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 THE END OF 
 
 EVANGELION 

「エヴァンゲリオン完結編」の画像です
1997年。87分。配給=東映。総監督・脚本=庵野秀明。監督・演出= 鶴巻和哉、庵野秀明。美術監督=加藤浩。撮影監督=白井久男。音楽=鷺巣詩郎。碇シンジ=緒方恵美、葛城ミサト=三石琴乃、綾波レイ=林原めぐみ、惣流・アスカ・ラングレー=宮村優子、赤木リツコ=山口由里子、碇ゲンドウ=立木文彦、冬月コウゾウ=清川元夢

 「エヴァンゲリオン」は、「伝説巨神イデオン」のように、劇場版でTV版の決着をつけようとした。そもそも、それが間違いだった。確かに時間をかけた分、アニメとしての仕上がりは格段に素晴しいが、作品としては力のないものになったのではないか。性的妄想が肥大化した劇場版の人類補完計画よりも、不気味なシーンで終るTV版の破綻した内容の方が、切実感があった。「エヴァ」は暴走しすぎた。

 しかしながら、「もののけ姫」と並び、作家性を全面に打ち出したアニメが立て続けに劇場公開されたという意義は大きい。一人の人間のぎりぎりの問いかけこそが、作品を生きたものにできる。ただし、徹底的に差異を解消しようという庵野秀明の願いは、明確に批判しておく必要がある。劇場版では、精神の危機が呼び込む神話、神秘主義の危険性への配慮も失われている。この点、差異を認め合い、歴史に学ぼうとする宮崎駿の視野は広い。

  ただ、過去のアニメの記憶をまぜあわせ、それに思春期の妄想を接ぎ木した庵野秀明は、自己を相対化できず真情を吐露できずにいた若者たちの得難い「依代」となったとはいえるだろう。


「ポイズン・アイビーとミスターフリーズ」の画像です

 BATMAN 
 & 
 ROBIN 

「バットマン・アンド・ロビン」の画像です
1997年作品。124分。 アメリカ映画。製作ピーター・マグレガー=スコット。監督ジョエル・シューマッカー。脚本アキバ・ゴールズマン。原作ボブ・ケイン。撮影スティーブン・ゴールドブラット。美術バーバラ・リング。音楽エリオット・ゴールデンサル。編集デニス・バークラー。衣装イングリッド・フェリン、ロバート・タートゥライス。ブルース・ウェイン(バットマン)=ジョージ・クルーニー、ディック・グレイソン(ロビン)=クリス・オドネル、バーバラ・ウィルソン(バット・ガール)=アリシア・シルバーストーン、ドクター・フリーズ(Mr.フリーズ)=アーノルド・シュワルツェネッガー、パメラ・イスリー(ポイズン・アイビー)=ユマ・サーマン、アルフレッド・ペニーワース=マイケル・ゴフ

 切れの良い映像に感心したのは、最初の5分。バットマンは深い心の傷を持つ者の戦いから、派手なコスチューム合戦に変質した。だいたいジョージ・クルーニーに、深刻なトラウマがあるとは思えない。トラウマ・バトルから信頼、そして敵との友愛へ。「バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲」は、なんともお行儀の良い娯楽大作になった。後は着せかえと破壊を楽しむだけだ。

 そんな中でポイズン・アイビー役のユマ・サーマンは、なかなか活躍した。アーノルド・シュワルツェネッガー扮するMr.フリーズのコスチュームも、それなりに楽しい。しかしだからこそ、Mr.フリーズは粉々になって死ななければならなかった。有名スターだからといって、手をゆるめたのは許せない。「マッズ・アタック!」で有名スターを殺しまくったティム・バートンの 志気を学んでほしかった。

 孤独なバットマンはもういない。前作「バットマン フォーエヴァー」でロビンという相棒を得、今回バット・ガールという女性が仲間に加わった。一作ごとにメンバーを増やしていくつもりなのか。幅広い観客の動員を考えた安易な選択だ。あるいは、多くのフィギュアを売るための戦略だろうか。バットマンシリーズに見切りをつけ、新たなダークヒーロー「スポーン」の公開を待つことにしよう。


「世界の涯てに」の画像です

 世界の涯てに 

天涯海角


LOST AND FOUND

1996年作品。111分。 香港映画。製作・監督・脚本リー・チー・ガイ。撮影監督ビル・ウォン。美術ジェームズ・チョン。音楽マーク・ルイ。編集メイ・フォン。衣装シャーリー・チャン。ナーハオチュン=金城武、ケリー=ケリー・チャン、テッド=マイケル・ウォン、チャイ・ミン=フォン・ピン、チュウ=チャン・シウチョン、ハオ=マー・チュンワイ、イー=ジョシー・ホー

 ケリー・チャンの肢体のようにしなやかで、金城武の笑顔のようにいとおしい。全編を繊細なさりげない風が吹き抜けていく。

 ヒロインは香港を代表する海運王の娘。白血病の彼女は、スコットランドから来た船員テッド、モンゴルから来た探索屋ナーハオチュンと出逢う。二人がイギリス、中国を相対化しうる地域の出身という点も大切なポイント。返還を前にした香港、イギリス、中国の関係にダブらせながらも、作品はその図式を大きく超えてはばたく。

 登場人物は、誰もがとても生き生きしている。香港の多面性をさりげなく映しだし、老人、子供、障害者を巧みに描く手腕には脱帽する。脚本は淀みなく、小さなエピソードの一つ一つが美しく、セント・キルダ島の荘厳さとともに心に残る。ラストシーンで涙が出た。なんという気持ちのいい、開かれた哀しみだろう。


「バスキア」の画像です

 BASQUIAT 

1996年作品。107分。アメリカ映画。監督・脚本ジュリアン・シュナーベル。原作レヒ・マジュースキー。編集マイケル・ベレンボーム。撮影ロン・フォーチュナトー。美術ダン・リー。衣装ジョン・ダン。作曲ジョン・ケイル。ジョン=ミシェル・バスキア=ジェフリー・ライト、ルネ・リカール=マイケル・ウィンコット、ベニー・カルディナーラ=クレア・フォーラニ、アンディ・ウォーホル=デヴィッド・ボウイ、ブルーノ・ビショップベルガー=デニス・ホッパー、アルバート・マイロ=ゲイリー・オールドマン、ジャーナリスト=クリストフォー・ウォーケン

 今80年代の落書きアーティストを映画化する意味は、漂白されすべてがパッケージ化されつつある90年代に、その芸術の暴力性を思い返すことでなければならないだろう。しかし、昔を懐かしむ感傷ばかりが感じられ、腹立たしいまでに甘ったるい匂いが立ちこめている。つきあいで、こんな作品に出演したデニス・ホッパーやデヴィッド・ボウイは、どうかしている。

 だいたい監督が、バスキアに近すぎる。あんなに親しくては、距離感を保つことなどできないだろう。個性的な俳優たちも妙に小さくまとまり、脇役に徹しているようで、歯がゆい。バスキアとアンディ・ウォーホルの関係も、あんな奇麗事だったのか。もっとアーティストらしい葛藤はなかったのだろうか。

 そんな中で、ジャーナリスト役のクリストフォー・ウォーケンがバスキアの孤独さを引き出していたのがせめてもの救いだ。歯に絹を着せぬ鋭い質問をぶつけながらも、言葉の根底に励ましがあり、それを理解したバスキアが微笑み返すシーンが、心に残った。


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