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 愛のめぐりあい 

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1995年作品。110分。監督ミケランジェロ・アントニオーニ。提供・共同監督ヴィム・ヴェンダース。脚本ミケランジェロ・アンニリオーニ、ヴィム・ヴェンダース、トニーノ・グエッラ。撮影アルフィオ・コンティーニ、ロビー・ミュラー。美術チエリー・フラマン。・プロローグ、エピローグ=私(映画監督):ジョン・マルコヴィッチ、第一話フェラーラ「ありえない恋の物語」=カルメン:イネス・サストル、シルヴァーノ:キム・ロッシ=スチュアート、第二話:ポルトフィーノ「女と犯罪」=私(映画監督):ジョン・マルコヴィッチ、若い女:ソフィー・マルソー、第三話:パリ「私を探さないで」パトリツィア:ファニー・アルダン、オルガ:キアラ・カゼッリ、ロベルト:ピーター・ウェラー、カルロ:ジャン・レノ、第四話:エクス・アン・プロヴァンス「死んだ瞬間」=若い女:イレーヌ・ジャコブ、ニッコロ:ブァンサン・ペレーズ、画家:マルチェロ・マストロヤンニ、その友人:ジャンヌ・モロー

 ミケランジェロ・アントニオーニ監督自身が書いた32編の短・中編小説集の中の4編を映画化したもの。撮影開始後に脳卒中で倒れ、企画は暗礁に乗り上げたが、ヴィム・ヴェンダースを共同監督とすることで、やっと実現した。

 さすらう男女の愛の断片を、執拗に描き続ける姿勢は変わらない。しかも、愛しあう姿ではなく、偶然に出会い、迷い、争い、別れる局面に監督の視線は注がれている。端正でありながら開かれている。寓話的でありながら肉感的である。そして、つかみかけた意味は、砂のように手のひらからすり抜けていく。

 今回のヴィム・ヴェンダースの活躍は、アントニオーニの映画を完成させた点で評価したいが、彼が監督した部分はべたべたしていて、アントニオーニの硬質な構成に似合わない。ただ、観客とアントニオーニをつなぐ役割ははたしているかもしれない。時折迷いの見えるヴェンダースには、アントニオーニ監督の確固とした姿勢こそ学んで欲しいものだ。

 それにしても、今回のR指定に落ち着いた映倫の無様さは、開いた口がふさがらない。小説に墨を塗っていた時代の感覚を持ち込むことは、いいかげんにやめてもらいたい。少なくとも雑誌の世界を見回せば、自ずと答えは出てくるだろうに。


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 KIDS RETURN 

1996年作品。108分。配給:オフィス北野。監督・脚本・編集:北野武。音楽監督:久石譲。撮影:柳島克己。美術:磯田典宏。編集:太田義則。マサル=金子賢、シンジ=安藤政信、担任-森本レオ、ジムの会長=山谷初男、サチコ=大家由祐子

 北野武監督第6作。監督として最大の危機といえる。前作「みんなーやってるか!」の「外し」とは正反対に、青春映画の枠に納まってしまった失敗作だ。「ソナチネ」で見事な地平を切り開きながら、既存の表現に戻って来たのは、なんとしても惜しい。北野監督のなかで何かが失われたのだろうか。

 漫才にヤクザという定番に、ボクシングが加わった展開。映画のツボをおさえ、観客を楽しませる術は心得ているが、映像的な独創性は乏しい。やんちゃを通しながら、結局闘いに破れた二人の主人公。「世の中そんなに甘くない」と思わせておいて、最後の台詞が続く。「これで終わったわけじゃないよね」「まだ始まってもいねぇよ」。見せかけの自由に対する皮肉には響かなかった。北野武も随分と甘くなったものだ。


 K I D S 

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1995年作品。92分。配給:松竹富士。監督ラリー・クラーク。製作ケイリー・ウッズ。脚本ハーモニー・コリン。撮影エリック・エドワーズ。テリー=レオ・フィッツパトリック、キャスパー=ジャスティン・ピアース、ジェニー=クロエ・セヴィニー、ルビー=ロザリオ・ドーソン、ハロルド=ハロルド・ハンター、ダーシー=ヤキーラ・ペゲエロ

 伝説のカメラマン・ラリー・クラーク。彼の写真集「タルサ」(1971年)は、スコセッシ監督の「タクシードライバー」、コッポラ監督「ランブルフィッシュ」、ガス・バン・サント監督「ドラッグストア・カウボーイ」に影響を与えた。そのクラークの初監督作品。ガス・バン・サントが製作総指揮に当たっている。

 70年代なら衝撃作といえたが、90年代後半ではドキュメンタリーのように「リアル」な作品というだけだろう。彼の写真のテーマとテクニックを映画に応用したに過ぎない。実験がない映像的には古くさい作品だ。ただ、脚本が22歳のハーモニー・コリンだから、少年たちの会話はいかにも自然に弾む。

