つきは、こちらの方が一枚上かもしれない。また明治時代の映像を挿入することで、現代人を特殊化するような逃げ道も封じている。私達は最後まで何一つ答えを与えられない。刑事が犯人を射殺するラストシーンで安堵する自分が寒々しくなる。自分の疲弊した感性にぞっとする。

 観終わって席を立ったとき、周囲の人が怖かった。皆んなこころなしか、きつい眼をしていた。久々にオリジナリティの高い恐怖映画だった。


「ネイティブ・ハート」の画像です 

  ネイティブ・ハート 

  Last of Dogmen

 
1995年作品。118分。アメリカ映画。配給=東宝東和。監督・脚本タブ・マーフィー。製作ジョエル・B・マイケルズ。製作総指揮マリオ・カサール。撮影監督カール・ウォルター・リンデンラウブ。編集リチャード・ハルセイ。音楽デイビッド・アーノルド。衣装デザイン=エリザ・ザンパレッリ。ルイス・ゲイツ=トム・ベレンジャー、リリアン・スローン=バーバラ・ハーシー。ディーガン保安官=カートウッド・スミス、イエロー・ウルフ=スティーブ・リービス、ブリッグス=アンドリュー・ミラー、ジップ=ジップ

 130年前に白人の大虐殺によって絶滅したとされるネイティブ・アメリカン・シャイアン族が山奥で生き続けている。それを発見した人類学者とカーボーイは彼等とともに生きる道を選び、村人もシャイアン族生存の秘密を守るという物語。いい気なものである。タブ・マーフィー監督は、シャイアンの側に立ったつもりなのだろうか。こんな脳天気なストーリーで満足している限り、先住民族とは出会えない。シャイアン族の描き方もあまりに平板すぎる。

 やや甘い点はあるものの「ダンス・ウイズ・ウルブス」(ケビン・コスナー監督)には、凄惨な歴史を背負った緊張感があった。「ネイティブ・ハート」の葛藤のなさはどうだろう。人類学者がシャイアンの生活を記録するために彼等と合流するという選択が何のためらいもなく進んでしまう。人類学者が行方不明になれば、そこからシャイアンの存在が知られる可能性は極めて大きい。だいたい人類学の歴史をみれば、異民族の発見とその文化の紹介が、結果として民族文化の破壊、民族の絶滅につながったことは明かだ。人類学者のこの苦悩を問わなければ、映画に血が通わないのではないか。


「ブエノスアイレス」の画像です 

  ブエノスアイレス 

  HAPPY TOGETHER

 
1997年作品。98分。香港映画。配給=プレノンアッシュ。製作総指揮=チャン・イーチェン。監督・脚本・製作=ウォン・カーウァイ(Wong Kar-wai)。撮影=クリストファー・ドイル。美術=ウィリアム・チャン。編集=ウィリアム・チャン、ウォン・ミンラム。音楽=ダニー・チョン。ファイ=トニー・レオン、ウィン=レスリー・チョン、チャン=チャン・チェン

 「天使の涙」で一つのスタイルを極めたウォン・カーウァイ監督は、地球の裏側のアルゼンチンに舞台を移し、だるい閉鎖空間からの脱出を試みた。すべてが崩れ落ち、そして浄化されるイグアスの滝のシーンに監督の思いが集約されている。久しぶりに、フランク・ザッパの曲が似合う作品に巡り会った。

 舞台は移ったが、虚ろな感触がリアルな質感に変わった訳ではない。空回りする切実な思いがふっきられた訳ではない。相変わらず、憔悴と奇妙な滑稽さが共存する独自の官能を漂わせている。しかし、とにかく世界を移動して台北に戻ってくる必要があった。同性愛を描くことで性別を超えた個性を描く必要があった。幾分甘いラストシーンも次へのステップとしての意味がある。現在と格闘し続ける骨太でたおやかなセンスは、当分信用していい。


 

  家族の気分 

 

