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ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭98報告

NPO型・新生シアターキノ・オープン

  ASSASSIN(S)  

「アサシンズ」の画像です

1997年作品。フランス・ドイツ合作。130分。配給KUZUIエンタープライズ。監督マチュー・カソヴィッツ(Mathieu Kassovitz)。脚本マチュー・カソヴィッツ、ニコラ・ブグリエフ。音楽カーター・バーウェル。撮影監督ピエール・アイム。美術監督フィリップ・シッフル。編集ヤニク・ケルゴー。ヴァグネル=ミシェル・セロー、マックス=マチュー・カソヴィッツ、メディ=メディ・ベノーファ、ヴィダル=ロベール・ジャンドル、マックスの母=ダニエル・ルブラン

 「憎しみ」でパリの青年たちの焦躁感をモノクロの映像に深々と焼きつけたマチュー・カソヴィッツ監督の新作。ボケが始まりかけた年老いた暗殺者は、何とか後継者に自分の技術と暗殺者の倫理を伝えようとする。しかし、暗殺者の古めかしい職人的な倫理は、青年にはまったく伝わらない。そして躊躇が残る25歳の青年を飛び越し、機械的な殺人という点で老人と13歳の少年はつながる。しかし、その動機はまるで違う。三世代の孤独と断絶を描いた血なまぐさいブラックユーモアと呼んでいいかも知れない。

 暗殺者の圧倒的な存在感や銃弾の重さが伝わってくる描写、そして青年の銃殺による唐突な展開には、監督の力量が発揮されている。ただ、「憎しみ」に比べ、監督の腰が座っていないように感じた。暴力描写に対するマスコミの批判が、相当にこたえているのだろう。だからといってテレビの俗悪さや危険性を映画の中で説明しても、力のある作品にはならない。現実の人間同士の生々しい暴力を見据え、それを映像に定着してほしい。まず凝視する事だ。


 

 I'age 
 des 
 possibles 

 
「a.b.cの可能性」の画像です

1995年。フランス映画。106分。製作ラ・セット・アルテ+ストラスブール国立劇場製作。監督パスカル・フェラン(Pascale Ferran)。脚本パスカル・フェラン、アンヌ=ルイーズ・トリヴィディク。撮影ジャン=マルク・ファブル。編集ギ・ラコーム。音楽ベアトリス・ティリエ。美術ヴィルジニー・デュプロワイエ、アネット・クルツ、ジューリオ・リヒトナー。アニエス=アンヌ・カンティノー、ベアトリス=クリステル・テュアル、カトリーヌ=アンヌ・カイエール、ドゥニーズ=イザベル・オリーヴ、エマニュエル=サンドリーヌ・アタール、フレデリック=アントワーヌ・マチュウ、ジェラール=ニコラ・ピルソン、アンリ=アルノー・シモン、イヴァン=ダヴィット・グイエ、ジャック=ジェレミー・オレール

 博士論文をまとめている向こう見ずな性格のアニエスをはじめ、ベアトリス、カトリーヌ、ドゥニーズ、エマニュエル、フレデリック、ジェラール、アンリ、イヴァン、ジャックと、AからJまでの多彩な10人の青年の日常を淡々と描きながら、彼等の焦り、不安を控えめなタッチで浮き彫りにした青春映画。10人の人間関係を自然にまとめ上げた脚本は、それ自体としては確かに良く出来てはいる。

 しかし、あまりにも平凡な展開で眠気が襲ったりする。隣の人は帰ってしまった。そして、唐突に楽観的な結末がやってくる。いくらお人好しでも、この陽気さにはついていけないだろう。青春て、こんなにやわなものだったのか。現代の悩みって、こんなに簡単にふっきれるものか。パスカル・フェラン監督が嫌いなタランティーノ作品とは別な意味で、虚構に満ちた閉鎖的な作品だと思う。


「ブルースブラザース2000」の画像です  

 BLUES 
 BROTHERS 
 2000 

 

1998年作品。アメリカ映画。124分 。配給UIP。監督ジョン・ランディス(John Landis)。脚本ダン・エイクロイド、ジョン・ランディス。撮影デビッド・ヘリントン。振り付けバリー・ラザー。音楽ポール・シャッファー。エルウッド・ブルース=ダン・エイクロイド、マイティ・マック=ジョン・グッドマン、ケイベル・チェンバレン=ジョー・モートン、バスター=J・エヴァン・ボニファント、ミセス・マーフィー=アレサ・フランクリン、ジェームズ牧師=ジェームズ・ブラウン、マルバーン・ガスベロン=B・B・キング、クイーン・モーセット=エリカ・バドゥ