 70年代と90年代を決定的に分けるもの。それがAIDSの存在だろう。少年たちの会話の中に表われる、驚くほどのAIDSに対する無知への警告こそが、この映画の基調にある。ただし、何らの希望も示しはしない。ラストで無根拠な希望を語るどこかの監督とは、さすがにラリー・クラークは違う。


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眠る男

1996年作品。103分。配給SPACE。製作「眠る男」製作委員会。企画:小寺弘之(群馬県知事)。監督:小栗康平。脚本:小栗康平、剣持潔。音楽:細川俊夫。美術:横尾嘉良。撮影:丸池納。編集:小川信夫。拓次=アン・ソンギ、ティア=クリスティン・ハキム、上村=役所広司、キヨジ=今福将雄、フミ=野村昭子、オモニ=八木昌子、ワタル=小日向文世、いんごう爺さん=瀬川哲也、大吾=渡辺哲、伝次郎=田村高広

 群馬県という地方自治体が劇映画を製作した日本で初めての作品。しかも、監督は寡作で知られる小栗康平とくれば、注目しないわけにはいかない。なにせ、監督作品は『泥の河』(1981)『伽椰子のために』(1984)『死の棘』(1990)の3本だけだ。

 これまでの作品は人間の葛藤にスポットを当ててきたが、「眠る男」は葛藤を表に出さない受動的な映画である。過疎の問題、アジアからの出稼ぎ問題など、社会的なテーマをはらんではいるが、物語は眠り続ける拓次を中心に淡々と流れていく。監督は「アジア的」と言うが、あまりにも受動的すぎる。自然と人間の関係は、人間が全くの受動となるのはむしろ例外で、農家の田園風景は江戸時代に人間が作り上げてきたものであることは良く知られている。

 四季の自然を写した場面は超絶的に美しく、時に息を飲むほどであった。『死の棘』の奄美の自然描写も刺さってくるほどに美しかった。その美しさは、トシオとミホの葛藤によってさらに冴え渡った。しかし、今回は人間の心の揺れと自然美が相乗効果を上げていない。唐突だが、葛藤から癒しへとアジアに目を向けたベルトリッチ監督を連想した。映画の不思議な結び付きだ。


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太陽と月に背いて

1995年作品。イギリス・フランス・ベルギー合作。112分。配給:日本ヘラルド映画。監督アニエスカ・ホランド。脚本クリストファー・ハナプトン。製作ジャン=ピエール・ラムゼイ・レヴィ。撮影監督ヨルゴス・アルヴァニティス。編集イザベル・ロレンテ。衣装デザイン:ピエール=イヴ・ゲロー。音楽ヤン・A・P・カズマレク。アルチュール・ランボー=レオナルド・ディカプリオ、ポール・ヴェルレーヌ=デヴィッド・シューリス、マチルド・ヴェルレーヌ=ロマーヌ・ホーランジェ、イザベル・ランボー=ドミニク・ブラン

 この作品は当初、故リヴァー・フェニックスがランボー役として企画された。フェニックスのランボーなら、より退廃的で繊細な映画になっただろうが、ディカプリオのランボーも、田舎育ちのたくましさと文学的な才気を発散し、それなりに納得できた。ただし、ヴェルレーヌの受動的なだらしなさは、いただけない。屈折した文学的なカインドが微塵も感じられなかった。

 作品的には、何ら新しくない。監督は詩の魔力が分かっていないのではないか。ランボー解釈もすこぶる通俗的で、詩人同士の愛と葛藤も、デカダンスの深まりも中途半端に終わっている。デカダンスといえば、リリアーナ・カブァーニ監督の「愛の嵐」、ヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」をすぐに連想してしまうが、その底無しの退廃美に比べ、「太陽と月に背いて」は表面的なレベルにとどまっている。張りつめた自我が、内側にねっとりと崩れていくような感じを描かないと退廃が匂ってこない。


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ベンヤメンタ学院

1995年作品。モノクロ。105分。監督ブラザーズ・クエイ。脚本ブラザーズ・クエイ+アラン・パス。原作ローベルト・ヴァルザー「ヤーコブ・フォン・グンテン」。音楽レシュ・ヤンコウスキ。撮影ニック・ノウランド。編集ラリー・サンダー。 プロデューサー:キース・グリフィス+ジャーニン・マーモット。共同製作:イメージ・フォーラム+パンドラ・フィルム。リーザ・ベンヤメンタ=アリス・クーリジ、ヤーコブ・フォン・グンテン=マーク・ライランス、ヨハネス・ベンヤメンタ=ゴットフリート・ジョン、クラウス=ダニエル・スミス

 ブラザーズ・クエイ監督の初の実写長編作は、形而上学的な不安に満ち、すぐにドイツ表現主義を連想させるが、死の空間で官能的なまどろみにすべてが包まれている点で、紛れもなく現代的な映画だといえる。ローベルト・ヴァルザーの「ヤーコブ・フォン・グンテン」を原作としながら、睡眠と覚醒の境界にある光だけの世界を定着させた。そこには確かな動機も意味も存在しない。