 Un Air De Famille 

「家族の気分」の画像です
1996年作品。111分。フランス映画。配給=フランス映画社。監督セドリック・クラピッシュ。脚本アニエス・ジャウイ、ジャン=ピエール・バクリ、セドリック・クラピッシュ。撮影ブノワ・ドゥロム。美術フランソワ・エマニュエリ。音楽フィリップ・エデル。編集フランシーヌ・サンベール。衣装コリンヌ・ジョリー。アンリ・メナール=ジャン=ピエール・バクリ、ドニ=ジャン=ピエール・ダルッサン、ヨヨ=カトリーヌ・フロ、ベティ=アニエス・ジャウイ、母=クレール・モーリエ、フィリップ・メナール=ウラディミール・ヨルダノフ

 集団劇の楽しさに満ちた前作「猫が行方不明」で、パリの下町での騒動と人の出会いを、新鮮な切り口で見せたセドリック・クラピッシュ監督。今度は6人の登場人物に的を絞って、シリアスとコメディのカクテルに挑んだ。ヒットした舞台の映画化で配役も同じ。派手さはないが気持ちの良い味に仕上げた。「猫が行方不明」と同時に撮影したという離れ業も特筆に値する。

 登場人物の印象が自然に変化していく巧みな脚本。さえないバーテンのドニがどんどん魅力的になり、清楚な夫人のヨヨが酔うほどに毒を振りまき始める。そつがなさそうに見えたフィリップは小心さを露にし、口の悪いアンリは愚直な生き様を印象づける。つっぱっていたベティも柔らかさを取り戻す。そんな中でマイペースの母親だけは 変わらない。よくある親子、夫婦のいさかいとやさしさを程よく焼上げた家庭料理。そのお行儀のよさも監督の演技の一つだろう。


「萌の朱雀」の画像です 

  萌の朱雀 

 

 SUZAKU

 
1997年作品。95分。配給=ビターズ・エンド。プロデューサー=仙頭武則、小林広司。監督・脚本=河瀬直美。撮影=田村正毅、照明=鈴木敦子。美術=吉田悦子。編集=掛須秀一。音楽=茂野雅道。田原孝三=国村隼、みちる=尾野真千子、幸子=和泉幸子、栄介=柴田浩太郎、泰代=神村泰代、栄介(子役)=向平和文、みちる(子役)=山口沙也加

 観終わった映画について誰かに話したい思いで一杯になるのに、言葉がうまく見つからなくて切ない気持ちになる。すぐれた映画に出会った時に共通する感情。とりわけ「萌の朱雀」は、感想を言葉にする空しさを味わわされる作品だ。地域の人たちとともに生活しながら地域の人たちとともに映画をつくる。小川紳介監督を連想させる手法が 27歳の河瀬直美監督に引き継がれ、密度の高い作品に結実したことを喜びたい。

 ときに録音状態が悪く会話が聞き取れなかったり、歴史的な背景を切り詰めたためにストーリーがくみ取りにくいという欠点はある。しかし、地域に溶け込みつつ大胆な省略法で情感を凝縮していく独創性は、なにものにも代えがたい魅力だ。いつもは個性が強い国村隼が背景に回り、他の人たちを支えている姿勢がまぶしい。そして一家の離散を迎えて、それまで家を支えてきた気丈な幸子の思い出が一気に歴史をさかのぼり山と溶け合うラストシーンでは、悲しみとともに不思議な恍惚感に包まれた。


河瀬直美・大島渚対談(1997年12月9日、札幌)

  東京日和 
 

TOKYO-BIYORI

 