 18年前の「ブルースブラザース」への最大級の愛情に満ち、参加した人たちが慈しみながら楽しみながら作った、その感触が伝わってくる。しかも、ブルースという音楽の原点を確認することで人々が結びつく、前向きで希望に満ちた作品だ。大世紀末を迎え、破局的なテーマの映画が多くなる中で、あっけらかんと2000年を標榜してしまうテンションに、立ち上がって拍手を送りたい。

 ストーリーのいいかげんさ、都合の良さは、遊びとして割り切られているので、何の違和感もない。前作をなぞるような出だしから、徐々にボルテージが高まり、ジェームズ牧師の伝導集会での劇的なケイブルの変身で、お祭り騒ぎはひとつの頂点を迎える。快感。そして、最後の勝ち抜きバンド合戦でブルースブラザースと対戦するルイジアナ・ゲーター・ボーイズの豪華メンバーの歌と演奏に恍惚となる。 久しぶりにいってしまった。


 

 「A」 

 
「A」の画像です

1998年作品。日本映画。135分 。配給=「A」製作委員会。監督=森達也。製作=安岡卓治。音楽=朴保(パク・ポー)。

 オウム真理教をテーマにしたドキュメンタリー。「しがらみ学園」(黒沢清監督)、「シャッフル」(石井聰互監督)に出演、「喜談南海変り玉」(長嶺隆文監督)に助監督として参加した森達也が監督。「豚鶏心中」(松井良彦監督)、「闇のカーニバル」(山本政志監督)の制作を担当、「ゆきゆきて神軍」(原一男監督)に演出助手として参加、「追悼のざわめき」(松井良彦監督)をプ ロデュースした安岡卓治が製作に加わった。森、安岡両氏の経歴をみると、過激な毒に満ちた作品を予想しがちだが、自らの無力を意識したような控えめな淡々とした内容だった。

 大量の冷静さを失った映像が流されたオウム事件。そんな中でオウムの傍からカメラを回し、映像を記録した姿勢は本当に高く評価すベきだ。その点は強調しすぎるということはない。しかし、時たま信者の言葉を冷やかすことで、距離を演出しているものの、立場性が今一つ明確ではない。オウム事件に第三者はあり得ないにもかかわらず、記録者の切実な問い、痛みが伝わっていない。

 マスコミの非常識さ、警察の不当さ、市民の人権意識の低さは見えてくるが、オウム信者の内面に切り込めたとは思えない。「信者も普通の人間」という水準を超えていないのではないか。食事のシーンなどの日常を描くだけでなく、彼等の抱える深い危機意識もとらえられたはずだ。記録者と信者の具体的ないさかい、対立が全く描かれていないことも映像の緊張を乏しくしている原因だろう。


有田芳生さんの話

 オウム真理教の姿を追い続けている有田芳生さんは、この作品が事件の内容に触れていないことに注意を促すとともに、信者が増え、資金的にも充実してきた最近のオウム真理教の近況を説明し「まったく危険がなくなったわけではない」と強調した。そして、この作品が信者獲得のために利用されている事実も明らかにした。

Real Player有田芳生さんの話のVIDEO

 

 

 JAMES DEAN 
 RACE WITH DESTINY 

 
「傷心 ジェームズ・ディーン 愛の伝説」の画像です

1996年作品。アメリカ映画。107分 。配給ケイエスエス。製作・監督マルディ・ラスタム。脚本ダン・セフトン。編集リチャード・S・ブラマー。撮影アーブ・グッドノフ、ゲイリー・グレーバー。音楽ゴードン・ウォーラー。キャスト=キャスパー・ヴァン・ディーン、キャリー・ミッチャム、ロバート・ミッチャム 、ダイアン・ラッド、マイク・コナーズ、コニー・スティーブンス

 映画のチラシに、キャスパー・ヴァン・ディーンがこの作品での演技が高く評価されて「スターシップ・トゥルーパーズ」(ポール・バーホーベン監督)の主演に抜てきされたとあるが、彼にジェームズ・ディーンの葛藤が演じられる訳がない。資質がまるで違う。ディーンの弱さと強さ、怒りと悲しみの繊細な二重性が伝わってこないのは、分かり切った事だ。ピア・アンジェリ役のキャリー・ミッチャムも美しくはある、かなり大味な演技だ。怒りよりも情けなさがつのる。