 ブルーノ・シュルツの短編をもとにした、一滴の唾から始まる怪奇ロマンの傑作「ストリート・オブ・クロコダイル」をはじめ、クエイ兄弟が生み出す人形アニメの人形たちは、驚くばかりの存在感を持っていた。それに対し「ベンヤメンタ学院」に登場する人間たちは、存在感が乏しく皆うつろに浮遊している。クエイ兄弟の世界では人形と人間が見事に逆転していた。

 ベンヤメンタ学院は執事を養成する奇宿舎付きの学校。しかし建物は以前牡鹿のムスクから香水をつくる工場だったため、今も発情した鹿のイメージに支配され、濃厚な官能が漂っている。その学院はヤーコブの入学で徐々に崩壊していくのだが、その展開よりも官能的にたえず揺れ、踊り続ける光の表情を楽しむ方がいいだろう。睡眠と覚醒の境界を体験するために。


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リービング
ラスベガス

1995年作品。112分。脚本・監督マイク・フィッギス。製作リラ・カゼス、アニー・スティアート。原作ジョン・オブライエン。撮影監督デクラン・クイン。衣装ローラ・ゴールドスミス。編集ジョン・スミス。ベン=ニコラス・ケイジ、サラ=エリザベス・シュー、ユーリ=ジョリアン・サンズ

 酒をのみ続けて死ぬためにラスベガスに来たアル中男ベンとマフィアのヒモと別かれた娼婦サラのラブストーリー。生き続けてほしいと願いつつ「酒を飲むな」と言わない約束を守りながら愛を貫く娼婦サラは、野たれ死に志向の男にとっては究極の天使かもしれないが、あまりにも男の身勝手がすぎないだろうか。

 娼婦サラを演じたエリザベス・シューは、「カクテル」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」など健康的なイメージが強いが、今回は汚れ役に挑戦した。俳優としての成長ぶりは認めるが、娼婦のしたたかさも崩れたところも感じさせないのが物足りない。

 アル中のベン役のニコラス・ケイジは、アカデミー賞でオスカーを手にした。死を決意しながらもベタベタしたところがなく、逆に残された人生を軽やかに、時にはコミカルに生きる姿は確かに共感できるが、アル中になった背景も死を決意した動機もあいまいなので、男の生き様として迫ってこない。

 「アルコールはやめましょう」という説教をする映画ではないだけが救い。しかし映画としては、展開がきれいごとすぎる。「きれいごとの愛じゃない」という宣伝コピーが泣く。


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スワロウテイル

1996年作品。149分。プロデューサー河井真也。脚本・監督:岩井俊二。音楽:小林武史。撮影:篠田昇。美術:種田陽平。照明:中村裕樹。ヒオ・フェイホン=三上博史、グリコ=Chara、アゲハ=伊藤歩、リョウ・リャンキ=江口洋介、マオフウ=アンディ・ホイ、ラン=渡部篤郎、シェンメイ=山口智子、レイコ=大塚寧々、鈴木野=桃井かおり

 岩井俊二監督は、言葉の微妙な響きを大切にし、甘美にゆったりと時が流れる『ラブレター』から一転、主人公がせわしなく動き回る、ガサついた色調の多国籍映画『スワロウテイル』を発表した。しかし確かな美意識と、映像の奥に透明な哀しみをたたえている点は、間違いなく岩井ワールドだ。

 基調としては、『ブレードランナー』『ブラックレイン』の影響下にある。その模倣を避けつつ、あの隈雑なパワーに満ちた世界への共感を隠さない。だいたい「グリコ」という名前が『ブラックレイン』へのオマージュでなくて何だろう。腹部からカセットテープを取り出すシーンは、容易に『ビデオドローム』を連想させる。先行する映画をパッチワークしながら、監督が本当に描きたかった世界がここにある。

 『ラブレター』をはじめ、『ifもしも「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」』『Undo』『PiCNiC』『フライド・ドラゴンフィッシュ』と、新人としては実に手慣れた作品を発表してきた岩井監督が、こんなに「やんちゃな映画」を完成させた冒険心に、まずは敬意を表しよう。かつて「新人としてはまとまりすぎている、過剰なものがなにもない」と批評したことを撤回する。ただし、実現に当たっては河井真也プロデューサーの存在も見逃せない。

 「イェンタウン」のアイデア、偽札を巡る細部の矛盾に対する意見は分かれるだろう。とりわけ、タクシー運転手に銃を突きつけながら、料金がないばかりにヒオ・フェイホンが偽札を使おうとして警察につかまるという展開は、コメディとしてもあまりにもオチャラケている。生死を分ける重要な場面でオチャラケるというのが「セーラームーン」以降漫画の世界では常道になっているが、ここではやはりリアリティがなさ過ぎる。かつて漫画家を目指した岩井監督の現代的なセンスだろうが、納得できない。


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