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 CRASH 

1996年作品 。カナダ映画。104分。制作・脚本・監督デビッド・クローネンバーグ。製作総指揮ロバート・ラントス、ジェレミー・トーマス。撮影監督ピーター・サスチスキー。美術キャロル・スピア。衣装デザイン=デニス・クローネンバーグ。音楽ハワード・ショア。編集ロン・サンダース。原作J・G・バラード。ジェームズ・バラード=ジェームズ・スペイダー、ヘレン・レミントン=ホリー・ハンター、ヴォーン=エリアス・コーティアス、キャサリン・バラード=デボラ・アンガー、ガブリエル=ロザンナ・アークエット、コリン・シーグレイヴ=ピーター・マックニール

 全体を包む冷え切った質感がたまらない。金属的なタイトルと音楽。突き離しながらも、人間に寄り添っていく映像。狂おしい情念を秘めた人たちが淡々と出会い、そして散り散りに消えていく。映画の文法を静かに、しかし決定的に超える自在な展開で、クローネンバークは90年代を代表する傑作を生み出した。

 ジェームズ・バラードは、交通事故を起こすが、その時の興奮が忘れられない。衝突した相手の車に乗っていた女性によって、自動車事故による性的興奮を求める人たちの存在を知らされていく。彼等の無表情の奥に燃える欲動。ホリー・ハンターがめちゃくちゃにうまい。ロザンナ・アークエットもマゾヒステックな情念を演じ切っている。

 1955年9月30日のジェームズ・ディーンの死亡事故を再現するヴォーンの衝突シーンが異様なまでにリアルだ。今日も世界のどこかで交通事故死した有名人の事故再現ショーが繰り返されているような感触を持った。振り返ってみると、私たちも交通事故死にある特別な感情を抱いている事が分かる。ベルトリッチ監督が言っているように、この映画は極めて宗教的な深みを持った作品だ。


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 [Focus] 

1996年作品 。企画=原正人、黒井和男。監督=井坂聡。脚本=新和男。音楽=水出浩。撮影・照明=佐野哲郎。美術=丸尾和行。編集=井坂聡。金村=浅野忠信、岩井=白井晃、容子=海野けい子、カメラマン=佐野哲郎

 斬新にして面白く、しかも毒がある。見事な脚本に、計算された映像。映画とテレビの狭間を手探りしながら紡ぎ出された映像によって、現代の核心に迫る傑作が誕生した。またしても、浅野忠信はその類稀なる演技で作品を輝かせている。

 物語は盗聴マニアの青年にテレビ局が取材するシーンから始まる。いかにもぎこちなく、しきりにカメラを気にする青年。最初は気になったテレビカメラを通じた視線が、やがて自然に感じられる。そして、マスコミのいやらしさを体現するディレクターの言動に思わず笑ってしまう。

 車の中で偶然銃の密取り引きの電話を盗聴したことで、ストーリーは急に緊張し始める。先回りして銃を手に入れ、急きょスクープに仕上げようとするディレクター。金村に銃を持たせて感想を聞こうとしたときに、不良グループに絡まれ、車を傷つけられた金村が不良少年を射殺、ストーリーは意外な展開をみせる。

 朝日を観て油断した金村の銃を、容子が奪おうとして金村を殺すシーンで映画は終る。最後はカメラのバッテリーが切り、エンドマークも出ない。金村が起き上がって監督に文句をつけるというラストも検討されたそうだが、こちらのほうがすっきりしている。入れ子構造の映画はいくらもあるのだから。

 テレビの報道姿勢を問題にした作品では、「ありふれた事件」(レミー・ベルボー、ブノワ・ポールブールド、アンドレ・ボンセン監督)が連想される。しかし[Focus]の方がはるかに切れ味が良かった。

 同時上映の「月とキャベツ」(篠原哲雄監督)は、大甘のラブ・ファンタジー。意外な展開をみせるのかと期待していたが、予想通りの凡庸な終り方だった。曲を作れなくなり、キャベツをつくっているシンガーソングライターの所にファンの少女がやって来て、その影響で創作意欲が回復する。しかしその少女はすでに事故で死んでいた。

