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TWISTER

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1996年作品。113分。配給:UIP。監督ヤン・デ・ボン。脚本マイケル・クライトン、アン=マリー・マーティン。製作総指揮スティーブン・スピルバーグ。撮影ジャック・N・グリーン。編集マイケル・カーン。美術ジョセフ・ネメック。音楽マーク・マンチーナ。ジョー=ヘレン・ハント、ビル=ビル・パクスリン、メリッサ=ジャミ・カルツ、ジョーナス=ケリー・エルウェス、メグ=ロイス。スミス、ラビット=アラン・ラック、ダスティ=フィリップ・ホフマン。

 竜巻とのアクション巨編。ストーリーを追うよりも、そのあまりにも自然なCGの世界を体験するタイプの映画だ。ジェット・コースター的な映画の典型といえる。しかし、そのためには劇場の設備が力不足だった。

 映画は、不安定な空の様子から始まる。説明を排した導入はなかなかいい。そして、すさまじい竜巻のシーンに圧倒される。この地下室の扉とともに飛ばされる場面が、あとの重要な伏線になっている。竜巻の仕組みを調べる目的で竜巻を追い続ける人たちという物語は、重要ではない。ラブ・ストーリーも竜巻のために、組み立てられている。

 ただ、死を恐れずに幾度も竜巻に向かうジョーの姿は、尋常ではない。トラウマとして説明するのにも無理がある。ランボーすら彷彿とさせる、向こう見ずさが異様だ。しかし人物を分析するのはよそう。この映画の主人公は、あくまで竜巻なのだ。こういう映画があってもいい。


デッドマン・
ウォーキング

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1995年作品。123分。配給:日本ヘラルド映画。監督・製作・脚本ティム・ロビンス。製作総指揮ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー。原作シスター・ヘレン・ブレイジョーン。撮影ロジャー・A・ディーキンス。音楽デヴィッド・ロビンス。シスター・ヘレン・ブレイジョーン=スーザン・サランドン、マシュー・ポンスレット=ショーン・ペン。

 シスター・ヘレン・ブレイジョーン役を演じるスーザン・サランドンが、原作に感動してパートナーのティム・ロビンスに映画化を勧めた作品。原作は明確に死刑廃止を打ち出しているが、ロビンスは死刑囚の美化を避け被害者の家族にスポットを当てる。被害者の家族の喪失感、苦しみを丹念に描く一方、死刑囚の内面や犯罪の動機には無頓着だ。それゆえに、見方によっては、死刑肯定ともとられかねない展開になっている。

 死刑囚マシュー・ポンスレットが、最後に訴える「誰に殺人をしてはならない。たとえ政府でも」という訴えに、原作者の思いが込められているが、しかし犯罪者がそこまで悟のは、死刑制度があったからとも考えられる。それまでのストーリーは、どうしても被害者の苦悩と犯罪者の無反省さを印象づける。

 とはいえ、観客に死刑制度を考えさせる事には成功している。死刑は、社会と国家を問い返すには、またとないテーマだ。近代の刑罰は、犯罪者を立ち直らせる教育刑、懲役を基本としているが、死刑は明らかに国家による報復刑であり、両者の間の溝はあまりにも深い。その溝がキリスト教によって回避される結末には、不満が残る。観客は納得し、思い問いを忘れて家路に就く。

 被害者の家族が憎しみを経て、家族を失った苦悩の果てに、死刑囚の家族への思いやりに至らないのは現実的ではないだろう。また、死刑を執行する刑務官たちの戸惑いを描いていないのが不思議だ。見ず知らずの人間を殺すのに「仕事だから」では済まされないだろう。

 薬殺刑は、麻酔薬から注射するので死刑囚の苦しみを見ずにすむ。それにしても、処刑台での薬殺を克明に描いたシーンは大きな反響を呼んだ。しかし、あまりにも衛生的だ。私はキェシロフスキ監督の「殺人に関する短いフイルム」の、汚物を垂れ流す絞死刑の後味の悪さを思い出していた。


天使の涙

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1995年作品。香港映画。96分。監督・脚本・製作総指揮ウォン・カーウァイ。製作チャン・イーチェン。撮影クリストファー・ドイル。美術・編集ウォリアム・チョン。音楽フランキー・チャン、ローエル・A・ガルシア。殺し屋レオン・ライ、エージェント=ミシェル・リー、モウ=カネシロ・タケシ、失恋娘チャーリー・ヤン、金髪の女カレン・モク。