「東京日和」の画像です
1997年作品。121分。配給=東宝。監督=竹中直人。脚本=岩松了。撮影=佐々木原保志。照明=安河内央之。美術=中澤克己。編集=奥原好幸。音楽=大貫妙子。ヨーコ=中山美穂、島津=竹中直人、水谷=松たか子、高橋=田口トモロヲ、篠崎=温水洋一、平田=利重剛、鈴木=水橋美奈子、外岡=三浦友和、宮本=鈴木砂羽、テツオ=類家大地、山田=山口美也子、前田=塚本晋也、警察官=中田秀夫、若い男=浅野忠信、郵便屋=周防正行、テツオの祖母=久我美子、阿波野=森田芳光、すみちゃん= 柳愛里、バーの客=しりあがり寿、バーテンダー=須賀不二男、旅館の女将=藤村志保、床屋のおじいさん=村上冬樹、車掌=荒木経惟

 待望の竹中直人監督作品。荒木経惟、陽子夫妻の「東京日和」をどう料理するか、注目された。結論は無残というしかない。脚本が散漫で、写真集から借りてきたような映像が場面をつないで行くばかり。いいかげんにしてくれと言いたくなるほど、配役も大半が必然性を感じさせない。あるいは監督自身の人間関係を誇示させるような印象を受ける。隠し芸大会ではないはずだ。

 肝心の夫婦間の葛藤と愛も、引き寄せて凝視されてはいない。荒木経惟の優しさとふてぶてしさ、陽子の繊細さと凄みが、ぬぐいさられ、淡い悲しみだけが虚ろに演出されている。荒木夫妻に気兼ねするくらいなら、映画を撮るべきではない。「無能の人」で魅せた潔さは、どこにいってしまったのだろうか。

 話題となった中山美穂の演技も「ラブレター」(岩井俊二監督)に比べると、まだ迷いが感じられる。「アデルの恋の物語」(トリュフォー監督)のイザベル・アジャーニと比べるのは酷かもしれないが、もう一歩の踏み越えがほしい。


 EVENT 
 HORIZON 

「イベント・ホライゾン」の画像です
1997年作品。96分。配給=UIP。監督ポール・アンダーソン(Paul Anderson)。脚本フィリップ・アイズナー。撮影エイドリアン・ビドルB.S.C.。特撮監督リチャード・ユーリッヒ。美術ジョセフ・ベネット。編集マーティン・ハンター。衣装デザイン=ジョン・モロ。音楽マイケル・ケイメン。ミラー大佐=ローレンス・フィッシュバーン、ウェアー博士=サム・ニール、ピーター技師=キャスリーン・クインラン、スターク中尉=ジョエリー・リチャードソン、クーパー技師=リチャード・T・ジョーンズ、ジャスティン技師=ジャック・ノーズワーシー、獣医DJ=ジェイソン・アイザックス、スミス・パイロット=ショーン・パトーウィー、キルパック=ピーター・マリンカー、ウェアーの妻クレア=ホリー・チャント、ピーターの息子デニー=バークレー・ライト

 特撮の満漢全席と言えるほど、さまざまなテクニックを駆使したSFサイコホラー。中世を思わせるデザインと爆破シーンは見応えがある。しかしブラックホール=地獄というあきれかえる設定が、この映画の価値を著しくおとしめることになった。どんなに新しい技術を用いても、それが古くさい価値観を増強するだけでは、深い感動は得られない。ポール・アンダーソンは、大変に器用な監督だが観客をなめている。

 人間の奥深い記憶を具現化するというアイデアは、タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」を連想させる。しかし十分に深められず、主題とつながっていない。サイコホラーの面ではアイデアの処理が生煮えで「羊たちの沈黙」など、さまざまな作品が思い出された。そのため、最後まで二番煎じという印象を拭い去ることができなかった。

 宇宙は私達の狭い価値観を相対化する場だ。外部に触れるとは、そういうことだろう。無というものにたじろがず、ブラックホールが何かという基本から組み立てるべきだった。今私達が1950年代のB級SF映画の非科学性を笑うように、この作品は後世に必ず笑わる映画だ。1990年代の特殊効果の水準を示す例として引用されながらも。


1996-97年バックナンバー
96年

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

12月

97年

1月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月


点です バーのカウンターへ

 Visitorssince97.12.01