 作品に力がないのは、役者のせいだけではない。1950年代アメリカの保守的な空気、ハリウッドの交錯した人間関係、騒然とした撮影現場がしっかりと描かれていなければ、ディーンの孤独が浮き上がってこないだろう。恋愛を軸にしたからとはいえ、イタリアの家族主義に片寄った描き方では、時代の雰囲気を伝えることはできない。ただ、ジェームズ・ディーンとキャスパー・ヴァン・ディーンのあまりの落差に、あらためて1950年代と現在の深々とした時代の溝を実感した。


「ガタカ」の画像です 

 GATTACA 

 
1997年作品。アメリカ映画。106分 。配給ソニー・ピクチャーズエンタテインメント。製作ダニー・デビート、マイケル・シャンバーグ、ステイシー・シェール。監督・脚本アンドリュー・ニコル(Andrew Niccol)。衣装デザイン=コリーン・アトウッド(Colleen Atwood)。編集リサ・ゼノ・チャーギン。美術ヤン・ロルフス。撮影監督スワヴォミル・イジャック(Slawomir Idziak)。音楽 マイケル・ナイマン( Michael Nyman)。ビンセント=イーサン・ホーク(Ethan Hawke)、アイリーン=ユマ・サーマン(Uma Thurman)、 ユージーン=ジュード・ロウ (Alan Arkin)

 静かな悲しみをたたえた色彩設計は評価できる。しかし、ストーリーは良質のSFとは言い難い。遺伝子による人間の選別が徹底した近未来というのは、なんとも古めかしい設定である(こんな素朴な遺伝子神話は、現在通用しない。つくり出されるたんぱく質の振る舞いは、極めて複雑で未知だ)。そして遺伝子判別では驚くばかりの科学力が発揮されているにもかかわらず、その他のシステムが現在と変わらないのも不自然。血液や尿の検査を頻繁に行わなければならないのも芸がない。

 情報化についての視点が決定的に欠落していることが、平板な印象を与えている。そして、何よりも気になったのは遍在するエリート主義だ。そして強者の論理。ビンセントはけっして「劣性」ではなく、騙しつづけるだけの力を持っていた強者だ。選別社会を否定する存在というようは、むしろ結果的に補完する人間だろう。ビンセントに自分の血と尿を提供した障害者のユージーンが、ビンセントが目的を果たした後で自殺するのも納得いかない。予告編で感じたスマートで整った印象が、作品を観終わった後には人間の豊かさから眼をそむけた品粗な印象に変わった。


 

 THE WHOLE WIDE WORLD 

 
「草の上の月」の画像です
1996年作品。アメリカ映画。112分。配給ケイエスエス。監督・製作ダン・アイルランド。原作ノーベリン・プライス・エリス。脚本マイケル・スコット・マイヤーズ。音楽ハンス・ジマー、ハリー・グレグソン・ウイリアムズ。編集ルイス・コリーナ。撮影クラウディオ・ローシャ。ロバート=ビンセント・ドノフリオ(Vincent D'Onofrio)、ノーベリン=レニー・ゼルウィガー、クライド=ベンジャミン・モートン、ハワード夫人=アン・ウェッジワース、Dr.ハワード=ハーブ・プレスネル

 1930年代のアメリカのパルプ小説家、映画「コナン・ザ・グレート」の原作者として有名なロバート・E・ハワードの伝記映画。懐かしい素朴なタイトル・クレジット。昔風の構図と色彩。テキサスの自然の美しさ。30年代の光と風が、私を心地よく包む。60年前の物語だが、マザコンで自閉的な青年と自立した女性との恋というのは、不思議と今に通じるものがある。古くて新しい佳作。

 ドノフリオはけっしてうまくはないが、自立できない弱さを持った青年ハワード役に似合っていた。外見とは裏腹の心理的なもろさを持っている雰囲気はぴったり。内に閉じこもり自分の世界を作り上げているハワードに惹かれていく教師ノーベリンを、レニー・ゼルウィガーが抑えた演技で浮きぼりにしていく。ドノフリオの大袈裟な演技に対して、ゼルウィガーはあまりにも淡々としているように見えるが、無知で弱い半面、文学的な才能と純真さを持つハワードへの思いは説得力があった。