 殺し屋。金髪。フェティシズム。ウォン・カーウァイ監督の嗜好をストレートにぶつけた新作はテンションが高い。超広角レンズを使った映像が、夢のように浮遊した時代を官能的に写し出す。少し歪んだ若者たちの生き方を、即興を生かしながら映像化する手法は、一つの頂点を極めたといえるだろう。

 今回の音楽の挿入は、前作『恋する惑星』に比べてわざとらしさが薄れた。殺し屋のベッドで、エージェント役ミシェル・リーがする迫真の自慰。そのバックに流れるロンリー・アンダースンが素敵だ。そのほかの音楽の使い方は、いかにも分かりやすいが嫌味ではなくなった。

カネシロ・タケシの即興は、すっかり定着した感じ。深夜の肉屋に忍び込んで行なう死んだ豚へのマッサージは、屈折した孤独を巧みに表現していて印象に残った。殺し屋と金髪女の駆け引きのテンポも絶妙。皆好演しているので目立たないものの、自分勝手な失恋娘役のチャーリー・ヤンもいい味を出している。

 この作品が『恋する惑星』から派生したものであり、監督の好みだから仕方がないが、 それにしてもプロの殺し屋という設定はかなり無理がある。『レオン』くらいの設定がほしいところだ。もっとも、西部劇のような派手な殺戮シーンさえ、夢のなかのようでリアリティがないのが持ち味ともいえる。力のある暴力シーンが表現できないのは、ウォン・カーウァイ監督のせいではない。


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イル・ポスティーノ

1995年作品。107分。監督マイケル・ラドフォード。製作総指揮アルベルト・パッソーネ。脚本フリオ・スカルペッリ。原作アントニオ・カスルメタ。撮影フランコ・ディ・ジャコモ。音楽ルイス・バカロフ。美術ロレンツォ・バラルディ。マリオ= マッシモ・トロイージ、パブロ・ネルーダ=フィリップ・ノワレ、ベアトリーチェ=マリア・グラツィア・クチノッタ

 『野性の夜に』(シリル・コラール監督)もそうだったが、主人公が若くして死んでいる映画を観るときは、複雑な思いに襲われる。「イル・ポスティーノ」も、マリオ役のマッシモ・トロイージが撮影終了の翌日に41歳で急死している。トロイージは製作にも深くかかわり、心臓病と闘う自身の苦痛さえも映画に利用しているかのようだ。最後に悲劇が待っているとはいえ、全体に詩的で微笑ましくもあるこの映画をトロイージの必死の演技が引き締めている。

チリからイタリアに亡命してきた詩人パブロ・ネルーダに、詩を教えられた郵便配達人マリオが、憧れたベアトリーチェと結婚し、社会にも目を向けていく。女性の描き方がやや男の身勝手な気がするものの、ナポリの美しい風景の中で輝き始める言葉の力を味わった。音楽も素晴しい。一見ノスタルジックで後ろ向きの映画ととられかねないが、むしろ静かに未来を指差している作品だと思う。


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  上海ルージュ 

1995年作品。109分。中国・フランス合作。監督:張芸謀(チャン・イーモウ)。脚本ピー・フェイウー。撮影リュイ・ユエ。美術ツァオ・チウピン。作曲チェン・グァンティエン。小金宝=コン・リー、タン=リー・バオティエン、リウ叔父=リー・シュエチェン、ソン兄貴=スン・チュン、シュイション=ワン・シャオシャオ

 1930年代の上海ギャングの非情な世界を、12歳の少年シュイションの眼を通じて描いた作品。ナイトクラブやタンの豪邸などきらびやかで華やかな世界の裏で、陰謀術策と殺人が繰り広げられるが、監督の意図はその暗部を描くことにはないと思う。前半の上海の華やかさや抗争シーンは、どこかしっくりこない。映像にチャン・イーモウ監督らしい力がない。むしろ後半の島の風景に移ってから、監督らしさが戻ってくる。

コン・リーも、前半は歌姫としての華やかさの影でタンの拘束に苦しむ姿よりも、身勝手で挑戦的な女性を演じるのに精一杯といった感じだったが、島で出会った少女と童謡によって、自分を見つめ直すあたりから彼女らしい魅力がにじみ出てくる。『紅いコーリャン』とは別の側面から、大地に根差した生活の貴重さを体現する。

 もっとも、チャン・イーモウ監督はそういう素朴な生活が、金と暴力の力で破壊されていく過酷な現実を描くことも忘れない。そこに映画製作を通じて現実と格闘し続ける監督の切実な思いが込められているのだろうか。


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