 70年代なら許せるが、90年代では脳天気すぎる。一面のキャベツ畑で「このキャベツが皆飛び立ったらすごい」という会話があるが、ここでもしCGを使ったらさぞ楽しい作品になったのにと惜しまれた。


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 ジャイアント・ピーチ 

1996年作品。112分。監督ヘンリー・セリック。製作デニーズ・ディ・ノヴィ、ティム・バートン。脚本カーリー・カークパトリック、ジョナサン・ロバーツ、スティーブ・ブルーム。原作ロアルド・ダール。製作総指揮ジェイク・エバーツ。共同製作ブライアン・ローゼン、ヘンリー・セリック。音楽ランディ・ニューマン。撮影ピート・コザチク、ヒロ・ナリタA.S.C。編集スタン・ウェッブ。コンセプト・デザイン=レーン・スミス。アニメーション監修ポール・ベリー。ジェームス=ポール・テリー、美人グモ=スーザン・サランドン、ムカデ=リチャード・ドレイファス、テントウ虫=ジェーン・リーブス、キリギリス=サイモン・カーロウ、ミミズ=デビッド・シューリス、土ホタル=ミリアム・マーゴルイズ、スパイカーおばさん=ジョアンナ・ラムリー、スポンジおばさん=ミリアム・マーゴルイズ、老人=ピート・ポッスレスウェイト
 「ナイト・メア・ビフォア・クリスマス」のスタッフが再結集して創造した人形アニメ・ファンタジー。憧れの街がニューヨークというのは原作の古さによるものだが、ストーリー自体も全体に甘すぎる。ただし、実写部分のわざとらしさが、アニメでは微塵もみられない。何度観ても飽きないほど自然で楽しいアイデアがぎっしりとつまっている。

 とりわけ素晴しいのは機械じかけの鮫との戦いのシーンだ。さまざまな映像を取り込みながら、なんというリアルさを生み出していることか。星空バックにしたミュージカルシーンも忘れ難い。うっとりするほど見事なテンポだ。また、最後の最後に用意された遊び心あふれるゲームのシーンをくれぐれも見逃さないように。

 同時上映の6分間の短編アニメ「ヴィンセント」(1984年)にも触れておこう。7歳のエドカー・アラン・ポー好きな男の子の怪奇な空想の世界は、毒のある展開が魅力的。屈折したバートン色一杯で「ジャイアント・ピーチ」の甘さと対照的だった。長編と短編の絶妙なハーモニーという点では、「耳をすませば」「オン・ユア・マーク」を連想させる。


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 リチャードを探して  

1996年作品。112分。監督アル・パチーノ。製作マイケル・ハッジ、アル・パチーノ。製作総指揮ウィリアム・タイトラー。撮影ロバート・リーコック。美術監督ケヴィン・リッター。音楽ハワード・ショア。エリザベス王妃=ペネロパ・アレン、ドーセット=ゴードン・マイケルズ、リヴァーズ=マディソン・アーノルド、グレイ= ヴィンセント・アンジェル、リチャード三世=アル・パチーノ、エドワード王子=ティミー・プレイリー、皇太子=ランドン・プレイリー

 最初に「king  richard」と出て、それが「looking for richard」に変わるところから、アル・パチーノの遊び心がいっぱい。しかし、基本はシェークスピアの良さをいかにして多くの人たちに理解してもらえるかという生真面目なスタンスだ。

 同じくシェークスピアを扱いながら、大胆に換骨奪胎し絢爛たる幻の世界を築いた「プロスペローの本」のピーター・グリーナウェイ監督、「世にも憂鬱なハムレットたち」で俳優たちの生きざまをコメディに仕上げたケネス・ブラナー監督の手練に比べ、なんというストレートな姿勢だろう。

 現地訪問や著名人、市民へのインタビューをはさみながら、練習風景、議論、そして劇中劇へと進んでいく。アル・パチーノのシェークスピア劇への熱い思いが、映像からあふれ出す。しかし、圧巻は演劇の迫力だ。画面がピーンと緊張する。この熱演を観るだけで、人々は「リチャード三世」を実際に観たいと思うだろう。メーキングの手法を大胆に取り入れることで、シェークスピア劇の魅力を伝えることに成功している。


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