「桜桃の味」の画像です 

 Taste of Cherry 

 
1997年作品。イラン映画。98分。配給ユーロ・スペース。監督・脚本・編集・プロデューサー=アッバス・キアロスタミ(Abbas Kiarostami)。撮影ホマユン・パイヴァール。録音ジャハンギール・ミルシェカリ、モハマッドレザ・デルパック。キャスト=ホマユン・エルシャディ、アブドルホセイン・バゲリ、アフシン・バクタリ、アリ・モラディ、ホセイン・ヌーリ

 素人俳優を起用したシンプルなストーリーに、深い情感を縫い込めるキアロスタミ映画。この作品は第50回カンヌ映画祭で「うなぎ」(今村昌平監督)とともにパルムドール賞を獲得した。自殺を実行しようとする男を追いながら、自然の美しさと生きる事のかけがえのなさを静かに示す。出演した人たちは驚くほど自然で説得力のある演技をしているが、けっして素朴ではない、一筋縄ではとらえられない監督の手練手管が隠されている。

 穴の中で死んだ自分に土をかける人間を探していたバディの態度には、かすかに救いを求める気持ちとは裏腹に、傲慢さが表れている。しかし、かつて自殺しようとして思いとどまった老人の話を聞くうちに、その決心が揺らぎ始める。そして恋人たちに頼まれて写真を撮った瞬間、彼の表情が変わる。自然や人々のしぐさが彼に語りかけ始める。この何気ない、しかし見事なシーンが眼に焼き付いている。ラストの楽し気なビデオ映像は、バディが凝り固まった思いから解放されたように、映画という枠組みからも観客を解放する。


 

 Carla's song 

  
「カルラの歌」の画像です
1996年作品。イギリス映画。126分。配給=エースピクチャーズ。監督ケン・ローチ。製作サリー・ヒビン。共同製作アルリック・フェルズバーグ、ジェラード・エアレロー。脚本ポール・ラヴァティ。撮影バリー・アクロイド。音楽ジョージ・フェントン。ジョージ=ロバート・カーライ、カルラ=オヤンカ・カベサス、ブラッドリー=スコット・グレン

 「ケス」「大地と自由」などの傑作を生み出したケン・ローチ監督は、人物造形のきめの細かさに裏打ちされた鋭い社会批判が魅力である。この作品も、アメリカCIAによる露骨なニカラグアのサンジェニスタ政権つぶしをストレートに告発している。無差別殺戮を行うコントラの影に存在するアメリカへの怒りが、生々しく伝わってくる。

 しかし、前半のラブストーリーがニカラグアを描くための方便と感じられるほど、印象が薄いのはどういうわけだろう。バスの運転手ジョージが、カウラにのめり込んでいく過程に説得力がない。ニカラグア行きを決意するまでの流れに迷いがなさ過ぎる。もっと苦しみ、周囲と対立し、お金の工面に苦労するはずだ。観光気分でアントニオを捜しに行ったにしては、突然戦闘に巻き込まれてもたじろがない。リアリティを感じたのは、人権保護団体メンバーのブラッドリーの方だ。以前CIAにいたらしいこの人物の存在によって、格段に映画の厚みが増している。


「パーフェクト・ブルー」の画像です 

 PERFECT BLUE 

  
1997年作品。日本映画。81分。製作・配給=レックスエンタテインメント。 企画=岡本晃一、竹内義和。企画協力=大友克洋。原作=竹内義和。監督=今敏。作画監督=浜洲英喜。美術監督=池信孝。撮影監督=白井久男。音楽監督=三間雅文。未麻=岩男潤子、ルミ=松本梨香、田所=辻新八、内田=大倉正章、手嶋=秋元洋介、澁谷=塩屋翼、桜木=掘秀行、恵利=篠原恵美、雪子=古川恵実子、レイ=新山志保

 アイドルをめぐるサイコ・サスペンス。日本の現在から生み出され、世界的な共感を呼ぶテーマだろう。サイコものは、生身の人間が演じるからこそ、観ている者に恐怖が伝わる。アニメで恐怖を増幅していくことは至難の業だ。そのことを十分認識した上での確信犯的に試みだろう。

 予想通り、厚味のある恐怖は映像から感じられなかった。しかし実写では困難なほど切れのあるスリリングさと、めくるめくような迷宮化が実現していた。精神の錯乱が伝搬し共振し増幅していく。そのリアルな触感が、確か編集力によって誕生する驚き。一件落着したように見えながら、数々の謎が、いつまでも付きまとう。並みのエンターテインメントではない。


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 Visitorssince98.06.01